『聖母マリアへのまことの信心』
2.
聖グレニョンド・モンフォール著
山下房三郎(トラピスト会司祭)訳
愛心館
第X章 レベッカとヤコブ マリアとその愛のドレイ
第一節 レベッカとヤコブ
180.マリアと、その子ども、そのしもべとの間の関係が、どんなものかについて、わたしはこれまで述べてきましたが、そのみごとな予型が、旧約聖書のヤコブの話の中で、聖書によって示されています。ヤコブが母レベッカの心づかいと創意工夫によって、父イザアクから祝福をもらった、というお話です。まず聖書が報道するヤコブの話をそのままここにのせ、次に聖霊の解説をつけ加えたいと思います。
第@項 ヤコブの話
181.長男のエザウは、次男のヤコブに長子権を売り渡していましたが、ふたりの子どもの母であるレベッカは、ヤコブのほうを特に可愛がっていましたので、何年か後で、まったく神聖な、まったく神秘にみちた創意工夫によって、エザウの長子権をヤコブの手に入れさすことに、まんまと成功した―という話です。
父親のイザアクは、自分が余命いくばくもないと思ったので、死ぬ前に子どもたちを祝福しておこうと、まず特に愛していた長男のエザウを呼び「狩に出かけて行って、わたしの好きなおいしい食べ物を作り、もって来て食べさせておくれ。わたしは死ぬ前に、おまえを祝福したいから」と言います。
レベッカはすぐに、事の次第をヤコブに知らせ、群れの所に行って、そこからヤギの子の良いのを二ヒキ取ってくるようにと、いいつけます。ヤコブがそれを母のところにもっていくと、母はそれで父の好きなように、おいしい料理を作ります。レベッカは、家にあった長男エザウの晴着をとって、弟ヤコブに着せ、また子ヤギの皮を、手と首のなめらかな所につけさせます。
182.父はもう目が見えなかったので、ヤコブの声をきいても、その両手が毛ぶかいので、ヤコブをてっきりエザウだと信じるにちがいないと思ったからです。
案のじょう、イザアクは、声をきいてビックリします。ヤコブの声にまちがいないからです。それでヤコブを、もっと自分に近寄らせ、ヤコブの両手をおおっていた子ヤギの皮を、手でさわりながら、「声はヤコブの声だが、手はエザウの手だ」と言います。ヤコブが運んできた料理を食べ、ヤコブに口づけし、かれが着ていた晴着のかおりをかいだのち、かれを祝福してこう言います。
「どうか、神が、天の露と、
地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とおまえに賜るように。
もろもろの民はおまえに仕え
もろもろの国はおまえに身をかがめる。
おまえは兄弟たちの主となり、
おまえの母の子らは、
おまえに身をかがめるであろう。
おまえをのろう者はのろわれ
おまえを祝福する者は祝福される」(創世記27・29)
183.イザアクが、ヤコブを祝福し終わって、ヤコブが、父イザアクの前から出て行くとすぐ、兄エザウが狩から帰ってきます。かれもまたおいしい食べ物を作って、父のところにもってきて、「父よ。起きてあなたの子の料理を食べ、わたしを祝福して下さい」と言います。聖なる太祖は、とんだまちがいをしでかしたものだ、とビックリ仰天。しかしそれでも、前言を取り消さないのみか、かえってそれを強化確認します。神がこの事件に介入しておられる様子が、あまりに顕著だからです。
そこでエザウは、聖書が記録するとおり、身ぶるいして怒り、弟の権謀術策を大声でののしり、父に向かって、「あなたの祝福は、ただ一つだけですか」と言います。この点、エザウは、教父たちが指摘するとおり、神と世間とにふた股かけて、天のなぐさめも楽しみたいし、同時に地上のなぐさめも享楽したいと望んでいる人たちのかたどりです。
184.父イザアクは、泣きしゃくっているエザウを気の毒に思い、祝福を与えることは与えましたが、それは地上的な祝福でしかなく、しかも末代にいたるまで、弟ヤコブに仕えるという運命の逆転です。これがエザウの頭にきたのです。ヤコブに対する憎悪心が、炎のようにもえ上ります。エザウは心の中で言います。「父の喪の日も遠くはなかろう。そのときこそ、弟ヤコブを殺してやる。」(以上創世記27章)
もしヤコブが、母レベッカの特別のはからいがなかったら、また母の良いすすめにしたがっていなかったら、かれはとうてい死をまぬがれることはできなかったでしょう。
第A項 亡びる人の予型エザウ
185.この興味深い話の意味を説明する前に一言、注意しておきたいことは、すべての教父、すべての聖書解釈者が異口同音に言っていますように、ヤコブは、イエズス・キリストと救われる人の予型であり、エザウは、亡びる人の予型だということです。なるほど二人の行動と態度を比較対照してみると、そのことがうなずけます。
@エザウは、兄で、力がつよく、たくましい体格。弓術にすぐれ、狩が巧み。
Aかれは滅多に家にはいません。自分のウデに自身満々。外でしか働きません。
B母レベッカを喜ばすためには、何もしません。
C一皿のあじ豆のスープと交換に、ヘイキで長子権を売り飛ばす大食漢。
Dカインのように、弟をねたみ、徹底的に迫害。
186.これこそは、亡びる人が毎日、人まえで示している態度であり行動ではありませんか。
@亡びる人は、世俗的業務における自分たちの能力やウデ前に、たいへん自信をもっています。地上的事がらに関しては、たいへん強く、たいへん上手、たいへん目先もききますが、天上的事がらに関しては正反対に、たいへん弱く、たいへん無知です。
そんなわけで―
187.Aかれらはけっして、またほとんど、自分のうちに、つまり自分自身の内面に住んでいません。自分自身の内面こそ、神が人間ひとりひとりに、そこに住みつくようにとお与えになった自分自身の家 実質的な・内面的家なのです。神がいつも、ご自分のうちに住んでおられるように、わたしたちにも、ご自分のやりかたを真似なさい、といってお与えになった家なのです。
亡びる人はけっして、黙想や、霊性生活や、内面的信心を好みません。かえって、内面的な人や、世間から離脱している人、外面的事業よりもむしろ内面的わざに没頭している人のことを低能児だ、売名信心家だ、イナカ者だ、とけなしています。
188.B亡びる人は、救われる人の母であるマリアへの信心に対して、ぜんぜん関心をもっていません。たしかに公には、マリアを憎んではいません。ときには、マリアのことをほめることさえあります。口では、マリアを愛している、と言っています。マリアへのある種の信心業を、実行してもいます。しかしそれでも、人が優しい心でマリアを愛しているのを見ると、もう我慢できません。マリアに対してヤコブのような優しい心をもっていないからです。
マリアの良い子どもや忠実なしもべが、御母マリアの愛情をかち得ようと、こまめに果している信心家に、とやかくケチをつけます。こうした信心が、マリアの子やしもべにとって、救霊の必要手段だということを信じないからです。マリアを正式に憎んでさえいなければ、マリアへの信心を公に軽べつさえしなければ、それで十分だと、かれらは信じこんでいるのです。オレたちは、マリアのお気に入りだ、オレたちも、マリアの忠実なしもべだ、と高言しています。「聖母に祈る文」をいくつか、となえたり、ブツブツ口の中で祈ったりしています。だが聖母への優しい愛は全然もっていません。自らの行いも全然あらためません。
189.亡びる人は、自分らの長子権、すなわち天国の幸福を、レンズ豆の一皿、すなわち地上的快楽のために、おしげもなく売り飛ばします。かれらは笑い、飲み、食い、遊び、おどったりはねたりして、わが世の春を謳歌します。旧約のエザウよろしく、天の御父の祝福を得るのにふさわしい者となるために少しも努力しません。いいかえれば、かれらはただ地上のことしか考えません。ただ地上のことしか愛しません。ただ地上のこと、ただ地上の快楽のことしか口にしません。ただそのためにしか行動しません。
一瞬の快楽のため、けむりのようにはかない名誉のため、ひとにぎりの金貨銀貨のために、おしげもなく洗礼の恩寵を、成聖の恩寵の純白な礼服を、永遠不朽の天国の家督を、売り飛ばしているのです。
