『聖母マリアへのまことの信心』 

1.

聖グレニョンド・モンフォール著

山下房三郎(トラピスト会司祭)訳

愛心館

 

『聖母マリアへのまことの信心』2.

グリニョン・ド・モンフォール

 

 

 

巻頭言

 

 神はマリアの協力をえて、世の終りにそなえて、偉大な聖人を大量に送り出さねばならないからです。これらの偉大な聖人は、聖性の高さにおいて、他の尋常な聖人よりも抜群でなければなりません。ちょうどレバノンの糸杉が、他の杉よりも飛び抜けて巨大なように。このことは、ある無名の聖者に、神から啓示されました。これらの偉大な聖人は、恩寵と熱心に満ちあふれ、神の敵と戦うために、神から特に選抜された勇士です。この勇士らに向って、神の敵どもは四方八方から襲いかかるのです・・・。(本書47〜48)

 

 

巻頭言

 

 すべての民に及ぶ大きな喜びを

  あなたがたに告げ知らせる

 きょう ダビドの町に

  あなたがたのために

 救い主がお生まれになった、すなわち

 主キリストである

 

         (ルカ2・10)

 

 

はしがき

 

 読者のみなさま、あなたの手に入ったこの小さな本は、宝であります。しかも、かくれた宝であります。その宝は、聖霊の神秘的な働きによってあなたに知らされました。実はマリア御自身があなたを選ばれ、あなたの手の中に、この本を納められたのです。

 最近誤った神学的な考え方によって、次第にマリア様に関する講話も少なくなり、聖職者の中にも、信者の中にも、マリア様に対する信心が非常に冷たくなったのではないかと思います。しかし、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世の教令・教書によって、マリアにたいする信心、つまり、神学に基づく信心の時代になりました。

聖グレニョン・ド・モンフォールのこの本は、教会のマリアに関する神学のテキストであります。マリア様を知りたいですか、どうぞこの本を読みなさい、とすすめたいのです。

「この母にこの子あり」という諺の通り、イエズス様を知ったものは、どうしてもその母親をも知りたいと思います。と同時に、母を知りながら子もよく知っておきたいという事も言われます。「マリアへの、まことの信心」は神の御摂理の計画の中に聖母マリアの役割りが明らかに表れますし、又、あなた自身も母マリアの子として正しい信心とは何かを、この本をゆっくり読みながら黙想すれば、子としての務めが何であるかわかるのではないかと思います。

 新しい聖霊降臨の時代に向って、最後のときの使徒職者が生み育てられることになるでしょう。したがって使徒職者を養成するために、大へんふさわしいテキストではないかと思います。マリア様に対する信心が深くなりますと、御子イエズスに対する信心も深くなりますし、イエズス様を愛してしまったものは何とかイエズス様を知らせたい、イエズス様に愛されたいと思うようになるのではないでしょうか。マリアのどれいになった者は幸いな人です。熱心さをもって、御国のために一生けんめいに働くことになるでしょう。

 最後の言葉としてもう一つのことをお願いしたいと思います。聖母のまことの信心を読んで、素晴らしい本であるとお考えになりましたら、どうか、ふさわしい人にこの本を配るようにおすすめします。

 

1980年1月19日

「愛と光の家」  アラン・ケヌエル神父

 

 

P324

訳者あとがき

 

 この本の著者は、聖ルイ・マリ・クリニョン・ド・モンフォ−ル( Saint Louis Marie Grignion de Montfort )です。

 かれは1673年1月31日、フランス、ブルターニュ地方のモンフォール・ラ・カンで生まれ、1716年4月28日サン・ローラン・シュル・セーブルで、四十三才で亡くなっています。

 1685年、レンヌ市のイエズス会経営のトマス学園で、中等教育を受け、1693年秋、司祭職への招きを意識してパリへ出発、神学予備校ともいうべきクロード氏の私塾で勉強。1695年、サンスルピ大神学校に入学。かたわら、ソルボンヌ大学神学部に、聴講生としてかよっています。頭はいいし、その上たいへんな勉強家で、当時すでに霊性生活にかんする本は殆ど読破。1700年6月5日、二十七才で司祭に叙階されています。

 海外宣教を志し、まずカナダ行きを願い出ましたが、上長から許してもらえず、1701年夏から、ナント教区で信徒司牧を開始。同年秋、ナント市立総合病院のチャプレンに就任。病める者、貧しき者、どうにもならない者との出合いによって、キリストの福音の精神を体得しています。

 1706年、かれ独特の福音宣教のため、教会当局からの圧迫により病院のチャプレンを辞任、ローマへ巡礼。同年6月6日、時の教皇クレメンス十一世に単独面接をねがって許可され、東洋布教への派遣をねがい出ましたが許されません。教皇はかれに、フランスにとどまって、国内布教に専従するよう勧告。同時に教皇は、ド・モンフォール神父の悲願であり司牧目標である「洗礼の約束の更新によるキリスト教精神の刷新」運動を正式に承認され、かれに、“聖座直属宣教師”という肩書まで与えておられます。

 それに勇気づけられたド・モンフォール“宣教師”は、すぐにフランスに帰り、全国の教区でモーレツな国内布教を展開しています。とりわけ、同志を糾合して、聖母信心を主旨とする使徒職を組織したり、修道会を創立。宗教改革によってひきおこされた、キリスト教生活の退潮を聖母信心によって、既往にもどすことに専念しています。

 さて、この本の原稿(聖ド・モンフォールの直筆原稿)が、発見されたのは1842年です。だから、著者が亡くなってから126年目です。すでに著者が、本書の114で予言していますように、この本の原稿は長い間、悪魔の憎悪とネタミと妨害によって、倉庫の片すみの“やみと沈黙とホコリ”の中に、置き忘れられていました。その間、フランス大革命があってド・モンフォール神父の遺品がみな、官憲によって没収されました。

 官憲が到着する前、だれかが、聖人の直接原稿をどこかに持ち去って、そこに隠匿したらしい。発見場所は、聖ド・モンフォ−ルがそこで亡くなったローラン・シュブル・セーブルの教会(大天使ミカエル教会)に隣接した、畑の小屋の中です。1842年4月29日でした。だから、この原稿は約130年間、フランス大革命やその他教会迫害のあらし(つまり悪魔の地上制覇)が一段落するまで、ここに隠されていたのです。

 本書の訳者は、厳律シトー・トラピスト会の修道僧ですが、トラピスト会はもともと、その会憲に明記しているとおり、“天地の元后・聖母マリアの栄誉のために”建てられたものです。だから、“ナザレのマリア”の生活のように、トラピストの一日は、聖母への賛美と祈りで始まり、続行し、終わります。“サルベ(SALVE)を歌って、一日のお恵みを聖母に感謝し、お告げの祈りをとなえて床につきます。

 こうした聖母の子どもの生活ほど、しあわせなものはありません。このしあわせを、読者のみなさんと分かち合いたいために、この本を邦訳出版して、お手元におとどけする次第です。

 1978年  聖母月  灯台の聖母トラピスト大修道院にて   山下房三郎

 

(訳者注。聖ド・モンフォールの直接原稿には、ナンバーは打ってありません。編集者と出版社が便宜上つけたものです)

 

 

 

 

 

 

 

 

第T章 聖母への信心の必要

第1節        マリアの偉大さ

 

1.マリアをとおしてこそ、イエズス・キリストは、この世においでになりました。だから、おなじくマリアをとおしてこそ、イエズス・キリストは、この世を支配せねばならないのです。

 

 

2.マリアは、この世では、まったくかくれて生活されました。そのため、聖霊からも教会からも“アルマ・マーテル”すなわち“かくれた母”と呼ばれておいでになるのです。マリアは、たいへん謙遜な方でした。マリアが、地上で燃やしておられた最大の、絶えまない情熱は、自身からも全被造物からも、まったくかくれることでした。神にだけ知られるためです。

 

 

3.マリアは、神に、できるだけ自分をかくしてくださるように、できるだけ自分を、貧しく卑しくしてくださるようにと、熱心に祈っておられました。だから、神も喜んで、ほとんど全ての人の目から、マリアをおかくしになったのです。マリアが、母の胎にやどされたときもそうです。誕生のときも、毎日の暮らしの中でも、マリアにかかわりのあるキリストの奥義においても、復活のときも、被昇天のときもそうです。両親にしてさえも、自分らの娘なのに、マリアのことが、全然わからなかったのです。天使たちは天使たちで、マリアをつらつらながめては、しばしば互にささやき合ったものです。「あの女は、どんなかたですか」(雅歌3・6)

それほど神が、マリアを、全被造物の目から、おおいかくしておいでになったからです。むろん、神はときたま、マリアの御姿を被造物に、ホンのすこしばかり、かいま見せることもありました。しかしそれとても、マリアを、ますますかくしたいご意向から、そうなさったに過ぎないのです。

 

 

4.全被造物の目から、自分をかくしたい、とのマリアのねがいにこたえて、神なる御父も彼女に、一生のあいだ一度も、すくなくとも人目をひくような奇跡はおこなわれませんでした。マリアが、奇跡を行なうカリスマを、じゅうぶん持ち合わせていたにもかかわらず神なる御子も、マリアには、人前でほとんど、お話しをさせませんでした。彼女には、ご自分の神的知恵を、あふれるほど、与えておられたにもかかわらず。

神なる聖霊も、使徒や福音記者に、マリアにかんしては、ホンのわずかしか、記録させませんでした。しかも、人びとにイエズス・キリストを知らせるため、マリアのご登場がどうしても必要な場合に限り、そうさせたのです。マリアが、ご自分のいたって誠実な妻であったにもかかわらず。

 

 

5.マリアは、芸術作品でいえば、神の傑作です。神だけが、マリアを知り、マリアを独占しておいでになるのです。マリアは、神の御子の感嘆すべき母です。神の御子は御母マリアのけんそんを、ますます、助成するため、生涯にわたって彼女を低くし、かくすことを喜ばれたのです。彼女を実名ではなく“女の方”という、まるで赤の他人みたいな呼び方で、あしらわれました。

にもかかわらず、心の中では、すべての天使、すべての人にもまして、マリアを尊敬し、マリアを愛しておいでになるのです。

マリアは、聖霊の『閉じた園』(雅歌4・12)です。マリアは、聖霊のいとも忠実な妻です。聖霊だけが、この閉じた園に、はいることがおできになるのです。

マリアは、聖なる三位一体が、お住まいになる聖所です。マリアは、聖なる三位一体のいこいの場所です。マリアという名のこの聖所、このいこいの場でこそ、神は宇宙の他のいかなる場においてよりも、もっと神らしく、もっと素晴らしいのです。ケルビムやセラフィムの上におけるお住まいなど、マリアのそれにくらべたら、テンで問題になりません。異例な特権でも与えられない限り、どんな被造物も、マリアという名の聖所にはいることは許されません―どんなに純潔な被造物であっても。

 

 

6.わたしも、聖人たちとともに言います。―マリアは、新しいアダムであるイエズスが、お住まいになる地上楽園であると。マリアという名のこの地上楽園で、神の御子イエズスは、聖霊のみわざによって、人となられました。そこで、人間の知恵ではわからない、さまざまな霊妙神秘なことをおこなうためです。マリアは、神の偉大な御国、神国である。神はご自分のこの国に、いい尽くせない美と宝を貯蔵しておいでになります。

 マリアは、神の無限の富の所蔵者です。神は、マリアのうちに、御ひとり子をかくしておかれました。ちょうどご自分のふところにかれを、かくしておいでになるように、また神は、御ひとり子のうちに、もっともすぐれたもの、もっとも貴重なものを秘蔵しておいでになります。

 ああ、全能の神は、どれほど偉大なこと、どれほどかくれたことを、この賛嘆すべきマリアのうちにおこなわれたのでしょう。マリア自身、そのふかい謙遜にもかかわらず、そのことを正直に告白せねばならなかったのです。―「全能の神が、わたしに偉大なことをしてくださいました」(ルカ1・49)。世界は、マリアのこの“偉大なこと”を、ちっともわかっていません。それを理解することもできねば、それにふさわしくもないからです。

 

 

7.聖人たちは、神の聖なる都であるマリアについて、たいそうりっぱなことを言っております。みずからそう白状していますように、聖人たちはマリアについて話す時が一番心が燃え、うれしくもあり、雄弁でもあったのです。(聖ベルナルド「聖母の被昇天についての説教」4)聖人たちは、そう白状したのち、異口同音に次のように絶叫するのです。

 神の王座までとどくマリアのクドク(功徳)の高さは、だれも見きわめることはできません。広大無辺の宇宙よりも広いマリアの愛は、だれもはかり知ることができません。神ごじしんにまで圧力をかけるマリアの勢力の偉大さは、だれも理解することはできません。さいごに、マリアの謙虚さ、マリアのすべての美徳、マリアのすべての恩寵の深さはだれもおしはかることができません。

 ああ、人間の理解をこえる高さよ。

 ああ、人間のことばではいい尽せない長よ。

 ああ、はかり知れない深いふちよ。

 

 

8.くる日もくる日も、地球のあらゆる地点で、天のいと高き処で、大海原の深みで、全被造物はマリアをたたえ、マリアをのべ伝えています。天においては、天使の九つの歌隊が、地においては、あらゆる年齢・あらゆる身分・あらゆる宗教の人びとが、善人も悪人も、地獄の悪魔にいたるまで、いやが応でも、マリアを“しあわせな者”と呼ばねばなりません。真理だからです。

聖ボナベントラ教会博士が言っているように、天国では、すべての天使が絶えまなく、聖母に向って、「聖なるかな、聖なるかな、神の御母にして永遠のおとめマリアよ」と熱烈に叫んでいます。そして、毎日、何千回も、何万回も、「天使祝詞」の前半“めでたし、聖寵満ちみてるマリア”をくり返しています。また、天使たちはマリアに、どうぞ何なりと、ご用事をいいつけてくださいと、ひれ伏しておねがいしています。また、これは聖アウグスチノが言っていることですが、聖なる三位一体の宮廷の侍従長―という要職にある聖ミカエル大天使までがマリアに、あらゆる讃辞、あらゆる栄誉を自らもささげ、またひとにもささげさすことに、最大の情熱をそそいでいます。

 聖ミカエル大天使は、マリアのご命令一下、すぐに、どこへでも、お使いしようと、また部下のだれかにお使いさせようと、いつも待機の姿勢をとっているのです。(申命記10・13/ヘブライ1・14参照)。

 

 

9.全地は、マリアの栄光で満ちています。とりわけ、キリスト教諸国においてそうなのです。キリスト教の国々、地方、教区、都会などでは、マリアを自分らの保護者というタイトルで尊敬し、あがめています。そこでは、たくさんのカテドラルが、マリアの名のもとに、神に献堂されています。マリアをたたえる祭壇のない教会は一つもありません。マリアの不思議なメダイやご絵のおかげで、あらゆる種類の悪が影をひそめ、あらゆる種類の善が得られたということは、どんな町、どんな村でも耳にします。

マリアの栄誉をたたえるために、信心会や使徒職が、数えきれないほど組織されています。マリアのお名前を冠し、マリアのご保護のもとにたてられた男女の修道会が、どれほど多いことでしょう。どれほどたくさんの聖母信心会や、修道会のかたがたが、聖母への讃美を、聖母から頂いたお恵みを、あまねく世にのべ伝えていることでしょう。ちいちゃな幼な子までが、口ごもりながら“めでたし”をとなえているではありませんか。回心を拒否している頑固な罪びとさえ、心のそこでは、聖母への信頼の火ダネを保ち続けているではありませんか。地獄の業火にくるしみもだえている悪魔さえ、マリアを恐れながら、それでも尊敬しているのです。

 

 

10.そんなわけで、だれもが、聖人たちとともに、次の事実を正直に認めないわけにはまいりません。<マリアをどんなにほめたたえても、もうこれで十分だとはいえません>マリアへの賛美、称賛、尊敬、愛、奉仕は、それでもまだ、十分だとはいえません。マリアは、もっと賛美され、ほめたたえられ、尊敬され、愛され、奉仕されねばならないのです。

 

 

11.そんなわけで、聖霊とともに、「王の娘の栄光のすべては内面にある」(詩篇45・13)と言わないわけにはまいりません。別のことばで申せば、天と地がきそってマリアにささげる、あらゆる外面的栄光も、それをマリアが、ご自分の内面において、造物主からいただいている栄光にくらべたら、取るに足らないものです。また、マリアは、王の秘密中の秘密に立ち入ることができないすべの被造物からは、適正に認識され評価されないほど偉大なのです。

 

 

12.こうした中で、わたしたちは使徒パウロとともに呼ばざるをえません。神の恩恵と、自然と、栄光とが共同でおこなった、奇跡の中の奇跡ともいうべきマリアの美しさ偉大さは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの」(1コリント2・9)なのです。子がそうであれば、母もそうである、とある人が言いました。マリアが、どんなに偉大なかたであるかを理解したいのなら、その子イエズスが、どんな方であるかを理解したいのなら、その子イエズスが、どんなかたであるかを理解したらいいのです。ところで、その子イエズスは、“神”です。だから、マリアは“神の母”なのです。だとすると、絶句・合掌あるのみです。

 

 

13.わたしの心は、これまでわたしが書いてきたことを反芻しながら、かってない歓びです。激しく鼓動しています。じっさい、マリアは、今日まで、まだよく知られていません。そのことが、イエズス・キリストがまだ、知られるはずなのに知られていない原因の一つともなっているのです。

マリアが、世の人に知られ、マリアの支配が地上に来た後にこそ、はじめてキリストも、世の人に知られ、キリストの御国もこの世に来るのです。

これはたしかな論理です。キリストを、地上に降誕させたのはマリアです。だから、キリストを、世にかがやかすのも当然、このおなじマリアでなければなりません。

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心

 

第二節        神は御子の受肉の神秘において、マリアを使おうと望まれた

 

14.わたしは、全教会とともに、告白します。マリアは、神のみ手から出た、純然たる被造物ですから、神の無限の稜威(みいず)にくらべたら、一個の原子よりも、もっともちいさいのです。いや、むしろ、無にひとしいのです。神だけが「有って有る者」(出エジプト記3・14)だからです。したがって、神だけが永遠に、だれにも依存しない完全自立、自己充足の存在だからです。そんなわけで、神はご自分の意思を達成し、ご自分の栄光をあらわすためには、マリアを絶対に必要とはしなかったし、また現在でもそうなのです。すべてのことをなさるためには、神はただ“望む”だけで、たくさんなのです。

 

 

15.だが、わたしはいそいで、つけ加えねばならぬと思うのです。神が、ご自分のお造りになったマリアをとおして、ご自分のもっとも偉大なみわざを始め、完成しようと望まれたからには、このやりかたを神は、永久に変えないでしょう。そう信じなければなりません。なぜなら、神は永遠不動の実在ですから、ご自分の意識を変えたり、やりかたを変えたりすることは絶対にありえないからです。(ヘブル1・12参照)

 

 

16.父なる神は、マリアをとおしてでなければ、その御ひとり子を、世にお与えになりませんでした。

旧約時代の聖なる太祖・預言者・聖者たちが、四千年もの間、どんなにタメ息まじりに神におねがいしても、この地上最高のタカラである神の御ひとり子を、地上に降誕させることはできませんでした。

 ただ、マリアだけが、マリアひとりだけが、その力づよい祈りと、そのたかい聖徳とによって、神のみまえに恵みをえて、神の御ひとり子を地上に降誕させることに成功したのです。聖アウグスチノが言っていますように、この世は、神の御子を、御父のみ手から、じかにお受けするにふさわしいものではありませんでした。だから、御父は、この世が、マリアをとおして、御子をお受けすることができるようにとのご配慮から、まずマリアに、御子をお与えになったのです。

神の御子は、わたくしたちの救いのために、人となられました。だがしかし、マリアにおいて、マリアをとおしてこそ、人となられた事実を、ゆめにも忘れてはなりません。

聖霊は、マリアのご胎の中で、イエズス・キリストを形造られました。だが、それはあらかじめ天使を代理に使って、マリアの同意をえてはじめて、そうなさったのです。

 

 

 

17.神である御父は、マリアに、被造物として可能な限りの産み育てる力を、お与えになりました。ご自分の御子とその神秘体のすべての成員を産み出すちからを、マリアにお与えになるためです。

 

 

18.神である御子は、マリアの処女の胎に、天からおくだりになりました。新しいアダムとして、ご自分の地上楽園に、おくだりになったのです。そこで、おもうぞんぶん楽しむため、また恩寵界の霊妙ふしぎなわざを、人目にかくれておこなうためなのです。

 人となられたこの神は、マリアのご胎に閉じ込められることによって、ご自分の自由を見いだしました。おとめマリアから、あちこち持ち運ばれることによって、ご自分の全能を最大に発揮されました。ご自分のかがやきをただ、マリアにだけ示すため、それを地上では他のすべての被造物の目からかくすことにおいて、ご自分の栄光も、御父の栄光も、ともに見いだしました。

 人となられたこの神は、ご自分の降誕のときも、神殿奉献のときも、三十年間のかくれた私生活のときも、ご受難・ご死去のときにいたるまで、いとも愛すべきおとめマリアに、ご自分を従属させることによって、神としての自立独立性と無限の稜威(みいず)の栄光を、最高に現されました。人類救済のこれらの神秘に、マリアは、どうしても参加せねばならなかったのです。キリストがマリアとともに、同一単一のイケニエを御父にささげることができるため、またキリストが、マリアの同意によって、イケニエとしてほふられることができるためなのです。

 ちょうど昔、イザアクが、父アブラハムの、神のみこころへの同意によってほふられたように。マリアこそ、幼な子イエズスに、乳房をふくませ、養い育て、成長させ、おとなにし、ついにわたしたちのために、十字架のイケニエにしてくださったのです。

 ああ、感嘆すべきも、人知に理解しがたい神の従属よ。さすがに聖霊もこの事実だけは、沈黙のやみに葬り去ることができなかったのです。(ルカ2・51)人となられた永遠の知恵が、人目にかくれた三十年の私生活のあいだになさった、賛嘆すべきことを、ことごとく、やみに葬り去った聖霊も、この一事だけは、明るみに出されたのです。マリアへのイエズスの従属が、人類救済の歴史において、どれほど価値があり、どれほど価値があり、どれほど栄光があるかを、わたしたちに示すためなのです。

 救世主イエズス・キリストは、人目を見はらせるような奇跡によって、全世界を回心させ、それによって、神なる御父の栄光を現わすこともできたでしょう。しかし、三十年のあいだ、ひたすらマリアに従い、マリアに孝養をはげむことによって、それよりもはるかに大きな栄光を、御父にあたえたのです。わたしたちも、唯一の模範であるイエズス・キリストにならって、神を喜ばすため、マリアに従いマリアに自分を従属させるとき、ああ、どれほど偉大な栄光を、神にきすのでしょう。

 

 

19.イエズスのご生涯の事跡を、たんねんにしらべていくと、イエズスが、マリアをとおして、かずかずの奇跡をおこない始めるのを望まれたことがよく分かります。イエズスは、マリアのことばをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつのことばを述べられるとすぐ、ヨハネはまったく聖化されたのです。これは、恩寵界の最初にして最大の奇跡です。(ルカ1・41)

 イエズスは、カナの結婚披露宴で、マリアのつつましいねがいによって、水を、ぶどう酒に変えてくださいました。これは、自然界での最初の奇跡です。(ヨハネ2・1〜12)イエズスは、マリアをとおしてこそ、ご自分の奇跡をおこない始め、おこない続けられたのです。イエズスは世界終末の夕べにいたるまで、マリアをとおして、奇跡をおこない続けていかれるのです。

 

 

20.神である聖霊は、神の生命のいとなみにおいては不妊です。すなわち、いかなる神的ペルソナをも、生み出すことができません。ところが、そのきよき妻マリアのおかげで、たくさんの子供を生むようになりました。聖霊は、マリアとともに、マリアにおいてマリアからこそ、その傑作の中の傑作ともいうべき、人となられた神を生み出したのです。そのうえ聖霊は、くる日もくる日も、世紀のとばりがおりるまで、天国の予定された人びとを、キリストの神秘体の成員を生み続けていかれるのです。

 そんなわけで、聖霊は、ご自分のいとしい妻、不解消のキズナで結ばれている妻マリアを、ある人のたましいの中に見いだせば見いだすほど、ますますこの人の中に、イエズス・キリストを生み出すように、またこの人を、イエズス・キリストの中に生み出すようにと、さかんに、おはたらきになるのです。

 

 

21.だからといって、おとめマリアが、聖霊に、聖霊が以前に持たなかった産み育てる力を、はじめて与えた、という意味にとってもらってはこまります。

聖霊は、全能の神なのですから、御父や御子のように、産み育てる力、つまり子を生む能力は、潜在的にもっておいでになるのです。たとえそれまでは、この産み育てる力を現実には行使せず、いかなる神的ペルソナをも、生み出さなかったにしても。

 わたしがいいたいのは、聖霊は、おとめマリアの仲だちによって、ご自分が潜在的に持っているこの産み育てる力をはじめて現実に行使して、イエズス・キリストとその神秘体の成員を、マリアにおいて、マリアをとおして生み出した、ということなのです。この仕事のため、聖霊には、マリアが絶対に必要だったわけではありません。ただマリアを使いたかったのです。このことは、キリスト者の大学者にも、霊性の大家にも、なかなか理解しがたい、恩寵界のミステリーなのです。

 

 

 

第三節   神は人間聖化のみわざにおいて、マリアを使おうと望まれる

第@項       三位一体の三つのペルソナは、教会の中で、マリアに対してどんな態度をとっておられるか

 

22.三位一体の三つのペルソナが、イエズス・キリストの受肉のとき、すなわち最初の地上来臨のとき、マリアに対してお取りになった態度は、そっくりそのまま、毎日、目にみえない仕方で、教会の中で継続されています。それは世の終わりまで、すなわちイエズス・キリストの再臨の日まで、継続されていくのです。

 

 

23.神である御父は、地表のすべての水を一か処に集めて、これを“海”と名づけました。おなじように、ご自分のすべての恩寵を一か処に集めて、これを“マリア”と呼びました。この偉大な神は、たいへん高価なタカラ、たいへん豊富なタカラの倉をお持ちです。その内部には、すべて美しいもの、すべて光りかがやくもの、すべて希少価値のあるタカラがドッサリ収蔵してあります。かけがいのない、ご自分の御ひとり子までが、しまってあります。

 この山のようなタカラの倉とは、だれあろう、マリアのことです。聖人たちは、マリアのことを“主のタカラ”と呼んでいます。このタカラの倉のあふれから頂いて、わたしたちは霊的に富者となったのです。

 

 

24.神である御子は、ご自分の母マリアに、ご自身の生と死によってもうけたすべてのもの、すなわち無限のクドク、賛嘆すべき善徳をみなお与えになりました。御父から相続財産としていただいた、すべてのタカラの保管者として、マリアを指名されました。だから、マリアこそ、キリストのクドクを、キリストの神秘体の各成員に流通されるのです。マリアこそ、キリストの善徳を、キリストの神秘体に交流されるのです。マリアこそ、キリストの恩寵を、キリストの神秘体の各成員に分配されるのです。

