誤った原理を確認する者
天界の秘義589
これらの、また他の多くの記事から聖言は人間における外観に応じて語られたことが明らかである。それ故聖言がそれに従って語られている外観により誤った原理を確認しようとする者はたれでも無数の記事によりそうしたことを行うことが出来るのである。しかし聖言により誤った原理を確認することと聖言にあることを単純に信じることは相違している。誤った原理を確認する者は先ず何かの原理を取り上げ、そこから些かも後退しようとはしないし、また些かも譲歩しようともしないし、そのことを確認させるものを、出来ることならどこからでも、引いてはまた聖言からさえも、かき集め、積み重ねて、ついには最早真理を認めることが出来ないほどにも強固にそれを確信してしまうのである。
しかし単純に、または単純な心から信じる者は最初から原理を取り上げはしないのであった、主がそのように言われたから、それは真理であると考えるのであり、それを如何ように理解しなくてはならないかを聖言の他の言葉から教えられるならば、彼はそれに同意して、心から喜ぶのである。主は怒られる、罰しられる、悔いられる、悲しまれると、単純に信じ、そのように信じて悪を恐れ、善を行う者は、何の害も受けないのである。なぜならこの信仰は主は凡てを見ておられると彼にまた信じさせるのであり、彼はこのような信仰にいるため、後になって、他生以前でないならば、他生において、信仰の他の事柄を明らかにされるからである。自己を求め、または世を求める汚れた愛に応じて、自分が既に取り上げてしまっている原理から派生した何らかの事柄を信じるように自分自身に説きつける者らの場合は非常に異なっている。