主は段階的に啓示される
1.マリア・ワルトルタ
2.スウェーデンボルグ
3.スウェーデンボルグにも知ることを許されないことがあった
4.ヴァッスーラ
1.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P84
わたしは人々が知るのが有益でありうることについては、すべてを知ることを許すが、あなたたちが知らないほうがよいとわたしがみなすことには、すべてヴェールをかける。
わたしの可哀想な子供たちよ、あなたたちは黙示録的『七つの雷』の誇るべき名前を知るにはあまりにも弱い。わたしの天使はヨハネに『七つの雷が語ったことは封印し、書き留めてはならない』と言った。わたしは言う、封印されたものは、まだそれを開く時ではない。もしヨハネがそれを書き留めなかったのなら、わたしはそれを言わないだろう。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P91
最後の七つの傷は、記述されていない喇叭の七つの響きに対応している。いつものように、それらは比喩的な記述なのだが、現実が完全に排除されているわけではない。貴女に説明するのが時宜にかなっていると思うことを説明しよう。
マリア・ワルトルタ/復活/P54
「信じる者としてのあなたの光で、彼を改めさせなさい。・・・それでは、私は行く。なお、私のこと、私の言った事も、私の母以外にはだれにも話さないように。神のことばには、それを告げる正しい時があるのだから」
イエズスは輝きを放って微笑し、その輝きの中で姿を消す。
2.スウェーデンボルグ
新しいエルサレムとその天界の教義247
最古代教会には直接の啓示があり、古代教会には相応による啓示があり、ユダヤ教会には生きた声による啓示があり、基督教会には聖言(ことば)による啓示があった(天界の秘義10355番)。
天界の秘義2896
洪水以前に存在した最古代教会における聖言は書かれた聖言ではなくて、その教会に属している凡ゆる者に啓示されたのである。なぜなら彼らは天的な人たちであり、それで天使たちのように善と真理とを認識し(さらに彼らはその天使たちとも交わってもいたのであるが、)、それで彼らは聖言をその心の中に記されていたのである(その事柄については、597、607、895、920、1114−1125番を参照されたい)。
『主の戦いの書』には次のように書かれている。「スファのワヘブとアルノン川の支流。
それらの支流はアルの定住地に流れ下り、モアブの国境に及ぶ。」
天界の秘義2897
洪水以後に存在した古代教会の中の聖言はこの源泉から発したのである。この教会の人間は霊的なものであったが、天的なものではなかったため、彼は表象的なものと表意的なものとに含まれている事柄を知ってはいたが、認識はしなかったのである。それらには神的なものが含まれていたため、それらはその人たちの間に用いられるようにななり、彼らの神礼拝に用いられたが、それは彼らが天界と交流するためであったのである。なぜなら前に言ったように世における凡ゆる物は天界に在るようなものを表象し、また意味しているからである。彼らはまた書かれた聖言を持っていて、それは旧約聖書の聖言のように、歴史と予言から成っていたが、しかし時が経つに連れ、その聖言は失われてしまったのである。その歴史は『エホバの戦い』と呼ばれ、予言は『宣言[託宣]』と呼ばれて、そのことはモーセの書に明白であり(民数記21・14、27)、そこにそれらは引用されているのである。彼らの歴史は予言的な文体で書かれて、その大部分は創世記の最初の11章におけるもののように作り上げられた歴史であったが、そのことはモーセの書にそこから引用して記されている文から明らかであり、そこには以下の言葉が在るのである―
それでエホバの戦いの書の中に言われている、曰く、スパのワヘブ、アルノンの川、アルの住居の方へ傾き、モアブの堺によりかかっている川々の坂(民数記21・14、15)。
民数記21・14−15
それで『主の戦いの書』には次のように書かれている。「スファのワヘブとアルノン川の支流。
それらの支流はアルの定住地に流れ下り、モアブの国境に及ぶ。」
真の基督教279(3)
私は七年前、モーゼが「エホバの戦争の記」と「宣言者」と呼ばれる二書から民数記略21章に書き移したものを集めていると、或る天使たちが来たって、私にそれらの書物は古代の聖言であり、歴史的な部分はエホバの戦争の記であり、預言的な部分は宣言であると語った。(中略)
イスラエルの聖言以前にアジアに存在していたその古代の聖言は今も大韃靼の人々の間に保存されている。私は霊界でかの国から来た霊と天使たちと話しを交えた。彼らは自分たちは最古の時代から聖言を持っており、今も尚持っている、自分たちは純粋な相応から成っているこの聖言に応じ神的礼拝を行った事を私に告げた。(中略)彼らは、更に、その国には支那人以外の如何なる外国人をも入れる事を許さない、支那人が彼らと友好関係にあるのは、志那の皇帝は彼らの国の出身であるからであると私に語り、また彼らの国には他の何れの国よりも多く人が住まっていると信じていると彼らは語った。これは支那人が彼らを防ぐために前に建設した城壁の非常な長さによって信ずべきこととされている。天使たちは、その古代の聖言は創世記の最初の十一章を含んでおり、それらは、モーゼによってそこから転写されたものであると私に告げた。大韃靼から来た天使たちと霊は東南の地方を占めている。彼らは他から離れて高台に住まっており、基督教世界から来た者は一人としてそこに入ることは許されない。若し、何人かがそこに登るならば、彼らは拒んで、彼を追い返してしまう。彼らがかく他から隔たって住まっているのは、異なった聖言を持っているからである。
主の聖言21―経験から―(『仁慈の教義』に併録)
現今聖言の霊的な意義が主から啓示されたのは、純粋な真理の教義が今や啓示されたためであり、その教義は部分的に「新しいエルサレムの教義」の中に含まれており、そして今は、公にされつつあるその小さな書物の中に含まれているのであり、その教義は―他のいかような教義でもない―聖言の霊的な意義に一致しているため、それで、その意義は相応の科学と共に、今や初めて明らかに示されたのである。その意義はまた主が天の雲の中に栄光と力をもって現れ給うたことにより意味されており(マタイ24・30、31)その章では代の終結が取り扱われていて、代の終結により教会の最後の時が意味されているのである。
