洞察

肯定的否定的

 

天界の秘義4760

 

さらにこれは人間各々の知的能力に応じている。高い、すなわち、内的な洞察を持っていない者らが記憶知に諮るなら、かれらはその記憶知の中に真理が確認されるのをみとめはしないで、そのためその記憶知により否定的なものの中へ拉し去られてしまうが、しかし、高い、すなわち、内的な視覚を持っている者たちはいくたの確証するものをみとめるのであり、たとえ他の方法で認めないにしても、それでも相応により認めるのである。

 

 

天界の秘義4760[4]

 

 周知のように学問のある者が単純な者よりも死後の生命を信じないし、全般的に単純な者よりも神的真理を明らかに見ないことが普通である。そのことの理由は、かれらは否定的な立場から(他の者以上におびただしく持っているところの)記憶知に諮ってそのことにより自分自身の中に、高いまたは内的なものから発している洞察を破壊してしまい、それが破壊されると、かれらはもはや何ごとも天界の光からはみとめないで、ただ世の光のみからもとめるということである、なぜなら記憶知は世の光の中に在って、もしそれが天界の光により明るくされない[照示されない]なら、それは暗黒を生み出すからである、たとえその暗黒はその当人自身にはいかほどそれとは異なったものとして見えるにしても。そうした理由からヨハネ伝の以下の言葉から明白であるように、単純な者は主を信じたが、ユダヤ民族の中で学問のあった律法学者と、パリサイ人は主を信じはしなかったのである―

 

 群集の多くの者たちはこれらの言葉を聞いたとき言った、これはまことに予言者である。他の者たちは言った、これはキリスト(メシア)である。パリサイ人たちはかれらに答えた、支配者たちの中で、またはパリサイ人の中でたれがかれを信じたか(ヨハネ7・40、41、47、48)。

 

 

天界の秘義4783[6]

 

 分離した信仰の中にいる者らは自分の教理を確認するもの以外には何ものも聖言の中に見はしないのである、なぜなら彼らは内的な洞察を持ってはおらず、仁慈の情愛の中にいない者らはただ外なる視覚を、または低い洞察しか持っていないで、その視覚からはたれ一人高いものを、高いものは彼には暗闇のように見えるからには、到底認めることは出来ないからである。ここから彼らは誤謬を真理として、真理を誤謬として見、かくてエゼキエル書の以下の言葉に従って、文字の意義から発した解釈により、善い草地を破壊し、聖言の神的な泉の澄んだ水を汚してしまうのである―

 

 おまえらが良い草地を食べ尽くし、おまえらの草地の残りのものを足で踏みにじることはおまえらには小さな事であるのか。おまえらは水の澄んだところを飲んで、その残りを足でかき乱している、おまえらはか弱い者をすべておまえらの角で打ち、遂には彼らを外に追い散らしてしまった(エゼキエル34・18、21)。

 

 

天界の秘義9103〔3〕

 

 しかしながら人間の自然的な生命を作っている外的な善を、その霊的な生命を作っている内的な善から回復することについて若干更に言わなくてはならない。人間の自然的なものは世の光の中に事物を見るが、その光は自然的な光と呼ばれている。人間はこの光を視覚と聴覚とを通して入ってくる対象を通して、かくして世に属している対象によって自ら得ているのである。かくて人間はそれらの物を自分自身の中に、目がそれらの物を見るのと殆ど同じように見ているのである。これらの感覚を通して入ってくるその対象は彼には最初快楽と歓喜として現れている。その後その幼児である人間は色々な歓ばしいものを区別し、そこからそれらを識別することを学び、徐々にそれらを更に完全に行うことを学ぶのである。こうした事柄の中へ天界から光が流れ入ると、その人間はそれらのものを霊的に認め始め、先ず有用なものと有用でないものとを識別し始めるのである。ここから彼は真のものを洞察し始める、なぜなら彼にとって有用なものは彼には真のものであり、有用でないものは真のものではないからである。この洞察は天界の光が流入するに応じて増大し、遂には彼は色々な真理を識別するのみでなく、またその諸真理の中に幾多の真理を識別もするようになるが、彼はそのことを内なる人と外なる人との交流が更に良く開かれるに比例して益々明らかに行うのである、なぜなら天界の光は主から内なる人を通して外なる人の中へ流れ入るからである。