 そんなわけで、マリアこそ、キリストという恩寵の貯水池の運河です。水道です。マリアという名のこの運河、この水道を使って、キリストは、ご自分のあわれみを、その神秘体の各成員に、静かに、しかし豊富に、お通しになるのです。

 

 

25.神である聖霊は、ご自分の誠実な妻マリアに、ご自分のいい尽くせぬタマモノを流通されました。聖霊はご自分がもっているすべてのタマモノの分配者として、マリアを選ばれました。当然の結果、マリアは、聖霊のタマモノと恩寵を、ご自分が好きな人に、好きなだけ、好きな時に分配されるのです。聖霊はマリアの手をとおさないでは、ご自分のどんなタマモノも人々にお与えになりません。

 なぜなら、これが、神のご意志だからです。神は、わたしたちが、マリアをとおして、ご自分からすべてをもらうことをお望みになるのです。こうして、マリアを富ませ、称賛しマリアに栄誉をお着せになるのです。なぜなら、マリアは一生をつうじて、その深い謙遜によって、暮らしは貧しく卑しく、消えてなくなるほど人目にかくれておられたからです。これが、母なる教会と聖なる教父たちの一貫した見解なのです。

 

 

26.もしわたしが、今日のエライ学者先生がたをあいてに話をしているのなら、以上簡潔に述べたことを、聖書や教父たちに訴えて、もっと長々と議論を勧めていくでしょう。聖書や教父たちの著書から、ラテン語のテキストを引用し、いくつかの堂々たる論拠をごらんにいれることもできましょう。ちょうどボアレ神父が、その著「マリアの三重冠」の中でそうしているように。

 しかし、わたしは、とりわけ、貧しい人や、心がすなおな人に向って、話しかけているのです。こういう人たちはみな、善意の人であるから、平均的学者先生よりも、もっと率直に、ひとのいうことを信じるし、したがって、もっと神からごほうびをうけるのです。それでわたしは、こうした単純素朴な読者に、ただ真理を提示するだけにとどめます。ラテン語のテキストを引用しても、おわかりにならないのですから、それはやめにします。それでも、すこしばかり引用させていただくこともありましょう。しかし、けっして長たらしい引用はいたしません。(この訳本では、ラテン語のテキストはのせません―訳者)閑話休題。では、先を急ぎましょう。

 

 

27.恩寵は自然を完成し、栄光は恩寵を完成します。だとすると、イエズス・キリストが地上で、マリアの子であったように、天国でもおなじくマリアの子であるということは、たしかな事実です。当然の結果として、イエズス・キリストが、すべての子らの最も完全な従属と服従を、天国でもそっくりそのまま、すべての母親の中の最高の母親マリアに対して、持ち続けておられるということは、これもたしかな事実です。

 だがイエズス・キリストになにか不足があるから、なにか不完全さがあるから、このように、マリアに従属しているのだと考えてはいけません。なぜなら、マリアは、神である御子イエズスよりも、無限におとったお方ですから、世の母親が、自分よりもおとっている子供に命令するとおりに、御子イエズスに命令するわけにはまいりません。マリアは、天国のすべての聖人を神に変容させる恩寵と栄光によって、ご自分もスッカリ神に変容し尽くされておいでになるのです。だから、神の永遠不動の意志に反することはひとつとして望むこともできねば、することもできないのです。

 そんなわけで、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラ・・・などの書き物の中に、天国でもこの世でも、すべてのものが、神さまさえも、マリアに従っている、というような文字が見えても、誤解してはいけません。その真意はこうです。―神が、マリアに与えてくださった権威は、たいへんなもので、そのために、マリアは、神とおなじぐらい権威をもっているかのように思われます。また、マリアの祈りと願いは、神のみまえに、たいそう力があるので、それはいつも神にとっては“命令”とおなじぐらいねうちがあります。神であるイエズスは、ご自分のいとしい母マリアの祈りを、絶対こばむことはできません。マリアの祈りはいつも謙遜で、そのうえいつでも神の意思にピッタリ沿っているからです。

 旧約のモーセは、祈りの力で、イスラエル人への神の怒りの爆発を、未然にふせぐことができました。このうえなく偉大、かぎりなくあわれみ深い神は、モーセの強烈な祈りの攻勢にたじたじ。とうとうモーセに、「わたしをとめるな。このかたくなな民にむかって思うぞんぶん怒らせ、罰さしておくれ」(出エジプト記32・9)と言われたほどです。だとすると、いわんや謙遜なマリアの祈り、このうえなく偉大な神の御母の祈りは、天国と地上のあらゆる天使、あらゆる聖人の祈りと取り次ぎよりも、神のみまえに、どれほどいっそう力があるのでしょう。

 

 

 

28.マリアは、天国で、天使・聖人たちのうえに采配をふるっておいでになります。神は、地上でのマリアのふかい謙遜にむくいるため、反逆の天使たちが高慢によって、そこからつい落した天国の空席を、聖人たちで満たす権能と使命を、マリアにお与えになりました。これが、神の意思なのです。すなわち神は、自分をひくくする者を高くし、自分を高くする者をひくくされるのです。(ルカ1・52)

 神は、天上のものも、地上のものも、地獄のものも、謙遜なマリアの命令に、いやでも応でも服従させるのです。神は、へりくだるマリアを、ご自分の軍団の総指揮者、ご自分のタカラの管理者、恩寵の分配者、ご自分の大事業の現場監督、人類の改造者、人びとの仲介者、神の敵の粉砕者、ご自分の偉大さと勝利の同伴者となさいました。

 

 

 

29.神である御父は、マリアによって、世の終わりまで、ご自分の子どもを次から次へと作りたいのです。それでマリアに、「ヤコブに住まいを定めよ」(集会24・8)とおっしゃるのです。すなわち、ヤコブによってかたどられている、神の子どもたち、救われる人たちの中に、あなたの住いと、いこいの場を確保しなさい。けっしてエザウによってかたどられている、悪魔の子どもや亡びの子どもたちの中に、あなたの住いを定めてはいけませんよ。

 

 

 

30.自然界の誕生、からだの誕生という産み育てる行為には、かならずそこに、父と母とがいなければなりません。同様に、超自然界の誕生、霊的誕生においても、神という御父とマリアという母とがいなければなりません。神の子ども、救われる人は、ひとり残らず、神を父として、マリアを母としてもっています。マリアを母としてもっていない者は、神を父としてもっていません。

 だから、マリアを憎んだり、軽蔑したり、無視したりする異端者や離教者のような亡びの子は、どんなに神を誇りとしていても、神を父としてもってはいません。マリアを母としてもっていないからです。もしかれらが、マリアを母としてもっているなら、世間の子どもが、自分にいのちをあたえてくれた母親を、本能的に愛し尊敬するように、かれらも同様に、マリアを愛し尊敬するはずです。

 異端者、邪説者、亡びる人と救われる人とを見分ける、いちばん確実、いちばん明白なしるしがここにあります。それは、異端者や亡びる人はきまって、マリアをけいべつし、マリアにたいして無関心な態度をとっている、ということです。民衆のマリアへの信心と愛を弱めるため、ことばでも行いでも、陰に陽に、ときには、もっともらしい口実を使って、たいへん活躍している、ということです。この人たちは本当に気の毒です。神である御父は、マリアに、この人たちの中に住まいを定めよ、とはおっしゃいません。この人たちは、エザウの子ぶんだからです。

 

 

 

31.神である御子は、母マリアをとおして、くる日も、くる日も、ご自分の神秘体の各成員の中に形造られようと、つまり受肉しようと望んでおられます。それでマリアに、「イスラエルをあなたの相続財産として受けなさい。」(集会書24・8)とおっしゃるのです。その意味はこうです。神であるわたしの父は、わたしに相続財産として、地上のすべての国民、すべての人を、善人も悪人も、救われる人も亡びる人も、与えてくださいました。救われる人を、わたしは黄金のムチでみちびき、亡びる人を、鉄のムチでみちびきます。わたしは救われる人にとっては、父であり弁護者ですが、亡びる人にとっては、正義の報復者です。そして、救われる人にとっても、亡びる人にとっても、いちように、わたしは審判者なのです。

 しかし、わたしの愛する母マリアよ。あなたは相続財産として、恒久的財産として、イスラエルによってかたどられた、救われる人しか持たないのです。あなたは、救われる人の良いママとして、かれらを産み、養い、育てられるのです。また、救われる人の女王として、かれらをみちびき、おさめ、保護されるのです。

 

 

 

32.聖霊は言っておられます−「あの人も、この人も、彼女から生まれた」(詩篇87・5)。 ある教父たちの解説によりますと、マリアから最初に生まれた人は、神人イエズス・キリストです。次に生まれた人は、養子縁組によって生まれた純潔な人、神とマリアとの子供です。もしも人類のかしらイエズス・キリストがマリアから生まれたのなら、このかしらのからだであるすべての救われる人も、当然の帰結として、マリアから生まれねばなりません。

ひとりの同じ母親が、からだのないあたまだけの子供を産みますか。または、あたまのない、からだだけの子供を産みますか。そうだとしたら、まさに世紀のオバケです。これと同じ理くつで、恩寵の世界においても、かしらとそのからだは、ひとりの同じ母親から生まれるのです。だから、もしもイエズス・キリストの神秘体のある成員が、つまり救われる人が、神秘体のかしらをお産みになったマリアいがいの、他の母親から生まれたとしたら、この人はもはや、イエズス・キリストの神秘体の成員でもなければ、したがって、救われる人でもないわけです。そんな人は恩寵界のオバケです。

 

 

 

33.そればかりでなく、天上のものも、地上のものも、毎日、数えきれないほど、天使祝詞の中で、「また、ご胎の御子イエズスも祝されたもう」と、くり返しくり返し祈っています。イエズスは、いつの時代にもまして、特に今日、マリアのご胎の実、すなわちマリアの胎から生まれた御子なのです。だから、イエス・キリストは、すべての人にとって総括的にそうであるように、ご自分を所有している信者各自にとってはとりわけ、本当の意味で、マリアのご胎の実、マリアの作品なのです。

 そんなわけで、もしも自分のたましいの中に形造られているイエズス・キリストを、所有している信者だったらだれでも、次のように大胆に言うことができるのです。「マリアさまに感謝いたします。わたしが所有しているイエズス・キリストは、マリアさまのご胎の実、マリアの作品です。マリアさまなしには、わたしはイエズス・キリストを、所有することができなかったはずです。」

 さらに、聖パウロが、自分にあてはめて言った次のことばを、もっと真実な意味で、マリアにも、あてはめることができるのです。「わたしの子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、わたしは再びあなたがたのために、産みの苦しみをしています。」ガラテヤ4・19)。すなわち、わたしはくる日もくる日も、神の子どもを産み続けています。わたしの子イエズス・キリストが、かれらのうちに形造られ、おとなの背たけに達するまで、産みの苦しみをしているのです(エペソ4・13)。

 聖アウグスチノは、自分が考えていたことよりも、またわたしが以上述べてきたことよりも、はるかに意味深長な現実をふまえて、次のように言っています。「救われる者はすべて、神の御子の姿に似るために、この世ではマリアのご胎のなかにかくされています。かれはそこで、この良きママから保護され、養われ、胎教を受け、すくすくと成長していくのです。かれらが死ぬと直ぐ、マリアはかれらを、こんどは栄光のいのちに産みます。だから、教会が、善人の死をそう呼んでいるように、かれらの死こそは、まさしくかれらの誕生日なのです。」

 ああ、亡びる人にとっては、まったく知られていない恩寵の神秘よ。

 ああ、救われる人にとっても、わずかばかりしか知られていない恩寵の神秘よ。

 

 

 

34.神である聖霊は、マリアにおいて、マリアをとおして、選ばれた人を形造りたいのです。聖霊はマリアにこう言われます。「選ばれた人びとの中に、根をおろしなさい」(集会書24・12)。わたしの最愛の女よ、わたしの愛しい妻よ。選ばれた人びとの中に、あなたのもろもろの善徳の根をおろしなさい。選ばれた人びとが徳から徳へ恩寵から恩寵へと、成長してゆくことができるために。あなたが、かずかずのけだかい善徳を実行しながら、地上生活をおくっているのを見て、わたしの心は歓びにたえませんでした。

いま、あなたは天国におられる。天国にいながら、同時に地上にも、いてもらいたいものです。どうか、わたしのねがいをかなえて、選ばれた人びとのうちに、あなた自身を再生してください。かれらのうちに、あなた自身の確固不動の信仰を見たいものです。

あなた自身の深いけんそんを、あなた自身の全面苦業を、あなた自身の崇高な祈りを、あなた自身の熱烈な愛徳を、あなた自身の強固な望徳を、あなた自身のあらゆる善徳を見たいものです。見て歓びたいものです。

 マリアよ。あなたは昔も今もいつも、わたしの誠実な妻です。きよらかな妻、子宝に恵まれた妻です。どうか、あなたの信仰がわたしに、たくさんの信者を与えてくれますように。どうか、あなたの純潔がわたしに、たくさんのバージンを与えてくれますように。どうか、あなたのたくましい豊かな産み育てる力がわたしに、無数の選ばれた人を与えてくれますように。

 

 

 

35.マリアがある霊魂の中に、根をおろすとき、彼女はそこに、ご自分だけがおできになる、恩寵の絶妙神秘なみわざをなさいます。マリアだけが、子どもを産む能力をもつ聖処女だからです。純潔の点で、また無数の子どもを産むたくましい産み育てる力の点で、マリアに比肩できる者は、過去、現在、未来をつうじて、ひとりもいないからです。

 マリアは聖霊に協力して、世にもたぐいない、最高の傑作をし上げました。すなわち、神であって同時に人でもあるイエズス・キリストを生んだのです。マリアはひき続き、世の終わりに登場する大人物を生み出していくのです。世の終わりに大活躍を演じる偉大な聖人はみな、マリアから養成され、マリアから教育されるのです。マリアだけが、ただひとり、霊との交わりの中で、世にもたぐいない人物を生み出すことができるからです。

 

 

 

36.マリアの夫である聖霊が、ある霊魂の中に、マリアを見いだすとすぐ、そこに飛んでいき、そこにはいり、この霊魂にご自分を、豊かにお与えになります。聖霊は、この霊魂が、マリアに提供している住まいの場の大きさに応じて、この霊魂にご自分をお与えになるのです。昨今、聖霊は、霊魂たちの中に、人が目を見はるようなみわざをなさっていません。その理由の一つは、聖霊が、霊魂たちの中に、ご自分の誠実な妻、ご自分と絶対に離れることのできない妻マリアとかれらとの、じゅうぶん深い一致を、見いだすことができないからです。“ご自分と絶対に離れることのできない妻マリア”―と、わたしは言います。なぜなら、御父と御子との無限愛である聖霊が、選ばれた人びとのかしらであるイエズス・キリストを生み出すため、またイエズス・キリストを選ばれた人びとの中に生み出すために、ひとたびマリアを、ご自分の妻としたからには、このおなじ聖霊は、マリアを絶対に“離別”しないからです。マリアが、いつも聖霊に対して誠実であり、マリアが、いつも豊かな産み育てる力に恵まれているからです。

 

 

 

 第A項 右の事実から出る諸結果

 

 

1、マリアは心の女王

 

37.わたしが以上述べてきた事実から当然、次のことが結論できます。

第一、マリアは、選ばれた人びとの心に対して、大きな支配力を神から頂きました。もしもマリアが、異例の恩寵によって、選ばれた人

びとの心に対して、神から特別の権限と支配力を頂いていなかったら、神である御父が、彼女にお命じになったように、選ばれた人びとのうちにご自分の住まいを定めることは、とうていできなかったはずです。

選ばれた人びとの母としてかれらを形造り、養い、永遠の生命に産むこともできないはずです。選ばれた人びとを、ご自分の相続財産とすることも、持ちものとすることもできないはずです。かれらをイエズス・キリストのうちに形造り、またイエズス・キリストを、かれらのうちに形造ることもできないはずです。かれらのうちに、ご自分の善徳の根をおろすこともできねば、これらすべての恩寵のみわざにおいて、聖霊の不可欠な協力者となることもできないはずです。

 神はこれらの権能を、ただご自分の御ひとり子であり、実子でもあるイエズス・キリストに対してばかりでなく、ご自分の養子であるすべてのキリスト者に対しても、同様に行使するようにと、マリアにお与えになったのです。それもただ、キリスト者の身体に対してばかりでなく、霊魂に対しても、身体におとらず、行使するようにと、お与えになったのです。

 

 

 

38.イエズスが、生まれながらの権利によって、また征服の権限によって、天地の王であるように、マリアも恩寵によって、天地の女王なのです。さて、「神の国はあなたがたのうちにある」(ルカ17・21)というそのおことばのとおり、イエズス・キリストの御国が、主として人間の心、すなわち人間の内面にあるように、マリアの御国も同様に主として人間の内面、すなわち人間のたましいにあるのです。したがって、マリアは、目にみえるすべての被造物のうちにおいてよりも、目にみえないたましいのうちにおいてこそ、その御子とともに、いっそうはるかに栄光を着せられておいでになるのです。そんなわけで、聖人たちとともに、マリアのことを“心の女王”とお呼びすることができるのです。

 

 

 

二、人間はその終極の目的を達成するために、どうしてもマリアが必要

 

(1)キリスト者には、その身分上の義務を完全に果すために、どうしてもマリアが必要です。

 

 

39.第二の結論は、次のとおり。―マリアは、相対的必要から、つまり神がそれをお望みになるから、神にとって必要な人物です。人びとにとっては、その終局目的を達成するために、マリアはもっともっと必要な人物です。だから、マリアへの信心を、他の聖人への信心と同列に置いてはいけません。マリアへの信心の必要性を値引きしてもいけないし、いわんやそれを余計なものと思ってもいけません。

 

 

 

40.聖アウグスチノ、エデッサの助祭、聖エフレム、エルザレムの聖チリロ、コンスタンチノーブルの聖ゼルマノ、ダマスコの聖ヨハネ、聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖トマス・アクイナス、聖ボナベントラなどの教父たちの意見にもとずいて、学徳円満なイエズス会員スワレズ、おなじく学識と信心に富むルーハン大学のユスト・リプス博士、その他大勢の学者は、マリアへの信心が、救いに必要なことを、だれも抗弁できないほど明確に証明しています。また、これはエコランパジオはじめ、その他の著名な異端者までが明言していることですが、マリアに対して尊敬も愛も持たないということは亡びへの確実なしるし、反対に、全力を尽して、心のそこから信心をする、または献身することは、救いへの確実なしるしなのです。

 

 

 

41.旧約聖書のもろもろの予型も、新約聖書のかずかずの宣言も、右の事実を証明しています。聖人たちの思想も行動も、それを確認し、人びとの理性も経験も、それを納得し、公表しています。悪魔までが、その一味とともに、いやいやながらも、真理の圧力に抵抗しきれないで、右の事実をしばしば告白せざるをえないように仕向けられたものです。この真理を証明する聖なる教父や博士たちの数多い文献の中から、長たらしい引用をさけるため、タッタひとりの教父(ダマスコの聖ヨハネ)の、タッタ一節を左にかかげます。「ああ、マリアよ。あなたへの信心こそは、神が救おうと望んでおられる人びとにお与えになる、救いの武器なのです。」

 

 

 

42.この事実を証明するエピソードは、たくさんありますが、そのうちの二つだけを次にかかげましょう。

a)アシジの聖フランシスコの伝記にあることですが、聖人はある日、忘我の境にあったとき、天までとどく巨大なハシゴを見ました。ハシゴの先端には、マリアさまがいらしたのです。天国にはいるには、このハシゴをのぼらねばならないことが、このマボロシによって示されているのです。

b)もうひとつは、聖ドミニコの伝記に出ています。聖人がカルカンソの町の近くで、ロザリオについて説教していたときのことです。15000匹もの悪魔につかれた、ひとりの気の毒な異端者が聴衆の中にいました。マリアはこの悪魔たちに、ご自分への信心にかんする幾つかの重要な、なぐさめになる真理を、みんなの前で公表するようにと、お命じになりました。仕方がありません。悪魔どもは顔を真っ赤にしながら、それでも力いっぱい、ハッキリと、それをやってのけました。悪魔が仕方なく、マリアへの信心についてやってのけたこの大演説、この大讃辞こそ、マリアに対してあまり信心をしていない人たちにとってさえ歓びの涙なしには聞くことができないほどりっぱなものです。

 

 

 

(2)とりわけ、完徳にあこがれる人たちにとっては、どうしてもマリアが必要です。

 

43.マリアへの信心が、ただ単に救いをえるためにだけでも、すべての人にとって必要だとするなら、まして特別の完徳に召された人たちにとってはなおさらのこと、もっともっと必要になってくるのです。マリアとの親しい一致がなければ、またマリアの助けに完全にすがっていなければ、イエズス・キリストとの親しい一致に達することもできないし、また聖霊への完全な忠実を身につけることもできません。これはたしかです。

 

 

 

44.マリアだけが、ただひとり、ほかのどんな人の助けもかりないで、「神から恵みをいただいたのです」(ルカ1・30)。マリアが、神から恵みをいただいた後、たくさんの人が、おなじように神から恵みをいただきましたが、かれらはみな、ただマリアをとおしてのみ、それをいただいたのです。

 これからいただく人も同じこと、マリアをとおしてはじめて、それをいただくのです。大天使ガブリエルから、ごあいさつのことばを聞いたとき、マリアはすでに「神の恵みに満ち満ちておられました」(ルカ1・28)。さらに、「聖霊が彼女のうえに臨み、いと高き者の力が彼女をおおった」(ルカ1・35)とき、マリアは聖霊によって、ますます神の恵みに満ちあふれました。それ以来、マリアはこの二重の恩寵の充満を、時々刻々、ふやし続けていかれたので、だれも想像できないほど、恩寵の絶頂に到達されたのです。

 だから、神はマリアを、ご自分のタカラの唯一の管理者にし、ご自分の恩寵の唯一の分配者にされたのです。それは、マリアが、お望みの人をきよめ、高め、富ませるためです。マリアがお望みの人に天国への狭い道をたどらせるためです。マリアがお望みの人に、生命への狭き門を、どんなギセイを払っても、くぐらせるためです。こうして、マリアが、お望みの人に、王の玉座と王しゃくと王冠を与えるためです。

 イエズスは、いつどこでも、マリアのご胎の実、マリアの子です。マリアは、いつどこでも、いのちの実を生じる木、いのちの母なのです。

 

 

 

45.神は、ただマリアひとりに、神愛の酒倉のカギをお渡しになりました。ただマリアひとりに、完徳の秘境に分け入る権限を、またほかの人にも分け入らせる権限を、お与えになりました。マリアだけが、不信のエバの子らを、地上楽園に入場させることができるのです。ここでマリアは、この気の毒な子どもたちを、神とごいっしょに楽しく散歩させてくださるのです。敵の攻撃に対して安全地帯であるここに、かれらをかくしてくださるのです。ここで、善悪を知る生命の木の実を、中毒死の恐れなしに、かれらにおいしく食べさせてくださるのです。こんこんと豊かにわき出るきよらかな泉の水を、おなかいっぱい飲ませてくださるのです。マリアこそ、この地上楽園です。

 アダムとエバが、罪をおかしてそこから追い出された、ご自分じしんにほかならないこの処女地、この祝福の楽園には、マリアは、お望みの人しか入場させません。入場者をみな聖人に仕上げるためです。

 

 

 

46.聖ベルナルドの解説にしたがって、聖霊のことばをかりていうなら、マリアよ、「民のうちの富んだ者は」千代に八千代に、とりわけ世の終わりに、「あなたの行為を求めるでしょう」(詩篇45・13)。すなわち、世の終りごろには、もっとも偉大な聖人、恩寵と善徳にもっとも富んだ人たちこそ、もっとも熱烈にマリアに祈るのです。マリアを模倣するため、自分らの完全な手本として、いつもマリアを眼前に見すえているのです。マリアに助けを呼ばわるため、自分らの力づよいパトロンとして、いつもマリアにまなざしをそそいでいるのです。

 

 

 

第四節 世の終りにおけるマリアの特殊な役わり

  第@項 世の終りの予言的展望

 

47.こうした現象は、とりわけ世の終りごろに起こるであろう、と今さきわたしは書きました。ところが、世の終りごろを待つまでもなく、それはまもなくやってくるのです。なぜなら、神はマリアの協力をえて、世の終りにそなえて、偉大な聖人を大量に送り出さねばならないからです。これらの偉大な聖人は、聖性の高さにおいて、他の尋常な聖人よりも抜群でなければなりません。ちょうどレバノンの糸杉が、他の杉よりも飛び抜けて巨大なように。このことは、ある無名の聖者に、神から啓示されました。そしてレンチ氏が、この聖者の伝記を公開しています。

 

 

 

48.これらの偉大な聖人は、恩寵と熱心に満ちあふれ、神の敵と戦うために、神から特に選抜された勇士です。この勇士らに向かって、神の敵どもは四方八方から襲いかかるのです。世界終末の夕べにおこなわれる、神と悪魔との決戦に登場するこれらの勇士はマリアに対して、特別の信心をもっているのです。マリアの光で照明され、マリアの乳房で養われ、マリアの精神でみちびかれ、マリアの両腕で支えられ、マリアの保護で守られているのです。こうした中で、一方の手では敵と戦い、他方の手ではどしどし建設していくのです(エズラ4・17参照)。

 片方の手では、異端者とその異端、離教者とその離教、偶像崇拝者とその偶像、悪人たちとその罪悪に対して戦い、これをたおし、これを粉砕するのです。もう一方の手では、聖なる教父たちがそう呼んでいるように、“マリア”という名の「ソロモンの神殿」「神の都」を建設していくのです。

 世界終末の神の勇士たちは、自分らの雄弁と行動によって、全世界の人を、マリアへのまことの信心に投入するでしょう。こうした運動は、多くの敵をつくりだすでしょう。だが同時に、それにまさる多くの勝利と、神の栄光を獲得するでしょう。このことを、神ごじしんが、当代の大使徒・聖ビンセンシオ・フェリエに啓示されました。そうしてこの聖人は、ご自分の本のどこかに、この啓示をくわしく書いています。

 世界終末の夕べに起るこうした現象を、聖霊はすでに詩篇59編のなかで、予告しているように思われます。次のように言っておられるのです。

「神はヤコブを支配する方

地の果てまでも支配する方であることを。

夕べになると彼らは戻って来て

犬のようにほえ、町を巡ります。

彼らは餌食を求めてさまよい

食べ飽きるまでは眠ろうとしません。」

(詩篇59・14−16)

世界終末の夕べ、全世界の人が、父なる神のふところに帰っていくため、また神の義への飢えかわきをいやすため、犬のようにほえ、食をもとめて、うろつきまわる“町”とはマリアという名の町です。マリアは聖霊から“神の町”“神の都”(詩篇87・3)と呼ばれているからです。

 

 

 

