罰
1.ルイザ・ピッカレータ
2.サンダー・シング
3.マリア・ワルトルタ
4.罰せられることも慈悲から発しており
5.何人もこの世で悪かった以上に悪くなってはならないことが他生の法則
6.他生では誰もその者が世で行った悪のために刑罰を受けるのではなく、彼がその時行なう悪のために罰せられる
1.ルイザ・ピッカレータ
天使館/ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P75
「人びとが私にしたことを見なさい。あなたは人間に罰を与えないように望むが、罰は彼らを思い知らせ、これ以上大胆にさせないためにも必要なのです。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P151
「イエズスよ、正義のわざを振るったあと、どれほど苦しんだか忘れたの。人間たちの間で、そんなふうに苦しむあなたを見るのがつらいので、人びとに罰を与えないでとこんなに注意するのもそのためなのです。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P160
「ああ主よ、いったいどうしてそんなことができるの。不可能だわ。あなたの似姿である人間をあなたが罰するなんて、私には我慢できないの。ああ、せめてあなたに属する人びとでなければよいのに。こんなことは序の口。もっともっと悲しいのは、あなた自身が打ちくだから、苦悩に喘ぐのを目にすること。なぜなら罰は別のものでなく、あなたの体の上に降りかかり、あなたが苦しむから。言って。私のたったひとりの善い人。自分で自分を打って苦しむあなたを見て、どうして私の心が耐えられるの。人間を懲らしめるならまだしも、そればからはひどすぎて飲めません。とてもそうしていいなんて言えない。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P172
1899年10月24日
今朝イエズスがやって来て私を外に連れ出した。私は人びとの真中に連れて行かれた。主は人間のことを同情の眼差しで眺めていて、罰そのものでさえ、主の愛情深い心の奥底から湧き出る無限の憐れみのようだった。主は私に向って言った。
「我が娘よ、人間は神の象りとして創られた。われわれの食物は、神の三つのペルソナの間でいつもお互いに一致し、絶え間なく交わされる愛なのです。人間もわれわれの手と、清い無私の愛から生まれたので、われわれの食物の一部分にすぎません。
それなのに、それがわれわれにとり苦い食物になった。その大部分はわれわれから離れて地獄の炎の牧草となり、われわれと人間の第一の敵である悪魔たちの言い知れぬ憎しみの食物と成り果ててしまったのです。ここに霊魂を失う悲しみの主な原因があります。なぜなら人間は私たちのもので、私たちに属しているから。彼らを罰したいと思うのは、人間を育む愛が大きく、その魂を救いたいからなのです。」
「主よ、今回はあなたは罰について他に言うことがないのね。これらの霊魂を救うための、あなたの権能は他にもたくさんあるのに。あなたが巻き込まれず、苦しむこともなく、人間に全ての苦難が与えられるのが確かなら、仕方がないわ。でも既にあなたの送った罰のために、自分でとても苦しんでいるのが見える。これ以上別の罰を送り続けて、どうするつもり。」イエズスは言う。
「自分が苦しくとも、愛はもっと思い鞭を与えようとする。人間が自分の存在が何かを理解し、駄目になった自分を反省するには、これ以上強力な方法がないから。私の正義に同意しなさい。私のことを愛していればこそ反対し、私の苦しむのを見たくないのも分かっています。
私の母はどんな人間よりも私を愛してくれました。母は何とも比べようがない。それでも霊魂たちを救うために正義に同意し、私がこんなに苦しむのに甘んじた。もし私の母にできたのだから、あなたにもできるでしょう。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P114
しかしイエスが忍ばれていた苦しみについて、なんと申せばよいでしょうか! イエスが罰を送るべく強いられるときに彼が体験なさる暴力の激しさの状態は、それを与えたくないという気持ちとの葛藤からくる暴力でした。このような状態のイエスを見るとき、それは非常な同情を起させるものであるため、もし人々がそれを見ることができたとしたら、たとえダイアモンドの心臓を持っていたとしても、彼らは優しい気持ちにとらわれて、もろいガラスのように砕けてしまうでしょう。私はお心をなだめて下さるようにと祈り始め、人々を罰から逃れさせるために、私を苦しませることで満足して下さいと願いました。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P115
