ザビエル

 

 

キリスト教徒以外でも救われる

異邦人の教会

 

 

 

1.ザビエルの見た日本

2.教会内に生まれた者のみが救われると考えるのは狂った異端

3.ザビエルは地獄にいる

3.ロヨラは天国にいる

 

 

 

 

1.ザビエルの見た日本

 

 

講談社学術文庫/ピーター・ミルワード/ザビエルの見た日本/P90

 

 ザビエルは特に地獄のことについて詳しく述べている。

 

「山口の信者たちは洗礼を受ける前につまらないことでためらっていました。私たちが到着するまで神は日本人に名を名乗られなかったので、神はあわれみ深い方でも善い方でもなさそうだというわけです。私たちが説教する神を拝まなかった者は地獄で永遠の罰を受ける運命にあり、神は彼らの先祖たちを救うのを忘れられたり軽んじられたりして救いの真理を知る機会を取り上げ、永遠の死に向かってまっさかさまに突進していくことを許されたかのように思われたからです。ほかのことよりこの嘆かわしい考えのために彼らはまことの神の教えから遠ざかっていたのです。しかし神のあわれみによって彼らの過失とためらいは取り除かれました。」

 

 

 

講談社学術文庫/ピーター・ミルワード/ザビエルの見た日本/P98

 

 ザビエルは地獄についての教義を受け入れることがキリシタンたちにはいかにむずかしいかを繰り返し述べる。

                

「日本人を悩ますことの一つは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないと私たちが教えていることです。彼らは亡くなった子どもや両親や親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて、永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。それに対して私は、その道も希望も全くないとやむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは信じられないほど大きいものです。そのために彼らはやつれ果ててしまいます。しかしそのような苦しみの中にも一ついいことがあります。つまり祖先たちのように永遠の罰を宣告されないように、自分の救いのため一層努力するように励ますことです。神は祖先たちを地獄から救い出すことはできないのか、また、なぜ彼らの罰は決して終わることがないのかと彼らはたびたび尋ねます。私たちは彼らに納得のいく返事をするのですが、でも彼らは親族の不運を嘆かずにはいられません。私もいとしい人びとがそのような嘆き―後悔先に立たず―を隠せないのを見て涙を抑えられないことがあります。」

 

 

 

 

2.教会内に生まれた者のみが救われると考えるのは狂った異端

 

 

神の摂理330(ハ)

 

教会内に生まれた者のみが救われると考えるのは狂った異端である」。

 

 

 

 

3.ザビエルは地獄にいる

 

 

真の基督教824

 

多くのロマ・カトリック教徒は、特に修道僧は霊界で聖徒を特に彼ら自身の教団の聖徒を探し求めるが、これを見出さない。彼らはこのことに驚くが、しかし聖徒達は天界かまたは下界に居ると告げられる。何故ならこれらの聖徒は自分達に捧げられている礼拝を知らず、これを知って、祀られようと願う者は気が狂って愚物のように語るからである。天使達は聖徒礼拝の考え方に身震いする。何故なら人間に礼拝が捧げられる時、主に対し礼拝は拒まれ、而してこのように礼拝が分かたれると、彼らの幸福の源泉である主との交わりが破壊されるからである。

 私がロマ派の聖徒の性格を知り、これを記すために、自らが聖徒の列に加えられていることを知っている約百名の者が下界から私の許へ連れられて来た。その大半は私の後から来、只僅かな者のみが前から来て、その一人がザビエルとして私に紹介された。彼は愚物のように語ったが、然し彼はその監禁されている所では愚物ではなく、ただ聖徒として祀られようと願う時にのみ愚物になるという事実を辛うじて私に告げたのである。私は背後の者らからもそれと同じ意味の呟きを聞いたのである。天界にある所謂聖者はこれと異なっている。彼らは地上に為される事を少しも知らず、また迷信的なカトリック教徒とはその誰とも語ることを許されていない、これは彼らにそのことで愚かなことを考えさせないためである。

 

 

 

続最後の審判65

同上(真の基督教824)

 

 

 

霊界日記4570小

 

 エスイット派の第二の父であるフランシス ザビエルは下の深い辺りに尻の下に現れた。彼はさらに陰険な魔術師であり、結婚愛と無垢により冒涜的なことをやってのけ、多くのことを秘かに行った。かれは尿道の内部の間にいる。・・・・・・。

 

 

 

 

3.ロヨラは天国にいる

 

 

霊界日記4571小

 

 エスイット派の父、イグナチウス(ロヨラ)は前面に向って、上の方にいた。彼は緻密であったが、しかし私は、彼は善良であり、彼の追随者らが現在のそうした性格のものであることを願ってはいないし、またそうしたことが彼の意図でもなかったとしか認めることが出来なかった。彼は自分自身を豚のように汚らわしいものであるとすることにより、崇拝されることを避けたのである。

 

 

 

神の摂理330(ハ)

 

「教会内に生まれた者のみが救われると考えるのは狂った異端である」。