49.世の救いは、マリアをとおして開始されました。だから、おなじくマリアをとおして完成されるべきです。マリアは、イエズス・キリストが初めてこの世においでになったときには、ほとんど目立たない存在でした。当時の人々は神の御子について、まだ十分な知識もなく、ハッキリした認識も持ち合わせていなかったので、もしもマリアがさいさいお姿をあらわしたら、そのすばらしい魅力のために、人びとは先をあらそってマリアに、あまりに強く、あまりに人間的に愛着したにちがいありません。そのために、真理から遠ざかる危険があったのです。それほど神は、マリアの外貌までも神々しく装ってくださったのです。こうした推測はけっして、でたらめではありません。アレオパーグの聖デニスも、ちゃんと書き残しているとおりです。ある日、かれはマリアを見たのですが、もしかれがシッカリした信仰をもっていなかったら、またこの信仰が、そうじゃない、と教えてくれなかったら、かれはてっきり、マリアを“神”だと感ちがいしたにちがいない、と書いているのです。それはさておき、世の終わりにイエズス・キリストがおいでになる直前、つまりキリストの再臨の直前、マリアは聖霊をとおして、人びとに知られ、人前に姿を現さねばなりません。それはマリアをとおして、イエズス・キリストが、あまねく世の人に知られ、愛され、奉仕されるためなのです。聖霊が、ご自分の妻マリアを一生、ひたかくしにかくし、キリストが公生活にはいって福音をのべ伝えてからも、マリアをホンのわずかしか人間に出さなかった理由が、もうとっくに、なくなったからです。

 

 

 

50.そんなわけで、神はご自分のみ手の傑作であるマリアを、世の終り頃、人びとに見せよう、マリアの美と使命を全世界の前に展開しよう、とお望みになるのです。その理由は次のとおりです。

@マリアは、一生のあいだ、まったく人目にかくれておいでになり、その深い謙遜によって、ご自分をチリあくたよりも、もっともっとひくくされたからです。ご自分のことを絶対に人前に表わさないようにと、神にも、使徒にも、福音記者にも、お願いしてそれが聞きとどけられたのです。

Aマリアは、地上においては恩寵によって、天下においては栄光によって、神のみ手に成る傑作です。だから、神もこの傑作をとおして、地上においても、生きている人から、栄光を着せられ、賛美されたいのです。

Bマリアは、イエズス・キリストという“正義の太陽”のさきがけをし、またそのありかを示す“あけぼの”なのですから、イエズス・キリストが、あまねく世の人に知られ、神として、救い主として、認められるために、まずご自分が知られ、認められなければなりません。

Cイエズス・キリストが初めてこの世においでになったとき、お通りになったのは、マリアという名の“道”です。だから、これからおいでになるときお通りになる道も、たとえご通過の様式はことなってはいても、おなじくマリアという名の道なのです。

Dマリアは、わたしたちがイエズス・キリストにいたるための、またイエズス・キリストを見いだすための確実な手段、まちがいのない真っ直ぐな道ですから、高次元の聖性に召された人はみな、マリアという道をとおってこそ、イエズス・キリストを見いださねばならないのです。

 マリアを見いだす人は、生命を見出す(格言8・35)。すなわち、「わたしは道であり、真理であり、生命です」(ヨハネ14・6)と言われたイエズス・キリストを見出すのです。しかし、マリアを探し求めなければ、マリアを見出すことは出来ません。マリアのことをよく知らなければ、マリアを探し求める気にはなりません。人はだれでも、自分が知っていないものを、望むこともできねば、さがし求めることもできないからです。

だからこそ、どの時代よりも特に、世の終りの直前、マリアは世の人に、もっとよく知られねばならぬというのです。それは、いとも聖なる三位一体が、最高に知られ、最高に栄光を着せられるためなのです。

E世の終りが近づくにつれて、マリアはふだんよりも特に、慈悲と、力と、恩寵の威力を発揮しなければなりません。

“慈悲”の偉力を。そうです。あわれな罪びとを、教会に連れもどし、愛情こめて受け入れるために。道をふみはずした者を回心させ、母なる教会のふところに安住させるために“力”を発揮せねばなりません。そうです。神の敵どもに対して、偶像崇拝者、離教者、異端者、無神論者、がんこな罪びと、反社会活動家、破壊分子に対して。かれらは、自分らに反対する全ての善良な神の民を、甘言と脅迫で誘惑し、ダラクさせるため、大車輪の活動をするでしょう。

 さいごに“恩寵”の偉力を発揮せねばなりません。そうです。イエズス・キリストの勇敢な将兵、忠実なしもべたちを力づけ、かれらの勇気をささえるために。かれらはキリストのために、身命をなげうって戦うでしょう。

Fとにかく、マリアは、悪魔とその手先どもにとっては、ちょうど「戦闘体制」をととのえた精強な軍隊のように」(雅歌6・3)、戦りつすべき存在です。とりわけ、世も終りごろになると、そうなのです。なぜなら、悪魔は、霊魂をダラクさせるため、時間がもう残り少なになっている、時間が日に日に、減っていくことを、ちゃんと知っているのです。だから、マリアの軍隊との戦いも、日に日に、激しさを加えていくのです。

 悪魔はやがて、マリアの忠実なしもべ、マリアの子どもらに対して、残忍無情な迫害をおこし、恐ろしい謀計をめぐらすでしょう。マリアのしもべ、マリアの子どもこそ、ほかのだれよりも、悪魔にとっては強敵だからです。

 

 

 

第A項 マリア勢と悪魔勢との決戦

 

51.反キリストの世界制覇が確立するまで、日に日に増強してゆく悪魔の残酷な、最後の迫害のことを考えるとき、いまさらのようにわたしたちは、神がそのむかし、地上楽園でヘビに投げつけられた、あの最後の有名な予言と、のろいのことばを想起しないではいられません。それをここで、ゼヒ説明する必要があると思います。それは、マリアの栄光のため、マリアの子どもらの救霊のため、また悪魔に赤恥をかかせるためにも必要なのです。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に

わたしは敵意を置く。

彼はお前の頭を砕き

お前は彼のかかとを砕く。」

(創世記3・15)

 

 

 

52.神が被造世界に造りだし、組織化した敵対心、しかも永久に和解できない敵対心は、あとにもさきにもタッタ一つしかありません。それは、神ごじしんが、その母マリアと悪魔との間に、またマリアの子マリアのしもべと、悪魔の子悪魔の徒党との間に、置かれた敵対心・怨恨なのです。この敵対心、この怨恨のはげしさといったら、あらゆる形容を絶します。

そんなわけで、悪魔にとって、いちばん恐ろしい敵は、神の母マリアです。神がそうしてくださったのです。マリアがまだ、神のお考えの中でしか存在していなかった失楽園当時からすでに、神はマリアのうちに、ご自分の仇敵なる悪魔に対する燃えるような嫌悪心を、たきつけられたのです。神はマリアに、人祖をだましたこのヘビの奸計を見抜く、鋭い眼光をお与えになったのです。神に向かって弓をひく、この思いあがった悪魔を打ち負かし、その頭をふみ砕く絶大な力をお与えになったのです。だから、悪魔は、すべての天使、すべての人間の全集団よりも、いや、ある意味では神じしんよりもひとりのマリアを恐れているのです。

だからといって、悪魔に対する神の怒り、憎しみ、力、がマリアのそれにくらべて劣っている、というわけではありません。マリアは神の被造物ですから、その完全さにもおのずから限界があります。では、なぜ、悪魔はそれほどマリアをこわがるのでしょうか。

それは、第一、悪魔は高慢なのですから、神ごじしんと戦って負けたときよりも、このちっぽけな、このいやしい、神のはしために負かされて、罰を受けるときのほうが、もっともっと、くやしいからです。神の全能に負けるよりも、マリアのいやしさに負けるほうが、悪魔にとっては、もっと、はずかしいからです。

 次に、神はマリアに、悪魔の勢力を破砕するたいへんな力をお与えになったからです。悪魔ツキの口をとおして、しばしばやむをえず白状させられたように、悪魔はすべての聖人のすべての祈りを、いっしょにしたよりも、マリアがある霊魂のために神にささげるタッタ一回の溜息のほうが、いっそうこわいのです。また悪魔は、マリアが自分らに向かってなさるタッタ一回のおどかしのほうが、ほかのすべての苦しみよりも、いっそう身にこたえるのです。

 

 

 

53.悪魔が高慢によって失ったものを、マリアは、謙遜によって取得しました。エバが、神への不従順によって亡ぼし、失ったものを、マリアは、神への従順によって救いだしました。エバは、ヘビに従うことによって、自分の子どもである全人類を、自分といっしょに無理心中させ、悪魔の手に渡しました。マリアは、あくまでも神に忠誠を尽くすことによって、ご自分といっしょに、すべての子ども、すべてのしもべを救い、神にささげられました。 

 

 

 

54.神が、ただマリアと悪魔との間にだけでなく、マリア族と悪魔族との間にも置かれた“敵愾心”はタッタ一つだけではありません。多種多様な敵対心です。別の言葉で申せば、神はマリアの子どもとしもべ、悪魔の子どもとドレイ―この両者の間に、永遠に和解できないかずかずの敵対心、反感、憎悪の執念を置かれたのです。この両陣営は絶対に愛し合うことができません。両者の間には、絶対に心からの話し合いがありません。ベリアルの子ども、悪魔のドレイ、この世の友―この三者は名前こそちがっても、みんな同じものですが―この人たちは、今日までそうでしたが、今後もますます激しく、マリアの陣営にぞくする人々を迫害するでしょう。ちょうどそのむかし、カインが弟のアベルを、エザウが弟のヤコブを、それぞれ迫害したように。カインとエザウは、亡びる人の前じるし。アベルとヤコブは、救われる人の前じるしです。

 だが、この激しい迫害にもかかわらず、謙遜なマリアは、高慢な悪魔に対して、いつも勝利を得るでしょう。それも、高慢の温床である悪魔の頭部を粉砕するほどの大きな勝利です。マリアはいつも、悪魔のたくみな謀略を見抜くでしょう。

悪魔のすすめを払いのけ、ご自分の忠実なしもべたちを、世の終りまで、悪魔の残酷な襲撃から無キズに保護してくださるでしょう。

 

 

 

第B項 世界終末の勇士たち

 

 しかし、マリアが悪魔に対してもっている絶大なちからは、とりわけ世の終りごろ、その偉力を最高に発揮するでしょう。世も終りに近づくと、悪魔はますますいきり立ってマリアの“かかと”に襲いかかるのです。マリアのかかとは、マリアが悪魔との決戦に召集した、名もなく卑しいマリアのしもべ、貧しく謙遜なマリアの子たちです。なるほど、かれらは、世間の目からみれば、小さな者、貧弱な者であるでしょう。すべての人から、足のかかとのように、さげすまれてはいるでしょう。かかとが、からだの他の部分から踏みつけられ、痛めつけられているように、この人たちも、世の人びとから踏みつけられ、痛めつけられてはいるでしょう。

 だが、神のみまえでは、まったくちがいます。世の人びとからの評価と処遇とは正反対に、この人たちは、神の恩寵に富んでいるでしょう。マリアが、それらに、豊かに、分配してくださるからです。かれらは、神のみまえにおいては聖徳の巨人、熱烈な愛においては衆を抜いているでしょう。神の助けに強く支えられたかれは、自分の“かかと”の謙遜を武器として、マリアと一つとなって悪魔の頭部を粉砕し、めでたくイエズス・キリストに勝利のがい歌をあげさせるでしょう。

 

 

 

55.さいごに、神はその母マリアが、こんにち、いつもよりもっと人に知られ、愛され尊敬されることをお望みになります。神のこのお望みは、わたしがこれから述べようとするマリアへの信心を、救われる人びとが聖霊の恵みと光のもとに、真心こめて、完全に実行しさえすれば、まちがいなく達成されるでしょう。そうした中で、かれらは信仰の度合いに応じて、マリアという“海の星”を、ハッキリ認めることができるでしょう。そしてこの星にみちびかれて、途中で暴風雨や海賊になやまされても、めでたく目的の港にたどり着くことができるでしょう。

 かれは今更のように、この女王の偉大さが分かるでしょう。そして自分をケライとして、愛のしもべとして、マリアへの奉仕に、まったくささげ尽くすでしょう。

 そのときかれは、マリアの母性愛の甘美といつくしみを、ひしひしと実感するでしょう。反射的に、マリアを、ありったけの孝情を披瀝して、愛しかえすでしょう。マリアのうちに、自分らに対する慈悲が、どれほど満ちあふれているか、マリアに助けてもらわねばならない自分の窮乏が、どれほどひどいものか、を理解することが出来るでしょう。

 そこでかれは、万事において、マリアのもとに馳せてゆき、マリアを、イエズス・キリストのみまえにおける、自分の弁護者・仲介者と仰ぐでしょう。

こうした中で、マリアこそ、イエズス・キリストにいたるいちばん確実な、いちばん容易な、いちばん短い、いちばん完全な道だということが分かるでしょう。そして完全にイエズス・キリストのものになりきるために、自分のからだも、たましいも、残りくまなくマリアにささげ尽くすでしょう。

 

 

 

56.ところで、右に述べたマリアのケライ、マリアのしもべ、マリアの子とは、いったいどんな人のことでしょうか。

それは、燃えさかる炎、主の召使い(詩篇104・4)のことです。神愛の炎を、地上いたる処に点じてあるく人のことです。それは「勇士の手にある矢」(詩篇127・4) ご自分の敵をうちたおすため、マリアが手にしておられる鋭い矢のことです。

 それは、大いなる苦悩の火で清められて、神と密着したキリスト者のことです。心に愛の黄金を、精神に祈りの乳香を、からだに苦業の没薬を帯びていることです。貧しい人、小さな人たちにとってはキリスト者の「かぐわしいイエズス・キリストのかおり」(コリント2・2・15〜16) しかし、この世のエライ人、富んだ人、高慢な人たちにとっては、“死のかおり”―そうしたキリスト者のことです。

 

 

 

57.かれらは、聖霊のかすかないぶきにも、すぐに霊界に舞い上がり、全世界をかけめぐる雲(イザヤ60・8)、カミナリを伴う雲のような者でしょう。

地上のいかなるものにも愛着せず、いかなるものにも驚かず、いかなるものにも気をとめず、ただただ、神のことばと永遠の雨を、洪水のように地上に降らせるでしょう。

罪を弾劾して、雷鳴のようにとどろきわたり、世間をしかって、これに大目玉をくわせるでしょう。悪魔とその徒党に痛撃を加え、「神の言葉」という名の「両刃の剣」(ヘブル4・12)をふるって、神が指名するすべての人を刺し貫くでしょう。こうした中で、ある者は死にいたり、ある者は回心して生命にいたるのです。

 

 

 

58.かれらこそ、世界終末の宇宙ドラマに登場するまことの勇士、まことの使徒なのです。万軍の神なる主はかれらに、力あることばをお与えになります。奇跡をおこない偉大なわざをなし、悪魔に勝利をえ、栄光ある戦利品をたずさえて、かれらをガイセンさせるためです。

 世界終末の勇士たちは、身に一センのたくわえもなく、赤貧洗うがごとくでしょう。それでもヘイキで、ほかの富裕な司祭・聖職者・教会役務者と肩をならべて、堂々と暮らすでしょう。しかし貧乏ではあっても、銀でおおわれた“ハトの翼“(詩篇68・14)を持っているのです。この翼をつけ、神の栄光と霊魂の救い、というハトのように清らかな純な意向をもって、聖霊がお呼びになる場にはどこへでも飛んでいくのです。そしてかれらは自分が説教した場には、ただ「律法の完備」(ローマ13・19)である愛の黄金しか残しません。

 

 

 

59.この勇士たちこそ、イエズス・キリストの本当の弟子です。かれらは、キリストの清貧・謙遜・世俗蔑視・神愛と兄弟愛を実行しながら、師の足あとを忠実にたどります。この世の知恵に従ってではなく、キリストの福音に従って、天国への狭き道を、キリストが説かれたとおり、人びとに教えます。たれもはばからず、だれの顔色もうかがわず(マタイ22・16)だれも容赦せず、地上のいかなる権勢家のいかなるおどしも耳に入れず、また恐れないで。

 かれらは口に、神のことばという「両刃の剣」(ヘブル4・12)をもっています。肩に血染めの十字架の旗をかついでいます。右手には十字架像、左手にはロザリオ、心にはイエズスとマリアのみ名、かれらの起居動作には、イエズス・キリストの謙遜と苦業を帯びています。

 これこそ、世界終末のヒノキ舞台に登場する神の国の偉人たち―神の命令によって、マリアが造りだす偉大な人物群なのです。神は、悪魔とその徒党に対して、ご自分の支配権を発展伸張させるため、これらの偉大な人物群の育成を、マリアに下命されるのです。だが、いつ、どのように、実現するか これはただ、神だけが知っておられる秘密なのです。わたしたちとしては、ただ黙って、祈って、あえいで、待つのみです。そうです。ただ「切なる思いで、待ち望みましょう。」(詩篇40・1)

 

 

 

第U章 聖母へのまことの信心の鑑定法

第一節 基本的真理

 

60.これまでわたしは、聖母への信心が、わたしたちにとって、なぜ必要か、について述べてきました。これからはいよいよ、この信心が何に基づいているか、について話さねばなりません。しかし、わたしはその前に、この偉大で堅実な信心の発生源とも見られる、いくつかの基本的真理について考えてみたいと思うのです。

 

 

 

第@項        第一の真理 ― イエズス・キリストこそ、あらゆる信心の最終目的

 

61.わたしたちの救い主、まことの神、まことの人であるイエズス・キリストこそ、わたしたちのあらゆる信心の最終目的でなければなりません。イエズス・キリストは、すべてのもののアルファであって同時にオメガ、初めであって同時に終りでもあるからです(黙示録1・8)。使徒パウロが言っているように、すべての人をイエズス・キリストにおいて完全な者となすためにこそ、わたしたちは働いているのです。ただイエズス・キリストのうちにだけ、神性のあらゆる充満が、恩寵と善徳と完徳とのあらゆる充満が宿っているからです。ただキリストにおいてのみ、わたしたちは神なる御父から、すべての霊的祝福をもって祝福していただいたからです。

 キリストだけが、わたしたちを教えてくださらねばならない唯一の教師です。キリストだけが、わたしたちが仕えねばならぬ唯一のかしらです。キリストだけが、わたしたちが模倣せねばならぬ唯一の典型です。キリストだけが、わたしたちをなおさねばならぬ唯一の医師です。キリストだけが、わたしたちを養わねばならぬ唯一の牧者です。キリストだけが、わたしたちをみちびかねばならぬ唯一の道案内人です。キリストだけが、わたしたちが信じねばならぬ唯一の真理です。キリストだけが、わたしたちを生かさねばならぬ唯一の生命です。キリストだけが、わたしたちのあらゆる必要を完全に満たしてくださる唯一のかたなのです。

 このかた以外には、だれによっても救いはありません。世界中でイエズスの御名のほかには、わたしたちが救われるべき名としては、どのような名も、人間にあたえられていないからです。

 神は、わたしたちの救い、完徳、栄光の土台として、イエズス・キリスト以外のいかなる土台も、おすえになりませんでした。この堅固な岩の上に、土台をすえていない建物はすべて、砂の上に建てられたものであって、おそかれ早かれ、確実に崩壊するのです。

 キリスト信者はだれでも、ちょうどぶどうの枝が、ぶどうの木についているように、そのように密接にキリストにとどまっていなければ、木から落ちた枝のように枯れてしまい、ひろわれて火に投げ込まれるのがオチです。もしわたしたちがイエズス・キリストにとどまり、イエズス・キリストも、わたしたちの中にとどまっているなら、亡びる心配は絶対にありません。天上の天使たちも、地上の人びとも、地獄の悪魔も、そのほかどんな被造物も、わたしたちに害を加えることはできません。わたしたちの主キリスト・イエズスにある神の愛から、わたしたちを引き離すことができないからです。

 キリストによって、キリストとともに、キリストにあって、わたしたちに不可能なことは一つもありません。また、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに聖霊の交わりの中で、すべてのほまれと栄光は御父にきし、さらにまた、わたしたちは自己を完成し、永遠の生命から発散する“良いかおり”を周囲の人に与えることができるのです。

 

 

 

62.そんなわけで、イエズス・キリストへの信心をもっと完全なもの、もっとしっかりしたものにするためにこそ、マリアへの信心を、堅固な土台の上にすえようとしているのです。それがイエズス・キリストを見いだすための容易な、確実な手段を提供するからこそ、マリアへの信心を究明しようとしているのです。もしもマリアへの信心が、人を、イエズス・キリストから遠ざけるなら、そんな信心は、悪魔からくる妄想として排せきせねばなりません。しかし、わたしがこれまで述べてきたとおり、またこれからものべるように、絶対にそんなことはありっこないのです。

イエズス・キリストを完全に見いだし、優しい心で愛し、忠実に仕えるためには、どうしてもわたしたちにとって、マリアへの信心が、必要となってくるのです。

 

 

 

63.こうした中で、主よ、わたしたちはあなたのほうに向きなおって、愛情こめて嘆き訴えさせていただきたいのです。キリスト信者の大部分が、しかも、もの分かりのいい人たちでさえ、あなたと御母マリアとの間には、お互いを結び合わすキズナが必然に存在していることを、すこしも理解していません。主よ、あなたはいつも、マリアとともにおられ、マリアはいつも、あなたとともにおられ、あなたから離れることはできません。もしマリアがあなたから離れると、マリアはもうマリアではありえなくなるのでしょう。

 恩寵によって、マリアはスッカリあなたに変容し尽くされていますので、生きているのはもはやマリアではなく、存在しているのはもはやマリアではない、と言えるほどなのです。イエズスよ、あなたこそ、ただあなただけが、マリアのうちに生き、支配しておいでになるのです―天の全ての天使、すべての聖人のうちにおけるよりも、もっと完全な仕方で。

 ああ、あなたがマリアのうちにあって、受けておいでになる栄光と愛を、すこしでも理解することができましたら、その人はきっとあなたについて、またマリアについて、これまでとちがった考えを持つようになるでしょうに。太陽から光を引き離すほうが、火から熱を引き離すほうが、むしろ容易だと思われるぐらい、それほど緊密にマリアは、あなたと一つになりきっておられます。いいえ、それどころではありません。天国のすべての天使、すべての聖人をあなたから引き離すほうが、あなたからマリアを引き離すよりも、むしろ容易なのでございましょう。マリアは、ほかの全被造物よりも、もっと熱烈にあなたを愛し、もっと完全にあなたに栄光を着せておいでになるからです。

 

 

64.いとも愛すべき主よ。こうした現実にもかかわらず、地上のすべての人が、あなたの聖なる母マリアのことに関して、あまりに無知である、あまりに忘却のやみに沈んでいる、ということは、なんとも驚くべきこと、なんとも痛ましいことではないでしょうか。わたしは、異教徒のことや、偶像をおがんでいる人たちのことを言っているのではございません。この人たちは、もともと、あなたをごぞんじないのですから、マリアのことを知ろうとしないのは当然です。わたしはまた、異端者や離教者のことを言っているのでもございません。この人たちは、あなたからも教会からも、離れているのですから、マリアさまに信心をしないのも当然でございましょう。

 わたしがここで言っていますのは、カトリック信者、しかもカトリック信者の中でも、インテリ階級にぞくする学者先生のことです。この先生がたは、ひとに真理を教えることを、一生の職業としていながら、あなたのことも知らねば、あなたの聖なる母マリアのことも知っていないのです。たまに知っていても、それはあくまで、純理論的で無味乾燥な、不毛でうるおいのない認識でしかありません。

 この先生がたは、マリアさまについて、マリアさまへの信心について、ごくごくまれにしか話しません。マリアをあんまり尊敬すると、それは信心の乱用である、あなたへの侮辱である、と言っているのです。たまたま、マリアさまを熱烈に崇敬している者が、マリアさまへの信心について、この信心はイエズス・キリストを完全に見いだし、愛するための、まちがいのない確実な手段である、危険のない最短の導かれである。欠陥のない清らかな方法である、本人しか知らない秘けつである、と心をこめて、力づよく、納得のいくまで、しばしば話しているのを、この先生がたが見たり聞いたりしてごらんなさい。さっそくかれは、このマリア信心家に向かって、くってかかり、こう言うのです―そんなことはない、マリアをそんなにほめそやしてはいかん、マリアへの信心には、本質的に大きな欠陥がある、この欠陥を取り除くために大いに努力せにゃいかん、信者大衆を、マリアへの信心に投入するために説教するよりも、むしろイエズス・キリストについてこそ説教すべきだ、と。そして自らの説を証明するために、あらゆるウソの理論を展開しているのでございます。

 イエズスよ。ときたまかれらは、あなたのお母さまへの信心について話しているようですが、それはマリアへの信心を強め、深め、納得させるためではなく、かえってそれを、ぶッこわすためなのです。この先生がたは、マリアへの信心をもっていないのですから、とうぜんあなたに対しても、本当の、心からの信心をもっていません。

 かれらは、ロザリオ、聖母の肩衣などの信心用具を、それは女・子供の信心だ、無学信徒専用の特許品だ、そんなものがなくても、天国へはちゃんと行ける、などとクサしています。ロザリオをとなえたり、または何か聖母に対して信心の務めを果している者が、不幸にもかれらの手に落ちますと、かれらはすぐに、この聖母信心家の洗脳にとりかかります。ロザリオのかわりに、痛悔の七つの詩篇をとなえたらどうか、とすすめるのでございます。

 マリアへの信心をやめて、かわりにイエズス・キリストへの信心を増強するように、とすすめるのでございます。愛すべきイエズスよ。この人たちは果たして、あなたの精神をもっているのでしょうか。このように行動することが、本当にあなたを喜ばせることなのでしょうか。あなたのごきげんをそこなうのではなかろうかと恐れて、あなたのお母さまを喜ばせるために、ありったけの努力を投入しないことが、果たしてあなたを喜ばせることなのでしょうか。

 あなたのお母さまへの信心が、あなた自身への信心にとって、ほんとうにさまたげとなっているのでございましょうか。あなたのお母さまは、ご自分にささげられる栄光と賛美を、ひとり占めにしていらっしゃるのでしょうか。あなたのお母さまは、天上天下、まったくひとりぼっちなのでしょうか。あなたにとっては縁もゆかりもない、赤の他人なのでしょうか。あなたのお母さまを喜ばそうと努力することは、それだけあなたを不愉快にすることなのでしょうか。あなたのお母さまへの奉仕に献身し、あなたのお母さまを心から愛することが、そのまま、あなたへの愛から自分を引き離し、遠ざけることにつながるのでしょうか。

 

 

 

65.それなのに、愛すべき主よ。学者先生の多くが、その高慢の罰として、わたしが今さき書いたことがみんな事実でもあるかのように、マリアさまへの信心からまったく遠ざかり、まったく無関心をきめこんでいるのでございます。どうか、主よ、マリアさまに対するこの人たちの悪感情と冷淡な態度から、わたしをまもってください。かわりに、あなたがお母さまマリアに対していだいておられる感謝、尊敬、愛のお気持ちを、わたしにも分け与えてください。わたしがもっと近くからあなたを模倣し、あなたにつき従うようになれば、それだけいっそうあなたを愛し、あなたの栄光をあらわすことができるからです。