真の基督教779
「主の再臨は一人の人間を媒介として起りつつある、主は新しき教会の教義をその聖言によって教えるために、この人間に自らを親しく示し、彼をその霊を以て満たし給うた。」
上述したように、主は自らを親しく顕し給うことは出来ない。しかも主は自ら来って新しいエルサレムなる新しい教会を創設するであろうと予言し給うた。それ故主はこの事を、単にこの教会の教義を理解し得るのみでなく、更にこれを印刷し公にすることの出来る人間によって為し給うであろうことが推論される。主は御自らをその僕なる私に顕わし、私をこの務めに遣わし給うたことを厳かに宣言する。主は私の霊の眼を開き、かくして私を霊界に導き入れ給うた、而してこれは数年間今もなお継続しているのである。更に、私はその召命の最初の日から、新しい教会の教義に関わるものを如何なる天使からも受けず、私が聖言を読みつつある間に主のみから受けたのである。
啓示による黙示録解説・序言
それゆえ、私が何かを私自身から得たとは、または天使から得たとも信じてはならない、私は主のみから(一切)を得たのである。主もまた天使を通してヨハネに言われた―
この書物の予言の言葉を封じてはならない(22・10)
このことによってそれらが明らかにされなくてはならないことが意味されているのである。
天界の秘義3773
「彼らは再びその石をその井戸の口の上のその所に置いた」。これはその間それが閉じられたことを意味していることは、その井戸の口の上の石について言われたことから明白である(3769、3771番)。聖言が教会に開かれ、後に閉じられることについては実情は以下のようになっている、即ち、何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれるのであり、主はそのように配慮されているのである、かくて彼らは教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられていることを学ぶのである。この二つの戒めが目標とされるとき、聖言は開かれるのである、なぜなら律法と予言者の凡ては、即ち、聖言全体はこの戒めに依存しており、かくて凡ゆるものはそこから派生しており、それで凡てのものはそれに関わりを持っているからである。そして教会の人々はそのとき真理と善との原理の中にいるため、彼らは聖言に見られる凡ゆる事柄において明るくされるのである、なぜなら主はその時(彼らはそのことを知らないものの)天使たちにより彼らのもとに現存されて、彼らに教えられ、また彼らを真理と善の生命へ導き入れられるからである。
天界の秘義3773[2]
このことはまた凡ゆる教会の実情から認めることができよう、すなわち教会はその幼少期にはこのようなものであって、愛から主を愛し、心から隣人を愛したのである。しかし時が経過するにつれて、教会はこの二つの戒めから後退して、愛と仁慈の善から信仰の事柄と言われているものへ外れ、かくて生命から教義へと外れてしまい、彼らがそうしたことをするにつれ、聖言は益々閉じられてしまうのである。このことが以下の言葉の内意に意味されているところである、即ち、『見よ、野に井戸が在った、また見よ、そこには羊の群が三つその傍に伏していた、なぜならその井戸から彼らはその群に水を飲ませたからである、その井戸の口の上に大きな石が一つ置かれていた。そして群は凡てそこに共に集められた。彼らは石を井戸の口からころがし、羊の群に水を飲ませ、再び石をその井戸の口の上のその場所に置いた』。
3.スウェーデンボルグにも知ることを許されないことがあった
天界の秘義3346
私はこれらの事を知り、しかもそれらを確実に知るために、主の神的慈悲の下に私は幾年もの間ほとんど絶え間もなく霊たちと天使たちと共に語ることを許されたのであり、霊たちとは(即ち、第一の天界の天使たちとは)その霊たち自身の言葉をもって語り、また時には第二の天界の天使たちとはその天使たち自身の言葉をもって語ることを許されはしたが、しかし第三の天界の天使たちの言葉は私には光の放射としてのみ現れて、その中にはその内部に在る善の焔から発した認識が在ったのである。
天界の秘義5055
幾多の生殖器官に属しているその天界の社会はいかようなものであり、またいかような性質を持っているかは、私は知ることを許されなかった。なぜならそれらは低い領域の中にいる者によって把握されるには余りにも内的なものであるからである。それらはこれらの器官の用に関係しており、その用は、以下の理由のため(それもまた摂理から発しているが)、隠れており、認識することは出来ないのである、即ち、こうしたものは、それ自身においては極めて天界的なものであるが、こうした器官をただ口にするのみで極めて多くの人間の中に掻き立てられるところの好色、淫行、姦淫の汚れた幾多の思いにより害われないためである。
天界の秘義5565
歯のような、更に固い骨に関係している若干の霊もまたいるが、しかし私は彼らについては多くを知ることは許されず、ただ彼らは霊的な生命を殆ど残されていないため、天界の光の中で目に示されると、いかような顔も持たないで、ただ顔の代わりに歯のみを持って現われることを知ったのである、なぜなら顔は人間の内部を表象し、かくて彼の霊的な天的なものを、即ち、信仰と仁慈とのものを表象するからである。それで身体の生命の中でこの生命を自分自身で何ら得なかった者らはこのように現れるのである。
<許された場合>
天界の秘義1072
こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P265
‘89・9・26
わが主よ?
私です。 決して疑ってはならない ♡ 覚えておくように、多くの扉の鍵を握っているのは私 ♡ それぞれ時が来たら、次々と開けて行こう、分かったか 我が子よ? 心配は要らない、あせらなくてよい、私、主は、ふさわしい時に すべてを明かす ♡