新しい意志・新しい理解

マナセエフライム

 

 

天界の秘義5354[2]

 

 しかしたれ一人自分自身からはこの善にいることは出来ない、なぜならそれは主から流れ入ってくるところの天的なものそれ自身であるからである。この天的なものは絶えず流れ入っているが、悪と誤謬とが妨害してそれを受け入れさせないのであり、それでそれが受け入れられるためには人間が悪を遠ざけ、また為し得る限り誤謬も遠ざけ、かくしてその流入を受けるように自分自身を処置することが必要である。悪が遠ざけられた後で、その人間がその流入を受け入れると、彼は同時に新しい意志と新しい理解とを受けるのであり、意志からは、彼は何ら利己的な目的を持たないで隣人に善を為すことに歓喜を覚えるのであり、新しい理解からは善い真のものをそのもの自身のために、また生命のために学ぶことに歓喜を覚えるのである。この新しい理解と新しい意志とは主から流入を通して存在するようになるからには、再生した人間はその人間が感動する善と真理とは自分自身から発しないで、主から発しており、また凡て自分自身から発し、または自分自身のものであるものは凡て悪意外の何ものでもないことを承認し、信じるのである。

 

 

天界の秘義5354[3]

 

 この凡てから再び生まれることの何であるか、また新しい意志と新しい理解の何であるかが明らかである。しかし新しい理解と新しい意志とが発生する手段となる再生は一瞬で成就されるのではなく、幼児時代の最初期から生命の終りまでも続き、その後他生では永遠に続くのであり、しかもそれは無数の、表現することも出来ない神的な方法により行われるのである、なぜなら人間は人間自身では悪意外の何ものでもなく、その悪は絶えず中から放出されるように放出されて、生れ出ようとする善を絶えず消滅させようと努めているからである。このような悪を遠ざけて、代って善を植え付けることは生命の全コースをかけなくては、また無数の、表現を絶した神的な方法[神の方法]によらなくては遂行されることは出来ないのである。これらの方法は殆ど何一つ現今では以下の理由から知られてはいない、即ち、人間は自分自身が再生することに甘んじないし、また、死後の生命を信じていないため、再生が何か意義のあるものであるとも信じはしないのである。再生の過程は―それには表現不可能な事柄が含まれているが―天使の知恵の主要な部分を作り上げていて、それはいかような天使によっても永遠に十分に経過することの出来ないような性質を持っているのである。それでこれが聖言の内意に取り扱われている主要な主題となっているのである。

 

 

天界の秘義6392

 

更に報酬のない善の業の中の幸福に関係していることについては、現今では極めて僅かな者しか、報酬の目的なしに善を為すことに天界の幸福が在ることを知ってはいないことを知られたい、なぜなら彼らは名誉を与えられること、他から仕えられること、富に溢れること、快楽の中に生きること以外に何らかの幸福が在ることを知らないからである。これらのものの上方に、人間の内部を感動させる幸福が在り、かくて天界的幸福が在り、この幸福は純粋な仁慈の幸福であることを彼らは全く知らないのである。現今の賢人たちにこれが天界の幸福であることを知っておられるか、否かと尋ねてみられよ。ここからまた多くの者は、たれ一人良い業を自己功績を顧みることなしには行う筈はないと信じて、それを斥けているのである、なぜなら彼らは主によって導かれる者は、善い業ほどに為そうと願う物はなく、またその業による功績ほどに考えない物はないことを知らないからである。これは再生しつつある者に主から与えられる新しい意志の中に存在しているのである、なぜならこの意志はその人間の中にある主の意志であるからである。

 

 

天界の秘義6854〔4〕

 

霊的な者はその意志の部分の方面で再生することは出来ないで、ただ知的な部分の方面でのみ再生することが出来、そこに新しい意志が主により形成されるのである(863、875、895、927、928、1023、1043、1044、2256、4328、4493、5113番)。

 

 

天界の秘義8806〔2〕

 

かくて彼らが遺伝的に持っている意志はすべて破壊されるのである。そうした理由から新しい意志が彼らの知的な部分の中に主から信仰の諸真理を手段として形作られるのである。これが彼らが再生しつつある時、真理により善へ導かれ、その後、再生した時、善から善の諸真理の中へ導かれる理由である。ここから新しい意志がいかようにして彼らの中に主により創造されるかが明白である。