 

 

 

66.これまでいろいろ書いてまいりましたが、あなたの聖なるお母さまのほまれのためには、まだひとことも言っていないような気がいたしますので、どうか主よ、マリアさまをふさわしくたたえるお恵みを、わたしに与えてください。マリアさまへの賛美を妨害する敵―それは同時にあなたの敵―が、どんなに多くてもかまいません。わたしは、敵の頭上に、聖人たちとともに、大声を張り上げて次の聖句を投げつけてやりたいのです。「神の御母を侮辱する者が、どうして神のあわれみを期待できますか」(パリのギョーム)

 

 

67.主よ、あなたのあわれみによって聖母マリアへのまことの信心の恵みをいただくことができるため、またこの信心を全世界に広めることができるため、どうかわたしに、あなたを熱烈に愛させてください、そしてこの目的を達するため、わたしが聖アウグスチノ、およびあなたのまことの友らとともにささげる熱い祈りを、お受けください。「ああ、キリスト。あなたは、わたしの聖なる父、慈悲にあふれるわたしの神、かぎりなく偉大なわたしの王。あなたは、わたしのよき牧者、わたしの唯一の主、親切な援助者、永遠の美にかがやく最愛の友、生命の糧、永遠の司祭。

 あなたは、わたしにとって、天国への道案内者、まことの光、心の甘美、まっすぐな道。  

 あなたは、わたしにとって、光りかがやく知恵、ふたごころのない正義、平安といこい。

 あなたは、まったく頼りになるわたしの保護者、この上もなく貴重な相続財産、永遠の救い。ああ、イエズス・キリスト、愛すべき主よ。なぜ、わたしは今まで、あなた以外のものを愛してきたのでしょう。なぜわたしはあなたのことを念頭に置いていなかったとき、わたしはいったいどこにいたのでしょう。

ああ、しかし、今からでもおそくはありません。わたしの心は、主イエズスよ、あなた以外に何も望まず、あなた以外の何ものにも意欲をもやしません。あなただけを愛するために、心がますます大きくなっていきますように。

 わたしの心の願望よ、イエズスへの愛に駈られて走れ。神愛のバスに乗りおくれてはならぬ。おまえが追求している目的、おまえが目ざしている終着駅に向かって急げ、さあ急げ。おまえがさがし求めているイエズスを、一心不乱にさがし求めなさい。

 ああ、イエズスよ。あなたを愛さない者にわざわいあれ。あなたを愛さない者には生の苦渋あれ。イエズスよ。あなたの栄光の発揚に献身しているすべての人にとって、あなた自身が、かれらの心をもやす愛、かれらの心をとかす歓び、かれらの心を忘我の境にさそう賛嘆のマトとなってください。

 ああ、イエズス、わが心の神、わが永遠の分け前よ。どうか、わたしの心が聖なる歓喜のうちにとけてなくなり、かわりにあなた自身が、わたしのうちに生きてくださいますように。どうか、わたしのたましいが、あなたの愛にもえさかり、やがてそれが全世界を、神愛の火事で類焼させる火元となりますように。

 どうか、あなたの愛が、わたしの心の祭壇で絶まなく燃えさかり、さらにわたしのたましいの最深奥にもえうつり、わたしの全存在を焼き尽くしますように。

 こうした中で臨終のときがまいりましたら、わたしもあなたの愛にスッカリ変容し尽くされた姿で、みまえに現れることができますように。アーメン」(Operum meditat.Vol. IX

 

 

 

 

第A項        第二の真理―わたしたちは、イエズスのものマリアのもの

 

68.イエズス・キリストとわたしたち人間との間には、どんな関係があるのでしょうか。この問題には聖パウロが明確に答えています。(コリント6・19/22・27?)すなわち、わたしたちは絶対に自分じしんのものではなく、まったくイエズス・キリストのものです。わたしたちはキリストのからだ、キリストのドレイです。しかも、キリストが、ご自分の血を全部流し尽くして、悪魔から買いもどしてくださった、無限に高価な存在です。わたしたちは、洗礼を受ける前は、悪魔のものでした。

 悪魔のドレイでした。洗礼はわたしたちを、イエズス・キリストのまことのドレイにしてくれたのです。ひとたびキリストのドレイとなったからにはわたしたちはこの神にして人でもあられるかたのために実を結び、自分のからだをもって、このかたの栄光をあらわし、自分のたましいの中で、このかたに支配させるためにのみ、生き、働き、死なねばなりません。わたしたちは、キリストの戦利品、キリストの所有とされた民、キリストの相続財産だからです。

 おなじ理由によって、聖霊はわたしたちのことを、次のようになぞらえています。

@    教会の園の中、恩寵の泉のほとりに植えられた木。しかも季節がくれば実を結ばねばならない木。

A    イエズス・キリストをぶどうの木とするその枝。しかも良い実を結ばねばならない枝。

B    イエズス・キリストを牧者とする羊の群れ、しかも数をふやし、乳を出さねばならない羊の群れ。

C    神を農夫とする良い畑。しかもそこに種をまくと、それが発育成長して、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ畑。

イエズス・キリストは、実を結ばないイチジクの木をのろい、もらったタレントをふやさなかった無益なしもべを、地獄におとしておられます。

 以上すべてのことからお分かりのように、イエズス・キリストは、ごくつまらないわたしたち人間からさえ、なにがしかの実、つまり良い行いを期待しておいでになるのです。良い行いは、ただキリストだけのものだからです。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエズスにあって造られたのです」。(エペソ2・10)聖霊のこれらのことばは、どんなことを示しているのですか。それは、イエズス・キリストこそ、わたしたちあらゆる良い行いの唯一の源であり、唯一の目的であらねばならないということです。したがって、わたしたちは、サラリーをもらうしもべとしてだけでなく、無料奉仕をする愛のドレイとしても、キリストに仕えねばならない、ということです。以下、それを説明しましょう。

 

 

 

69.この世では、他人のものとなり、他人の権威に従属するために、三種類の様式があります。すなわち、雇用制度とドレイ制度です。雇用制度によって、他人の権威に従属する者を、使用人と呼び、ドレイ制度による者をドレイと呼んでいます。

 雇用制度によって人は、ある一定期間、ある一定の賃金、または報酬を受けるという契約のもとに、自分をある特定の人の権威に従属させます。

ドレイ制度によって人は、一生涯、ある特定の人の権威に全面従属します。したがって、いかなる賃金も報酬も要求できず、ひたすら主人に仕えねばなりません。だから、人間とはいうものの、まったく家畜同様で、生かそうと殺そうと、主人の勝手です。

 

 

 

70.ドレイには、三種類があります。すなわち、生まれつきのドレイ(第一種ドレイ)強制されてやむをえずドレイとなった(第二種ドレイ)、自分からすすんでなったドレイ(第三種ドレイ)すべての造られた物は、神の第一種ドレイです。「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものです。」(詩篇24・1)。

悪魔と、地獄におちた人は、第二種ドレイ。義人とか聖人が、第三種ドレイです。

 自分からすすんでなったドレイが、いちばん完全で、いちばん神に栄光をきします。

神は人の心をごらんになり、人の心を要求されます。だから、“心の神”すなわち、愛にもえさかる人の意志の神と呼ばれているのです。自分からすすんでなったドレイが、なぜ、いちばん完全で、いちばん神に栄光をきすかというと、かれはそれが本来の義務ではないにもかかわらず、すべてのものにこえて、神と神への奉仕を選ぶからです。

 

 

 

71.使用人とドレイとの間には、ハッキリした区別があります。

@使用人は、自分の全存在、自分がもっているすべての物、自分が他人をとおして、または自分で取得できるすべての物を、主人に与えません。しかし、ドレイは、自分の全存在、自分がもっているすべての物、自分が取得できるすべての物を、例外なしに、主人に与えます。

A使用人は、自分が主人のためにした仕事のために、報酬を要求できます。しかし、ドレイは、主人のために、どんなに勤勉に、どんなに誠実に、どんなに一生けんめいに働いても、いかなる報酬も要求できません。

B使用人は、自分が希望する時、また雇用期間が切れた時、主人のもとを去ることができます。しかし、ドレイは希望しても、主人のもとを去ることはできません。

C主人は使用人に対して、生殺与奪の権利をもっていません。だから、もし主人が、まるで家畜のように、使用人を殺しでもしたら、主人は殺人罪の犯人として起訴されます。これに反して、主人は国家の法律によって、ドレイに対して、生殺与奪の権利をもっています。だから、主人はかれが望む人に、ドレイを売り飛ばすこともできるし、またはウマでも殺すように、容赦なく殺すこともできます。

Dさいごに、使用人は一定期間、主人に使われますが、ドレイは死ぬまでです。

 

 

 

72.一般社会の通念では、ドレイ制度にもまして、ひとりの人間を、ほかの人間に隷属させるものはありません。キリスト者の社会でも同じことです。自分からすすんで引き受ける、愛のドレイ制度にもまして、わたしたちを、イエズス・キリストおよびその母マリアに隷属させるものはほかにありません。イエズス・キリストご自身が、その良いお手本です。わたしたちを愛すればこそ、“ドレイの姿”(ピリピ2・7)を、おとりになったのです。マリアも、良いお手本です。

 マリアは、ご自分のことを、“主のはしため”“主の女ドレイ”(ルカ1・38)と、呼んでおられます。

 キリスト者はしばしば、聖書の中では、“キリストのドレイ”と呼ばれています。

現代訳では“キリストのしもべ”となっていますけれども、あるエライ学者の信用すべき翻訳によりますと、“しもべ(SERVUS)ということばは、当時では、“ドレイ”の意味に限定されていたのです。当時はまだ、今日のような雇用制度はなかったのですから、主人が使っていたのは、ただドレイか、または以前にドレイだった人に限られていたのです。「トリエント公会議のカトリック要理」も、わたしたちが、キリストのドレイであるという事実に、一点の疑念も残らないため、あいまいな表現をさけて、わたしたちのことをハッキリ“キリストのドレイ”(mancipia Christi)

と呼んでいます。それはさておき―

 

 

 

73.わたしたちは、イエズス・キリストに隷属し、イエズス・キリストにこそ仕えねばなりません―それも、サラリーをもらう使用人としてではなく、愛のドレイとして。つまり、キリストへの熱烈な愛にかられて、自分をドレイの資格でキリストに与え、キリストの手に渡さねばなりません。しかも、自分はキリストのものだ、という唯一のプライドをもって、そうせねばなりません。

 洗礼を受けるまでは、わたしは悪魔のドレイでした。洗礼はめでたくわたしたちを、キリストのドレイにしてくれたのです。キリスト者は悪魔のドレイか、それともイエズス・キリストのドレイか、そのどちらかでなければなりません。

 

 

 

74.わたしが今さき、絶対的な表現を使って、イエズス・キリストについて述べたことは、マリアにかんしても、相対的に言えるのです。イエズス・キリストは、ご自分の生涯・ご死去・ご栄光・天国における権能・また地上における権威とそれぞれ離れることのできない伴侶として、マリアを選ばれました。だから、ご自分が本性上、もっておいてになるすべての権利、すべての特権を、恩寵によって、ご自分の稜威(みいず)が許すかぎり、マリアにもお与えになったのです。聖人たちが言っていますように、すべて神が本性上、もっておいでになるものは、マリアも、恩寵によって、もつことができるのです。

そんなわけで、イエズスもマリアもタッタ一つの同じ意思、同じ権能しかもたないのですから、おふたりは当然おなじケライ、おなじ使用人、おなじドレイしかもたないことになるのです。

 

 

 

75.だから、聖人たちや、その他エライ人たちの意見どおり、わたしたちは自分自身を、マリアの愛のドレイだと宣言し、それを行動にうつすことができるのです。マリアのドレイとなることによって、いっそう完全に、キリストのドレイとなるためです。

 キリストは、マリアを手段に使って、わたしたちのところにおいでになりました。だから、わたしたちも当然、マリアを手段に使って、キリストのもとに行かねばならないのです。この世の被造物の中には、それに愛着すれば、わたしたちを神に近づけるよりも、むしろ神から遠ざけるものがあります。しかし、マリアはけっして、そんなかたではありません。かえって、マリアのもっとも強いお望みは、ご自分の子であるイエズス・キリストに、わたしたちを一致させることです。御子イエズスのもっとも強いお望みは、わたしたちが、御母マリアをとおして、ご自分のもとに来ることです。それが、ご自分にとっては、ほまれであり、歓びだからです。王のもっと完全なケライ、もっと忠実なドレイになるため、まず王妃のドレイになることは、どれほど王にとって誉れと歓びなのでしょう。だから、教父たちは、また聖ボナヴェントラもかれらのあとをうけて、マリアこそイエズス・キリストにいたる道だと言っているのです。

 

 

 

76.そればかりではありません。先に言ったとおり、マリアは天地の女王なのですから、また聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラも言っているように、「マリアも含めてすべての被造物は、神の支配に服し、神も含めてすべての被造物は、マリアの支配下にある」のだから、マリアは当然、被造物と同じ数のケライとドレイをもっているはずではないでしょうか。仕方なくドレイになった者がずいぶん多いのだから、その中には、自発的にマリアを自分の女王に選び、そのドレイ、しかも愛のドレイとなる者がいることは当然ではないでしょうか。

自分からすすんで、人間のドレイとなり、悪魔のドレイとなる者が多い世の中に、マリアのドレイとなる者はひとりもいないというのは、いかにも理不尽ではないでしょうか。王さまは自分の王妃が、その上に生殺与奪の権をもつドレイをもっていることは、自身の栄光だからです。すべての人の子らの中で、最も優秀な子であるイエズス・キリストは、ご自分の権能を、御母マリアにも分け与えたのに、その御母マリアが愛のドレイをもつことに腹をお立てになるのでしょうか。

 イエズスが、その御母マリアに対してもっておられる尊敬と愛は、旧約時代のアッスェルス王がその王妃エステルに対し、またソロモン王がその王妃ベッサベに対して、それぞれもっていた尊敬と愛にくらべて、劣っているとでもいうのでしょうか。そんなことをだれが言えるのでしょう。だれがそんなことを考えることすらできるのでしょう。

 

 

 

77.これ以上、わたしに何が言えるというのですか。これほどハッキリした自明の理を、証明する必要があるのでしょうか。自分はマリアのドレイだ、と言いたくない人は、言わなくてもよろしい。自分がイエズス・キリストのドレイであれば、またそう言明していれば、それでいいのです。あなたはりっぱに、マリアのドレイとなっているのです。

 イエズスはマリアのご胎の実であり、マリアの光栄だからです。わたしがこれから述べる信心を実行すれば、あなたは完全にキリストのドレイとなることができます。

 

 

 

78.わたしたちの行いは、たとえ最良のものではあっても、わたしたちの内奥にあるわるいモノによって、シミがつき、品質がさがります。清くすきとおった水でも、それをわるいにおいがしている容器に入れてごらんなさい。また良いぶどう酒でも、すっぱくなったぶどう酒がそこに残っているビンの中に入れてごらんなさい。たちまち、清い水も良いぶどう酒も、台なしになって、そのうえ容器のわるいにおいまでが、しみついてしまいます。同様に、原罪と自罪によって汚染された、わたしたちの霊魂の容器の中に、神がどれほどすばらしい恩寵や天の甘露、またはご自分の愛のおいしいぶどう酒をお入れになってもせっかくの賜物が、普通ですと、わたしたちのうちにかくれひそんでいる罪の残りカスであるわるい酵素や、わるい土壌のために汚染されているのです。わたしたちの行いは、たとえそれが、崇高な善徳であっても、心奥に沈潜している罪の公害にさらされているのです。だから、イエズスとの一致によってのみ、獲得できる完徳に達するためには、自分の心奥に沈潜しているわるいモノから自身を浄化することが、最大の重要性をおびてくるのです。さもなければ、無限に清らかなイエズス、霊魂の中のごく小さいシミまでも無限におきらいになるイエズスは、わたしたちをみ前から遠ざけ、絶対にわたしたちと一致してはくださらないでしょう。

 

 

 

79.心奥のわるいモノから、自身を浄化するためのプログラム―

@何はさておき、聖霊の光のもとに、わたしたちの心奥にひそんでいるわるい酵素、わるい土壌の正体を見きわめることです。わたしたちは、救霊に必要な善は何ひとつできません。あらゆる面で弱い。いつも変わりやすい。神から恩寵を受ける資格は全然ない。どこでもわるいことばかりしている。原罪という名の人祖の罰が、その子孫であるわたしたちすべてを、霊肉ともほとんど全面的に、汚染してしまったのです。ちょうど、くさったパン種が、ねり粉全体をくさらせるように。

 そのうえ、わたしたち各自がおかした自罪が、一役も二役も買って出ます。それが大罪だろうが、小罪だろうが、また、たとえゆるされるものではあっても、自罪はわたしたちの邪欲、弱さ、変わりやすさ、道徳的退敗を増強し、霊魂の奥深にわるいカスを残します。わたしたちの身体は、聖霊が“罪のからだ”(ローマ6・6)とお呼びになっている、罪の公害で汚染しているのです。わたしたちのからだは、罪のうちに受胎され、罪のうちにはぐくまれたのです。だから、どんな罪でもおかすことができます。種々さまざまな病気におかされるべき宿命をせおい、日いちにちと死の腐敗が近づいていき、死んだらウジ虫にくわれ、くさり、チリに還元します。

 こんなはかない身体に合わされた、わたしたちの霊魂ですが、それは聖書に“肉”と呼ばれているほど、肉の支配下にあるのです。「すべての肉が、地の上で、その道をみだした」(創世記6・12)。わたしたちの分け前としてはただ、精神の高慢と盲目、心のかたくなさ、たましいの弱さと変わりやすさ、よこしまな欲望、霊に反抗する欲情、からだの病気だけです。

 わたしたちは、本能的に、クジャクよりも高慢、ガマよりも地上のものに愛着、雄ヤギよりも劣情、ヘビよりもネタミ深く、ブタよりも食いしん坊、トラよりも怒りっぽく、カメよりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりもクラクラ変わります。わたしたちの霊魂の奥深にあるものはただ、無と罪だけ。わたしたちが当然受けねばならないものはただ、神の怒りと永遠の苦罰だけ。

 

 

 

80.だからこそ、わたしたちの主イエズス・キリストが、ハッキリ言っておられるのです。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分のいのちを憎まねばなりません。自分のいのちを愛する者は、それを失い、わたしのために自分の命を憎む者はそれを救うのです。」(マタイ16・24、ルカ9・23)

 永遠の知恵であるイエス・キリストが、理由もなしに、そんなことをお命じになるはずはありません。わたしたちが大いに、みにあたいする者だからこそ、自分自身を憎め、とお命じになるのです。愛するねうちのあるものはタダ神だけです。憎んでも憎み足りない者は、自分自身よりほかに、だれもいません。

 

 

 

81.A次に、自分自身を浄化するためには、わたしたちは毎日、自分自身に死なねばなりません。別のことばで申せば、神の恩寵からではなく、わたしたち自身のエゴから出る霊肉の活動を封じなければなりません。見ても見えず、聞いても聞こえず、この世の事物を用いても、用いないかのよう。つまり、聖パウロが言っているとおり、「わたしたちは毎日、死ななければなりません」(コリント1・15・31)

「一粒の麦がもし、地に落ちて死ななければ、それはいつまでたっても一つのままです」(ヨハネ12・24)。もしわたしたちが、自分自身に死ななければ、わたしたちのどんなりっぱな信心でも、もしそれが自分自身への死につながらなければ、天国のためにはいかなる実も結ぶことができません。せっかくの信心も、骨折り損のクタビレもうけとなるだけ。どんなりっぱな善業を行っても、それはわたしたちの自愛心と我意に汚染されてしまうのです。この自愛心と我意こそ、わたしたちが行うことのできるどんなに偉大な犠牲行為、どんなに偉大な事業でも、それを神のみまえに憎むべきものとなすのです。そうした中で臨終のときがまいりましたら、わたしたちは一かけらの善徳もクドクもなく、また純粋愛の一閃もなく、まったく素寒貧で、神のみまえに出なければならないのです。この純粋愛ですが、それは「完全に自分自身に死んでいる人、しかもそのいのちがキリストとともに、神のうちにかくされてある人」(コロサイ3・3)にしか与えられません。

 

 

 

82.さいごに、あらゆる種類の聖母信心のうち、いちばんりっぱで、いちばんわたしたちを聖化するものは、わたしたちを自分自身に死なせるために、いちばん都合よくできた信心なのです。こうした聖母信心を選ばねばなりません。光りかがやいているものがみな、黄金だと考えてはいけません。甘いものがみな、ハチミツとはきまっていません。いちばん多くの人が実行しやすいから、それがいちばん霊魂の聖化の信心だと思ってはなりません。

 わずかな時間、わずかなカネで、やすやすと生産性の効率を高める秘けつが人間世界にあるように、恩寵の世界でも、わずかな時間で、ニコニコしながら、やすやすと、超自然的仕事をやってのける秘訣がちゃんとあるのです。その秘訣というのは、自分自身を空にすることです。自分自身に死ぬことです。こうして神に満たされ、完徳に達するのです。

 わたしが、これから公開しようとしている恩寵の秘けつは、まだ大部分のキリスト信者にとって親展極秘です。少数の信心家が、ちょっぴり知っているようです。それを実行して、そのダイゴ味に舌つづみを打っているのは、ごくわずかなベテラン信心家だけです。この新しい信心法を公開する前に、先に述べた第三の真理の続きともいうべき、第四の真理に移りましょう。

 

 

 

第C項 第四の真理―仲介者イエズス・キリストのそばには、もう一人の仲介者が必要

 

 

83.わが身のいやしさを反省して、仲介者なしには神に近づかない―これは、わたしたちにとって、謙遜なやりかたです。だから神のみまえでも、いっそう完全なやりかたです。先に述べたとおり、わたしたちの霊魂の精ずいは、たいへん腐敗していますので、神にいたるため、もしわたしたちが、自分自身の働き、努力、準備にだけたよるなら、どんなに良い行いをしても、それはみんな罪の公害に汚染されているのです。そうした中で、どんなに良いことをしても、神のみまえではたいしたねうちもなく、したがって神との一致もできねば、神から祈りを聞きいれていただくこともできません。

 神は、そんなわけで、わたしたちのことを思えばこそ、前もって、ご自分のそばに、仲介者を置いてくださるのです。神は、わたしたちの無資格と無能をごぞんじです。神は、そうしたわたしたちを、あわれんでくださいます。だからこそ、わたしたちが、ご自分のあわれみの座に近づくことができるようにと、ご自分のそばに、有力な仲介者を指名してくださるのです。当然の結果として、もしわたしたちが、これらの紹介者を無視して、だれの紹介状もなく、じかに神と接触するなら、それは思い上がりです。謙遜さが足りない証拠です。かくも偉大、かくも聖なる神への尊敬の欠如です。それは、王たちの王である神を、この世のちっぽけな王さまよりも、低く見ることです。どんなちっぽけな王さまでも、側近の紹介なしには、だれとも会わないからです。

 

 

 

84.わたしたちの主イエズス・キリストは、父なる神のみまえにおける、わたしたちの弁護者・仲介者です。キリストによってこそ、わたしたちは、天上・地上の全教会とともに祈らねばならないのです。キリストによってこそ、わたしたちは稜威あまねき神に近づくことができるのです。キリストのあがないのクドクに支えられ、キリストのあがないのクドクを着ないでは、絶対に父なる神のみまえに出てはならないわたしたちののです―あたかもその昔、若きヤコブが父の祝福を受けるために、子ヤギの毛皮を首と両手に着けて、父イザアクの前に出たように。

 

 

 

85.だが、しかし、仲介者イエズス・キリストに取り次いで頂くため、もう一人の仲介者が、わたしたちには必要ではないのでしょうか。わたしたち人間には、キリストにじかに一致できるほど、またそれが自力でできるほど純粋なのでしょうか。キリストは、万事において御父と同等な、神ごじしんではないのですか。したがって、聖の聖なる者、御父と同じ尊敬にあたいするかたではないのですか。

 キリストは、わたしたちを限り無く愛すればこそ、神なる御父のみまえに、わたしたちの保証人となり、仲介者となってくださいました。御父のお怒りをやわらげ、わたしたちが御父に支払うべき負債を返してくださるためです。だからといって、キリストの無限の稜威(みいず)、無限の聖性に対して、尊敬と畏敬の念をミニ化してもいいのでしょうか。

とんでもない。聖ベルナルドにご登場ねがいましょう。かれらはこう言っています。

―もう一人の仲介者が必要です。そしてマリアこそ、この仲介者です。マリアこそ、この愛の役務を果すのに最適任者です。マリアをとおってこそ、イエズス・キリストは、わたしたちのほうにやって来られたのです。だから、わたしたちはマリアをとおしてこそ、イエズス・キリストのもとに行かねばなりません。

 神であるイエズス・キリストの無限の偉大さのために、またはわたしたちの卑しさ惨めさ罪深さのために、直接かれのもとに行くのが恐いのなら、勇気をふりしぼって、わたしたちの母なるマリアの助けと取り次ぎをねがいましょう。マリアは、よいかたです。マリアは、優しいかたです。マリアは近づき難いかたではなく、たのまれたことをすげなくことわるかたでもありません。お高くとまってもいず、まぶしくて顔もあげられないかたでもありません。マリアは、わたしたち人間とちっともちがわないかたです。

 マリアは、太陽ではありません―その先があまり強すぎて、わたしたちの弱い眼を眩惑させる太陽ではありません。マリアは、月です。美しくやわらかい光を、おだやかに地上にそそぐ月です。マリアはキリストという名の太陽から強烈な光を受けてそれをご自分において、わたしたちの弱い眼にかなうように調整してくださる月です。マリアはたいへん、いつくしみ深いかたです。

 ご自分に取り次ぎをねがう人を、だれひとりこばみません―どんなに大きな罪びとでも。聖人たちが言っているように、マリアのご保護によりすがり、しんぼうづよく祈った者が捨てられたことは、昔から今にいたるまでいちども聞いたことはありません。

 マリアは、神のみまえに、たいへんな勢力をもっておられます。神におねがいしてことわられたことは、タダの一度もありません。御子イエズスのみまえに出るだけで、それがすなわち祈りにつながるのです。だからイエズスは、すぐにマリアのねがいにこたえ、すぐにマリアのたのみを聞いてくださるのです。御子イエズスは、ご自分がかって吸った御母マリアの乳房、ご自分がかって宿ったマリアのご胎をひと目みるだけで、いつもマリアのねがいにわざと負けてくださるのです。

 

 

 

86.右に言ったことはみな、聖ベルナルドと聖ボナベントラの本から取ったものです。この二人の聖人によると、わたしたちは神に達するには、三つの段階を、つぎつぎにのぼらねばなりません。