190.D最後に、亡びる人は、くる日もくる日も公々然と、または、かげにかくれて、救われる人を憎み、また迫害しています。救われる人を圧迫し、軽べつし、非難し、反対し、侮辱し、強奪し、だまし取り、丸裸にし、土足でふみにじっています。しかるに自らは、巨億の富をたくわえ、あらゆる快楽にふけり、商売は繁昌、家内は安全、経済はますます高度成長、名声は天下にとどろきわたり、栄よう栄華をきわめています。
第B項 救われる人の予型ヤコブ
191.@弟のヤコブは、体格も貧弱で、性格も柔和で温順です。心から愛している母レベッカのご気げんを取るため、ふだんは家に母といっしょにいます。そとに出ることがあれば、それはけっして、わがままからでもなければ、自分の才能に自信があるからでもありません。ただ、母のいいつけに従うためなのです。
192.Aヤコブは、母を愛し尊敬しています。だから、しじゅう家に、母のそばにいるのです。母の顔をながめるときが、いちばんしあわせです。すべて母の気に入らないことはしないように、また母の気にいることなら何でもしようと努力しています。それを見て母レベッカも、ますますヤコブをいつくしみ、愛するようになるのです。
193.Bヤコブは、あらゆる点で、愛する母の望みどおりになっています。母のいいつけにはすべて従っています。それも、ぐずぐずせず迅速に、ブツブツ言わず心から従っています。母がちょっと望みをあらわすと、すぐさま、それを実行します。母のいうことは何でも本当だと、理屈なしに信じています。そんなわけで、父イザアクの口に合うように料理したいから、二ヒキの子ヤギをもっていらっしゃい、と母に言われたとき、ヤコブは母にタッタひとりの人が、タッタ一度だけ食べるのですから、子ヤギは一ピキで十分ではないでしょうか、などと口答えしません。ヤコブは、母に言われたとおりにするのです―ぜんぜん理屈なしに。
194.ヤコブはたいへん母を信用しています。自分の才能や、ウデにはぜんぜん信用していないからです。母からの配慮と保護を、唯一のよりどころとしているのです。必要なものはなんでも、母にねがっています。どうしていいか分からないときには、いつも母に相談しています。たとえば、そういう大それたことをしたら、祝福のかわりにノロイを受けるのではないでしょうか、と母にたずねたとき、母が、「子よ、あなたが受けるノロイは、わたしが引き受けます」と答えると、かれは母のことばをそのまま信じ、安心して母にすべてをまかせるのです。
195.Dさいごにヤコブは自分なりに、母のかずかずの善徳を、まねていました。かれが自分の家にジっと“定住”していたわけの一つは、たいへん徳が高かった母を模倣するため、そうすることによって、自分の品行を下落さすおそれのある、悪い友達づきあいをさけるためだったのです。こうした生き方をしたればこそ、かれは父イザアクから、二重の祝福を受けるのにふさわしい者となったのです。
第二節 救われる人とマリア
第@項 救われる人の生き方
196.以上述べてきたヤコブの生き方は、そっくりそのまま、救われる人が毎日、実践している生き方なのです。
@救われる人は、自分の最愛の母マリアといっしょに、家に、すなわち自分の内奥に閉じこもっています。つまり、かれは黙想が好きです。内的生活が好きです。念祷に専従します。それも、自分の母なるマリアの模範にならい、マリアとともにです。マリアの栄光は、彼女の内面に深く秘められています。マリアは一生をつうじて、黙想と念祷を、ことのほか愛されました。
なるほど、救われる人も、ときたま、外面に、すなわち世間のまっただ中に出ることもあります。しかしそれはあくまで、神のみこころに、また聖母のみこころに、従うためです。神と聖母のみこころに従って、身分上の義務を果すためです。かれらは世間で人の目から見て、どんなに偉大なわざを行っても、しかしそれよりも、自分の内面にひきこもって、聖母とともに、ヒッソリといとなむ霊性のほうを、はるかに高く評価しています。なぜなら、自分の心の深奥で、完徳の偉大なわざを実行しているからです。完徳のわざにくらべたら、ほかのわざはみな、取るに足らぬもの、児戯にひとしいからです。
そんなわけで、信仰における兄弟姉妹たちがときたま、世の人びとのために、力のありったけを出し、精魂をかたむけ尽くして、しかも世人の絶賛のうちに、大活動をしているのを見ても、かれらの心はすこしも動揺しません。
多くのエザウの亜流や、亡びる人たちのように、世間のドまん中におどり出て、これ見よがしに、しかも自分自身の名誉のため、また自分自身の力だけによって、自然界・恩寵界の大事業をするよりも、むしろ自分の模範であるイエズス・キリストとともに、御母マリアに全面的に、完全に従属しながら、自分の心の深奥にかくれて住んでいるほうが、自分にとってはもとお大きな利益、もっと大きな楽しみがあるということを、聖霊の照らしのもとで、ハッキリさとっているからです。
「栄光と富とはその家にある」(詩篇112・3)
なるほど、そうです。神の栄光も、人間の富も、“マリアの家”にこそ無尽蔵にあるのです。
主イエズス。あなたのお住まいはなんと美しく、なんと慕わしいものでございましょう。スズメさえもそこに、住みかを見つけました。ツバメもそこに、ひなを入れる巣を見つけました。
主イエズス、あなたがまっさきに、ご自分のスイート・ホームとなさった“マリアの家”に住まう人は、どんなにしあわせなのでございましょう。
救われる人の住みかであるこの“マリアの家”の中でこそ、人はただあなたおひとりから助けを頂くのです。また自分の心の中で徳から徳へと進み、この涙の谷に泣き叫びながらも、完徳の頂をめざして一歩一歩のぼっていくのです。ああ、イエズス、あなたの住まいはなんと美しく、なんと慕わしいものでございましょう。(詩篇84篇参照)。
197.救われる人は、マリアを自分の良き母として、心から愛しています。マリアを、自分の女王として、まごころこめて尊敬しています。
ただ口先ばかりでなく、真実にマリアを愛しています。ただ外面的ばかりでなく、心のそこから、マリアを尊敬しています。ヤコブのように、すべてマリアのご気げんをそこなうことは、細心の注意を払ってさけています。反対に、マリアのご厚意を取りつけることだったら、全力を尽くして実行しています。
ヤコブが、母レベッカにそうしたように、救われる人もマリアに、二ヒキの子ヤギでシンボライズされている、自分の身体と霊魂を与え、ささげ尽くしています。同時に、身体と霊魂にかかわりのあるすべてのものを、ささげ尽くしています。そのいきさつは、ヤコブの子ヤギが予型となっています。すなわち、身体と霊魂を
(a)マリアが受け取って、それをまったくご自分のものとなすため、
(b)マリアが、この二つのモノを殺し、罪と自我に死なせ、自愛心という名の皮をはぎ取り、こうして当人を、御子イエズスのお気に召す者とならせるためです。なぜなら、御子イエズスは、自分自身に死んだ者しか、ご自分の友として、弟子として、お受けにならないからです。
(c)マリアが、身体と霊魂というこの二つのモノを使って、天にいます御父のお口に合った美味しい料理を作るため、またこの二つのモノを道具にして、御父の最大の栄光をあらわすためです。御父のお口に合った美味しい料理づくり、御父の最大の栄光の現わし方にかけては、マリアの右に出る者は被造物の中には一人もいません。