「娘よ、私に暴力を強いるのは正義である。私が人間に抱いている愛ゆえに、私がもっと強い暴力をもって被造物を罰するとき、それは私の心を死の苦悩におとし入れる。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P13
1899年11月13日
今朝のイエスは、落ち着かない様子で行ったり来たりして続けておられました。私とお話しになるかと思えば、次には被造物への熱い愛にかられて彼らが何をしているかを見に行かれるのでしたが、彼らが苦しんでいることに心の痛みを感じられて、彼らではなく、むしろ主ご自身のほうがその苦しみにとらわれたかのようになられるのでした。
私は何回も聴罪司祭が、イエスのお気持ちをなだめるために、その司祭職の権能をもって、私に主の苦しみに参加させることを強制なさるのを見ました。主は心を和らげることをあまり欲しておられないように見受けられましたが、そのあと主の怒りのおん腕を止めようと心配するこの神父様に心から感謝なさるのでした。そして今ある苦しみを私に与えられるかと思うと、次にはまた別の苦しみに参加おさせになるのでした。
このような様子の主を見ることは、なんと優しい感動に満ちたものだったことでしょう! 同情で私の心は破れるかのようでした。主は何度も私に言われるのでした。
「私の正義に賛成しなさい。もう私には我慢ができない。人間はあまりにも恩知らずなために、私が彼らを罰するようにと、ほとんどいつも彼ら自身が私に強制するのだ。彼ら自身が私の手から罰をもぎ取るのである。私が正義を実施しなければならないときに、どれほど苦しい思いをするかをあなたが知ったなら! むしろ人間自身が私に暴力を用いるのだ。私が血の値をもって彼らの自由を買ったという事実のためだけにも、彼らは私に感謝しなければならないはずなのに。ところが反対に、人間は私の犠牲を無駄なものにしようとして、いつも新しい方法を発明する。」
こうおっしゃりながらイエスは苦しげにお泣きになるのでした。私は彼をお慰めしようとして申しました。
「よきイエスよ、悲しまないで下さい。人々を罰さなければならないとお感じになるという事実によって、あなたの苦しみが増すのが分かります。(中略)人間が苦しむときには、あなたは彼らよりももっと苦しまれるのですから。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P118
1900年6月8日
「我が娘よ、ではあなたを喜ばせるために、人間を罰することはどうしても必要なのである、ということの認識と正義の鍵をあなたに渡してあげよう。あなたはそれで好きなようにしなさい。嬉しいか?」
このようにおっしゃるのを聞いて私は慰めを感じ、心のうちで言いました。「もし私の好きになるのなら、誰も罰することはしないでしょう」と。イエスが私に一つの鍵を下さったとき、主は私を一つの光りの真中にお置きになりましたが、それを通して神の属性のすべてが認識されました。しかし正義のそれを理解したとき、私はなんと驚いたことでしょうか! 神の中では、いかにすべてのことが秩序正しく置かれていることでしょう! もし正義が罰するなら、それは秩序なのです。もし罰しないなら、それは他の属性と共に、秩序の中にはいないことになるのでした。それで私は、あの光の中では、自分が哀れなうじ虫であるのを見ました。事実、もし私が正義の運行を妨げたいと望んだならば、それは秩序をこわし、人間そのものに反対することになるのでした。そのようなわけで私は、正義とは人々に対する純粋な愛であるということを理解したのです。私はすっかり当惑してしまい、自分の困惑を取り去るために主に申しました。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P119
1900年6月10日