 第一の段階は、わたしたちにいちばん近く、わたしたちの登はん能力にいちばん適しているもの―それは、マリアです。

 第二の段階は、イエズス・キリスト。

 第三の段階が、神である御父です。

 イエズスに達するには、マリアをとおらねばなりません。マリアこそ、わたしたちのことを、イエズスに取り次いでくださる仲介者です。

永遠の御父に達するにはイエズスをとおらねばなりません。イエズスこそ、あがないにおけるわたしたちの仲介者です。ところで、わたしがこれから公開しようとしている信心は、この秩序を正確にふまえたものです。

 

 

 

第D項の真理―神の賜物を安全にしまっておくことはたいへんむずかしい

 

87.わたしたちは弱く、もろいものですから、神からいただいた恩寵や宝を、自分のうちに安全にしまっておくことは、たいへんむずかしいのです。そのわけは、こうです。 @天地にまさる「この宝を、わたしたちは土の器の中に入れているのです。」(Uコリント4・7)すなわち、腐敗すべきからだの中に、弱く不安定な、変転きわまりない霊魂の中に入れているのです。

 

 

 

88.A悪魔が、ウデききのスリのように、不意にわたしたちを襲って、この宝をかっぱらおうとたくらんでいます。悪魔は、夜となく昼となく、チャンスをねらっています。悪魔はまた、「ほえたけるライオンのように、わたしたちを食いつくそうと、歩きまわっています。」(Tペテロ5・8)好機到来。タッタ一つの罪で、アッというまに、悪魔はわたしたちの宝を、わたしたちが何年何十年もかかってたくわえた恩寵とクドクの宝を、みごとにかっぱらってしまうのです。

 なんという不幸なのでしょう。悪魔のずるがしこさ、その長年の経験、そのたくみな手腕、そのウンカのような頭数―それを考えれば、どうしてこの不幸を恐れないでいられましょうか。いわんや、わたしたちよりも、もっと恩寵においてもっと卓絶していた人びとが、不幸にも悪魔の強盗に襲われて、何もかもはぎとられてしまったのです。ああ、どれほど多くのレバノンの大杉が、どれほど多くの大空の巨星が、一瞬のうちに、地にたおれ、地において、その見上げるほどの聖性の高さと、かがやきを失ったことでしょう。

 このサンタンたる不幸は、どこから来たのでしょうか。神の恩寵が足りなかったのでしょうか。いいえ。神の恩寵はだれにも不足していません。この不幸は、かれらの謙遜さの不足から生じたのです。かれらは自分の力を過信したのです。自分の宝は自力でまもれる、と信じ込んでいたのです。あまりにも自分自身にたよっていたのです。自信過剰だったのです。自分の家は十分戸じまりがしてあるから、自分の金庫にはちゃんとカギがかけてあるから、神からいただいた恩寵の貴重品は大丈夫だ、と安心しきっていたのです。意識の深層にひそかにかくれひそんでいたこの自己満足、このウヌボレのためにこそ、神は罰として、かれらを自身の力だけに打ちまかせ、こうしてかれらが盗難に会うことをおゆるしになったのです。ああ、もしかれらが、わたしがこれから公開しようとしている信心を知っていたら、きっと自分の宝を、力づよく正直なマリアさまに、あずけたでしょうに。マリアさまはあずかった宝はご自分の宝のように保管されたはずです。―しかも、そうすることが、ご自分の重い義務でもあるかのように。

 

 

 

89.B世の中が道義的にたいへん腐敗していますので、教えをまもりとおすことが困難になってまいりました。このごろ、社会のモラルが地におちましたので、信心家でさえまるで必然の運命でもあるかのように、心がドロにではないが少なくともチリにまみれています。こうした中で、激流におしながされず、あらしの吹きすさぶ大海にも難破せず、また海賊の難にも会わず、風俗びん乱の公害にもめげず、毅然として信仰をまもりとおすことは、なんといっても奇跡です。

 だれが、この奇跡を行ってくださるのでしょうか―まだ一度もヘビにかまれたことのない“忠実なおとめ”マリアこそ。マリアは、ご自分を優しく愛する人々に対して、こうした奇跡を行ってくださるのです。

 

 

 

第二節 マリアへのウソの信心

 

90.以上述べた五つの真理を前提として、これから、マリアへのまことの信心を、きびしい鑑識眼をもって、選別せねばなりません。マリアへのウソの信心が、異例のペースではんらんしていて、しかもそれがホンモノとごっちゃにされやすいからです。悪魔は、ニセガネ造りの名人、ウソつきの名人です。だから、マリアへのウソの信心によって、すでに多くの霊魂をだまし、地獄におとしています。悪魔は、例の経験にものをいわせて、くる日もくる日も、次から次へと、霊魂を罪のうちに愉快に遊ばせ眠らせて、地獄におとしているのです。口先だけで祈っていても、外面的な信心業をしていても、だいじょうぶ天国に行ける、と信者をだましているのです。

 ニセガネ作りは一般には、金貨と銀貨しか作りません。銅貨やほかのカネは、ごくまれにしか作りません。金貨や銀貨ほどねうちが無いからです。悪魔の手口も同じこと。悪魔が偽造するのは、イエズスとマリアへの合同信心、聖体拝領への信心、マリアへの信心―だけです。これらの信心は、ほかのあらゆる信心の中で、特に光っているからです。ちょうど、金と銀があらゆる金属の中で、いちだんと異彩を放っているように。

 

 

 

91.だから、何よりもまず、マリアへのウソの信心とは何か。マリアへのまことの信心とは何か。をハッキリ知ることが、もっともだいじです。ウソの信心を捨て、まことの信心を実行するためです。次に、マリアへのまことの信心の中でも、実行面で、いろいろちがった信心業があるのですが、どれがいちばん完全なのか、どれがいちばんマリアのお気に召すのか、どれがいちばん神に栄光をきすのか、どれがいちばんわたしたちの聖化に寄与するのか、を知ることが、もっとも重要なポイントです。それが分かれば、この信心が好きで好きでたまらなくなるからです。

 

 

 

92.マリアへのウソの信心が七種類、したがってマリアへのウソの信心家も七種類があるようです。すなわち、マリア信心への@よろず評論型信心家、Aオドオド型信心家、Bチンドン屋型信心家、Cワンマン型信心家、Dシリ焼け型信心家、Eパリサイ型信心家、Fエコノミック・アニマル型信心家。

 

 

 

第@項 よろず評論型信心家

 

93.よろず評論型信心家とは一般に、高慢な学者、自信過剰の知識人のことです。この先生がたも心のそこには、マリアへの信心をいくらかもってはいます。しかし、かれらは、あまり学のない信者が単純に、敬虔に、マリアにささげている具体的信心のほとんどすべてを、自分たちの気に入らないからといって批判し論難しています。十分に信用にあたいする著者が報道している、奇跡や歴史的事実も疑っています。マリアのあわれみと力づよさを実証する、諸修道会の年代史も信じません。

 神に祈るため、街角にあるマリアのご像や、ご絵の前にひざまづいている単純素朴な、謙虚な人たちを見ると、もう我慢できません。やつらは偶像崇拝者だ、木や石をおがんでいるじゃないか、と盛んに非難します。おれたちはこんなウワベばかりの信心は大きらい。マリアにまつわる、子供だましのオトギばなしや、架空的伝説を信じるほど、おれたちは単純細胞じゃない、とかれらは傲語しています。

 それでも教父たちは、マリアさまに、りっぱな讃辞を呈していますョ、とでも言ってごらんなさい。かれらはオオムがえしに、いや、それは説教の練習に、教父たちがホラを吹いたのだ、というにきまっています。と同時に、教父たちのマリア讃辞に、ちがった解釈をするのです。

 この傲慢で俗っぽく、ウソの信心家に対しては、大いに警戒せねばなりません。マリアへの信心に、大きな実害を与えているからです。おれたちは、マリア信心から、有害な毒素を除き去るのだ、と強弁しながら、じつは人びとを徹底的に、マリアへの信心から遠ざけているのです。

 

 

 

第A項 オドオド型信心家

 

94.オドオド型信心家とは、御母マリアを尊敬すると、それだけ御子イエズスに対して無礼になるのではないか、御母マリアをたたえると、それだけ御子イエズスをくさすことになるのではないか、といつもクヨクヨ心配している信心家のことです。かれらは、教父たちが丹精こめてマリアにささげた、ごくあたりまえの讃辞を、信者が同じように、聖母にささげるのをがまんできません。ご聖体の祭壇よりも、聖母の祭壇の前に、人が多くひざまついているのを見てもがまんできません。御子イエズスと御母マリアが互に、対立関係にあるとでも思っているのでしょうか。御母マリアに祈ることは、それじたい、御子イエズスに祈らないことだ、と信じ込んでいるのです。かれらは、人がしばしばマリアについて語り、しばしばマリアのもとに馳せていくのを見て、マユをひそめています。

 かれらがふだん、もちだす言いぶんはこうです。―そんなにたくさんロザリオをとなえて、そんなにしばしば黙想会にあずかって、そんなにしげしげ聖母に信心をして、いったい何の役に立つのですか。そんなことは、学のない者がすることです。そんなことをすれば、われわれの宗教が笑いものにされますョ。イエズス・キリストへの信心のことばかり話しましょう。イエズス・キリストのもとにこそ、馳せて行かねばならんのです。イエズス・キリストこそ、わたしたちの唯一の仲介者ではありませんか。イエズス・キリストのことだけ、説教しなければなりません。

これが本当の信心というものです。・・・

 なるほどかれらの言い分にも一理あります。しかし、かれらは、自分らの理論の応用の面で、まちがいをおかしています。すなわち、イエズス・キリストへの信心促進という、より大きな大義名分のために、マリアへの信心を妨害している、という点が、たいへん危険な思想であって、ここにこそ悪魔がたくみにしかけた、おとし穴があるのです。なぜならマリアを尊べばそれだけ、イエズス・キリストを尊ぶことになるのです。イエズス・キリストをますます完全に尊びたいからこそ、マリアを尊ぶのではありませんか。わたしたちの人生の終着駅は、イエズス・キリストです。終着駅への道がマリアです。マリアのもとに馳せて行くのです。

 

 

 

95.聖なる教会は、聖霊とともに(ルカ1・42)まずマリアを、次にイエズス・キリストを、それぞれ祝します。「あなたは女の中で祝され、またご胎の御子イエズスも祝されたもう」(天使祝詞)それは、マリアがイエズス・キリストよりも偉大だからではありません。イエズス・キリストと平等だからではありません。もしそうだったらこれは大変な異端です。

 そうではなく、イエズス・キリストをふさわしく祝するためには、どうしてもその前にマリアを祝させねばならないからです。だから安心して、オドオド型信心家どもの反対をよそに、ホンモノ信心家とともに、マリアを祝して祈りましょう。「ああ、マリア。あなたは女の中で祝され、またご胎の御子イエズスも祝されたもう」

 

 

 

第B項 チンドン屋型信心家

 

96.チンドン屋型信心家とは、マリアへの信心をもっぱら、外面的なわざに限定する人たちのことです。かれらは内的精神をもたないのですから、マリアへの信心でも、その外面的わざにしか興味がありません。大いそぎでロザリオをとなえます。心は散らしたままで、幾つものミサにあずかります。漫然と教会の行列にもあずかります。黙想会にもあずかりますが、でたらめな生活をいっこうに改善しません。情欲も自主的に規制しません。マリアの善徳も模倣しません。

 信心の感覚的方面だけが好きで、中身を味わうことができません。外面的信心業に感激をおぼえなくなると、もう信心はダメだ、信心なんて愚の骨頂だ、とグチをこぼします。あげくの果ては、信心を全然やめるか、それとも時々思い出したようにかしません。世間にはこんな、チンドン屋型信心家が多いものです。しかもこの人たちぐらい、本当に祈っている人を、きびしく非難する者もありません。本当に祈っている人は、信心の内面的要素を、本質的なものと考えて、これと取組み、それでいて、本当の信心につきものの外面的つつましさも、おろそかにしません。これが、チンドン屋さんにとって、目の上のタンコブです。

 

 

 

第C項 ワンマン型信心家

 

97.ワンマン型信心家とは、情欲のおもむくままに、自由放題に生活している罪びと、世俗精神の愛好家のことです。口では、おれはキリスト信者だ、聖母信心家だ、と偉そうなことを言いながら、心の中には傲慢、貪欲、不品行、暴欲、憤怒、不正、悪口、不正義などの諸悪をかくし持っています。悪い習慣の中に平気でねむっています。おれはマリアさまに信心をしているのだから、というウマイ口実をもうけて、いっこうに自分の悪徳をたて直そうとはしません。

 自分は毎日、ロザリオをとなえているのだから、毎土曜日、聖母をたたえるため断食をしているのだから、ロザリオやスカプラリオの信心会に籍を置いているのだから、聖母崇敬の信心用具を身につけているのだから、ああもしているし、こうもしているのだから、臨終のとき神はきっと、わたしの罪をゆるしてくださるにちがいない、よもや告解の秘跡も受けないで死ぬことはあるまい、とタカをくくっています。

 このように、のん気にかまえているかれに向って、いや、あなたの信心はまちがっています、それは悪魔からくる迷いです。あなたを地獄におとす可能性のある、危険な思い上がりです、とでも言ってごらんなさい。絶対に信じはしませんから。反発的にこう言うでしょう。―いや、神さまはお人よしで、あわれみ深いかたです。地獄におとすために人間を、お造りになったのではなりません。だれだって罪はおかすでしょう。まさか告解の秘跡も受けないで死ぬことはあるまい。臨終のときタダ一言、神さま、わるうございました、といえばそれですむのじゃないでしょうか。

それにわたしは、ちゃんとマリアさまに信心をしております。

 マリアさまのスカプラリオも、ちゃんと身につけています。毎日、マリアさまのご栄光のために、「主の祈り」を七度、それも忠実に謙虚に、となえています。ときどきは、ロザリオも、聖母の小聖務日課も、となえていますし、断食もしております、などなど。かれらは、自分たちの言い分を確証し強調するため、人から聞いたのか、本で読んだのか知らないが、とにかくウソかマコトか分からぬ“実例”をもち出します。それによるとこうです。ある人が大罪をもちながら、告解もせずに死んだ。だが、かれは生前、いくらか祈りもとなえていたし、また聖母信心のわざも実行していたので、告解するために奇跡的に生き返ったそうな。またある人は本当に息をひきとったが、その霊魂は告解の秘跡を受け終わるまで、からだから離れなかったとか。またある人はマリアさまのお情けによって、痛悔の罪のゆるしを神からいただき、めでたくも大往生をとげたとか。

恵みだから、自分たちもマリアさまから、同じ恵みを期待しているんでございますョ、と言っているのです。

 

 

 

98.わがキリスト教において、こうした悪魔的な思い上がりほど、危険なシロものはありません。なぜなら、自分がおかしている罪によって、御子イエズス・キリストを、もう一度ムチ打ち、つき刺し、十字架につけ、情け容赦もなく侮辱している者が、おれは御母マリアさまを愛している、マリアさまを尊敬している、と真実に言えるでしょうか。

 もしマリアが、この種の罪を是認している、ということにはなりませんか。

つまり、御子イエズスを、もう一度、十字架につけ、侮辱する仕事に、マリアが協力している、ということにはなりませんか。しかし、どうしてそんなことが考えられますか。

 

 

 

99.ご聖体のうちにおられるイエズス・キリストへの信心の次に、いちばん神聖な、いちばん堅実な信心であるべき聖母への信心の、こうした乱用は、まさに、いちばん大きな、いちばんゆるしがたい汚聖であるべき、汚聖の聖体拝領に次ぐ汚聖である、とわたしはあえて断言します。

 聖母への本当の信心をするには、望ましいことですが、必ずしもすべての罪をさける大聖人である必要はありません。だが、少なくとも(これからわたしの言うことをまじめに聞いてもらいたい)

第@に、御母マリアと同様、御子イエズスも侮辱するすべての大罪をさける、という誠実な強固な決心をもっていなければなりません。

第Aに、罪をさけるために、自分にきびしい規制をほどこさねばなりません。

第Bに、ある信心会に加入する、ロザリオの祈り、またその他の祈りをとなえる、土曜日に断食をする、などの具体的信心業を実行せねばなりません。

 

 

 

100.こうした信心業は、どんな罪人にとっても、頑固な罪人にとってさえも、不思議なほど有益です。この本の読者の中に、そうした罪びとがいますなら、また、たとえ片足を地獄の入口に突っ込んでいる罪びとがいましても、わたしはかれらに右の信心業をおすすめします。だが、次の条件をまもらねばなりません。すなわち、これらの善業を実行するその意図は、マリアのお取り次ぎによって、悔い改めと、おかした罪のゆるしの恵みを神からいただくことにあるのであって、絶対に良心のトガに反して、またイエズス・キリストの良い模範、聖人たちのりっぱな手本に眼をつむって、さらにまた福音のとおとい教えに耳をふさいで、安閑といつまでも、罪の状態にふみとどまっているためではないことを強調しておきます。

 

 

 

第D項 シリ焼け型信心家

 

101.シリ焼け型信心家は、散発的に、気まぐれに、マリアに信心をする人たちのことです。かれらは、熱しやすく、さめやすい。おれはマリアさまのためなら、なんでもやってやるぞ、という構えを見せているのですが、しばらくたつと、もとのモクアミにかえってしまいます。最初は、マリアさまに関連のある、ありとあらゆる信心業を片っぱしからやってのけます。いろんな信心会にも入会します。だが、まもなく規約も何も、忠実にまもらなくなります。

 かれらは月のように、満ちたり欠けたり。だから、マリアの信用がありません。マリアが、三日月の上に乗っておられるように、かれらの場も、マリアの足の下です。変わりやすいから、マリアのしもべとしては、使いものになりません。マリアのしもべのバッチは、“忠実と堅実”という文字が大書してあります。祈りや信心業は、あんまりたくさんしないほうがいい。むしろ、世間が、悪魔が、肉が、どう言おうと、そんな信心業は量を減らして、かわりに愛と忠誠心をもって、それをしたほうが、はるかにいいのです。

 

 

 

第E項 パリサイ人型信心家

 

102.マリアへの信心をする人びとの中にも、パリサイ型信心家という、ニセモノ信心家がいます。人から聖人と見られたいために、自分の罪とわるい習慣を、聖母のいともきよらかなマントでカバーする、不逞の徒です。

 

 

 

第F項 エコノミック・アニマル型信心家

 

103.エコノミック・アニマル型信心家という者もいます。ふだん、無事平穏のときには、マリアのことなど全然念頭にありません。ただ有事の際だけ、たとえば、訴訟に勝つため、危険から脱出するため、病気をなおしてもらうため、その他、この種の地上的ご利益がほしいときだけ、マリアのもとに馳せていくのです。まったく、あぶないときの神だのみ式信心です。

 以上に述べたのは、どれもこれも、ウソの信心家です。かれらは、神のみまえにも、御母マリアのみまえにも、三モンの価値もありません。

 

 

 

104.だから、用心に用心をして、そんな者にならないように気をつけましょう。

 なにも信じないで、ただ批評非難ばかりしている、よろず評論家型信心家にならないように。イエズス・キリストへの尊敬をタテにして、マリアにあまり信心しないようにと、いつもクヨクヨしている、オドオド型信心家にならないように。信心のすべてを、ただ外面的信心業にだけ限定している、チンドン屋型信心家にならないように。マリアへのウソの信心を口実に、罪の中に惰眠をむさぼっている、ワンマン型信心家にならないように。軽率にも、信心業をクラクラ変え、わずかな誘惑にもすぐにそれを投げてしまう、シリ焼け型信心家にならないように。人から聖人と思われるために、いろいろな信心会に入会したり、聖母のスカプラリオなどを身につけている、パリサイ型信心家にならないように。さいごにからだの病気や不安から逃してもらうため、または現世的ご利益をもらうためにしか、マリアのもとに馳せいかない、エコノミック・アニマル型信心家にならないように。

 

 

 

第三節 マリアへのまことの信心とその特長

 

105.マリアへのウソの信心の正体をみぬき、それを断罪したあと、こんどは、マリアへのまことの信心はどうあるべきか、をハッキリさせなければなりません。

マリアへのまことの信心は、@内面的なもの、 A愛情のこもったもの、 B聖なるもの、 C不動なもの、 D無欲なものでなければなりません。

 

 

 

 

第@項 内面的な信心

 

106.マリアへのまことの信心の第一の特長は、それが内面的だということです。すなわち、この信心は、精神と心から、でてくるのです。マリアについていだいている尊敬の念から、マリアへの偉大さについての高度の認識から、マリアへの熱く優しい愛から、発生しているのです。

 

 

 

第A項 愛情のこもった信心

 

107.まことの信心の第二の特長は、それが愛情のこもったものだということです。つまり、マリアに対する信頼に満ちた信心です。

ちょうど子供が、母親に対してもっている信頼のような。まことの信心をもつ人は、からだと精神のあらゆる必要事にさいして、正直に、信頼をもって、愛情をこめて、マリアのもとに馳せていきます。

どんなとき、どんな場所、どんな事がらにおいても、マリアの助けを呼ばわります。

疑惑の雲にとざされたときには、心を照らしていただくため。道に迷ったときには、正道にひきもどしていただくため。誘惑のときには、勇気をささえていただくため。弱いときには、強めていただくため。罪の穴におちこんだときには、ひき上げていただくため。絶望におちいったときには、はげましていただくため。小心でクヨクヨしているときには、自己中心の小さなカラから脱出させていただくため。十字架、苦労、逆境のときには、なぐさめていただくために。

 さいごに、からだと精神のあらゆる不順、あらゆるわずらいのとき、まことの信心家は何はともあれ、マリアのもとに馳せて行きます。マリアをうるさがらせる心配もなければ、マリアへの信心のために、御子イエズスに、不愉快な思いをさせるのではなかろうか、との心配も毛頭ありません。

 

 

 

第B項 聖なる信心

 

108.まことの信心の第三の特長は、それが聖だということです。すなわち、マリアへのまことの信心は、人に罪をさけさせ、マリアの諸徳を模倣させます。

とりわけマリアのふかい謙虚、いきいきとした信仰、目をつぶっての服従、たえまない祈り、あらゆる面での苦業、英雄的な忍耐、天使的な柔和、神々しい純潔、熱烈な愛徳、神的英知、をまねさせます。以上の諸徳は、マリアの十大善徳と呼ばれています。

 

 

 

第C項 不動の信心

 

109.マリアへのまことの信心の第四の特長は、それが不動だということです。それは人を、善の中に強化し固定し、信心業をかんたんに放棄しない方向へともって行きます。まことの信心は人を、世間に対して、世間のムードとコトワザに対して、勇敢にします。肉に対しても、肉の倦怠と挑戦に対しても、勇敢にします。悪魔とその誘惑にも、勇敢にします。そんな訳で、アリアへのまことの信心をもっている人は、人生の順境においても逆境においても、不変不動です。グチもこぼさねば、泣きもせず、恐れもしません。ときたま、信心の甘美に酔いしれて、失敗をしでかさないともかぎりません。だが、失敗しても、倒れても、御母マリアに手をさしのべて、すぐに立ちあがります。信心が無味乾燥になっても、ちっとも心配しません。マリアの忠実なしもべは、イエズスとマリアへの“信仰に生きる”(ヘブル10・38)のであって、けっしてからだの感覚にささえられて生きるのではないからです。

 

 

 

第D項 無欲な信心

 

110.さいごに、マリアへのまことの信心の第五の特長は、それが無欲だということです。つまり、まことの信心は人に、自分じしんのことを求めるのではなくて、マリアにおいて、ただ神のことだけを求めるように、とすすめるのです。マリアへの本当の信心家は、けっして自分じしんの利益や利害関係から、マリアに仕えるのではありません。自分じしんの地上善獲得のため、または永遠善獲得のためにマリアに仕えるのではありません。それはもっぱら、マリアが自分の奉仕にあたいするからこそ、また、マリアにおいて自分はただ神にだけ仕えているからこそ、マリアに仕えるのです。

 マリアへのまことの信心をもっている人が、マリアを愛するのは、マリアから何か、もらうためではありません。マリアに何かもらおうと期待しているからでもありません。マリアを愛さずにはいられないから、マリアを愛するのです。だからこそ、信心において無味乾燥なときも、倦怠を感じているときも、感覚的な甘さや熱心さにひたっているときと同様の忠実さをもって、マリアを愛し、マリアに仕えるのです。はなやかなカナの結婚披露宴でも、凄惨なカルワリオの丘でも、おなじようにマリアを愛するのです。

ああ、このように無私無欲なマリアのしもべ マリアへの奉仕において全然、自分じしんのことを求めないしもべは、神とマリアのまなざしのまえに、どれほど好ましい貴重な存在なのでしょう。同時に、こうした無私無欲なしもべは、どれほど少ないでしょう。こうしたしもべが、ますます少なくなっていかないためにこそ、わたしは今こうして、ペンを取って、自分がこれまで公の場で、とりわけ長年間、自分の宣教の場で、人びとに教えてきたことを書きしるそうとしているのです。

 

 

 

第四節 この完全な信心についての予言的声明

 

 

111.わたしは、マリアについては、じつにたくさんのことを書いてまいりました。が、まだ書き足りないと思うのです。わたしは、マリアの本当のしもべ、イエズス・キリストの本格的な弟子を養成したい意図をもっていますので、マリアについてはまだまだたくさんのことを言いたいですし、それだけにまた、自分の学識の不足から、また時間の不足から、書きもらすことがずいぶん多いだろうと思うのです。

 

 

 

112.ああ、もしわたしのこの小さな本が、霊的に氏も育ちも良い人―すなわち「血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく」(ヨハネ1・13)ただ、神とマリアによって生まれた人の手にはいり、さらにこの本が、わたしがこれから書きしるそうとしている、マリアへのまことの堅実な信心の優秀さと価値を、聖霊の恵みによって、この人に見いださせ霊感してくれるなら、わたしの苦労はむくいられてなお余りあるというべきです。

 わたしの最も愛する母マリア、わたしの最も尊敬する女王マリア―わたしはマリアの最もツマラヌ子であり、最もいやしいしもべですが―このマリアのみ栄えのために、わたしがこれから書きしるそうとしているもろもろの真理を、読者の心の中にそそぎ入れるために、わたしのけがれた血でも、もし役にたちますなら、わたしは喜んでインキのかわりに、自分の血で、この原稿を書いていきたいものです。読者の中には、わたしが述べる信心の実行に忠実なかたが、きっとおられることと希望しております。

どうか、そういう忠実な読者が、わたしが自分の忘恩と不忠実によって、最も愛すべき母マリア、最も尊敬すべき女王マリアにおかけした、もろもろの莫大な損害をつぐなってくださいますように。

 

 

 

113.わたしが心の奥そこに秘蔵してきたすべての企画―しかもその実行を、何年も前から神に祈り続けてきたすべての企画が、いよいよ近い将来に、達成への糸ぐちを見いだすのではなかろうか、との予感がしきりに、わたしの脳裏をかすめるきのうきょうなのです。この企画が、達成への糸ぐちをつかむとき、マリアはおそかれ早かれ、もっと多くのこども、しもべ、愛のドレイを持つようになるでしょう。そしてこの人たちの活躍のおかげで、イエズス・キリストが今までよりもいっそう強力に、人びとの心の中で、ご自分の支配権を行使されるでしょう。