(d)マリアの心づかいと取り次によって、この身体、この霊魂が、あらゆる罪のけがれからまったく清められ、まったく自分自身に死し、まったく自我を超克し、このうえなく美味しく料理されて、御父のお口に合った御馳走となり、こうして当人を、御父の祝福にふさわしい者となすためです。こうした生き方こそ、わたしがこの本で述べている、マリアのみ手をとおしてイエズス・キリストに、自分自身をささげ尽くす―という信心を味わい実行している、救われる人の日常の生き方ではないでしょうか。こうした生き方によってこそ、救われる人は、イエズスとマリアに、自分の行動的な、勇敢な愛をあかしているのです。なるほど、亡びる連中も、オレたちはイエズスを愛している、マリアも愛している、尊敬もしている、と盛んに吹聴しているのです。が、それはただ、かけ声だけで、かれらは自分の財産や持物を犠牲にしてまで愛してはいません。救われる人のように、自分の身体をその官能とともに、自分の霊魂をその諸欲とともに、犠牲にしてまで愛してはいないのです。
198.B救われる人は、イエズス・キリストのお手本にならって、御母マリアに隷属し服従します。イエズスは、その地上生活三十三年のうち三十年もの長い期間を、御母マリアへの完全な全面的な隷属と服従をとおして、神なる御父の栄光をあらわすことにお使いになりました。
救われる人は、御母マリアの良きすすめを、きちょうめんに守ることによって、彼女に服従しています。ちょうどその昔ヤコブが、「わたしの意見にしたがい、わたしの言うとおりにしなさい」(創世記27・8)といった母レベッカのすすめに素直に従ったように。また、カナの結婚披露宴のとき、手伝いの人たちが、「あのかた、わたしの息子が言われることは、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2・5)とおっしゃった“イエズスの母”マリアのいいつけによく従ったように。
ヤコブは母にすなおに従ったおかげで、ほんらいならとうてい手に入れることができなかった祝福を、まるで奇跡でもおこったかのように、まんまとせしめたのです。カナの結婚披露の手伝いの人たちは、聖母の良きすすめに素直に従ったおかげで、聖母のおねがいによって、水をぶどう酒に変える、というイエズス・キリストの“最初の”奇跡のおぜんだてをする栄光に浴したのです。
同様に、世の終りにいたるまで、天にいます御父から祝福を受ける者はみな、また神から偉大な奇跡をめぐんでもらう者はみな、それはひとえに、御母マリアへの完全な服従のおかげでこそ、それらの恵みを神から頂くのだということを、ゆめにも忘れてはなりません。これに反して、エザウの子らは、聖母への隷属と服従を欠いているからこそ、せっかくの祝福も失ってしまうのです。
199.C救われる人は、御母マリアのいつくしみと力づよさに、大きな信頼をよせています。御母マリアに絶えまなく助けを求めています。自分の人生の終着駅にめでたく到着できるため、御母マリアを希望の星とあおいでいます。心のとびらを全開にして、自分の苦しみ、自分の必要を、御母マリアに披瀝しています。御母マリアの慈悲ぶかい、甘美な乳房にしがみついています。そのお取り次によっておかした罪のゆるしをねがうためです。苦悩のとき、また生の倦怠を感じるとき、マリアの母ごころの甘美さを味わうためです。感嘆すべき方法でマリアのご胎に自分をかくし、自分を消しています。そこにかくれひそんで、マリアの聖純な愛で焼き尽くされるためです。そこで、ごくわずかなけがれからも清められて、イエズス・キリストを見いだすためなのです。イエズスはマリアのご胎を、最高に栄光ある玉座として、そこで支配しておいでになるからです。
ああ、なんというしあわせなんでしょう。まさにゲーリク修道院長が言っているとおりです。「マリアのご胎に住まうようりも、アブラハムのふところに住まうほうが、もっとしあわせだと考えてはいけません。なぜなら、主イエズスは、マリアのご胎にこそ、ご自分の玉座をおすえになったからです」(「被昇天についての説教」4。)
これに反して、亡びる人は、自分自身にまったく信頼しきっています。放蕩息子のように、ブタの食うイナゴ豆しか食べません。ガマのように、土くれでしか自分を養いません。俗悪な人のように、ただ目にみえるもの、ただ外面的なものしか愛しません。マリアのご胎と乳房の甘美さを、絶対に味わうことができないのです。
救われる人が、御母マリアに対していだいている、信頼感のひとかけらも持っていません。大聖グレゴリオ教皇が言っているように、亡びる人は気の毒にも、そとで、飢えることを愛しているのです。なぜなら、自分自身の内面に、イエズスとマリアの内面に、それぞれみごとに用意されている甘美さを、味わいたくないからです。
200.Dさいごに、救われる人は、御母マリアの道をよく守ります。別のことばで申せば、御母マリアの生き方を模倣します。だからこそ、かれは本当にしあわせで熱烈な聖母信心家なのです。だからこそ、かれらは救霊のまちがいないしるしを、わが身にたずさえているのです。それもそのはず、御母マリアはかれらに、「わたしの道を守る人はしあわせです」(詩篇119・3)と言っておられるからです。
じっさい、かれらはこの世でも生涯にわたって、しあわせです。
わたしの満ちあふれから、かれらに流通する豊かな恩寵と甘美さのゆえに、しあわせです。わたしはそれをかれらに、かれらほど近くからわたしを模倣しない人びとよりも、もっと豊かに流通するからしあわせです。とりわけ臨終のとき、かれらはしあわせです。それは平和で安らかな死です。わたし自身、かれらの臨終をみとり、わたし自身かれらを、永遠の幸福の住まう天国へとみちびくからです。
さいごに、かれらは永遠にしあわせです。
地上生活のあいだ、わたしの徳を模倣した、わたしの良いしもべのうち、ひとりとして地獄に行った者はいないからです。
ああ、マリア、わたしの良き母よ、わたしは感激で胸をわくわくさせながら、あえて申し上げます。
あなたへのまちがった信心に迷わされないで、あなたの道、あなたのすすめ、あなたのいいつけを守る人は、どんなにしあわせなのでございましょう。
これに反して、あなたへの信心をあしざまに言いふらして、あなたの御子イエズスのおきてを守らない人は、どれほど不幸、どれほどのろわれた者でございましょう。
「あなたのおきてから迷い出る人はみな、のろわるべき者です」(詩篇119・21)
第A項 忠実なしもべに対して、マリアはどんな態度をとられるのか
201.すべての母の中の最高最良の母はマリアです。このマリアが、わたしがこれまで述べてきた流儀にしたがい、またヤコブの予型にしたがって、ご自分にわが身をささげ尽くした忠実なしもべたちに対して、どんないつくしみの態度をおとりになっているか、
A.マリアは、かれらをお愛しになります。
「わたしは、わたしを愛する者を愛する。」(格言8・17)
マリアは、ご自分の忠実なしもべたちをお愛しになります。そのわけはこうです。
イ、マリアは、かれらの本当の母だからです。ところで、母親というものはきまって、自分のおなかをいためた子を愛するはずです。
ロ、マリアは、かれらを、義理でも愛し返さねばなりません。なぜなら、かれらはマリアを自分たちの良き母として、行動的に愛しているからです。
ハ、かれらは救われる者として、神から愛されています。だから、マリアも当然かれらを愛されるのです。「ヤコブを愛し、エザウを憎んだ」(ローマ9・13)
ニ、かれらはマリアに、まったくささげ尽くされていて、マリアの所有物、マリアの相続財産(「イスラエルを相続財産として受けよ」(集会書24・13)となっていますから、マリアはかれらを愛されるのです。
202.マリアはご自分の忠実なしもべたちを、優しい心でお愛しになります。すべての母親の優しい心を一つに集めたものよりも、もっともっと優しい心でお愛しになります。全世界のすべての母親が、その子に対してもっているすべての愛情を、ただひとりの母親が、そのひとり子に対してもっている愛の心に、そそぎ入れたと仮定してごらんなさい。この母親はどんなに優しく、自分の子どもを愛するのでしょう。ところで、マリアが、ご自分の忠実な子どもに対していだいておられる愛は、この母親がこのひとり子に対していだいている愛どころではありません。それはもう比較できないものなのです。
