垢・皮膚
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました(マタイ11・25)/
1.垢のついた皮膚の領域に属している霊どもの認識
2.爪の根の皮膚を構成している者
3.論争する過ぎない者
4.外なる皮膚とその外被を構成する者たちについて
5.内的なものはその上に終結し、かくてその上に静止している
1.垢のついた皮膚の領域に属している霊どもの認識
天界の秘義1385
皮膚の領域に、特に垢のついた皮膚の領域に属して、凡ゆる事柄について論じようと欲する霊どもがおり、彼らは善で真のものを何ら認識しておらず、実に論じれば論じるほど益々認識しなくなり、彼らは知恵を理論から成立させ、その上に立って賢い者として見られることを要求しているのである。彼らは物事が善であり真であるか否かを論じないで認識することが天使の知恵であると告げられているが、そうした認識が可能であることを悟ってはいない。こうした者らは身体の生命の中で知識と哲学に属した事柄によって真理と善とを混乱させ、そのことによって自分自身に自分はこの上もなく学があるものであると思われている者であるが、しかし彼らは以前(依然?)聖言から真理の如何ような原理をも取り入れていなかったため、たれにもまさって常識を欠いているのである。
2.爪の根の皮膚を構成している者
天界の秘義5556
私はまたたれが爪の根の皮膚を構成しているかを知ることが出来たのである。この皮膚は他のどの皮膚よりも感覚が鈍いのである、なぜならそれは殆ど薄い軟骨のようなものである薄片で一面に覆われているからである。それを構成している社会は、凡ゆる事柄についてそれはそうであるか、そうでないかと論じるのみで、それ以上進まない者らである、わたしは彼らと語った時、彼らは何が真であるか、また何が真でないかを些かも悟らないで、論じれば論じるほど、益々悟らなくなることを認めることが出来たのである。それでも彼らは彼ら自身には他の者らよりも賢明であるように見えるのである、なぜなら彼らは知恵を論じる能力に置いているからである。彼らは、知恵の主要な事柄は物事がそうであるか、またはそうでないかを論じること無しに認めることであることを全く知らないのである。このような多くの者は世では哲学的に細かい区別立てをして善と真理とを混乱させてこのような者となり、そのため常識に劣るものとなってしまった者らから来ているのである。
3.論争する過ぎない者
天界の秘義3428[2]
現今の学問は何かのものが何らかの存在を持っているか、否か、それはそのようなものであるか、否かと論争する以上には殆ど進んでいないのであり、その結果人間は真理の理解から閉め出されているのである。例えば、聖言の内意が在るか否かと論争するに過ぎない者は、内意の内にある無数のものを、否、無限のものを決して認めることは出来ないのであり、更に、仁慈は教会の中で何らかの意義を持っているか否か、仁慈の凡ての物は信仰から生まれないか否かと論争する者は、仁慈の中に在る無数のものを、否、無限の物を到底知ることは出来ないで、仁慈とは何であるかについては全くの無知の中に止まるのである。
天界の秘義3428[3]
死後の生命、死人の復活、最後の審判、天界と地獄の場合も同じである―これらのものは存在するか否かと単に議論しているに過ぎない者は、その間知恵の扉の外側に立っていて、単にノックするのみで、知恵の壮麗な宮殿の中を覗き込むことは出来ない人物のようなものである。しかも奇妙なことにはこのような人間は自分自身を他の者に較べて賢明な者であると信じており、何かの事柄がそうであるか否かと論じ、特にそれはそうではないと立証することが出来る自分たちの才能に比例して賢明な者であると信じているが、それでも善の中にいて、彼らからは軽蔑されている単純な者たちは、その物が存在し、またその性質のいかようなものであるかを、一瞬にして、何らの議論も無しに、ましてや学問のある論争も無しに認めることが出来るのである。これらの者は真理を認識することについては常識を持っているに反し、前の者はその物が何らかの存在を持っているか否かをとりわけ論じようと欲して、このような方法によりこの常識を消滅させてしまっているのである。主が賢い者と理知ある者から事柄は隠されているが、幼児には示されていると言われる時、主は前の者についても、後の者についても語られているのである(マタイ11・25、ルカ10・21)。
4.外なる皮膚とその外被を構成する者たちについて
霊界日記1736〜1741
霊界日記1736
身体の外なる皮膚〔包被、皮〕を、顔から足まで相違はあるものの、構成するといった性質の者が非常に多いのである。こうした者たちと私は非常に話し合い、以下の主題についてすらも話し合ったのである、即ち、不潔な最も外なる皮膚を構成している者らは、身体の生命の中では文字の意義の中に留まっている者らであるが、しかし内的な事柄を容認はするが、それを認めはしないで、単にその中に一種の外なる意義の中に止まっているようにも止まっている者、これらの者は皮膚の内的な包被〔外被、皮〕である。
霊界日記1741
この私たちの地球から来ている者らの大部分の者らはこうした性格を持っている、なぜなら私たちの地球は外なるものの中に在り、殆ど全部が内なるものを支配しており、こうしたものの支配が遍く行われているだけ、そこに住んでいる者たちは他生で責め苛まれ、(実に)、そうした幻想〔妄想〕が調整されて、均衡が確立されることが出来るまでも責め苛まれるのであり、またそれ以前に彼らはそうした膜として働くことを許されもしないで、巨大人の身体の外側の、またはその下の低地に、また地獄の色々な所に置かれ、そこから取り出され、また高揚されて、前に記したようなものを構成するのである。彼らは、そこで受ける多くの懊悩〔責苦〕によりそれらの所で完全なものにされつつある間に、更に内的な状態へ挙げられ、かくて天界へ挙げられるのである、なぜなら凡ゆる膜は凡て更に内的な、また最も内的なものに接近するに比例して更に完全なものとなり、実に、人間の身体の中では何一つ膜から与えられなくては与えられてはいないのであり、膜から血液と精神により活動している有機的な形が発生しており、それらのものは〔血液と精神は〕それらのもの自身がまた有機的な形であるが、しかし依然生命を全く主から発しているものを除いては欠いているものの、他のものについては活動しているからである。
天界の秘義9215
『それを着て彼は眠る』(出エジプト記22・26)。これはそれらのもの[感覚的なもの]の上に静止していることは『眠ること』の意義から明白であり、それは静止することであって、ここでは『上着』により意味されている外なる感覚的なものの上に静止することである(9211番を参照)、なぜなら『彼がそれを着て眠る上着』と言われているからである。内的なものが感覚的なものの上に静止していることはいかように理解しなくてはならないかを述べよう。感覚的なものは、前に言ったように、人間の生命の究極的なもの[最も外なるもの]である。これは内的なものを凡て含んでおり、それらのものに共通しているのである、なぜなら内的なものはその上に終結し、かくてその上に静止しているからである。例えば皮膚がそうしたものであって、それは身体の究極的な[最も外なる]覆いとなっている、なぜならそれは身体の内的なものを含んでいるため、その中にそれは終結しており、それでまたその上にそれは静止しているからである。身体の腹膜の場合も同じである、即ち、この膜は腹部の内臓を含んでいるため、内臓はその上に静止し、またそれと全般的な関連を持っているのである。胸部の内臓に対する肋膜も同じである。
天界の秘義6402
真理の中にはいるが、未だ善の中にはいない者らは下の方を、または外の方を眺めるため、それでまた彼らは巨大人の外皮の領域に属している者たちの間にいるのである、なぜなら外皮は身体の内部から外方へ向いていて、外に在るものからその触感を得ており、内に在るものからは知覚的にはそれを得ていないからである。