 

 

 

114.わたしは、こんなことを予測しているのです。すなわち、この小さな本と、それを書くため聖霊がお使いになった人(=著者)を、悪魔的な歯でかみ砕き、八ッ裂きにしようと、多くの敵どもが、怒り狂う野じゅうのように、襲いかかってくるでしょう。すくなくともかれらは、この本を出版させないために、どこかの倉庫の片すみに、やみと沈黙とホコリの中に埋没させるでしょう。そればかりでなく、この本を読んで、まことの信心を実行する人々に対してさえも、迫害の手をのべるでしょう。

かまうもんですか。いや、それで結構。こうした展望は、わたしを大いにはげまし、大成功まちがいなし、との希望さえ与えてくれるのです。つまり、まもなく急テンポでやってくる宇宙ぐるみの超非常事態に際会して、イエズスとマリアの大軍団が、しかも忠勇無双の男女両兵士の大軍団が、世界のずい処に旗あげをし、世俗に対して、悪魔に対して、腐敗した人間性に対して、血みどろの戦いをいどみ、最後には勝利をおさめるのです。

“読者は、よく読み取るように”(マタイ24・15)“それができる者は、それを受け入れなさい”(マタイ19・12)

 

 

 

第五節 マリアへの信心のうち、どんな信心業を選ぶべきか

 

115.マリアへのまことの信心の内面的な信心業はたくさんありますが、そのうちの主要なものを簡単に述べましょう。

@マリアを、神の御母として、“崇敬”する。すなわち、マリアを、すべての聖人にまさる者として恩寵の傑作として、神人イエズス・キリストの次に偉大な者として、高く評価し敬慕する。

Aマリアの善徳・特権・行為を黙想する。

Bマリアの偉大さを観想する。

Cマリアに、愛と賛美と感謝の気もちをあらわす。

D心からマリアに呼ばわる。

E自分のすべてをマリアにささげ、マリアと一つになりきる。

Fマリアを喜ばせるために、すべてのわざをなす。

G自分のすべてのわざを、マリアによって、マリアのうちに、マリアとともに、マリアのために始め、続け、終わる。

 それを、わたしたちの、終局の目的であるキリストによって、キリストのうちに、キリストとともに、キリストのために行うためです。この最後の、すなわちG番目の信心業については、のちほどくわしく説明します。

 

 

 

116.マリアへのまことの信心には、外面的な信心業もいくつかありますが、そのうちの主要なものを左にしるしましょう。

@マリア関連の信心会、使徒職に加入する。

Aマリアの栄光のために創立された修道会に入会する。

B公にマリアをたたえる。

Cマリアの栄光のために、ほどこし・断食・精神的・肉体的苦業をする。

Dロザリオ、スカプラリオ、などのマリア関連の信心用具を、いつも身につける。

E注意して、熱心に、敬虔に、次の祈りを唱える。―イエズス・キリストの主要な十五の奥義をたたえて、十五連のロザリオの祈り。または、マリアへのお告げ、マリアのご訪問、主の降誕、主の奉献、神殿内での発見、という五つの喜びの奥義をたたえてロザリオ五連。

ゲッセマニの園での主のご心痛、ムチ打ち、イバラの冠、十字架の道、十字架上の死苦、など主の五つの苦しみの奥義を尊んで、ロザリオ五連、主の復活、主の昇天、聖霊降臨、聖母の被昇天、聖母の戴冠式、など五つの栄光の奥義をたたえてロザリオ五連。マリアのおとしをたたえて“めでたし”六十回、または七十回(マリアは六十歳か七十歳かでおなくなりになったそうです)。マリアの十二の星の冠、すなわち十二の特権をたたえて、“天にまします”を三回、“めでたし”を十二回。

または、全教会に受け入れられ、となえられている「聖母の小聖務日課」。聖ボナベントラ編集の「聖母の小詩篇」。これをとなえると、おとなでも子供の心になり、マリアに対して本当に心が優しく、信心が深くなります。次にマリアの十四の歓びをたたえて、“天にまします”と“めでたし”を各十四回。

 または教会が推薦する祈り、賛美歌など、たとえば典礼の季節に応じて、となえたり、歌ったりするサルヴェ・レジナ”Salve Regina”(聖霊降臨後節)、アルマ・レデンプトリス・マーテル”Alma Redemptoris Mater”(待降節)、アベ・レジナ・チェローム”Ave Regina coelorum”(降誕節)、レジナ・チェリ”Regina Coeli”(復活節)。その他、祈祷文や聖歌集にいっぱいのっている祈り、または賛美歌。たとえば、聖母の賛美歌といわれるマグニフィカト”Magnificat”又はオ・グロリオーザ・ドミナ”Ogloriosa Domina”

Fマリアをたたえて、霊的賛美歌を、自分も歌い、ひとにも歌わせる。

Gマリアのみ前に何度も何度も、尊敬のしるしに、ヒザを折ったり、礼をする。たとえば毎朝、百回も六十回も、“アベ・マリア・ビルゴ・フィデリスAve Maria Virgo Fidelis”(めでたしマリア、忠信なる童貞女よ)といいながら。一日中、神の恩寵に忠実に従うめぐみを、マリアをとおして、神からいただくためです。晩には、”アベ・マリア・マーテル・”Ave Maria Misericordiae”(“めでたしマリア、あわれみの御母よ)といいながら。その日おかした罪のゆるしを、マリアをとおして、神からいただくためです。

Hマリアの信心会のために働き、マリアの祭壇をかざりマリアのご像や、ご絵を美化する。

Iマリアのご像やご絵を、行列のとき、自分も持ち、ひとにも持たせる。マリアのご絵を、少なくとも一枚、いつも身につけておく―悪魔への精強な武器として。

Jマリアのご絵や、マリアのみ名を大書したカンバンを作らせる。それを教会や、家の中に置く。または町・教会・家の門や戸口にかかげる。

Kマリアの特別な、荘厳な儀式で、自分じしんを、マリアに奉献する。

 

 

 

117.マリアへのまことの信心の具体的信心業の中には、まだまだ、たくさんあります。どれもこれも、聖霊が、聖なる霊魂たちに霊感してくださったもので、聖性の進歩に、たいへん役立ちます。また、イエズス会員のポール・バリ神父が書いた「フィラジに開かれた天国」という本の中には、聖人たちがマリアの栄光のために実行したいろんな信心が、たくさんのっています。こうした信心は、わたしたちを聖化するために、ふしぎなほど効果があります。しかし、次の要領でそれを実行せねばなりません。

@ただ神だけをお喜ばせしたい、自分の終局の目的であるイエズス・キリストとまったく一つになりきりたい、隣人にとっても良い手本となりたい、との善良な、まっすぐな意向をもって。

A意識的に気を散らさず、細心の注意を払いながら。

Bあんまり急がず、持続した信心の念をもって。

C謹厳な態度、すなわち神への尊敬に満ち、隣人に良い模範となる態度をもって、それを実行せねばなりません。

 

 

 

118.何はさておき、わたしは声を高めて、次のように宣言する者です。わたしは、マリアへの信心を論じている本は、ほとんどみな読みました。今日の世界で、学徳ともに優秀な、いろんな人物とも親しくつき合い、かれらの言いぶんも聞きました。だが、そのあと、わたしが現在、実感としてもっていることは、マリアへの信心業のうち、わたしがこれから公開しようとしている信心業に比肩するものは、今のところ、知ってもいないし、聞いてもいない、ということです。

わたしが、これから述べようとしているマリアへの信心は、ざいらいの信心にくらべて、神のため、霊魂からもっと多くのギセイを要求します。霊魂を自分自身から、また自愛心から、もっと空虚にし、浄化します。

霊魂を恩寵のうちに、また、恩寵を霊魂のうちに、もっと忠実に安全に保ってくれます。

霊魂をもっと完全に、もっと容易に、イエズス・キリストと一致させてくれます。

さいごに、神にとってはもっと栄光となり、霊魂にとってはもっと聖化能力を発揮し、隣人にとってはもっと有益となるのです。

 

 

 

119.この信心は、その精ずいがもともと、霊魂の内面に存するのですから、すべての人が、おなじように理解できる性質のものではありません。ある人たちは、この信心の外郭でストップし、それ以上の進歩は望めないでしょう。そして大部分の人がこの部類でしょう。ごく少数の人が、内面にまで立ち入ることができましょうが、そこから信心の段階を、ただ一段しか登れないでしょう。

二段まで登れる人がいましょうか。

さらに三段まで登れる人がいましょうか。さいごに、そこで、信心の状態にふみとどまっておれる人がいましょうか。いるとしたら、それは、イエズス・キリストの聖霊から、この新しい信心のヒミツをおしえていただいた霊魂だけなのです。聖霊は、ごじしんで、この忠実な霊魂を、信心の状態へとお導きになるのです。こうした中で、この霊魂は、徳から徳へ、恩寵から恩寵へ、光から光へと、向上進歩し、ついには自分の全存在をあげてイエズス・キリストに変容し、聖性においてはすでにこの世で、キリストの背たけに達し、のちの世では、キリストの栄光の度合いに達するのです。

 

 

 

第V章 マリアへのまことの信心の本質

 

第一節 それは自分自身を、マリアをとおして、イエズス・キリストにまったくささげ尽くすこと

 

120.わたしたちの完徳のすべては、わたしたちが、イエズス・キリストに変容すること、つまり、イエズス・キリストとまったく一つになり、イエズス・キリストにまったくささげ尽くされることに存します。だから、あらゆる信心の中で、いちばん完全なのは、うたがいもなく、わたしたちをいちばん完全に、イエズス・キリストに変容させてくれるもの、かれとまったく一つにしてくれるもの、かれにまったく自分をささげ尽くさせてくれるもの―でなければなりません。

 ところで、マリアは、あらゆる被造物の中で、イエズス・キリストにいちばん変容しておいでになるのですから、当然の帰結として、あらゆる信心のなかで、いちばん霊魂をイエズス・キリストに変容させ、ささげ尽くさせる信心は、その御母マリアへの信心なのです。また、霊魂が、マリアにささげ尽くされれば、それだけイエズス・キリストにも同様にささげ尽くされるのです。

 だから、イエズス・キリストへの完全な自己奉献は、マリアへの完全な、全面的な自己奉献と表裏一体をなすものです。ことばを変えて申せば、それは、洗礼の約束の更新にほかなりません。そういう信心を公開したいのです。

 

 

 

121.そんなわけで、この信心は、自分自身をすべて、イエズス・キリストにささげ尽くすために、まず自分じしんをすべて、マリアにささげ尽くすことに存します。どんなものを、マリアにささげねばなりませんか。

それは次のとおりです。

@わたしたちのからだ、からだのすべての感覚、機能、からだのすべての部分。

Aわたしたちの霊魂と、霊魂のすべての能力。

Bわたしたちの外的善、すなわち、現在所有している、また未来に取得可能な、すべての地上的善。

Cわたしたちの内面的精神的・霊的善、すなわち、わたしたちが過去・現在・未来をつうじて蓄積するすべてのクドク、善徳、善行。これは要するに、わたしたちが自然界と恩寵界において、現在所有しているすべてのもの、さらにまた将来、自然界、恩寵界、光栄界において、所有できるすべてのもの。それも最後の一セン一リン、一本の髪の毛、極微の善行にいたるまで、残りくまなく、しかも一時的ではなく、永遠にわたって、ささげ尽くさねばなりません。

そのうえ、これらの奉献、これらの奉仕のむくいとしては、自分は、マリアをとおして、マリアにおいて、イエズス・キリストに隷属しているのだ、というプライドと光栄のほかにはどんなむくいも要求せず、期待してもなりません。たとえマリアが―実際は絶対にそうではないのだが―被造物の中で、いちばん大らかでもなく、いちばん恩に感じやすいかたでもないと仮定してでもです。

 

 

 

122.ここで、注目していただきたいことがあります。それは、わたしたちがする善行には、二種類があるということです。すなわち、罪のつぐないとなる善行と、クドク(功徳)となる善行。別のことばで申せば、罪をつぐなう価値、または神に何かを祈求できる価値をもつ善行と、クドクとなる価値をもつ善行。

 ある善行の、罪をつぐなう価値、または神に何かと祈求できる価値とは、つまり、おかした罪に相応する罰をつぐなう善行、または神から新規な恩寵を取得できる善行のことです。クドクとなる価値、または単にクドクとは、恩寵と永遠の栄光にあたいする善行のことです。

 ところで、わたしが今さっき述べた、マリアへの自己奉献によって、わたしたちはマリアに、自分がもっているすべての、つぐない価値、祈求価値、クドク価値―つまりは、自分のすべての善行のつぐないとクドクを、ささげ尽くしてしまうのです。こうした自己奉献によって、わたしたちはマリアに、自分のクドク、自分の恩寵、自分の善徳をささげるのです。それを、ほかの人に流通するためではありません。(なぜなら、わたしたち自身のクドク、恩寵、善徳は、ほかの人に流通できないものです。ただイエズス・キリストだけが、御父のみ前における、わたしたちの仲介者として、ご自分のクドクを、わたしたちに流通することが、おできになったのです。)

 そうではなく、わたしがのちほど申しますように、わたしたちが自分のために、それを保ち、ふやし、美化するためなのです。わたしたちがマリアに、つぐないをおささげするのは、マリアがそれをおのぞみの人に、また神の最大の栄光のために、流通してくださるためなのです。

 

 

 

123.以上述べてきたことから、次の結論が出てまいります。

@この新しい信心によって、わたしたちはイエズス・キリストに、いちばん完全な仕方で―なぜなら、それはマリアのみ手をとおしてなされますから―自分が、かれにささげることのできる、すべてのものをささげるのです。しかも、ほかのざいらいの信心によってそうするよりも、はるかに多くのものをささげるのです。ほかの信心だと、自分の時間、自分の善行、自分のつぐない、自分の苦業のタダ一部分しか、イエズスにはささげません。

 この信心では、自分のもっているすべてのものが、自分のもっている内面的善の使用権までが、また自分がくる日もくる日も、善行をおこなって取得したつぐないまでがすべて、イエズスにささげられ、聖別されるのです。こんなことは、おそらくどんなに神聖な修道会でも、メッタに見られない風景かと思います。

 修道者は、清貧の誓願によって、自分の地上財産を神にささげます。貞潔の誓願によって自分のからだを神にささげます。従順の誓願によって、自分の意志を神にささげます。ときたま、閉居の誓願によって、自分のからだの自由移動を、神にささげることもあります。しかし、かれは、そんなことによって自分の善行の価値の自由処理権までも神にささげるのではありません。この信心ほどキリスト信者の精神を、かれのいちばん貴重な、いちばん愛すべき霊的資産である、自分自身のクドクとつぐないへの愛着から、離脱させるものはありません。

 

 

 

124.A当然の結果として、このように自発的に、マリアをとおして、自分じしんを、イエズス・キリストにささげ尽くし、ギセイにした人は、もはや自分の善行の価値は一つも、自分勝手に、処理することができなくなります。この人が苦しみ、考え、語り、おこなうすべての善は、そっくりそのまま、マリアのものとなります。マリアはそれを、御子イエズスのお望みにしたがって、かれの最大の栄光のために、ご自由に処理されるのです。しかし、自分の善行のマリアへの帰属は、けっして身分上の義務に抵触しません。―現在、自分が果さねばならない義務にも、また将来果たさねばならない義務にも。

 たとえば、司祭は義務として、または他の何かの理由で、自分がたてるミサの、つぐない価値と祈求価値を、ある特定の人の意向に従って神にささげねばなりません。こんな場合、司祭は神の命令により、また身分上の義務によって、そうするのだから、そうした奉献は、自分の善行の、マリアへの帰属を、絶対に妨害するものではありません。

 

 

125.Bさらに、こういう結果も出てまいります。すなわち、わたしが提唱する信心によれば、わたしたちは自分自身を、御母マリアとイエズスとに、同時にささげ尽くすことになります。御母マリアに。すなわち、イエズスが、わたしたちと一体になるため、またわたしたちをご自分と一体にするためにお選びになった、完全な手段としてのマリアに。と同時に、イエズスにも。なぜなら、イエズスこそ、わたしたちの終局の目的であり、イエズスこそ、わたしたちのあがない主、わたしたちの神なのですから、わたしたちはイエズスに、すべてを負っているからです。

 

 

 

第二節 完全な信心による自己奉献は、洗礼の約束の完全な更新

 

126.前にも申しましたように、この信心はまさしく、洗礼のちかい、洗礼の約束の完全な更新だといっても、差し支えないのです。

キリスト者はすべて、洗礼を受ける前には、悪魔のドレイでした。悪魔に隷属していたからです。しかし、洗礼のとき、自分じしんの口でか、または代父・代母の口をかりて、公式に、悪魔と、その栄華と、そのわざを捨て、以後はイエズス・キリストを、自分の主、自分の神とすることを、そうごんにちかったのです。これからは愛のドレイとして、イエズス・キリストに隷属し、仕えることを、おごそかに約束したのです。

 それはまさしく、この信心がすることとまったく同じものです。

この信心によって、(奉献文にしるされているように)わたしたちは、悪魔と、世俗と、罪と、自分自身とを捨て、マリアのみ手をとおして自分自身をまったく、イエズス・キリストにささげ尽くすのです。そのうえ、この信心にはプラス・アルファがついています。

 洗礼のとき受洗者は通常、ほかの人の口、つまり代父、代母の口をかりて神に申し上げ、こうして、ほかの人を代理人に使って、自分自身をイエズス・キリストにささげます。しかし、この信心では、自分自身が自発的に、しかも事がらの内容を十分わきまえた上で、それをするのです。

 洗礼のとき、受洗者は、マリアのみ手をとおして、という明白な表現を使って、自分自身をイエズス・キリストにささげるのではありません。また、自分の善行の価値を、イエズス・キリストにささげ尽くすのでもありません。洗礼のあと、それを、好きな人に流通しようと、自分自身のためにたくわえておこうと、まったく本人の自由なのです。

だが、この信心では、ハッキリした表現を使って、自分を、マリアのみ手をとおして、イエズス・キリストにささげ、そのうえ、自分のすべての善行の価値までも、イエズス・キリストにささげ尽くすのです。

 

 

 

127.聖トマス・アクイナスが言っているように、人は洗礼のとき、悪魔とその栄華を捨てる、と神にちかいます。そして聖アウグスチノが言っているように、このちかいは、人間が立てるちかいの中で、いちばん大きな、いちばん免除不可能なちかいなのです。教会法学者も言っているとおり、わたしたちが洗礼のとき、神にたてるちかいこそ人間のちかいの中で、いちばん重大なちかいなのです。

 ところで、このいちばん大きなちかいを、完全にまもっている人はいますか。この洗礼の約束を、忠実に守っている人がいますか。ほとんど全てのキリスト信者が、洗礼のときイエズス・キリストに約束した忠誠を、破棄しているではありませんか。この世界的乱脈は、どこからくるのでしょうか。洗礼の約束とちかいの忘却からこそ。洗礼のとき、代父・代母をとおして、神と結んだ契約を、ほとんどだれでもが是認しないからこそ。

 

 

 

128.ルイ・デボネールの命令によって、当時キリスト教社会で暴威をふるった道義的無秩序をたてなおすために召集されたサンスの公会議(829年)は、この全教会的風俗壊乱の主要原因が、洗礼の約束の忘却と認識不足に起因する事実をつきとめました。これはしごく、もっともなことです。そんなわけで、サンスの公会議は、この大きな不幸の防止手段としては、キリスト信者一同に、洗礼のちかいと約束を更新するように呼びかけるのが、最善の策だと議決したのです。

 

 

 

129.「トリエント公会議のカトリック要理」も、このサンス公会議の意向を忠実に汲みとって、主任神父に、おなじことをするようにと命じています。すなわち、信者たちが、自分らのあがない主、神であるイエズス・キリストに、洗礼によって、結ばれ、ささげ尽くされた者であることを再認識し、再確認する方向に、かれらを指導せねばならぬ、と言っているのです。

 

 

 

130.公会議、教父、歴史の経験が声をそろえて、キリスト信者の乱脈矯正への最良手段は、かれらに洗礼の義務を思いおこさせ、洗礼のとき神にたてたちかいを更新させることだ、と言っているからには、今こそ完全な仕方で、すなわち、マリアをとおして、イエズス・キリストに自分自身をささげ尽くす、というこの信心によって、洗礼の義務を思いおこし、洗礼の約束を更新することは、あたりまえではないでしょうか。完全な仕方で―と、わたしは言います。なぜなら、自分自身をイエズス・キリストに、ささげ尽くすための手段として、あらゆる手段の中でいちばん完全である御母マリアを、お使い申しているからです。

 

 

 

第三節 質疑と応答

 

131.この信心は、新発売だ、おれには関係ナイ、と言われるかたがいましたら、それはまちがっています。この信心はけっして、新発売ではありません。ちゃんと公会議も、教父たちも、古今東西の著述家たちも、声をそろえて、イエズス・キリストへの自己奉献が、洗礼の約束の更新がずっと昔から実行されてきたことだ、と言っているではありませんか。

 この信心は、おれたちは関係ナイ―とおっしゃるのですか。とんでもない、大いに関係があるのです。なぜなら、キリスト信者のダラクの、したがって地獄いきの、主要原因がどこにあるのか、を考えてごらんなさい。それは、洗礼の約束の実行を忘れ去るか、またはそれに対して関係ナイ態度をとるか、そのどちらかにあるのです。

 

 

 

132.ある人たちは、こうも言います。―この信者はわたしたちに、マリアのみ手をとおして、わたしたちのすべての苦業、すべての祈り、すべての苦業とほどこしの価値を、ただイエズス・キリストにだけささげさせるのだから、わたしたちは、自分の両親・友人・恩人らの霊魂を助けるため、まった何もできないのではないか。この疑問への解答は次のとおりです。

@わたしたちが、イエズス・キリストとその御母マリアへの奉仕に、自分自身を残りくまなくささげ尽くしたがために、わたしたちの友人・両親・恩人が損をするということはとても信じられません。そう考えるのは、イエズスとマリアの全能と慈悲に対して、侮辱を加えることになります。イエズスもマリアもわたしたちの小さな霊的収入で、またはほかの方法で、わたしたちの両親・友人・恩人を助ける方法を、ちゃんとごぞんじなのです。

A次に、この信心の実行は、わたしたちがほかの人のため、すなわち死者のため生者のために祈ることを、けっしてさまたげません。ただし、わたしたちの善行の配分は、マリアのお心しだい、ということは忘れてはいけません。ほかの人のために祈ることをさまたげるどころか、かえってこの信心は、もっと大きな信頼をもって祈るように仕向けてくれます。たとえば、ここに金持ちがいて、自分の殿様にもっと敬意を表すため、全財産を提供すると仮定します。たまたま、ひとりの友人がかれに、ほどこしをねがいます。そのときこの人は、その友人になにがしのほどこしをしてくださるまいかと、もっと大きな信頼をもって殿様に願えるでしょう。殿様は喜ぶにきまっています。なぜなら、自分にもっと敬意を表すため素寒貧となったこの人に、恩返しをするチャンスが与えられたからです。おなじことが、イエズスとマリアにかんしても言えるのです。恩返しの点では、おふたりとも、だれにもヒケをとりません。

 

 

 

133.ある人は、こう考えているかも知れません。―もしわたしが、自分のすべての善行の価値を、お望みの人に上げてくださいとマリアさまにささげたら、自分は霊的に無一物となって、煉獄で長く苦しまねばならないでしょう。

 こうした質問は、自愛心からも、また神と御母マリアの大らかさについての認識不足からも来ています。だから、まった愚問です。こんなに神の奉仕に熱心で、こんなにおしみない心を持った人が、自分の利益よりも神の利益を優先する人が、これ以上何もできないというほど、神にすべてをささげきっている人が、マリアをとおして、イエズス・キリストの栄光と御国の到来しか祈求していない人が、そのために自分のすべてをギセイにしている人が、このように広い心をもった人が、この世で神への奉仕に、ほかの人たちよりも、もっと大らかで、もっと無私無欲だったというタッタひとつの理由で、のちの世ではほかの人よりも重く罰されねばならないとしたら、どういうことになりますか。そんなことは絶対にあってはならないはずです。

 あとで述べるように、こういう人こそ、イエズスとマリアは、この世においても、のちの世においても、自然界でも恩寵界でも、また天国という栄光界でも、最高に大らかな報いをくださるのです。

 

 

 

134.いま、できるだけ簡潔に、この信心を推奨せねばならぬ理由、この信心が忠実な霊魂いに生じる感嘆すべき効果、この信心の実行を述べることにしましょう。

 

 

 

第W章 この完全な自己奉献の理由

 

第一節 第一の理由―この完全な自己奉献の優越性

 

 

 

135.マリアのみ手をとおして、自分自身をまったく、イエズス・キリストにささげ尽くすことが、いかにすぐれたわざであるか、を示す第一の理由が、ここにあります。それはこうです。

 この世には、神への奉仕にもまして高尚な職務がないとすれば、また神のいちばんつまらないしもべでも、神のしもべでもない地上のすべての王、すべての皇帝にもまして、はるかに富んだ者、はるかに勢力ある者、はるかに高貴な者であるとすれば、いわんや神への奉仕に、可能な限り自分自身をまったく、残りくまなくささげ尽くした忠実な、完全な神のしもべが持つ富と勢力と尊厳は、いかばかりなのでしょうか。

 これが、マリアのうちにおける、イエズスの忠信で愛のふかいドレイの本領なのです。かれこそは、マリアのみ手をとおして、王たちの王であるイエズス・キリストへの奉仕に、自分をまったくささげ尽くし、自身のためには一物も取って置かない人なのです。

 こんな人は、全世界のすべての黄金よりも、天上界のすべての美しさよりも、はるかに価値のある人なのです。

 

 

 

136.イエズス・キリストとその御母マリアの栄光のために創立された修道会、信心会、友の会などは、なるほど教会のために、偉大な業績を記録していますが、しかし会員たちに、イエズスとマリアへの奉仕にすべてを、残りくまなく捨てさせてはいません。ただ自分の義務を果させるため、各会員に、いくらかの信心業または善行をなすように、と規定しているに過ぎません。そのほかのわざ、また時間割にかんしては、まったく会員の自由裁量にまかせています。

 しかし、この信心ですと、すべての考え、ことば、行ない、苦しみ、および一生のすべての時間を、イエズスとマリアに、残りくまなくささげ尽くさせます。その結果、この自己奉献を明白に取り消さない限り、かれが目ざめていようと眠っていようと、なにか飲もうと食べようと、大きなわざをしようと小さなわざをしようと、たとえいちいちそのことを考えなくても、それはいつもイエズスのもの、マリアのものとなることは明らかです。マリアをとおしてのイエズスへのこの自己奉献が、こんなすばらしい効果を生みだすのです。なんとなぐさめに満ちた真理なのでしょう。

 

 

 