マリアは、ご自分の子どもを、ただ感情的に、ただプラトーニックに愛されるのではありません。マリアの愛は行動的です。実効的です。レベッカがその予型となっているこの良き母マリアが、ご自分の子どもたちに、天の御父の祝福を得さすため、どんなことをなさるかを次に見ていきましょう。
203.@レベッカのようにマリアも、ご自分の子どもたち、しもべたちに良いことをしてあげるための、またかれらを霊的に成長させ富ますための好機会を、終始ねらっておいでになります。マリアは、神のうちにあって、すべての善と悪、すべての幸運と不運、すべての神の祝福とノロイを、ハッキリとごらんになっています。
そんなわけで、ご自分の忠実な子どもたち、しもべたちを、あらゆる悪から救うため、またかれらをあらゆる善で満たすため、ものごとを前もって、よいように取りはからってくださるのです。たとえばここに、高貴な役務への忠実によって、神にすばらしい奉仕ができる幸運が、好機会が、めぐってきたとします。マリアがそれを見逃すはずがありません。さっそく高貴な役務へのこの幸運を、ご自分の子ども、ご自分のしもべたちのだれかにお与えになるのです。同時に、最後まで忠実に、この役務を果すことができる恩寵までもお与えになるのです。「マリアは、ご自分で、わたしたちの利害問題に介入してくださいます」と、ある聖人が言っておられるとおりです。
204.Aレベッカがヤコブに「わが子よ、わたしのすすめに従いなさい」(創世記28・8)と言ったように、マリアもご自分のしもべたちに、良いすすめをお与えになります。そのすすめの中でも、とりわけマリアはかれらに、ニヒキの子ヤギ、すなわち身体と霊魂を、ご自分のところに持ってくるように、それを材料にして神のお口に合う美味い料理を作るため、ご自分にささげ尽くすようにと、おすすめになります。また御子イエズス・キリストが、ことばと模範で教えてくださったすべてのことを実行するようにと、おすすめになります。
しかし、マリアが直接かれらに、こうしたすすめをお与えになるのではありません。天使たちをおつかわしになるのです。天使たちは天使たちで、マリアのご命令に従って地上にあまくだり、マリアのしもべを助けることぐらい、自分たちにとって名誉にもなり、楽しみになるものはありません。
205Bマリアの忠実なしもべたちが、自分らの身体と霊魂、およびそれらに関連のあるものをすべて残りくまなく、マリアのもとに持ってくるとき、この良き母はそれで何をなさるのでしょうか。それは昔レベッカが、ヤコブが自分のところに持ってきたニヒキの子ヤギに対して、したのと同じことを、マリアもなさるのです。すなわち、
(a)マリアは、それ(身体と霊魂)を霊的に殺し、古いアダムの生命に死なすのです。
(b)身体と霊魂から、これまでつけていた皮をはぎ取ります。つまり、自然の傾向、自愛心、我意、被造物へのあらゆる執着―という名の皮を、はぎ取るのです。
(c)身体と霊魂を、いっさいのけがれ、欠点、罪悪から清めてくださいます。
(d)身体と霊魂を、神のお口に合うように、また神の最大の栄光となるように、調理してくださいます。どんな料理がいちばん神のお口に合うのか、またどんなことが神の最大の栄光なのか―それを完全に知っている者は、マリア以外にだれもいません。だから、わたしたちの身体と霊魂を、このうえなく、デリケートな神のお口に合うように、また人目にまったくかくされている神の最大の栄光となるように、まちがいなく調理できる者は、マリアいがいにだれもいないはずです。
206.Cこの良き母は、わたしが前に述べた信心の仕方(本書121〜125参照)によって、わたしたち自身とわたしたち自身のクドクとつぐないとのささげ物をお受けになるとすぐ、どうなさるのでしょうか。御母マリアは、わたしたちが今まで着ていた古い服を脱がせ、わたしたちをまったくご自分のものにし、さらにわたしたちを、御父のみまえに出るのにふさわしい者としてくださるのです。
(a)御母マリアは、わたしたちに新しい服をきせてくださいます。
それは長男エザウの晴れ着、すなわち御子イエズス・キリストという名の清潔な、高価な、かおりの高い服なのです。
この服をマリアは、ご自分の家に、つまりご自分の権限のもとに、保管しておいでになるのです。
わたしが前に述べた(本書24、25、141参照)ように、マリアは永遠普遍に、御子イエス・キリストのクドクと徳の保管者であり、分配者なのです。だから、マリアはそれを、のぞむ人に、のぞむ時に、のぞむままに、のぞむだけ、お与えになるのです。
(b)マリアは、忠実なしもべの首と手に、殺して皮をはがした子ヤギのふさふさした毛皮を、ぐるぐる巻いてくださいます。すなわち、マリアは、かれら自身の善業のクドクと価値で、かれらをよそおってくださるのです。
なるほど、マリアは、しもべのうちにあるすべてのけがれ、すべての不完全を殺し、死にいたらせるでしょう。だが、そうした中でも、神の恩寵によってかれが取得したすべての善には、ぜんぜんキズをつけません。それを失いもせねば、散らしもしません。
かえって、それをご自分で保管し、そのうえふやしてくださるのです。しもべたちの首と手のかざりとし、力とするためなのです。別のことばで申せば、首にはめられたキリストのクビキをになうのに、かれらを強めるためです。かれらを強めて、神の栄光のため、世の人の救いのために、偉大な仕事をさすためです。
(c)マリアは、しもべたちのこの服と装いに、新しい芳香と、新しい恩寵を与えてくださいます。つまり、しもべたちに、ご自分の服までも着せてくださるのです。
マリアは、ご自分のクドクと徳を、ご自分の忠実なしもべたちにのこす、とご臨終のときに遺言されたそうです。聖徳のかおりの中でなくなった、前世紀のある聖女(マリア・アグレダ)が、このことを、まぼろしをとおして知ったのです。
そんなわけで、聖母の家の者はみな、その忠実なしもべも、その愛のドレイも、御子イエズス・キリストの服と聖母マリアの服との、ふたかさねの服を着ているのです。
「彼女の家の者はみな、ふたかさねの服を着ている」(格言31・21)。
だからこそ、聖母の家の者は、雪のように純白なイエズス・キリストの寒冷を、すこしも恐れません。これに反して、イエズス・キリストと聖母マリアのクドクを身につけず、素っ裸になっている亡びの人たちは、キリストの寒冷をがまんできないでしょう。
207.Dいよいよ聖母は、ご自分の忠実なしもべに、天の御父の祝福を受けさせてくださいます。かれらは、御父の次男または養子にすぎないのですから、本来ならば長子権を受ける資格がないのだけれど。そこで聖母のしもべは、真新しい、高価な、よいかおりのする例の服装を身にまとい、からだも霊魂もこのうえなくりっぱに整え、自信に満ちて御父のいこいの座に近づきます。御父は御父で、聖母のしもべの声は聞いてもそれが罪びとの声だと、ハッキリわかります。御父は、子ヤギの毛皮でおおわれている手をなでさすります。服装が発散するよいかおりをかぎます。ご自分のお口に合うように、かれらの母マリアが作ってくれた特別料理を、大よろこびで食べます。そしてかれらのうちに、御子イエズスとその御母マリアのクドクと良いかおりを確認して。
(a)聖母のしもべに、二重の祝福をお与えになります。まず“天の露”(創世記27・28)の祝福―すなわち、天国の栄光の種である神の恩寵の祝福。「神はキリスト・イエズスにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって、わたしたちを祝福してくださいました」(エペソ1・3)
次は、“地の肥えたところ”の祝福―すなわち、天の御父は、忠実なしもべたちに、毎日の生活に十分な食糧と必需品をお与えになるのです。
(b)天の御父は、長幼の序列を逆転して、弟分である聖母のしもべたちを、兄貴分である亡びる人たちの支配者にします。しかし、聖母のしもべたちのこの首位権は必ずしも、瞬時に過ぎ去っていくこの世では表面に出ません。なぜなら、この世はしばしば、亡びの人たちの支配下にあるからです。「主よ。悪者どもはいつまで、いつまで悪者どもは勝ち誇るのでしょう。かれらはあなたの民をうち砕き、あなたのものである民を悩まします」(詩篇94・3〜5)。「わたしは悪者の横暴を見た。かれは、おいしげる野生の大木のようにはびこっていた」(詩篇37・55)
