かかと足台

 

 

 

1.聖書

2.『足』は自然的なものを意味している

3.いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は

4.『かかと[くびす]』により最低の自然的なものが、または形体的なものが意味されている

. 足台

6.こうした人物は論じれば論じるほど、益々信じなくなる

 

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇18・32−35

主のほかに神はない。

神のほかに我らの岩はない。

神はわたしに力を帯びさせ

わたしの道を完全にし

わたしの足を鹿のように速くし

高い所に立たせ

手に戦いの技を教え

腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 

 

 

詩篇91・11−13

主はあなたのために、御使いに命じて

あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

彼らはあなたをその手にのせて運び

足が石に当らないように守る。

あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり

獅子の子と大蛇を踏んで行く。

 

 

 

イザヤ18・2

行け、足の速い使者たちよ。

 

 

 

イザヤ52・7

 

いかに美しいことか

山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

救いを告げ

あなたの神は王となられた、とシオンに向って呼ばわる。

 

 

 

マタイ7・37−38

 

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後からイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

 

 

 

 

2.『足』は自然的なものを意味している

 

 

天界の秘義2162

 

「あなたらの足を洗い」(創世記18・4)。これは、主がそのときその中におられた状態においてさらに良く認識されることができるように、(神的なものが)自然的なものを着けなくてはならないことを意味していることは、『足』の意義が自然的なものであることから認めることができよう、また同じく連続している事柄からも認めることができよう。アルカナがここに隠れていることは、アブラハムはその三人の者に水を少しく取って、足を洗い、木の下に身を横たえるように求めはしたが、それでもかれはそれがエホバであられることを知っていたという事実からある程度認めることができようし、またもしそうでなかったならば、このような事は記されなかったであろうという事実からも認めることができよう。

 

 

足は自然的なものである低いものであり、その自然的なものの真理は『鉄』により、その善は『粘土』(argillum seu lutum)により意味されているのである。『鉄』は真理を意味していることは前に認めることが出来よう(425、426番)また『粘土』は善を意味していることは、1300番に認めることが出来よう(425、42

 

 

 

天界の秘義2162[4]

 

ダニエルの見た幻の場合もこれに類似しており、それについては以下のように言われている−

 私は目を上げて、見た、見よ、リンネル[亜麻布]を着た一人の人がいた、彼はウパツの金の帯を腰に締めていた、その身体もまた緑柱石(タルシシ)に似ており、そのお顔は光の外観のようであり、その目は火の燈のようであり、その腕とその足は磨いた銅[真鍮]の輝きのようであった(ダニエル10・5、6)。

 

特定的にはこの言葉により善と真理の方面の聖言の内部[聖言の内部の善と真理]が意味されており、『腕』と『足』とは聖言の外部であって、その外部は文字の意義であるが、それは自然的なものがその中にあるためである、なぜなら聖言の外的なものは自然的なものから取られているからである。その他に各々の部分が、即ち、腰と身体と顔と目とその他多くのものが意味していることは、他生における表象的なものから明白となっており、そのことについては、主の神的慈悲の下に、主の王国である巨大人を、また霊たちの世界におけるその派生物を取扱うようになるとき、更に多くのことを述べよう。

 

 

 

天界の秘義2162[5]

 

 私たちがモーセとアロンとナダブとアビウと七十人の長老について読むことは、即ち、『彼らはイスラエルの神を見た、その足の下には青玉で作られたもののようなものがあり、また清さでは天の原質のようなものがあった』(出エジプト24・9、10)ということは、彼らは自然的なものの中に表象されている教会の外なるもののみを見たことを意味し、また聖言の文字の意義を意味しており、この文字の意義の中にも同じく―前に言ったように―外なるものが自然的なものにより表象されており、その自然的なものが『その下に青玉で作られたもののようなものと天の原質のようなものとがあった足』なのである。彼らにより見られたのは主であったが、しかしそれは単に主の低いまたは自然的なもののみが見られたに過ぎなかったのである、なぜなら主は『イスラエルの神』と呼ばれ給うて、これを教会の凡ゆるものが表象し、また聖言の凡ゆるものがその内意において意味したからである。なぜなら主はそのときに意味されている事柄に順応して目に示され給い、ヨハネの書では明白に言われているように(黙示録19・11、13)、主が聖言を意味されたときは、白馬にまたがった人間として見られ給うからである。