イエスはご自分の苦みを少し私に、そしてその残りを人々に施されては、正義の執行を減らし続けておられるように思われます。今朝は特別に、イエスとごいっしょにいた間に、被造物を罰することによってその優しい聖心が忍ばれる拷問を見て、私の心は張り裂けるようでした。イエスが忍ばれる苦しみはあまりにも大きなもので、絶え間なく呻き声を出す以外のことはお出来にならないほどでした。その頭には、密集した茨のとげの冠をつけ、それはすっかり肉の中に入り込んでいて、まるでその頭全体が茨のとげのようでした。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P165
1902年3月3日
「我が娘よ、時々私が来ないことは必要である。そうでなければ、いったいどうやって私の正義を吐露すればよいのか? 人間は、私が罰を与えないのを見て、ますます横柄になるだろう。だから戦争や災難は必要なのだ。その企画と方法は非常に痛々しいものであるが、その結果は喜ばしものとなるだろう。あなたが先ずすべきことは、私の意志の受託であるということを、あなたは知っているはずだ。」
2.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P398
その人が来世でよりよい生を送れるよう、犯罪に警告を与えることが処罰の目的である。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P336
「けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。」
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P195
シモン:「病気になった私が一体何の役に立つというのでしょう。」
アンドレア:「苦しむことで、もっと苦しむことで。イエズスは苦しみは労働と祈りに値するものだと言われました。」
聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P15
おお、マリアよ、この罰は不当なものではない。それは正しい。そして重いものだが、あなたたちの過ちが非常に重いものだからだ。しかしそれは善意にあふれる神の悪意によって科せられる罰ではない。あなたたちの神は、そうすることがあなたたちに役立つとわかっていれば、その罰をあなたたちに免れさせるために自分を捧げるだろう。しかし神は、あなたたち自身が、あなたたちの愚行と、あなたたちの獣との取引を罰するようにさせておかねばならないのだ。
何千何万という人々が全地の至るところで破滅するだろう。しかし誰かは、あなたたちの首を締めつける臨終の中で、神の声がひびくのを聞き、その顔を暗闇から光に向けるだろう。戻るその一人は、罰を正当化するだろう。一人の霊魂の値段と価値は、それを買うために全地の財宝をもってしても足りないほどのものだから―それを守るためにどのような義務があるかを知り、考えよ―神の血が必要なのだ。わたしの血が。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P16
イエズスは言われる。
「わたしが貴女に、最後の罪を犯したこれらの人々を救うために助けてほしと言ったのは、それほど前のことではない。そのとき貴女はわたしが何を言おうとしていたのか分からなかった。ただ祈っていた。
しかしわたしから見れば、それで充分なのだ。なぜなら、実際のところ、欠かせないのはすべてが分かるわたしだけなのだから。しかしわたしの子供たちよ、あなたたちは絶対的な啓示を必要としてはいない。わたしがあなたたちに語るすべてのことはあなたたちには権利のない一つの贈物であり、父がいちばん親しい人々に自らすすんで与える贈物なのだ。なぜなら、あなたたちに秘密を打ち明け、あなたたちの手を取り、王の秘密に深く入り込むようにうながすのは、わたしの心に適うことなのだから。だがあなたたちはそのことを強要すべきではない。神の打ち明け話の相手になるのは、とても素晴らしいことだが、自分の思いどおりに行動する父に盲目的に身を委ね、父がどこに導いて行くのか敢えて知ろうとしない子たちであることも同じように素晴らしく、聖なることである。
おお 子たちよ、わたしはあなたたちを善の道に導くことを確信しなさい。あなたたちの父はあなたたちの善しか望まない。
打ち明けられる者にしろ、打ち明ける者にしろ、わたしの心の喜びのために必要だし、その上、『打ち明けられる者―打ち明ける者』であることは、完徳の頂点である。その時すでに、あなたたちは師の名において行動出来る弟子であり、父に導かれるままに自分を任せる幼子である。その時、あなたたちはわたしの慰め、わたしの喜びである。