しかしそれでも、聖母の首位権はホンモノです。そしてそれは死後の世界で公々然と堂々と発揮されるでしょう。そこでは、聖霊が言っているとおり、善人だけが支配権をもつのです。「義人は国々を治め、民を支配し、主は世々かれらの王となるでしょう。」(知恵3・8)
(c)天の御父は、聖母のしもべたちの人物や持ち物を祝福するだけでは満足せず、なおその上、かれらを祝福する者を祝福し、かれらをのろい迫害する者をのろわれるのです。
B.マリアはかれらを霊肉ともに養ってくださいます。
208.聖母がご自分の忠実なしもべに示してくださる第二のいつくしみは、彼女がかれらの身体と霊魂を、全般にわたって養ってくださるということです。聖母はかれらに前にも申しましたように、ふたかさねの服を着せてくださいます。かれらに、神の食卓の最高料理を食べさせてくださいます。ご自分が、ご胎内で形造った“生命のパン”(ヨハネ6・35)であるイエズス・キリストを食べさせてくださいます。
聖母は智恵の口をかりて、かれらに言われます。「愛する子たちよ。わたしの実でおなかを満たしなさい」(集会書24・19)。すなわち、生命の実なるイエズス― わたしがあなたがたのために、世に生まれさせたイエズスをもって、霊魂をいっぱいにしなさいと。
さらに聖母はかれらに、こうも言っておられるようです。「来て、イエズスという名のわたしのパンを食べなさい。わたしが自分の乳房のしたたりをまぜた、神愛のぶどう酒も飲みなさい」(格言9・5)。「愛する人びとよ。食べなさい、飲みなさい。大いに飲みなさい」(雅歌5・1)
聖母は、いと高き神の賜物と恩寵の保管者であり、分配であられます。だから、それを分配するに当たっては、ご自分の愛する子どもや、しもべを養い育てるために、かれらには優先的に分量をよくし、そのうえ最高のものをお与えになるのです。
聖母のしもべらは“生けるパン”で肥えふとり、清純な処女を大量に作り出す神愛のぶどう酒に酔いしれます。(ザカリヤ9・17参照)。
かれらは、聖母のふところに抱かれます。(イザヤ66・12)。
やすやすと、イエズス・キリストのクビキをにないます。その重みをぜんぜん感じていないかのようです。「わたしのクビキは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11・30)
それもそのはず、聖母が信心の油で、このクビキの重さを減らしてくださるからです。「かれらの重荷はあなたの肩からおり、かれのクビキはあなたの首から離れる」(イザヤ10・27)。
(C)マリアはかれらを導いてくださいます。
209.聖母が、ご自分の忠実なしもべになさる第三番目の善は、聖母が、御子イエズスのみこころのままに、かれらを導いてくださるということです。レベッカは、毎日の暮らしの中で、愛する子ヤコブを導き、ときには良いすすめも与えていました。それは、父の祝福をヤコブの身にひきつけるため、またヤコブが、兄エザウの憎しみと迫害をさけることができるためなのです。
“海の星”でいらっしゃるマリアも、ご自分の忠実なすべてのしもべを、かれらが自分の終着港に無事安着するまで、保護し導いてくださいます。聖母はかれらに、永遠の生命にいたる道を示してくださいます。危険な横道に迷い込まないように指導してくださいます。お手づから、“神と義の小道”(詩篇24・3)にみちびいてくださいます。
かれらがまさに倒れようとしているときは、ささえてくださいます。倒れたときには、立ち上がらせてくださいます。いけないことをしたときには、やさしく忠告してくださいます。ときには、愛のムチを加えることすらあります。
子供のように、聖母にすなおに従っている人が、天国への旅の途中、道に迷うことがあるのでしょうか。「聖母に従ってさえいれば、絶対に道に迷いません。」と聖ベルナルドが言っています。マリアの子どもは悪霊にそそのかされて、異端におちこむ心配はありません。マリアのみちびきの手がある処には、いかなる悪霊もその奸策も、いかなる異端者もその巧知も、ぜったいにわり込む余地がありません。聖ベルナルドが言っていますように、「聖母に支えてさえいただけば、絶対に倒れる心配はないのです。」(Mis17)
(D)マリアはかれらを守り保護してくださいます。
210.聖母が、ご自分の子どもや、忠実なしもべにしてくださる第四番目のいつくしみは、聖母がかれらを、敵から防御し保護してくださるということです。レベッカは、絶え間ない配慮と巧妙な智恵で、あらゆる危険からヤコブを守りとおしました。ちょうどその昔、カインがアベルにしたように、兄のエザウも憎みとネタミから、ヤコブのいのちをねらっていたのです。レベッカはとりわけ、この死からヤコブを守ってあげたのです。
救われる人びとの良き母であるマリアは、「めんどりがヒナを翼の下にかばうように」(マタイ23・37)かれらをご保護の翼の下にかくされます。身をかがめてかれらに話しかけ、かれらのあらゆる弱さに共感し、同情してくださいます。ワシやハゲタカの襲撃からかれらを保護するため、「戦闘準備をととのえた恐るべき軍勢のように」(雅歌6・3)かれらのそばにいてくださいます。だれしも、精強な百万の軍隊に守られていると、いかなる敵も恐れないでしょう。いわんや、天下無敵のマリアの忠実なしもべです。マリアの必勝のご保護のもとにある者が、どんな敵を恐れるというのですか。
マリアの忠実なしもべが、あれほどマリアに信頼していたのに、とうとう敵の謀略と物量と戦力に屈してしまった― と言われないために、タッタ一人でも、苦戦におちいっているのをごらんになると、さっそく幾百万の天使を急派して、このタッタ一人のしもべを救ってくださるのです。
(E)マリアは、かれらのために取り次いでくださいます。
211.さいごに、良き母マリアが、ご自分の忠実なしもべに与えてくださる第五番目の、しかも最大の善は、かれらのために、御子イエズス・キリストに取り次いでくださるということです。ご自分の祈りで、御子イエズスのお怒りをなだめ、かれらをかたいキズナで御子と一致させ、この一致の中にかれらをいつまでも保っておくということです。レベッカは、ヤコブを、父の床に連れていきました。お人よしの父イザクは、ヤコブにさわり、ヤコブを抱き、大よろこびでヤコブに口づけします。ヤコブがもってきた、自分の好物の肉料理に舌つづみをうち、すっかり上機嫌になっています。それから、ヤコブの服装から発散するなんともいえないかおりをかぐと、ますます感動して、こう叫ぶのです。
「ああ、これこそは、わが子のかおり
ちぐさの花のみだれ咲く野のかおり
神のめぐみにあふれる」(創世記27・27)
父の心を魅惑したこの“神のめぐみにあふれる野”のかおりこそ、マリアの善徳とクドクのかおりなのです。マリアこそ“神のめぐみにあふれる野”なのです。神なる御父はそこに、選ばれた人びとの初穂となすため、御ひとり子イエズスという名の種をおまきになったのです。
ああ、マリアの忠実な子ども、マリアの良いかおりをくゆらしているマリアの子どもは、「とこしえの父」(イザヤ9・6)と呼ばれるイエズス・キリストにどれほどあたたかく迎えられるのでしょう。ああ、マリアの子どもは、どれほど迅速、どれほど完全に、イエズス・キリストに一致するのでしょう。このことはすでに前述(本書152〜168)のとおりです。
212.そればかりではありません。マリアはご自分の子ども、ご自分の忠実なしもべたちを、ご自分の寵愛で満たし、天の御父から祝福を受けさせ、イエズス・キリストに一致させたあとも、引き続きかれらを、イエズス・キリストのうちに保ち、またイエズス・キリストをかれらのうちに保つように、精を出してくださいます。