 

 

 

天界の秘義2162[6]

 

 エゼキエルの見たケルビムである動物は、天的な霊的なものについては、他の表象的なものの中でも[とりわけ]、その顔と翼にいより記されているが、しかし自然的なものについては、以下のように記されているのである―

 

 彼らの足は、まっすぐな足。その足の裏は子牛の足の裏のようであって、磨かれた銅[真鍮]の輝きのようにきらめいていた(エゼキエル1・7)。

 

足(即ち、自然的なもの)は、『銅[真鍮]』が自然的な善を意味しているという理由から、『磨かれた銅[真鍮]のようにきらめいたいた』と言われているのである(425、1551番)。主が『人の子』としてヨハネに現れ給うたこともまったくそれと同じであった―

 

 その目は火の焔のようであり、その足は磨かれた銅[真鍮]のようであった(黙示録1・14、15、2・18)。

 

 

 

天界の秘義2162[7]

 

『足』は自然的なものを意味していることは、今以下に記す記事からさらに明白となるであろう。ヨハネの書には―

 私は一人の天使が雲に包まれて、天から降って来るのを見た、虹がその頭のまわりにかかり、顔は陽のようであり、足は火の柱のようであった、彼は手に開かれた小さな書物を持っていた、彼は海にその右足を、地にその左足を置いた(黙示録10・1、2)。

 

 この天使により同じように聖言が意味されており、内意におけるその聖言の性質は、『その頭のまわりの虹』により、また『顔が陽のようであったこと』により意味されているが、しかし外なる意義は、または文字の意義は『足』により意味されているのである。『海』は自然的な真理を、『地』は自然的な善を意味していて、そのことが彼が『その右足を海に、左足を地に』置くことにより意味されていることを示している。

 

 

 

天界の秘義3147

 

「足を洗う水」。これはそこの浄化[そこが清められること]を意味していることは以下から明白である、すなわち、『洗い水』または水で洗うことの意義は清めることであり(それについては間もなく述べよう)、『足』の意義は自然的なものであり、またはそれと同一のことではあるが、自然的な人におけるものである(2162番)。表象的な教会では足を水で洗い、それにより自然的な人の不潔なものが洗い去られたことを意味することが慣とされたのである。自然的な人の不潔なものは自己への愛と世への愛に属しているかの凡ゆるものであり、これらの不潔なものが洗い去られると、そのとき善と真理とが流れ入ってくるのである、なぜなら主から流入している善と真理とを妨害するものは専らこれらの不潔なものであるからである。

 

 

 

天界の秘義3760

 

1節「ヤコブはその足を上げ、東の息子たちの地へ行った」(創世記29・1)。『ヤコブは足を上げた』は自然的なものが高揚されることを意味し、『東の息子たちの地へ行った』は、愛の諸真理へ、を意味している。

 

 

 

天界の秘義3761

 

「ヤコブはその足を上げた」(創世記29・1)。これは自然的なものが高揚されることを意味していることは以下から明白である、即ち、『上げること』の意義は高揚されることであり、『足』の意義は自然的なものである―足の意義については以下に述べよう。ここに意味されている高揚が本章に取扱われているものであり、それは外なる真理から内なる善へ高揚されることである。その最高の意義ではいかようにして主は秩序の応じ外なる真理から幾多の度を通して内なる善へ昇られることにより、その自然的なものを神的なものにさえも高揚されたかが示されており、表象的な意義では、いかようにして主は人間を再生させられる時、人間的なものを同じような秩序に応じて新しくされるかが示されているのである。成人期になって再生されつつある人間は本章と本章以後の幾多の章の内意に記されている秩序に応じて進んで行くことは、僅かな者しかそのことを考察しないし、また現今僅かな者しか再生されることが出来ないという理由から、僅かな者にしか知られていない。なぜなら今はもはやいかような仁慈もなく、、従っていかような信仰も存在しない教会の最後の時であり、それがそうであるため、たとえ人間は信仰により救われると凡ての者から言われてはいるものの、信仰とは何であるかさえも知られていないからである。ましてや仁慈とは何であるかは知られてはいないのであり、この二つのものは単に言葉として知られているのみで、その本質については知られていないため、そうした理由から、僅かな者しか人間が新しくされ、または再生される秩序を反省することが出来ないのであり、また僅かな者しか再生することが出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義3761[2]