137.そればかりではありません。前にも述べたとおり、わたしたちのいちばん神聖な行ないにさえ、しらずしらずのうちに、高慢な自我が混入するものですが、この自愛心をこうまで容易に取り除いてくれる信心業は、ほかに一つもありません。これは大きなお恵みです。そしてイエズスは、自分の善行のすべての価値を、マリアのみ手をとおして、ご自身にささげる信心家の、英雄的な、無私無欲な行為に対しては、百倍のむくいをもって、ご返礼なさるのです。

 このようにイエズスは、すでにこの世においてさえ、ご自分を愛するために、自分のもっている外部的、現世的、朽ち果つべき財産を捨てる人に、百倍のむくいをもってご返礼なさるのですから、いわんやご自分のために、内面的・霊的たからを捨てる人には、天国で、どんなにすばらしいむくいをくださるのでしょうか。

 

 

 

138.わたしたちの親友イエズスは、ご自分のからだも霊魂も、徳も恩寵も、功徳もみんな、残りくまなく、わたしたちに与えてくださいました。聖ベルナルドが言っているとおり、イエズスは、ご自分をすべて、わたしにお与えになることによって、わたしをすべて、ご自分のものとなさいました。だから、わたしたちが、自分の与えることのできるすべてのものを、イエズスに与え尽くすことは、正義と感謝の義務ではないでしょうか。

 イエズスがまず、わたしたちに対して、大らかでいらしたのですから、わたしたちもおくればせながら、イエズスに対して大らかでありましょう。そうしたら、こんどはまたイエズスがわたしたちに対して、生存中も、臨終のときも、また永遠にわたって、もっともっと大らかでいらっしゃることが、体験的に分かるでしょう。イエズスは、大らかな者に対しては、ご自分も大らかです。

 

 

 

第二節 第二の理由―この自己奉献の正当性と利益

 

 

139.もっと完全に、イエズス・キリストのものとなりきるため、この信心の実行によって、自分自身をまったくマリアにささげ尽くすことは、それ自体が正しいことであり、キリスト信者にとっては益あることです。

 イエズスは九ヵ月間、マリアのご胎内に、ご自分がちょうど囚人のように、または愛深いドレイのように、閉じこめられていることをおいといになりませんでした。そのうえ、三十年間も、マリアに従うことを、おいといになりませんでした。くり返し申し上げますが、人となられた永遠の知恵のこうした行動を、まじめに反省するとき、人間のあさはかな知恵は、完全に呆然自失します。

 人となられた神は、それができたにもかかわらず、ご自分を直接に人びとに与えることを、おのぞみになりませんでした。マリアをとおして、はじめて人びとにご自分を与えることを、おのぞみになったのです。だれにもたよる必要のない、完全なおとなの年齢に達した人としてではなく、よわよわしい小さな赤ちゃんとして、御母マリアのお世話と養育にすがらねば生きていけない幼な子として、この世にくることをおのぞみになったのです。

 神なる御父の栄光を現わし、人びとを救おうとの果てしない望みをもっていらした、この永遠の知恵イエズスは、ご自分の望みを達成するための最も完全な、最も手っ取り早い手段として、万事において、マリアに従う、という方法を選ばれました。それも、ほかの子供たちのように、生涯の初めの八年か、十年か、十五年間だけではありません。じつに、三十年間もです。

 そしてイエズスは、このようにただマリアへの服従と隷属に明け暮れた三十年間に、マリアからまったく独立して、もろもろの奇跡をおこないながら、全世界をかけめぐり、福音をのべ伝え、すべての人を回心させることに費したであろう三十年間よりも、はるかに多くの栄光を、神なる御父に与えたのです。もしそうでなかったとしたら、かれはよろこんで後者の行き方を、えらんだにちがいありません。ああ、イエズスのお手本にしたがって、自分自身をマリアに隷属させることは、どれほど大きな栄光を神に与えることでしょう。

 これほど鮮やかな、これほど有名なお手本が、眼の前にあるのです。それなのに、まだわたしたちは、イエズスのお手本にしたがって、マリアに自分自身を隷属させることが、神の栄光を最高に発揮するための最も完全な、最も手っ取り早い手段だと信じきれないほど愚かなのでしょうか。

 

 

 

140.わたしたちが、マリアに対して、どれほど隷属的態度をとらなければならないかということの証拠として、前にも述べたとおり、御父と御子と聖霊がそれぞれ、マリアに対してとられる隷属的ご態度のお手本を、もう一度ここで、思いおこす必要があります。御父は、マリアをとおしてでなければ、御子を世に与えなかったし、また与え続けません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の子どもたちを造りません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の恩寵を流通しません。

 神なる御子も、マリアをとおしてでなければ、全人類の救いのために受肉されなかったし、またマリアをとおしてでなければ、今でも毎日、聖霊の交わりの中で、人びとの霊魂の中につくられ、生まれません。マリアをとおしてでなければ、ご自分のクドクも善徳も流通しません。

 聖霊も、マリアをとおしてでなければ、イエズス・キリストを形造らなかったし、またマリアをとおしてでなければ、キリストの神秘体の成員も造りません。マリアをとおしてでなければ、ご自分の賜物も恵みも流通しません。

聖なる三位一体のこうした数々の、顕著なお手本があるにもかかわらず、マリアを無用視したり、また神にいたるため、神に自分をささげるために、まず自分をマリアにささげ、マリアに隷属させることができないほど、わたしたちはメクラなのでしょうか。

 

 

 

141.今さき言ったことを証明するため、わたしが選びだした教父たちのことばを、左にかかげます。

「マリアには、二人の子どもがあります。一人は、人間であって同時に神。もう一人は、タダの人間です。マリアは、前者の肉体的母親であり、後者の霊的母親です」(聖ボナベントラ/オリゲネス)

「わたしたちが、マリアをとおして、救霊に必要なすべてのものを所有することが、神のみこころです。だから、もしわたしたちが何かの希望、何かの恩寵、何か救いに役立つ賜物をもっているとしたら、それはマリアのみ手をとおして、神からいただいたことを忘れてはなりません」(聖ベルナルド)

「聖霊のすべての賜物、すべての徳、すべての恩寵は、マリアのみ手によって、マリアが望む人に、望むとき、望むだけ、望む方法で、分配されるのです」(聖ベルナルジノ)「あなたがたは、神の恩寵を受ける資格がありませんでした。だから、それはまず、マリアに与えられたのです。マリアをとおして、あなたがたが必要なだけ、それをいただくのです」(聖ベルナルド)

 

 

 

142.なるほど、聖ベルナルドが言っているとおり、神はわたしたちが直接ご自分の手から、恩寵をいただく資格がない者だということを見て取って、それをマリアに、お与えになります。マリアをとおして、わたしたちに、ご自分が与えたいだけ、お与えになるためです。神はご自分が、お与えになる恩寵のために、わたしたちが神にささげる感謝と尊敬と愛を、マリアのみ手をとおして、お受けになることにおいて、ご自分の栄光を見い出されるのです。

 だから、おなじく聖ベルナルドが言っているように、わたしたちが、神のこの行動を、マネることは、まったく正しいことです。なぜなら、神の恩寵は、それが、わたしたちに達するために通過した同じ運河をとおって、再びその与え主にかえっていくからです。

 わたしの提唱する信心が、右とまったく同じことをしてくれるのです。

わたしたちは自分自身と、自分がもっているすべてのものを、マリアにささげ尽くします。それは、わたしたちがイエズス・キリストに負っている栄光と感謝を、マリアの仲介をとおして、かれがお受けになるためです。

わたしたちは自分が、自身の力だけでは、限りなきみいずの神に近づく資格もなければ、能力もないことを知っています。だからこそ、マリアの取り次に、たよる必要を痛感するのです。

 

 

 

143.そればかりか、この信心は、大いなる謙虚の徳の実行でもあるのです。神は、ことのほか、この謙虚の徳をお愛しになります。自ら高ぶる人は、神をはずかしめ、自らへりくだる人は、神に栄光をきします。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお授けになります」(ヤコブ4・6)

 だから、もしあなたがへりくだるなら、もしあなたが、自分は神のみまえに出る資格のない者だ、神に近づく資格もない者だ、と考えるなら、こんどは神が、ご自分からへりくだり、ご自分からあなたのもとにおいでくださるのです。そしてあなたとともにいることを喜ばれ、どんなに卑しくても、あなたを高めてくださるのです。これに反して、おこがましくも、仲介者なしに神に近づこうとするなら、神は逃げてしまい、どんなに探しても見いだすことはできません。

 ああ、神はどんなに心の謙虚を、愛しておいでになるでしょう。この信心を実行しさえすれば、この心の謙虚を身につけることができるのです。なぜなら、この信心は、自分の力だけでは絶対にイエズスに―たとえかれが、どれほど柔和で、慈悲深いかたにしろ―近づいてはいけない、ということを教えてくれるからです。そればかりか、神のみまえに出るときも、神に近づくときも、神に何かお話するときも、神に何かおささげするときも、神と一致したいときも、神に自分自身をささげ尽くしたいときも、とにかくいつなんどきでも、マリアの取り次を求めねばならぬ、と教えてくれるからです。

 

 

 

第三節 第三の理由―この完全な自己奉献のすばらしい効果

 

第@項 マリアは愛のドレイに、ご自分をお与えになる

 

144.マリアは、甘美な母、慈悲深い母です。マリアは、ご自分の子らに対する愛と大らかさの点では、天上天下、だれにもヒケをとりません。このマリアが、ご自分を尊びご自分に仕えるため、自らをまったくご自分にささげ尽くしている人をごらんになるとき、また、ご自分をかざってくれるため、自分のいちばんだいじなものをいさぎよく脱ぎ捨てている人をごらんになるとき、ご自分のほうからも同様にこの人に、ご自分にすべてをささげ尽くしているこの人に、ご自分のすべてを、しかもすばらしい仕方でお与えになるのです。

 マリアはこの人を、ご自分の恩寵の深いふちに沈めてくださるのです。この人を、ご自分のクドクで美々しくかざってくださるのです。

ご自分の権能でささえてくださるのです。

ご自分の光で照らしてくださるのです。

ご自分の愛で燃やしてくださるのです。

この人にご自分の徳を、すなわち、謙虚、信仰、純粋、その他の善徳を、流通してくださるのです。マリアはこの人のために、イエズスに対しては、保証人、補充、すべてとなってくださるのです。

 さいごに、この人は自分のすべてを、マリアにささげ尽くし、全くマリアのものとなりきっているのですから、マリアも同様に、全くこの人のものとなりきっておられるのです。マリアの完全なしもべ、マリアの本当の子どもであるこの人こそ、福音記者ヨハネが自身について言っているように、「彼は、彼女をわが家に引きとった」(ヨハネ19・27)といえる人なのです。

 

 

 

145.こうした中で、もしこの人が、マリアに忠実に仕えるならば、その心の中では、自分自身への不信、軽べつ、憎しみの気もちが、油のようにわき出ます。と同時に、自分の良き女王マリアへの大いなる信頼心と、おまかせの精神がめばえてまいります。もはや以前のように、自分自身の心構え、意向、クドク、善徳、善行をたよりにしません。かれは、良き母マリアのみ手をとおして、これらをみな、イエズス・キリストにささげ尽くしたのですから、今では、自分の全財産である、タッタ一つのタカラしかもっていません。しかもこのタカラをかれは、天にたくわえているのです。それはマリアという名のタカラです。

 マリアこそ、この人を、オドオドしたドレイの恐れもなく、クヨクヨした小心の迷いもなく、安心して、イエズス・キリストに近づかせてくださるのです。マリアこそ、この人に、大いなる信頼をもって、イエズスに祈らせてくださるのです。マリアこそ、かれを、信心あつく学徳のほまれ高いルペール師の気もちに、さそってくださるのです。同師は、旧約のヤコブが、天使を負かした故事を引き合いにして、マリアに次のように申し上げています。

「ああ、マリア。わたしのプリンセス。神人イエズス・キリストをお産みになった無原罪の母よ、わたしも、この“人”と、すなわち神の“ミコトバ”と一対一で戦いたいものです。わたし自身のクドクではなく、あなたご自身のクドクで武装して・・・」ああ、人がこのように、神の御母マリアのクドクと取り次で武装するとき、かれはイエズス・キリストのみまえで、どれほど精強な、どれほど勇敢な戦士となるのでしょう。

聖アウグスチノが言っているとおり、マリアは愛をもって、全能の神に勝ったのです。

 

 

 

第A項 マリアはわたしたちの善行を清め、飾り、御子に受け入れさせてくださる

 

146.この信心の実行によって、人は自分のすべての善行を、マリアのみ手をとおして、イエズス・キリストにささげるのですから、マリアは事前にそれを清め、飾り、御子イエズスに受け入れさせてくださるのです。

@わたしたちのいちばんりっぱな善行の中にさえも、しらずしらずのうちに、自愛心と、被造物への愛着心が忍び込み、そのために、せっかくの善行が台なしになったり、けがれ果てたりします。マリアは、これらすべてのけがれから、善行を清めてくださいます。

 マリアのみ手は、まったく清らかで、そのうえ豊かです。マリアのみ手は、けっして何もせずにいるのでもなければ、また何も作りだせないものでもありません。マリアのみ手は、それにふれるものをみな清め尽くします。だから、こうしたマリアのみ手に、ひとたび贈り物がのせられますと、マリアはすでにこの贈り物から、すべてのけがれや不完全さを取り除いてくださるのです。

 

 

 

147.A次にマリアは、わたしたちの善行という名の、キリストへの贈り物を、ご自分のクドクと善徳で美化し、かざってくださいます。ここに一人のお百姓さんがいて、王様の友情と厚意を取りつけるため、自分の全財産である一個のリンゴを、王様に献上してくださるようにと、皇后様のところにもっていったとします。皇后様はそれをどうするのでしょうか。すぐに、お百姓さんのおそまつな贈り物を、大きな美しい黄金の皿にのせ、誰々某というお百姓さんからの贈り物でございます、といって王様にさしあげるでしょう。

 ところで、リンゴは、それ自身だけでしたら、けっして王様に献上されるほどねうちのあるものではありません。しかし、それをのせている黄金の皿と、それを王様にささげる皇后様の威厳のおかげで、王様にふさわしい献上物となるのです。

 

 

 

148.Bマリアは、ご自分に委託されるわたしたちの善行をみな、イエズス・キリストにささげてくださいます。終局の目的として、イエズスにささげられるものを、マリアは、絶対にご自分のものとして取っておかれません。マリアは、すべての善行を、正直にイエズスにささげてくださるのです。マリアに何かささげると、それは必然的に、自動的にイエズスにささげられるのです。マリアをほめたたえ、マリアの光栄を現わす者は、同時にイエズスをほめたたえ、同時にイエズスの栄光を現わす者です。そのむかし、エリザベトからほめたたえられたときそうなさったように、今もいつもマリアは、人からほめたたえられ、祝福されるときには必ず、神をたたえてお歌いになるのです。

「わがたましいは“主”をあがめ、わが霊は、わが救い主なる“神”を喜びたたえます」(ルカ1・47)

 

 

 

149.Cマリアは、わたしたちの善行―たとえそれが、聖の聖なる者、王の王なる者にとって、どれほどささいな、どれほどそまつなおくりものであっても―を、イエズスに受け入れさせてくださいます。わたしたちが何かイエズスに、おくりものをするとき、それをただ、自分自身の努力や、善意だけにたよってするとき、イエズスはこのおくりものを、綿密におしらべになります。そしてしばしば、それがわたしたちの自愛心で汚染されているのをごらんになって、お受けになりません。ちょうどその昔、我意に満ちたユダヤ人の供え物やイケニエを、拒否されたように。

 しかし、何かイエズスに、その最愛の御母マリアの清らかなみ手をとおして、おくりものをしますと、こんな言い方はおそれ多いことですが、イエズスは、いわばベンケイの泣きどころを突かれたようなものです。イエズスは、だれが、何を、ご自分にプレゼントしたかは詮索されません。このプレゼントを、ご自分にお渡しになる御母マリアのみ手しか、ごらんにならないのです。

 そんなわけで、御子イエズスから一度も拒否されたことがなく、そのつどいつも嘉納されておいでになる御母マリアは、大小を問わず、どんなおくりものでも、イエズスにお手渡しになるものは、イエズスが喜んで受け納めてくださるように取りはからってくださるのです。わたしたちのささげものが、イエズスに喜んで受け納めていただくためには、それがマリアのみ手をとおりさえすれば十分なのです。これこそ、聖ベルナルドが、完徳への道に指導していた人びとに与えた、偉大な教訓なのです。

「あなたがたが何か、神にささげものをするときには、それをマリアのみ手をとおして、神にささげるように、くれぐれも注意しなさい。もしもみなさんが、神からそれを拒否されたくなければ・・・」(「主の降誕の説教」18)

 

 

 

150.人間の世界でも、つまらない人が、エライ人に何かたのむとき、必ずそうしているではありませんか。どうして恩寵の世界でも、々ことをしてはいけないのでしょうか。神はわたしたちよりも無限に偉大なかたです。神のみ前ではわたしたちは、一個の原子よりもはるかに小さな者です。いわんやわたしたちには、神はいちども拒否されたこともない、マリアという有力な弁護者がついておられるのではありませんか。

 神のみ心にかなうためのあらゆる秘けつをごぞんじになるマリア、どんなつまらない者でも、どんな悪い者でも、絶対にお見捨てにならない、このうえなく慈悲深い御母マリアが、ついておられるのではありませんか。

 わたしが今述べている真理の予型を、これからお話する旧約の、ヤコブとレベッカの物語の中にごらんになって頂きたいのです。

 

 

 

第四節 第四の理由―この信心は、神に最大の栄光を与えるための最もすぐれた手段

 

 

151.この信心の忠実な実行は、わたしたちのすべての善行の価値を、神の最大の光栄のために使用するための、いともすぐれた手段なのです。キリスト信者のほとんどだれもが、その義務を負わされているにもかかわらず、この高尚な目的にしたがって行動しないのは、どういうわけなのでしょうか。神の最大の栄光が、どこにあるかを知らないためか、それとも神の最大の栄光の発現を望まないためか、そのどちらかでしょう。

 わたしたちはマリアに、自分の善行の価値のクドクもみな、ささげ尽くしてしまいました。このマリアこそ、神の最大の栄光がどこにあるかを完全にごぞんじなのです。また、マリアは、神の最大の栄光のためにでなければ、何ひとつなさいません。だから、マリアに、すべてをささげ尽くした忠実なしもべは、マリアへの自己奉献を公式に取り消さないかぎり、自分のすべての行い、考え、ことばの価値が、神の最大の栄光のために使われているのだ、とあえて断言することができるのです。このことは、神を純すいな、無私無欲な愛で愛している霊魂にとって、また神の栄光と利益を、自分自身のそれよりも優先している霊魂にとって、どれほどなぐさめになる真理なのでしょう。

 

 

 

 

第五節 第五の理由―この信心は、神との一致に通じる道

 

 

152.この信心はわたしたちをイエズス・キリストとの一致にみちびく平坦で最短、完全で確実な道なのです。

 

 

第@項 この信心は、平坦な道

 

それは、イエズス・キリストが、わたしたちのもとにおいでになるため、ご自身がたどられた道です。同時に、わたしたちが、イエズス・キリストのみもとにいたるために、なんの障害もない道なのです。

たしかに、ほかの道をたどっても、神との一致には到達できるでしょう。しかし、そんな道には途中、たくさんの十字架や、越えがたい峠や、多くの困難があるので、それを通り越すのはなかなか大変です。

くらい夜道も通らねばならず、外敵との激しい戦い、内面の心痛、けわしい山、イバラやトゲ、おそろしい沙漠もひかえています。しかし、マリアという名の道ですと、きわめて快適な、きわめて平穏な旅ができるのです。

実際に言って、そこにはなすべき大きな戦いもあり、うち勝たねばならぬ困難もあります。しかし、良き母、良き女王、マリアは、ご自分のしもべのごく近くにいてくださいます。かれが、やみ路をたどっているときには、照らしてくださいます。疑惑の雲にとざされているときに啓発してくださいます。恐れおののいているときには強めてくださいます。戦いのとき、困難のときには勇気をささえてくださいます。

真実にいって、この道こそは、イエズス・キリストを見いだすための道です。ほかの道にくらべたら、バラの道、蜜のしたたる道です。

ごく少数ながらも、この道をたどった聖人がいます。聖エフレム、聖ヨハネ・ダマスコ、聖ベルナルド、聖ベルナルジノ、聖ボナベントラ、聖フランシコ・サレジオ、その他です。

かれらはみな、この甘美な道を通って、めでたくイエズス・キリストにたどり着きました。マリアの忠信な夫であられる聖霊が、特別のお恵みで、この道をかれらに指示してくださったからです。

しかし、数においてもっと多いほかの聖人も、なるほどマリアの信心はみんながもってはいましたが、それでもこの道をたどろうとはしなかったのです。だからこそ、もっと苛烈な、もっと危険な試練に見舞われねばならなかったのです。

 

 

 

153.マリアの忠実なしもべであっても、だれかが次のようなグチをこぼすかも知れません。聖母の忠実なしもべにかぎって、いろいろな苦しみにさいなまれている、しかも聖母にさほど信心をしない人たちよりも、もっともっと苦しみの機会に出くわしている。これはいったい、どういうことなのか。聖母の忠実なしもべほど、人からさんざん反対され、迫害され、悪口雑言を言われ、これでもか、これでもかと、いやがらせをされている。そのうえ、かれらは精神的にも、くらい夜道をたどり、荒涼たる砂漠をとおっている。そこには、天からのなぐさめの露一滴すらもない。もしマリアへのこの信心が、イエズス・キリストを見いだすための最も平坦な道だったとしたら、どうしてマリアの忠実なしもべが、これほどまで苦しまねばならないのか。

 

 

 

154.答えて言いましょう。―マリアの最も忠実なしもべは、マリアのお気に入りですから、とうぜんマリアから、いちばんりっぱなごほうびをいただかねばなりません。それは“十字架”という名のごほうびです。しかし、マリアの忠実なしもべにかぎって、自分たちの十字架を、やすやすと、しかも永遠のクドクとなり、栄光となるような仕方で、になっていることは事実です。ほかの人が、こんな十字架をになったら、きっと千たびも万たびもたおれ、あげくの果ては、神への巡礼をなげうったかもしれません。だが、さすがはマリアの忠実なしもべです。いちどだって、十字架のために、神への前進をはばまれたこともなければ、またそれを投げうつもしないのです。

 神のお恵みに満ち、聖霊の油そそぎにみなぎる御母マリアが、ちゃんとそばにいらしてかれらの十字架に、ご自分の限りない母性愛と純すい愛の砂糖をまぜて、それをおいしいお菓子にしてくださるからです。中味はたいへんにがいのですが、口には甘い砂糖菓子のようなものが十字架なのです。

 マリアの忠実なしもべとなり、「イエズス・キリストにあって信心深く生きようとする人は皆迫害を受け」(Uテモテ3・12)ながら、くる日もくる日も、自分の十字架をにないたい、と考えている人は、マリアへの特別の信心がなければ、とうてい、大きな重い十字架を終りまでになうことができなければ、よろこんでになうこともできますまい。マリアだけが、十字架とう銘菓の製造人だからです。砂糖漬けにしていないナマのクルミを、根気よく食べ続ける勇気のある人がいないのと同様です。

 

 

 

第A項 この信心は、最短の道

 

 

155.マリアへのこの信心は、イエズス・キリストを見いだすための、最短の道です。この道をとおりさえすれば、迷う心配がないからです。また、今さき申しましたとおり、この道は、喜び勇んで、やすやすと、したがって早いテンポで歩けるからです。

 ごく短い期間でも、マリアに服従し、マリアに隷属してさえいれば、長い期間、自分勝手に、自分の能力にだけたよって信心するよりも、いっそう早く目的地に近づくことができます。マリアに従っている人、マリアに隷属している人は、あらゆる敵にうち勝ち、がい歌を奏するからです。じじつ、敵どもが途中で、マリアの忠実なしもべの前面に立ちふさがり、その前進をはばみ、かれを後退させ、転倒させるため、いろんな工作をめぐらします。しかし、かれはマリアの支え、助け、先導のもとに、転倒もせず、後退もせず、おくれもせず、イエズス・キリストめざして、ゆうゆうと巨人の歩調で前進するのです。かれが今たどっているマリアという名の道―それはかって、イエズス・キリストが、わたしたちのもとにおいでになるため、まっさきに巨人の歩調をもって、短日月にたどり終えられた、おなじ道なのです。

 

 

 

156.なぜ、イエズス・キリストのご一生は、あれほど短命だったのでしょうか。また、なぜ、イエズスはあれほど短命だったご一生のほとんどを、マリアへの隷属と服従のうちにお過しになったのでしょうか。ああ、これこそは二律背反のミステリー。だが、イエズスは「短い期間に完全なものとなったからこそ、実は長く生きたのです」(知恵の書4・13)。イエズスは、その罪をつぐなってあげたアダムよりも、九百年以上も生ながらえたアダムよりも、もっと長く生きたのです。イエズスがそれほど長く生きたのは、神なる御父に従うために、御母マリアに完全に隷属し、御母マリアと完全に一致して生きたからです。なぜマリアへの隷属の生涯が、これほど充実した内容をもつのでしょうか。理由は、左のとおりです。

@「母親を尊ぶ人は、タカラものを積む人と同じである」(集会3・4)と、聖霊が言っておられます。つまり、御母マリアを尊ぶあまり、彼女に隷属し、万事において彼女に服従する人は、やがて霊的に大いに富める者となり、毎日、タカラものを積み重ねていくのです。

A右のことばは、霊性生活において、こうも解釈できます。「わたしの老成は、母胎のいつくしみのさ中にある」(詩篇91・16)。すなわち、マリアのご胎のさ中にある、というのです。マリアのご胎こそ、「全く人間を生んだ」(エレミヤ31・22)のであり、また、「広大無辺の全宇宙でさえもが包容できないおかたを、自分のうちに宿す能力をもっているのです」(聖母の土曜日の典礼)。

 信心生活においてまだ若い人も、マリアのご胎において、いつくしみはぐくまれていくうち、やがて天からの光と聖性、経験と知恵の面で大成し、「完全におとなとなって、キリストの満ちみちた背たけにまで達するのです」(エペソ4・13)。

 

 

 

第B項 この信心は、完全な道

 

157.このマリアへの信心の実行は、イエズス・キリストにいたるため、また、かれと一致するための、完全な道です。マリアが、被造物の中でいちばん完全なかた、いちばん聖なるかただからです。またわたしたちのもとにつつがなくおいでになったイエズス・キリストが、御父のふところから地上世界への大旅行のさい、お取りになったルートは、これ以外にないからです。

 いと高き者、人間の理解を無限に超える者、だれも近づくことのできない者、有りて有る者―この永遠無限の神が、地上の小さなウジ虫にすぎない、いや、無にすぎないわたしたち人間のもとに、なんとかしてたどりつきたいものだ、とお考えになりました。神はどのようにして、このお望みをとげられたのでしょうか。