マリアはかれらをいつも保護し、かたときもかれらから目を離しません。かれらが神の恩寵を失わないためです。悪魔のおとし穴におちこまないためです。マリアはかれらを、“聖性の充満”から脱落しないようにお守りになります。そして最後まで、聖性の充満のうちに堅忍するように保護してくださいます。すでに(本書173〜179)述べたとおりです。以上が、救われる人と亡びる人の予型の解説です。この偉大な古来の予型は、あまりにも人目にかくされていますが、それでも汲めども尽きぬ神秘を、その中にたたえているのです。
第Y章 この信心が忠実な霊魂にもたらす霊妙ふしぎな効能
第一節 自分自身を適正に知る
213.愛する兄弟よ。わたしがこれから述べようとするこの信心の内面的・外面的実行に、もしあなたが忠実にとどまるならば、あなたはマリアをとおして聖霊がお与えになる光によって、あなた自身の精神的土壌がどんなに凶悪なものか、あなたがどんなに堕落した者か、すべての善をなすに当って、あなたがどれほど無能非力な者かを、手に取るようにわかるでしょう。同時に、ただ神だけが、自然界・恩寵界の唯一の原動者であることがわかるでしょう。
この認識から出る当然の帰結として、あなたは自分自身を軽べつするでしょう。
自分自身のことを考えると、ヘドをはくような嫌悪感を覚えるでしょう。自分自身があのヨダレをたらしてすべてのものを汚染してはいまわる、カタツムリそっくりだと考えるでしょう。または例の毒液でなんでもかんでも有害物にする、ガマみたいな者だと思うでしょう。自分自身が人や動物をだますことしか知らない毒ヘビの同類だと分るでしょう。
さいごに、謙遜なマリアは、ご自分の深い謙遜に、あなたをあずからせてくださいます。その結果、あなたは自分自身を軽蔑するでしょう。そして自分以外のだれも軽蔑しなくなるでしょう。あなたは自分が軽蔑されることを、心から愛するようになるのです。
第二節 マリアの信仰にあずかる
214.聖母はご自分の信仰に、あなたをあずからせてくださいます。聖母の信仰は地上で、すべての太祖、預言者、使徒のそれよりも、またすべての聖人のそれよりも、はるかに大きなものでした。天国で、キリストとともに天地を支配しておいでになる現在、マリアはもう地上での信仰はもっておられません。万物を、神において、光栄のひかりをとおして、はっきりごらんになっているからです。とはいえ、マリアは栄光の天国におはいりになっても、神との合意のもとに、こんりんざい信仰の徳を手放しません。なぜ、天国でも信仰の徳をもち続けておいでになるのかというと、それは“戦う教会”のために、すなわち、ご自分の忠実なしもべたちを信仰に固めるために、それが必要だからです。
だから、あなたが聖母のお気に入れば入るほど、あなたは聖母から、純すいの信仰をめぐんで頂くのです。この純すいの信仰のおかげで、あなたは信心における感覚的な事がらや、異常な現象をなんとも思わなくなります。それは生きた信仰です。愛によって活気づけられた信仰です。この信仰のおかげであなたは、ただ純すい愛の動機によってのみ、行動するようになるのです。
それは岩のように、堅固で不動な信仰です。この信仰のおかげであなたは、暴風雨と迫害のさ中にあっても、毅然として堅固、不変不動であることができるのです。
それは行動的で、万事を見とおす信仰です。この信仰は、ちょうど神秘的な合いカギのようなもので、あなたをイエズス・キリストのあらゆる神秘に、人間の四終(死・審判・天国・地獄)に、さらにまた神のみ心の深奥にまで導き入れてくれるのです。
それは勇敢な信仰です。この信仰のおかげであなたは、神の栄光のため、人びとの救いのために、偉大な事業を敢然と企画し、それを有終の美でかざることができるのです。
さいごにそれは、あなたの燃えてかがやくともしび、あなたの神的生命、あなたのかくされたタカラである神の知恵、あなたの精強な武器ともなるべき信仰なのです。あなたはこの信仰のともしびをかざして、やみと死のかげにいる人びとを、あかあかと照らし出すのです。宗教に無関心で冷淡な人びと、愛を必要としている人びとを焼き尽くすのです。
罪によって死んでいる人たちを、再び生命によびもどすのです。あなたの優しくも力づよいことばによって、石のようにかたい人びとの心に触れ、レバノンの杉のように高慢な人びとの心にも触れて、それを優しくゆり動かし、回心へとさそうのです。
さいごに、この信仰のともしびを高々とかざして、悪魔の攻撃に、救霊のすべての敵に抵抗しなければならないのです。
第三節 純すい愛の恵み
215.“美しき愛”の母であるマリアは、あなたの心から、すべての小心、すべての度はずれた恐怖心を除いてくださいます。マリアはあなたの心を大きく開いて、神の子らの聖なる自由をもって、御子イエズス・キリストのおきての道をまっしぐらに走らせてくださいます。またあなたの心の中に、ご自分がその源泉としてもっておいでになる純すい愛を、そそぎ入れてくださいます。こうなると、あなたはもうこれまでのように愛なる神に対して、恐怖心から行動する必要がなくなります。これからは、もっぱら、純すい愛から行動するゆになるのです。
あなたはこれからは神を、自分の父親のように考えるのです。神なる父親を、なんとかして喜ばせてあげようと、絶えまなく努力するようになるのです。この神と、息子対父親のように、こころおきなく、対話をかわすようになるのです。もし不幸にも、神に対して何かイケナイことをしたら、すぐに謙遜にゆるしをねがい、神に手をさしのべて助けをもとめ、再び立ち上がって、恐れず心配せず失望せず、神に向かって歩み続けるようになるのです。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/
第四節 神と聖母へのまったき信頼
216.聖母はあなたを、神とご自分へのまったき信頼をもって、いっぱいにしてくださいます。
@あなたはこれまでとはちがって、自分自身をとおしてではなく、いつも聖母をとおして、イエズス・キリストに近づくようになるからです。
Aあなたは自分のすべてのクドク、恩寵、つぐないを、聖母のみこころのままに処理してくださるよう、聖母にささげ尽くしてしまったのですから、こんどは聖母もあなたに、ご自分の徳を流通し、ご自分のクドクであなたをおおってくださいます。そんなわけで、あなたは聖母のように神に向かって、自信に満ちて、「わたしはほんとうにあなたのはしためです。どうぞこの身に、あなたのおことばどおりになりますように」(ルカ1・38)と申しあげることができるのです。
Bあなたは聖母に、自分のすべてを―身体も霊魂もささげ尽くしました。聖母は、惜みなく与える人に対しては、ご自分も惜みなく与えるかたです。どんなに惜みない人よりも、もっともっと惜みないかたです。だから、聖母もあなたに、おかえしとして、ふしぎな方法で、具体的な仕方で、自分自身をお与えになるのです。
そんなわけで、あなたはあえて、聖母にこう申し上げることができるのです。「聖母よわたしはまったくあなたのものですから、どうかわたしを救ってください。」(詩篇119・94)または、イエズスの愛する弟子ヨハネとともに、「聖母よ、わたしはあなたを、自分の全財産としてお受けいたしました」(ヨハネ19・27)。
さらに、聖ボナベントラとともに、次のように、聖母に申し上げることもできましょう。「わたしの行きづまりを打開してくださる聖母よ。わたしは正々堂々と行動します。何もだれも恐れません。あなたは神のうちにあって、わたしの力、わたしの賛美だからです。・・・わたしはまったくあなたのもの、わたしのもっているものはみな、あなたのものです。ああ、すべての造られたものの中でいちばん祝福された、栄光にかがやく聖母よ。わたしは自分の心の上に、あなたのしるしをきざみつけたい。
あなたの愛は死よりも強いからです」
さらに詩篇作者と同じ気もちで、神にこう申し上げることもできましょう。