 

 自然的なものがここに取扱われており、そして自然的なものはヤコブにより表象されているため、彼は『起きて』東の息子たちの地へ行ったとは言われないで、『足を上げて』と言われているのである。二つの表現とも高揚を意味している(『起きること』にこの意義があることは、前の2401、2785、2912、2927、3171番に見ることが出来よう)。しかしここに『彼は足を上げて』と言われている理由は、このことは自然的なものについて言われているということである、なぜなら『足』は自然的なものを意味しているからである(2162、3147番)。『足』は自然的なものを、または自然的な幾多のものを意味していることは、前章の終りに語られた巨大人との相応から来ており、その巨大人の中で足の領域に属している者たちは自然的な光の中にはいるが、霊的な光の中には僅かしかいない者たちであり、従って足の裏やくびすといった足の下にある部分は最低の自然的なものを意味しており(259番を参照)、ここから聖言にまた時折言われているくつは究極的なものであるところの形体的な自然的なものを意味しているのである(1748番)。

 

 

 

 

天界の秘義4938

 

巨大人の中にいて足と足の裏とかかと[くびす]に相応している者たちは自然的な者たちであり、それで聖言では『足』により自然的な事柄が意味され(2162、3147、3761、3986、4280番)、『足の裏』により低い自然的な事柄が意味され、『かかと』により最低の自然的な事柄が意味されている。なぜなら巨大人の中では天的な事柄は頭を、霊的な事柄は身体を、自然的な事柄は足を構成し、それらのものはこうした秩序をとって続いているからである。最高のものである天的なものはまた中間に在る霊的なものの中に終結し、霊的なものは最後のものである自然的なものの中に終結している。

 

 

 

 

3.いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は

 

 

天界の秘義795[4]

 

ああ、善い知らせをもたらし、平安を布れ、善の善い知らせをもたらし、救いを布れる者の足は山々の上で如何に美しいことだろう(イザヤ52・7)。

 

『山々の上で善い知らせをもたらす』ことも愛と仁慈の教義から主を宣べ伝えることであり、愛と仁慈から主を拝することである。

 

 

 

天界の秘義3780[3]

 

更に―

 

 平安の天使たちは、いたく泣いている、小道は荒れ果て、道を行く音は途絶えてしまった(イザヤ33・7、8)。

 

『平安の天使たち』は、主の王国にいる者たちを意味し、かくてその王国そのものを意味し、最高の意義では主を意味し、『小道は荒れ果て、道を行く者は途絶えたこと』は何処にももはや真理が存在しないことを意味している。(『小道』と『道』は真理であることについては、前の627、2333番を参照)。更に―

 

 良い音づれをもたらし、平安をのべつたえる者の足は山々の上でいかに歓ばしいことであろう、彼はシオンに向かって、あなたの神は統べ給うと言う(イザヤ52・7)。

 

 ここに『良い知らせをもたらし、平安をのべつたえる者』は主の王国を意味している。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P111

‘00・6・6

 

あなたの言葉は どうして信じてもらえず 理解もされないのでしょう?(*)

 

彼らが花婿の言葉を理解しないのは 私が人間的な哲学の教える用語ではなく 我が霊による用語で語ったがゆえ。そこでまこと愛する者よ、私の思いを身に帯びて、歓びつつ私を讃美し、我が愛の讃歌に応じない者たちには耳をかさないように。「よい知らせをもたらす使者の足は なんと美しいことか・・・」(*1)という聖書の言葉を信じなさい。

聖書は 決して偽らない。 私に接ぎ木されていなさい・・・

 

ローマ10・16

*1 ローマ10・15  

 

 

 

ローマ10・16

 

しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。

 

 

 

ローマ10・13−15

 

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。

 

 

 

 

4.『かかと[くびす]』により最低の自然的なものが、または形体的なものが意味されている

 

 

天界の秘義259

 

 『かかと[くびす]』により最低の自然的なものが、または形体的なものが意味されていることは、最古代の人々が人間の種々なものを考えた方法が知られない限り、知ることは出来ない。彼らは人間の天的な霊的なものを頭と顔に帰し、(仁慈と慈悲のような)そこから生まれてくるものを胸に、自然的なものを足に、最低の自然的な形体的なものをかかと[くびす]に帰したが、単にそれらをそこに帰したのみでなく、それらをそのように呼びもしたのである。理性の最低のもの、即ち、記憶知もまたヤコブがダンについて予言したものにより意味されたのである―