わたしにとって、あなたたちの住んでいる世で、弟子の霊魂を見つけるのはとても困難だ! そして、子供のあいだでさえも、幼子の霊魂を見つけるのはもっと困難だ。わたしが憩いを見出していた素朴さ、信頼、無邪気さを、ごく幼い子供たちの魂のなかでさえも殺した獣の息はあなたたちをすっかり腐敗させてしまった。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P108
おお! そのことが許されていると思いこみ、口と心の声で神を侮辱している人間たちよ。そのしもべたちと友人たちの声を通じて、あなたたちに語るのは役立たず、あなたたちを罰するのを苦にして、今もなお、あなたたちにその怒りを告げ、あなたたちの呼びかけ、すでに雷鳴を轟かしている、ずたずたに引き裂き、引き裂かれた神の声を聞きなさい。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P169
しかし、わたしが時間をむだにしたと非難することはだれにもできないはずだ。おお、神の子らよ、事実、父の家から遠くさまよい歩くことを選び、時にはあなたたちの神的相続権を神の敵に売り渡しさえしたあなたたちのために、わたしがそれ以上の何を為しえたろうか? 力強いわたしのことだから、悪があなたたちを襲うことを妨げ、わたしの権威に対してあなたたちを善良にすることが出来たはずだ、と言ってはならない。もしわたしがそうしていたなら、あなたたちは歩行者が気づきもせず足で踏みつけて行く道端の草ほどの値うちもないだろう。神の意志に従って播かれた種から生まれた草は、ひとりで生まれ育つ。あなたたちがいと高きものから受けている世話に比べれば、最小限のものしか受けていないのに。草は神から太陽と露とそして少しばかりの土をもらっている。いっぽうあなたたちは、自分を導く知性をもち、自分を照らすための恩寵をもち、自分を律する律法をもち、師としてわたしをもち、救いのためにはわたしの血をもっている。
わたしはすべてをあなたたちに与えたのに、あなたたちはわたしにごく僅かしか与えず、それもますます少なくなる! 神の忍耐をもって、わたしはあなたたちの面倒をみたのに、あなたたちはいつもわたしに楯突いた。いちばん罪の軽い人たちも、いつも怠惰だった。あなたたちはいつも、すべてをあなたたちのためにしたあなたたちの神に尽くしすぎることを恐れていた。
これがあなたたちに罰が下る理由だ。これらの罰は、あなたたちには唯一の神が存在することを、あなたたちがわたしに拒んでいる忠実さをもって仕えている神々は、あなたたちに偽りの約束と確かな災いしか与えないことをあなたたちに納得させるための、愛の警告だ。あなたたちが偶像崇拝と、姦淫を重ねるその尺度で、罰もつぎからつぎへと増加し、より大きな罰へと行きつく。その一つは、あなたたちが仕えている者、あなたたちに死という彼の贈物を良いと思わせようとするのをわたしがそのままにしている者によって、わたしの葡萄畑の、一並列だけではなく、全部が開かれ、侵入され、ひっくり返され、荒らされてしまうことである。
だからこそわたしはあなたたちに言う、『神のもとに来て、あなたたちの思いと心の真実をこめて神を呼びなさい。神は血にまみれた姿で地平線に現れ、拷問者のサタンは、あなたたちを自由にして逃げ去るであろう』と。
4.罰せられることも慈悲から発しており
天界の秘義587
「エホバは人を地に作られたことを悔いられた」ことは慈悲を意味し、『心に悲しまれた』ことも類似の意義を持っていることは以下から明白である、すなわちエホバは凡ゆる物を永遠から全般的にも、また個別的にも予見されているため、決して悔いられはしないのである、またかれは人間を作られた時、すなわち、彼らをあらたに作り、かれが天的なものになるまでも彼を完成させられた時彼は時が経過するにつれて、ここに記されているようなものになることもまた予見され、そのことを予見されたため、悔いられる筈はなかったのである。このことはサムエルの語った所に明らかに現れている―
イスラエルの(たれにも)打ち破られない方は偽られはしない、また悔いられもしない、かれは人間ではない、悔いられはしない(サムエル記前15・29)。
モーセの書には―
神は人間ではない、偽られはしない、神は人の子ではない、悔いられはしない、かれは言われたが、行われはしないか、かれは話されたが、それを善くはされないか(民数期23・19)。