「主よ。わたしの心は誇らず、わたしの目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、くすしいことに、わたしは深入りしません。それでもわたしはまだ、けんそんではありませんが、幸い神と聖母への信頼のおかげで、わたしのたましいは立ち上がり勇気づけられました。わたしは幼な子のように、地上の快楽から遮断され、母のふところを唯一のよりどころとしています。母のふところにいさえすれば、わたしはすべての善で満たされるからです」(詩篇131参照)。
Cあなたは聖母への信頼を、ますます深めてゆくのです。あなたは自分がもっている良いものをみな、保管してくださるようにと、聖母におささげしたのですから、これからはもう、自分のもちものには気をつかわないで、ますます聖母にたのむようになるのです。聖母こそあなたのタカラだからです。
神は、ご自分のいちばん貴重なタカラを、聖母のうちに集積しておいでになります。神のこのタカラこそ、自分のタカラでもある、といえる霊魂は、どんなにしあわせなのでしょう。ある聖人が言っているように、「マリアこそ、神のタカラなのです」(レイムンドス・ヨルタヌス)
第五節 聖母はご自分のたましいと精神を交流してくださる
217.“主をあがめる”ため、マリアのたましいが、あなたと交流されるのです。
“救い主なる神を喜びたたえる”(ルカ1・47)ため、マリアの精神が、あなたの精神と入れかわるのです ― もしもあなたが、この信心の実行に、あくまで忠実にふみとどまるなら。聖アンブロジオも、おなじことを言っています。「どうか、主をあがめるため、信者ひとりひとりのうちに、マリアのたましいが臨場していますように。どうか、救い主なる神を喜びたたえるため、マリアの精神が、ひとりひとりのうえに現存していますように」(ルカによる福音の解説U・26)。
マリアにスッカリ浸透し尽くされていたある聖なる人物(リゴリュック師)が言っていますように、このようにしあわせな時代は、いつ訪れるのでしょうか ― マリアが人びとの心の中に女王として臨み、こうしてかれらが全面的に、キリストの支配に服する時代はいつやってくるのでしょうか。いつ、人びとの心は、ちょうどからだが空気を呼吸するように、マリアを呼吸するようになるのでしょうか。そうしたしあわせな時代が訪れたら、このはかない地上にも、神の霊妙ふしぎなみわざがおこなわれるのです。すなわち、聖霊は、ご自分のきよき妻マリアが、人びとの心の中にいわば再生しているのをごらんになって、そこにあまくだり、恩寵界の霊妙ふしぎなみわざをおこなうために、かずかずの賜物、とりわけ知恵の賜物をもって、人びとの心をいっぱいにしてくださるのです。
愛する読者よ。こうした幸せな時代、こうしたマリアの世紀は、いつやってくるのでしょうか。それが訪れたとき、マリアによって神から選ばれた多くの人は、自分自身の内面の深奥において自らに死に、こうしてマリアの生き写しとなり、マリアとともにイエズス・キリストを愛し、ほめたたえることができるのです。
こうしたしあわせな時代は、わたしが今述べている信心をよくさとり、よく実行した直後にやってまいります。「神よ。あなたの御国が地上に来ますため、まずマリアの御国がわたしたちの心の中に来ますように」
第六節 霊魂はマリアにあって、イエズス・キリストのかたちに変容する
218.わたしが述べている信心の忠実な実行によって、“生命の木”と呼ばれているマリアがもし、あなたの霊魂の畑で、十分つちかわれていますなら、この生命の木は実のりの季節がくると、イエズス・キリストという名の実を確実にむすんでくれます。イエズス・キリストをさがし求めている多くの人びとのことを、わたしはよくぞんじております。ある者はこの道こそ信心業によって、他の者はあの道あの信心業によって、それぞれイエズス・キリストをさがし求めています。
だが、どうしたものか、かれらはあまりにしばしば、夜どおし働きつづけたあと、口ぐちにこう言っているのです。「わたしは夜どおし働きましたが、何ひとつとれませんでした」(ルカ5・5)。なるほどこんな調子では、「あなたがたは、働き損のクタビレもうけです」(ハガイ1・6)と言ってひやかされるのも当然です。
イエズス・キリストの生命がまだ、あなたの霊魂の中では、本当によわよわしいのです。だが、、失望は禁物。マリアという名のけがれなき道を通れば、またわたしが今述べている信心を実行しさえすれば、あなたは夜間ではなく、昼間、働くのです。神聖な場所で働くのです。わずかばかり働くだけでいいのです。
マリアには、夜はありません。無原罪のマリアには罪もなく、ひとかけらの影さえないからです。マリアは、神の聖使です。いいえ、神の至聖所です。ここで人は、聖人に形造られるのです。聖人の型に、はめこまれるのです。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/219/P258
どうか、わたしの言うことを、まじめにとってほしい。聖人たちは、マリアにおいてこそ、聖性の型に、はめこまれるのです。肖像を金ヅチとノミでつくるのと、鋳型でつくるのとは、その製作工程において、格段のちがいがあります。第一の方法(金ヅチとノミ)ですと、彫刻士や肖像製作者は、たくさん働かねばなりません。時間も、たくさんかかるのです。しかし、第二の方法(鋳型に流し込む)ですと、手間がすいぶんはぶけますし、時間もわずかですむのです。
聖アウグスチノは、聖母マリアのことを“神の鋳型”と呼んでいます。「聖母よ、あなたは本当に、神の鋳型と呼ばれる資格がございます。」なるほど聖母マリアは、ご自分という名の鋳型で“神”をつくりだすお方なのです。「わたしヤーヴェは言った、おまたちは“神”だ」(詩篇82・6)。この神的鋳型に流し込まれる者はすぐ、イエズス・キリストのかたちにつくられ、イエス・キリストもまた、この人のかたちにつくられるのです。しかも、わずかの労力、わずかの時間で、そうなるのです。なぜなら、わたしたちは、まことの“神”を形造ったおなじ鋳型に、流し込まれるのだからです。
220.わたしが述べる信心いがいの信心業で、イエズス・キリストを自分のうちに、またはほかの人のうつに形造ろうとしている熱心家がいます。この人たちは自分の才能、自分の努力、自分のウデに、満々たる自信をもっている彫刻家にたとえることができます。荒い石塊や、でこぼこの木片に、金ヅチやノミを、万べんなく当てて、それにイエズス・キリストのかたちをきざみ込もうとしています。だが、ときとしては、イエズス・キリストの本来の姿を、そこに再現するのに失敗することもあります。イエズス・キリストの人物をあまりよく知らないか、また仕事のしそこないからか、できあがった作品をみると、どうも失敗作です。
しかし、わたしが提唱する恩寵の秘けつを体得している人は、ちょうど鋳物師のようなものです。この人たちは、マリアという名の鋳型をもっているのです。この鋳型の中でこそ、イエズス・キリストは、神の特別の働きによって、神でありながら同時に人間として、形造られたのです。かれらは自分の才能や努力には全然信用をおかず、ただただ、マリアという鋳型の慈悲にたよって、イエズス・キリストの生き写しとなるため、自分自身をマリアのうちに投じ、そこで自己分解してしまうのです。
221.ああ、これはなんと美しい、なんとすばらしいたとえなのでしょう。だれか、このたとえの本当の意味を理解している者はいないものか。
愛する兄弟よ。愛する読者よ。あなたこそ、その人であってほしい。だが、マリアという鋳型に投じられる者は、溶解した液体だけだということを忘れてはなりません。すなわち、マリアのうちにあって新しいアダム(イエズス・キリスト)となるために、あなたのうちにある古いアダムを破壊し、溶解して液化せねばならないのです。
第七節 キリストの最大の栄光のために
222.わたしが提唱するこの信心を、もし忠実に実行するなら、あなたはわずか一ヵ月の間に、ほかのものとむずかしい信心業を数ヵ年の間実行するよりも、はるかに大きな栄光をイエズス・キリストに帰することができるのです。そのわけを次に申し上げます。