 

 ダンは道の上の蛇、小道の上の毒蛇となり、馬のかかとを噛むと、それに乗った者は後へ倒れる(創世記49・3)。

 

 またダビデの書に―

 

 わたしのかかとの不法はわたしを取り囲んだ(詩篇49・5)。

 

 同様にヤコブが母胎から出て来た時彼について述べられていることによっても意味されている―

 

 彼の手はエソウのかかとを掴んだ、そこから彼はヤコブと名づけられた(創世記25・26)。

 

 

『ヤコブ』により意味されているユダヤ教会はかかとを傷つけるため、ヤコブの名は『かかと』から来ているのである。蛇は単に最低の自然的なものを害うことが出来るのみである、しかしそれは蝮の種類でない限り、人間の内的な自然的なものを害うことは出来ないし、まして彼の霊的なものは害うことは出来ないし、その天的なものは些も害うことは出来ないのであり、主はそれらを人間に知られぬままに人間の中に保存され、貯えておかれるのである。主によりこのように貯えられたものは聖言では残ったものと呼ばれている。蛇が洪水以前の人々の中の最低の自然的なものを感覚的な原理と自己への愛により破壊し、ユダヤ人の間では、感覚的なものと伝承と些末事と自己と世を求める愛により破壊してしまった方法は、また蛇が今日もいかようにして、感覚に、記憶知に、哲学に属したものにより、同時にその同じ愛によりその最低の自然的なものを破壊してしまったか、また破壊し続けているかは、主の神的慈悲の下に今後述べよう。

 

 

 

続最後の審判62

 

この悪の最悪なものは、『女の裔により害われ、その裔のくびすを傷つける蛇の頭』(創世記3・15)により意味されている。『女の裔』である主の『くびす』は、発出して究極的なものとなった神的なもの、即ち文字の意味に於ける聖言である。

 

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・51・2

 

そういうときあなたにとってためになるのは、卑(ひく)い外部(そと)の仕事に逃れ、善業をして心を慰め、わたしが天から来て訪れるのを固い信頼を持って待ち望み、ふたたびわたしの訪問を受けてすべての苦しみから救われるまで、あなたの逐謫流浪(さすらい)と心のさびしさとを、忍耐強くこらえることである。

 

 なんとなれば、わたしはあなたに苦労を忘れさせ、内心(こころ)の安らかさを味わわせるだろうからである。

 わたしは聖書の緑野をあなたの前に展(ひろ)げて見せよう、そうすればあなたの心もひろびろとなって、わたしの戒律(おきて)の道を走りはじめることもできるだろう。そしてそのときあなたは、「この世の苦しみは、私たちの身の上にあらわれるべき将来の光栄におよぶものではない。」(ロマ書8・18)と言うだろう。

 

 

 

 

5.足台

 

足台

 

 

 

 

6.こうした人物は論じれば論じるほど、益々信じなくなる

 

 

天界の秘義2162[16]

 

信仰のいくたの善と真理とが自然的な光と呼ばれているものにより歪めされるとき、このこおは聖言では水をかき乱し、食物をふみにじる獣の『足』と『ひずめ』により記されるのである。たとえばエゼキエル書には―

 

 おまえは川へ出てきておまえの足で水をかき乱し、その流れを踏みにじった。わたしはその獣をことごとく多くの水の彼方から滅ぼそう、人間の足はかさねて、獣のひづめもまたかさねてそれを乱しはしない(エゼキエル32・2、13)。

 

 ここにはエジプトが取扱われており、それにより(1164、1165、1462番に示されたように)記憶知が意味されており、それで流れと水とをかき乱す足と『ひずめ』により、感覚的な自然的なものから派生してくる記憶知が意味されており、そうしたものからかれらは信仰のアルカナについて論じており、またこうしたアルカナがそうした認識により把握されない限り信じもしないのであるが、しかしこれは些かも信じることではない、なぜならこうした人物は論じれば論じるほど、益々信じなくなるからである(128−130、215、232、233、1072、1385番を参照)。このすべてから、聖言では『足』により自然的なものが意味していることが今や明らかである、しかしさらにそれ以上に意味されている事柄はその連結している事柄から明白である。