しかし『悔いる』ことは慈悲深くあられることを意味している。エホバまたは主の慈悲は人類に対し主により為される凡ての物を含んでおり、人類は主が各々をその状態に応じて憐れまれるような状態にいるのである、かくて主はその罰せられるのを許し給う者の状態を憐れみ、また善を楽しませられる者をも憐れみ給うのである。慈悲は刑罰の悪を凡て善に変えるため、罰せられることも慈悲から発しており、また何人も善い物には価していないため、善を楽しませられることも慈悲から発しているのである、なぜなら人類は凡て悪であり、人間各々はその者自身では地獄へ突入し、それ故かれがそこから救い出されるのは慈悲から発しておりまたそれは主は人を何ら必要とされないため、慈悲以外のものではないからである。それは主が人間を悲惨から、地獄から救い出されるため慈悲と呼ばれている。かくてそれは人類はかかる悲惨な状態に在るため、人類に関連してそのように慈悲と呼ばれており、またそれは凡ての者がそのようなものであるため、彼ら凡ての者に対する愛の結果である。
天界の秘義696
他生の凡ゆる物の均衡は全般的にも個別的にも悪がそれ自身を罰するようになっており、それで悪の中には悪の刑罰が存在している。誤謬も同様であって、それは誤謬の中にいる者に帰って来るのである。かくて各々は自分自身に刑罰と拷問とを持って来ると同時に、こうした拷問を加える悪魔の一味の者の間へ突進する。主はたれをも地獄に送られないで、凡ての者を地獄から導き出そうとされており、まして拷問に入れようとはされない。しかし悪い霊が自らその拷問に向って突入するため、主は刑罰と拷問とを善と何らかの用へ変えられている。如何様な刑罰も主が何らかの用の目的を意図されない限り決して在り得ないのである、なぜなら主の王国は目的と用の王国であるからである。奈落の者らが果すことの出来る用は最低の用であり、彼らがそのことに携わっている時は、余り拷問を受けないが、その用が終わると地獄に送り返されるのである。
5.何人もこの世で悪かった以上に悪くなってはならないことが他生の法則
天界の秘義6559
霊界で悪に報いることの、または刑罰の実情のいかようなものであるかを話さなくてはならない、なぜならそこからこれらの言葉の意味が明らかとなるからである。もし悪霊が霊達の世界で何らかの悪を、世におけるその生活によって自分自身に染み込ませたものを越えて行なうなら、罰する者がすぐに間近に現れて、その悪霊がその限界を越えた度に正確に従って、その悪霊を罰するのである。なぜなら何人もこの世で悪かった以上に悪くなってはならないことが他生の法則であるからである。罰せられている者らはその悪は彼ら自身に染み込んでいる悪を越えたものであることをその懲戒者らがいかようにして知っているかを理解することは出来ないが、しかし悪そのものはその刑罰を伴っており、それで行為の悪は全く刑罰の悪と連結しているといった秩序が他生には存在しており、それで報復者が直ぐに間近に現れることは秩序に従っていることを告げられるのである。
天界の秘義6559[2]
これが悪霊が霊たちの世界で悪を為すとき起る事柄であるが、しかし彼らは彼ら自身の地獄では彼らがこの世で行為により彼ら自身に浸透させた悪に従って互に懲らしめあうのである。なぜなら彼らはこの悪を他生へ持って行くからである。
6.他生では誰もその者が世で行った悪のために刑罰を受けるのではなく、彼がその時行なう悪のために罰せられる
天界と地獄509
しかしそれでも他生では誰もその者が世で行った悪のために刑罰を受けるのではなく、彼がその時行なう悪のために罰せられるのである。しかも人間的は世で行ったその悪のために罰を受けると言うも、他生で行う悪のために罰を受けると言うも、結局同じことになりまた同じことである。なぜなら各々の者は死後その者自身の生命に、引いては類似の悪へ帰り、その性質は身体の生命の中にあった時と同一のままに残るからである(470−484)。
(中略)
しかし善良な霊たちは、たとえ世では悪を行ったにしても、決して罰せられない。なぜなら彼らの悪は帰ってこないからである。また私は以下のことを知ったのである、すなわち彼らの悪は悪霊らの悪とは性質は異なっており、真理に反して一定の目的から為されたものではなく、また彼らがその両親からの遺伝的に受け継いた悪い心以外のものからは全く為されたものでもなく、その悪の中へ、彼らは内なるものから分離した外なるものの中にいたとき、盲目的な享楽から拉し去られたのである、と。