@この信心の流儀にしたがって、あなたが何かの行いをなすとき、あなたは自分自身の意向と行い(それが善良でまた自分にハッキリ分かってはいても)を、まったくうち捨てて、聖母のご意向と行ないのうちにそれを、いわば自滅さすのです。聖母のご意向が何であるかが、自分にはぜんぜん分からなくてもです。こうしてあなたは、聖母のご意向の崇高さにあずかることができるのです。
聖母のご意向は、このうえなく純潔でしたから、わずかな行ないをもって、神にこのうえない栄光を帰していたのです。たとえば聖母が糸をつむぐとか、針仕事をなさるとか、こうしたささいな行いでも、聖ローレンシオがアブリコの上で生きながらからだをジリジリ焼かれる残酷な殉教よりも、またはすべての聖人たちのすべての英雄行為よりも、はるかに大きな栄光を神に帰したのです。
そんなわけで、地上生涯のあいだ聖母は、かぞえ尽くせないほどの恩寵とクドクをお積みになったのです。聖母の恩寵とクドクをかぞえるよりはむしろ、大空の星、大海の水滴を、浜べの砂つぶをかぞえるほうが、もっとやさしいくらいです。こうして聖母は、すべての天使、すべての聖人が過去・現在・未来をとおして、神に帰したすべての栄光よりも、はるかに大きな栄光を神に帰されたのです。
ああ、マリアの驚嘆すべき偉大さよ。だが、しかし、聖母よ。あなたのうちにまったく自分自身を滅ぼし尽くす霊魂の中でなければ、さすがのあなたもこの偉大な恩寵のみわざを、おこなうことがおできになりません。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P296
257.内面的信心業の実行を、次の四つのことばで集約します。すなわち、すべての仕わざを「マリアによって」、「マリアとともに」、「マリアのために」する、ということです。
なぜ、そうするのかと申しますと、そうすることによって、わたしたちのすべての仕わざを、「イエズスによって」、「イエズスとともに」、「イエズスのうちに」、「イエズスのために」、いっそう完全に、果すためです。
第@項すべての仕わざを“マリアによって”する
258.@すべての仕わざを「マリアによって」、しなければなりません。別のことばで申せば、万事において、マリアに従わねばなりません。万事において、マリアの霊にみちびかれて行動せねばなりません。マリアの霊は神の聖霊です。「神の聖霊にみちびかれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8・14)。マリアの霊にみちびかれる人こそ、マリアの子どもです。だから当然神の子どもなのです。前に述べた(本書29〜30)とおりです。
マリアのしもべは、数からいって、たいへん多いのです。だが、マリアの霊にみちびかれる人だけが、マリアの本当の忠実なしもべです。マリアの霊は、神の聖霊である、と今さき申しました。マリアは、自分自身の霊にみちびかれて行動したことは、いちどもなかったからです。マリアはいつも、神の聖霊にみちびかれていましたので、神の聖霊がマリアのうちで、マリアの主人となり、こうしてマリアの霊そのものとなりきってしまったのです。
だから、聖アンブロジオ司教が、次のように言っているのです。「どうか、主をあがめるため、マリアのたましいが、信者ひとりひとりのうちにありますように。どうか、神を喜びたたえるため、マリアの霊が、信者ひとりひとりのうちにありますように」(本書217)。
聖徳のほまれ高い、イエズス会のロドリゲス修道士の手本にならって、柔和で剛毅、熱烈で慎重、謙遜で勇敢な、マリアの霊にまったく浸透され導かれる人は、どれほどしあわせでしょう。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P306
ここで霊魂が、イエズス・キリストの姿に形造られ、またイエズス・キリストも、この霊魂の姿に形造られるためです。なぜなら、教父たちが言っているように、マリアのご胎こそ、「神の密室」であって、ここでこそ、イエズス・キリストをはじめとして、すべての選ばれた者が形造られたからです。「だれもかれもがここで生まれました」(詩篇87・5)。
第C項 すべての仕わざを“マリアのために”する
265.さいごに、すべての仕わざを“マリアのために”しなければなりません。
なぜなら、マリアへの奉仕に自分自身のすべてをささげ尽くしたからには、とうぜん、しもべのように、ドレイのように、すべてをマリアのためにしなければならないからです。イエズス・キリストだけが、わたしたちの最終目的なのですから、聖母を最終目的として彼女に奉仕してはいけません。ただ、イエズス・キリストに達するための手近かな目標として、神秘の場として、また容易な手段として、マリアに奉仕しなければならないのです。そんなわけで、いやしくもマリアのしもべたる者は、手をこまねいて、ぶらぶらしていてはなりません。反対に、この神の御母のために、そのご保護にささえられて、なにか偉大なことをしようと、それを企画し実行しなければなりません。具体的にいえば、こうです。―聖母の特権が論議のマトとなっているとき、それを擁護するのです。もしできれば、すべての人を、聖母への奉仕に、聖母への真の堅実な信心に、呼び集めるのです。御子イエズスを侮辱するため、聖母への信心を悪しざまにいう人たちに対して、はげしい舌戦と文書戦を展開することです。同時に、敵の攻撃に触発されて、聖母マリアへの真の信心を、ますます強化拡大するのです。
これらの小さな奉仕に対して、わたしたちしもべが、聖母におねがいできる報酬は、どんなものでしょうか。それは、わたしたちがいつまでも、この愛すべき御母のものであるという名誉をもち続けることのできるお恵み―ただこれだけなのです。聖母によって御子イエズスに、すでにこの世から永遠にわたって、解くことのできないキズナで一致させていただく栄光だけなのです。
マリアにおいてイエズスに栄光あれ
イエズスにおいてマリアに栄光あれ
いと高き神ひとりに栄光あれ
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P312
次に、御子にこう申し上げます。―イエズスさま。わたしは自分の無駄な、悪いことばのため、またあなたへの不忠実な奉仕のため、あなたをお受けする資格はございません。しかしそれでも、わたしをあわれんでください。これからあなたを、あなたご自身のお母さまであり、同時にわたしの母でもある「マリアの家」に、ご案内いたしたいのです。あなたが、御母マリアの家に住んでくださるまでは、絶対にあなたを放しません。「わたしは、あなたを引き留めて、行かせません。わが母の家にあなたを連れて行き、わたしを産んだ者のへやに、あなたがはいるまでは」(雅歌3・4)。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/273.
もしあなたが十分内的な人で、自分自身を捨てているなら、またわたしがこれまで述べてきた、聖母へのまことの信心に忠実であるなら、聖体拝領のあと、聖霊はあなたに、かずかぎりない良い考えを霊感させてくださいます。
次の事実を、けっして忘れてはいけません。すなわち、聖体拝領のさい、あなたがマリアに、お望みのままに行動させるなら、それだけイエズスも、栄光をきせられるのです。また、あなたがますます深く謙遜すれば、それだけあなたもマリアに、ますますイエズスのために行動させるのです。またイエズスもマリアのうちにますますお働きになるのです。聖体拝領のさい、あなたはマリアのお働きも、イエズスのお働きも、全然感知しなくてもいいのです。それが目にみえなくても、心で味わえなくてもいいのです。義人はどこでも信仰によって生きるのです。とりわけ聖体拝領において、そうなんです。聖体拝領こそ信仰の行為だからです。「義人は、信仰によって生きる」(ローマ1・17)。