いと高き者は、マリアという謙虚な女性をとおって、わたしたちのもとに、完全な、神聖なお姿で着地されました。―ご自分の神性からも聖性からも、何ひとつ失わないで。だから、マリアをとおってこそ、ごくつまらないわたしも安心して、完全な、神聖な姿で、いと高き者に向ってのぼっていかねばならないのです。

 人間の理解を無限に超える者は、小さきマリアをとおしてこそ、わたしたちにも理解され、またその無辺性を少しも失わないで、完全にマリアに規制されるままになられました。だから、小さきマリアからこそ、わたしたちも完全に規制され、みちびかれねばならないのです。

 だれも近づくことのできない者は、ご自分のみいずを少しも失うことなく、マリアをとおして、わたしたちの人間性に近づき、これと密接に、完全に、しかもパーソナルに、一致されました。だから、マリアをとおしてこそ、わたしたちも神に近づき、安心して、完全に、密接に、神と一致せねばならないのです。

 さいごに、有りて有る者は、無くて無い者のところにおいでになって、無くて無い者を有りて有る者に、すなわち神にしようとお望みになりました。有りて有る者は、ご自分を、おとめマリアに与えることにより、ご自分をまったく彼女に隷属させることによってこの世紀の大偉業を、めでたく完成されたのです。―永遠の昔からそうだったように、時間と空間の規制を受けてからも依然として、有りて有る者であることを失わないで。

 だから、マリアをとおしてこそ、わたしたちも、たとえ自分が無くて無い者ではあっても、マリアにあってすべてをもっているのだから、恩寵と栄光とによって、まちがいなく、神に似た者となることができるのです。

 

 

 

158.イエズス・キリストにいたるため、だれかがわたしに、もうひとつ新しい道を作ってくれたと仮定します。さらにこの道は、聖人たちのあらゆるクドクで舗装され、かれらのあらゆる英雄的善徳でかざられ、天使たちのあらゆる光と美で照明され、色どられています。さらにまた、すべての天使、すべての聖人が、道の両側に人がきを造り、そこを通る人々を案内し、敵からまもり、勇気をささえてくれる―そういった新しい道が、ここにあるとします。

 しかし、わたしだったら絶対に、この道は通りません。なるほど、この道はそれなりに、完全な道ではあるでしょう。だが、わたしが選ぶのは、この道ではなくて、マリアという名の“けがれなき道”(詩篇18・30)です。一点のシミもなく、よごれもなく、原罪もなく自罪もなく、影もなくヤミもない“マリア”という道です。

 イエズスが、その栄光を帯びて、世をさばくため、再び地上においでになるとき(そしてそれは確かな事実だが)かれは旅路として、マリア以外のいかなるルートもお選びにならないでしょう。マリアというルートをとおってこそ、イエズスは最初の地上来臨のとき、最も確実に、この世においでになったからです。最初の地上来臨と最後の来臨との間にはムードの面でむろん相違があるでしょう。最初の地上来臨は、人目にかくれて、ひそかに行われました。最後の地上来臨(キリストの再臨)は、栄光に満ち、人目にもサン然たるものでしょう。

 だが、キリストの地上来臨は両方共、完全なものです。両方共、マリアをとおして、行われるからです。これこそは、人間の理解を超える神秘なのです。ここにおいてか、すべての舌は黙すべし。

 

 

 

第C項 この信心は、確実な道

 

 

159.マリアへのこの信心は、イエズス・キリストにいたるための確実な道です。また、わたしたちに、自分をイエズス・キリストに一致させ、完徳を獲得させてくれるための、確実な道でもあります。

@わたしが今述べているこの信心は、けっして新発売ではないからです。しばらく前、聖徳のかおりのうちになくなったブードン師が、この信心について書き残した本の中で言っているように、この信心の起源が、いつごろにさかのぼるかが正確にわからないほど、この信心は古いのです。それでも、七百年以上の伝統をもっていることは明白です。当時すでに教会の中で、この信心が行われていたという形跡があるからです。

1040年ごろの人である、クリュニ大修道院長・聖オディロンは、この信心をフランスで公に実行した者のひとりであることが、その伝記に見えています。

 ぺトロ・ダミヤノ枢機卿の記録によれば、その兄弟福者マリノが1076年、かれらの聴罪師の面前で、たいへん感動的な仕方で、自分をマリアのドレイとして奉献しています。かれは自分の首にくさりをつけ、身をムチ打ち、祭壇の上に金一封を置いて、マリアへの自己奉献と忠誠のしるしとします。一生涯、忠実にマリアに仕えたので、臨終のときにはマリアのご訪問となぐさめのおことばを頂き、永遠の奉仕の報いとして必ず天国に行くという保証を、マリアのお口から賜ったのです。

 チェザリウス・ボランドスの記録によりますた、ルーバン侯の近親にあたる有名な騎士ボーチェ・ド・ビルバックが、1300年ごろ、マリアに自己奉献をしています。

 この信心は、十七世紀までは、個人的信心業として、若干の人たちに実行されてきましたが、それ以後は、公の信心業として、あまねく普及していったのです。

 

 

 

160.「捕虜のあがない」修道会という別名のある、三位一体修道会のシモン・ド・ロイアス師は、フィリップ三世専属の説教師でしたが、この信心を、全イスパニヤおよびドイツに広めました。そしてフィリップ三世の切なる願いにより、この信心を実行している人たちのために、教皇グレゴリオ十五世から、大きな免償を得ました。

 聖アウグスチノ修道会のト・ロス・リオス師は、親友のロイヤス師と協力して、ことばでも書き物でも、この信心をイスパニヤ及びドイツに広めるために尽力しました。かれは「ヒエラルキヤ・マリヤーナ」という部厚い本を書きましたが、その中には、この信心の古い起源、優秀さ、堅実さが、信心深く学問的に述べられています。

 前世紀ごろ、テアチノ修道会の神父たちが、イタリア、シチリヤ、サボアなどに、この信心を根強く普及させました。

 

 

 

161.イエズス会のスタニスラス・ファラチウス神父は、この信心をみごとに、ポーランドに広めました。

ド・ロス・リオス神父は、前掲の本の中で、この信心を実行した諸国の王、王妃、司教、枢機卿の名前を列挙しています。

 その敬けんと深遠な学識でコルネリウス・ア・ラピデ神父は、多くの司教、神学者から、この信心への検討を依頼されました。くわしく調べた結果、かれはこの信心に、最大限の賞賛を与えました。それでほかの偉い人たちも、この神父に共鳴して、マリアの信心家となりました。

 いつもマリアへの信心に熱烈なイエズス会の神父たちは、ケルンの信心会連合の名で、当時ケルン大司教であったババリヤ公フェルディナンドに、この信心の小さな説明書を贈呈しました。大司教はすぐにそれを是認し、出版許可を与え、自教区のすべての司祭、すべての修道者に、この信心の推進を勧誘しました。

 

 

 

162.フランス全国にまだ記憶めでたきド・ベリュル枢機卿は、この信心をフランス国内に広めるため、モーレツに活動した人びとの一人ですが、そのため批評家や不逞の徒輩から大へん迫害され、悪口ぞうごんをあびせられたものです。枢機卿は、新しがり屋、迷信家だ、と非難されます。敵どもは枢機卿に反対するため、一冊の不穏文書を出版し、枢機卿がフランス国内にこの信心を普及させることを妨害するため、あらゆる卑劣な手段を駆使します。

 しかし、この偉大な、聖なる人物は、かたく口をとざして、敵どもの非難には何も答えません。ただ自分も敵どもの反論を粉砕するため、一書をあらわし、その中で、かれらの誤りをつぎつぎと論破し、さらに積極的に議論を展開して次のように述べています。

 すなわち、この信心は、イエズス・キリストのお手本に基づいていること、また、わたしたちがキリストに負っている義務に、わたしたちが洗礼のとき神にした約束に、それぞれ基づいている、といっているのです。

とりわけ、この最後の理由のためにこそ、枢機卿はかたく口をとざして敵どもに、マリアへの自己奉献が、またマリアのみ手をとおしてのイエズス・キリストへの自己奉献が洗礼のちかい、洗礼の約束の完全な更新にほかならない、ということを、見せつけたのです。

 

 

 

163.前に述べたブードンの本の中には、この信心を認可して諸教皇の名、この信心を詳細に検討した神学者たちの名、およびこの信心が受け、それにうち勝った迫害、この信心をおこなったいろいろな人物の名が列記されています。この信心を断罪した教皇は、一人もいません。そんなことでもしたら、キリスト教の根底をゆさぶることになる、と考えたからでしょう。

 そんなわけで、この信心がけっして新奇なもの、新発売でないことが、以上の説明で、おわかりになったと思います。では、この信心は、なぜ大衆化されないのでしょうか。それは、すべての人に賞味され実行されるには、この信心があまりに貴重、あまりに高次元だからです。

 

 

 

164.Aこの信心は、イエズス・キリストにいたるための確実な手段です。なぜなら、マリアの特長は、わたしたちを確実に、イエズス・キリストにみちびくことだからです。ちょうどイエズス・キリストの特長が、わたしたちを確実に、永遠の御父にみちびくことであるように。霊性生活をいとなんでいる人は、神との一致に達するために、マリアが障害となっているとは、だれも信じていません。

 考えてもごらんなさい。すべての人のために、また一人びとりのために、神のみまえに恵みを得たマリアが、ある人にとって、神との一致の大きな恵みを見いだすためのじゃま者となっているということは、とうていあり得ないことです。神の恵みに満ちあふれているマリアが、そのご胎に神が受肉されたほど密接に神と一致し、それほど神に変容し尽くされたマリアが、ある人にとって神とお完全な一致へ妨げとなっているとは、とうてい考えられないことです。

 たしかに、それがどんなに神聖なものであっても、ある被造物をつらつらうち眺めると、それがために神との一致を、ある期間、おくらせることもたぶんありえるでしょう。

だが、前にも申しましたとおり、マリアにかんしてだけは、そんなことは絶対にございません。

 では、なぜ、聖性において、イエズス・キリストに背たけにまで達する人が、そんなに少ないのでしょうか。それは、イエズス・キリストの御母マリアが、聖霊の妻マリアがかれらの心に、まだまだ十分に形造られていないからです。

よく熟した果物を得たいのなら、まずそれを生じる木を手に入れねばなりません。生命の実なるイエズス・キリストを得たいのなら、まず生命の木なるマリアを手に入れねばなりません。自分のうちに聖霊の働きが欲しい人は、まず自分のうちに、聖霊の忠実な妻、聖霊と不解消のキズナで結ばれているその妻マリアを、内住させねばなりません。マリアがあって初めて聖霊は、霊魂の中で、みのりある働きをすることができるのです。このことは、すでに述べたとおりです。

 

 

 

165.だから、黙想のあいだ、念祷のあいだ、仕事のあいだ、苦しみ悩みのとき、マリアをながめればながめるほど、それだけ完全にイエズス・キリストを見いだすのです。マリアをながめるといっても、お顔に穴のあくほどながめなくてもいいのです。ただグローバルに、それとなく、意識の深層でながめたらいいのです。なぜ、マリアをながめればながめるほど、それだけ完全にイエズス・キリストを見いだすのでしょうか。

イエズス・キリストはいつも、マリアとともにいらっしゃるからです。マリアとともにいらっしゃるときこそ、イエズスは天国におられるときよりも、また宇宙の他のいかなる被造物の中におられるときよりも、もっと偉大だからです。もっと力づよく、もっと行動的、もっとかくれておいでになるからです。

 そんなわけで、神にまったく浸透し尽くされているマリアが、完全な人たちにとって、神との一致にいたるための障害となっているどころか、マリアほど、神との一致というこの大事業において、わたしたちを効果的に助ける者は、今まで一人もいなかったし、これからだって一人もいないでしょう。

マリアは、ご自分の恩寵を、あなたに流通されることによって、この世紀の大偉業をなしとげて下さるのです。

 ある聖人(聖ジェルマノ)が言っていますように、マリアによらなければ、わたしたちの頭には、神についての考えすら浮かんでこないのです。

さらにマリアは、完徳の修業に、えてしてありがちな、悪魔からの迷いとウソから、あなたがたをまもってくださるのです。

 

 

 

166.マリアがいらっしゃる処―そこには絶対、悪霊がいません。ある人が、熱心にマリアに信心し、しばしばマリアのことを考え、しばしばマリアについて話していれば、それは、この人が、聖霊にみちびかれているとの、いちばんたしかなしるしなのです。聖ジェルマノが言っているとおり、からだが死んでいないとのたしかなしるしが、呼吸であるように、霊魂が罪によって死んでいないとのたしかなしるしは、マリアのことをしばしば考え、愛情こめてマリアのみ名を呼ばわることなのです。

 

 

 

167.教会と聖霊が、共同で声明しているように、「マリアは、ご自分がタッタひとりで、全世界のすべての異端を粉砕されました」(聖母マリアの典礼)。敵どもが、どんなに言おうと、マリアの忠実な信心家は絶対に、異端や邪説におちこむことはありません。なるほど外面上、無意識的に、ウソを真理と取りちがえたり、悪霊のささやきを聖霊のそれとごっちゃにして迷うことはありえるでしょう。

 しかし、かれはおそかれ早かれ、自分のあやまちと表面的な、無意識的な過誤に気づくでしょう。それに気づいたら最後、以前にマコトだと信じ込んでいたウソを、絶対に信じもしなければ固守もしません。

 

 

 

168.だから、祈りの人にありがちな、迷いにおち入る心配もなく、完徳の道に前進したい、確実に完全にイエズス・キリストを見いだしたい、と望んでいる人はだれでも、たとえ自分にはまだそれがよくわかっていなくても、「大きな広い心をもって」(Uマカベ1・3)マリアに対するこの信心を実行してもらいたいものです。イエズス・キリストへのこの最もすぐれた道を、たどってもらいたいものです。―わたしが現に「あなたに示している、このすべてにまさる道」(Tコリント12・31)を。

 この道を開発し、まっさきにたどられたかたは、人となられた永遠の知恵、全人類の唯一のかしら、イエズス・キリストなのですから、その神秘体の成員がとおっても、絶対に迷うことはないはずです。

この道は、平坦な道です。

 恩寵に満ちあふれ、聖霊の油そそぎで舗装されているからです。この道さえたどれば、疲れることもなく、後退することもありません。

 この道は最短です。わずかの時間で、イエズス・キリストのみもとに達することができるからです。この道は、完全です。

そこにはチリもドロもなく、罪のけがれのひとかけらすらないからです。

さいごに、この道は、確実です。安全です。この道は、わたしたちを、イエズス・キリストのみもとに、また永遠の生命に、まっすぐに確実に、右にも左にもそれないで、みちびいてくれるからです。

 だから、この道からスタートしましょう。

昼も夜も、この道を歩き続けましょう。―イエズス・キリストの背たけに達するまで。

 

 

 

第六節 第六の理由―この信心は大いなる内面的自由を与える

 

 

169.この信心をまじめに実行する人は、大いなる内面的自由、すなわち「神の子どもたちの栄光の自由」(ローマ8・21)をいただきます。なぜなら、この信心によって、イエズス・キリストに愛のドレイとして、自分自身をまったくささげ尽くすのですから、イエズス・キリストも、ご自分の愛のドレイに、次のようなむくいをくださるのです。

@その人のたましいから、かれをとりこにし、偏狭にし、混乱さす、オドオドしたドレイ的恐怖や、小心を取り除いてくださいます。

A神は自分の父親だと信じ込ませる、神への信頼をますますふやしてくださいます。

B神への孝情に満ちた愛を霊感させてくださいます。

 

 

 

170.いろんな理由をあげて、この真理を照明することもいいことだが、わたしは次に一つのエピソードをかかげましょう。それはわたしが、オーベルニュのランジャックにある女子ドミニコ会修道院の「イエズスのアグネス修道女」の伝記の中で読んだものです。この修道女は1634年、聖徳のかおりの中で、同地でなくなりましたが、まだ七つにもならないのに、信心の過熱のため、ひどいノイローゼにかかりました。

 そうした中で、ある声を聞いたのです。「もしおまえがノイローゼから救われたいのなら、また信心の敵どもから保護してもらいたいなら、さっそく、イエズスさまのドレイに、マリアさまのドレイになりなさい。」

 彼女は家に飛んで帰り、イエズスとその御母マリアに、自分自身をまったくささげます。この信心がどんなものかは、まだ知っていないのです。しかし、鉄のくさりを見つけて、それを腰にはめ、死ぬまで取らなかったのです。マリアへのこうした自己奉献のあと、さしもの精神的な闇もオドオドした小心もスッカリなくなり、心には大きな歓びと安らぎがもどりました。彼女がこの信心を広めようと決心したのは、こんなことがあったからです。

 彼女の指導で、この信心に長足の進歩をとげた人びとの中に、サンスルピス大神学校の創立者オリエ師(神父=訳者)がいます。その他、同神学校の司祭、教授たちも大勢います。・・・ある日、マリアさまが彼女に現われ、彼女の首に黄金のくさりをかけながら、あなたが自分を愛のドレイとして、御子イエズスとわたしにささげ尽くしたのは大変うれしい、と仰せになって、心からその歓びをおあらわしになりました。また、マリアのおともをしていた聖女チェチリヤも、彼女にこう言います。「天の元后の忠実なドレイは、さいわいです。かれらは本当の自由を楽しむからです。“マリアよ、あなたに仕えることは、わたしたち人間にとっては解放です。まことの自由の享受です。”」

 

 

 

 

第七節 第七の理由―この信心は、隣人に大きな善をもたらす

 

171.この信心を推薦するもう一つの理由は、この信心の実行が、隣人に大きな善をもたらす、ということです。事実、この信心によって、わたしたちは最もすぐれた方法で、隣人愛を実行することができるのです。すなわち、わたしたちはマリアのみ手をとおして、自分のもっている最も貴重なもの―つまり、わたしたちのすべての善行のつぐない価値と祈求価値を、隣人にほどこすのです。どんなに小さな良い考え、どんなにわずかな苦しみでも、例外ではありません。わたしたちがすでに獲得している、また死ぬ日まで獲得できる、すべてのつぐないのクドクは、マリアのお望みのままに、あるいは罪びとの回心のため、あるいは煉獄の霊魂のすくいのために、使われるのです。

 これこそ、隣人を完全に愛することではないでしょうか。これこそは、キリストの本当の弟子であることを実証するしるしではないのでしょうか。「もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることをすべての人が認めるのです」(ヨハネ13・35)と、イエズスが仰せになったからです。

 これこそはまた、虚栄心の心配もなしに、罪びとを回心させる手段ではないでしょうか。これこそは、自分の身分上の義務を果す以外に、ほとんど何もしないで、りっぱに煉獄の霊魂をすくう手段ではないでしょうか。

 

 

 

172.この第七の理由が、いかにすぐれているかを理解するためには、罪びとを回心させ、煉獄の霊魂をすくうことが、いかにすぐれた善であるかを理解する必要があります。罪びとを回心させ、煉獄の霊魂をすくうことは、無限の善です。天地を創造するよりも偉大な善です。なぜなら、それは霊魂に“神”を与えるからです。

この信心の実行によって、ある人が一生かかって、タッタ一人の罪びとしか回心させず、タッタ一人の煉獄の霊魂しかすくわなかったとしても、タダこの一事だけでも、すべて隣人愛にもえる人にとっては、この信心の信奉家になるための、十分な理由とはならないでしょうか。だが、ここに注目すべきことがあります。それは、わたしたちの善行は、マリアのみ手をとおして、ほかの人に与えられるとき、ますます清さを増すということ、従ってますますクドクも増し、つぐない価値、祈求価値も増すということです。だから、それはマリアのみ手をとおさないで与えられるときにくらべて、煉獄の霊魂をすくい、罪びとを回心させる上において、はるかに大きなキキメがあるのです。

 自分自身の望みを捨て、まったく没我的な愛徳から、ひとに与えるわずかな善行でも、神の怒りをなだめ、神のあわれみをよびくだすには、十分ちからがあるのです。この信心の実行にたいへん忠実だった人が、こうした手段によって、煉獄の霊魂を何人もすくい、罪びとを何人も回心させた―しかも、ごく平凡な身分上の義務しか果さなかったのに、そういう偉大なことをした、ということを臨終のときさとるでしょう。それはかれにとって、神のさばきのとき、どれほど大きな歓びとなるでしょう。それはまたかれにとって、永遠にわたって、どれほど大きな栄光となるでしょう。

 

 

 

第八節    第八の理由―この信心は、堅忍への感ずべき手段

 

173.さいごに、わたしがマリアへのこの信心を特に強くすすめる理由は、この信心が徳のうちに堅忍し、神への忠誠をつらぬくための、感ずべき手段だからです。どんなわけで、罪びとの回心が、多くの場合、長続きしないのでしょうか。どんなわけで、そんなにたやすく、再び罪におちいるのでしょうか。どんなわけで、多くの正しい人が、徳から徳へと前進するかわりに、また新しい恩寵を受けるかわりに、せっかく自分がもっているわずかな徳、わずかな恩寵までも失うことがしばしばあるのでしょうか。

こうした不幸は、先に述べたとおり(本書87〜89)、人が、それほど腐敗し、それほど弱く、それほど変わりやすい人間性のもち主であるにもかかわらず、それを無視して、ただ自分自身にだけたよるからです。ただ自分自身の力だけをあてにし、自分がもっている恩寵、徳、クドクの宝を、自分の力だけでまもれる、と信じ込んでいるからです。

 この信心を実行する人は、自分のもっているすべてのものを、忠信なおとめマリアに委託します。自分がもっている自然界・恩寵界のすべての善をマリアに一任し、マリアをその保管者とあおぎます。マリアの忠信をこそ、たよりにしているのですマリアの力づよさにこそ、信頼しているのです。マリアのあわれみといつくしみにこそ、すがっているのです。悪魔と世間と肉が結束して、わたしたちからそれを奪おうと、どんなに努力しても、マリアは、ご自分に委託されたわたしたちの徳とクドクを無キズに保管し、ふやしてすらくださるのです。

 ちょうど、よい子供が母親に、忠実なしもべが女主人にそう言うように、わたしたちもマリアに、「ゆだねられたものを守ってください」(Tテモテ6・20)と申し上げることができるのです。

ああ、マリア。わたしの母、わたしの女王よ。わたしは今まで、その資格もないのに、あなたのお取り次ぎによって、神さまから、身にあまる恩寵をいただきました。ところがわたしのにがい経験によって、わたしはこの宝を、たいへんもろい土器の中に、たずさえていることがよく分かります。わたしは自分で、この宝を安全に保管していくには、あまりに弱い者、あまりにみじめな者だということを痛感しています。

「わたしはつまらない者で、さげすまれています」(詩篇119・141)

 どうか、わたしがもっている、すべての宝の保管者となってください。どうかそれを、あなたの忠実さ、力づよさによって、無キズに保管してください。あなたが守ってくださるなら、わたしは何も失いません。わたしをささえてくださるなら、絶対にたおれません。保護してくださるなら、どんな敵の攻撃に対しても安全です。(Mis17)

 

 

 

174.こうした信心をすすめて、聖ベルナルドがすでに明言しているとおりです。「マリアにささえて頂きさえすれば、絶対にたおれません。マリアにまもって頂きさえすれば、絶対に何もこわがる必要はありません。マリアにみちびいて頂きさえすれば、絶対に疲れません。

 マリアに可愛いがって頂きさえすれば、安全に救いの港にたどり着くことができるのです」(in Spec.BMV.

聖ボナベントラも、おなじことを、もっとハッキリと言い切っています。「マリアは、聖人たちの充満の中に閉じ込められているだけではありません。

 マリアこそ、聖人たちを、かれらの充満の中に閉じ込め、かれがそこから出ないように守ってくださるのです。マリアは、聖人たちの徳が散り失せないように、かれらのクドクがなくならないように、かれらの恩寵が失われないように、悪魔から傷つけられないように、罪をおかしたときはキリストから罰せられないように、聖人たちを守ってくださるのです」

 

 

 

175.マリアは、忠信なおとめです。不信なエバが、神への不信によって、人類にもたらした損害を、マリアは、神への忠信によって、つぐなってくださいます。そればかりか、マリアは、ご自分を愛する人々のために、神への忠信と、信仰における堅忍の恵みを乞い求めてくださいます。

 そんなわけで、ある聖人はマリアを、丈夫なイカリにたとえています。この世の荒れ狂う海の中で、マリアがイカリとなって、ご自分を愛する人びとを、難破の危険から救ってくださるからです。多くの人が難破しているのは、マリアという名のこの丈夫なイカリに、しがみついていないからです。「わたしたちは、丈夫なイカリのようなあなたに、自分の司牧する人びとを結びつけます」とダマスコの聖ヨハネは、マリアに向って言っています。天国に行った聖人は、この丈夫なイカリに、いちばん強くしがみついていた人たちです。また、自分ばかりでなく、ほかの人をも、善徳への道に堅忍さすために、しがみつかせたのです。この世で、マリアという丈夫なイカリに絶えまなくしがみついて、はなさない信者はさいわいです。この世のあらしがどんなに荒れ狂っても、かれらをおぼれ死にさせることもできなければ、かれらの宝を奪うこともできないからです。

 ノアの箱舟にはいるように、マリアのうちにはいる人はさいわいです。多くの人を、おぼれ死にさせている罪の洪水が襲ってきても、かれらには何の危害も加えることができないからです。実際、聖霊が言っておられるように、「救霊のために働くため、マリアのうちにいる者は、けっして罪をおかさないでしょう」(集会書24・22)

 不幸なエバの不信な子どもたちでも、もしかれらの本当の母であり、忠信なおとめであるマリアをさえ愛すれば、かれらはさいわいです。マリアは「どこまでも忠信なかたで、ご自分をあざむくことが絶対におできにならないからです」(Uテモテ2・13)。そのうえマリアは、「ご自分を愛する者を、お愛しになる」(格言8・17)からです。それも、ただ情緒的な愛ばかりでなく、行動的な、実効的な愛で、愛しかえされるのです。すなわち、かれらに大いなる恩寵をそそいで、かれらが善徳の道において後退したり、たおれたりするのをふせいでくださるのです。

 

 

 

176.この良き母マリアはいつも、ご自分に委託されるものをすべて、純然たる愛徳の精神から、よろこんで引き受けられます。委託されたものを、ひとたび引き受けたからには、マリアは双務契約によって、それを無キズに保管する、という義務があります。たとえていえば、わたしがある銀行に百万円を預金するとします。この銀行は、わたしの百万円を、安全に保管する義務があるのです。それでもし、銀行側の不注意によって、わたしの百万円が紛失されるなら、銀行側は正義上、それについて責任を負わねばなりません。ところで、こおうえもなく忠信なマリアが、ご自分に委託されたものを、ご自分の不注意によってなくすことは、こんりんざい、ありえないことです。天地は過ぎ去っても、マリアが、ご自分に信頼する人びとに対して、不信であったり不忠実であることは、絶対にありえません。

 

 

 

177.マリアの子どもたちよ。あなたがたのかよわさは極限に達しています。あなたがたの変わりやすさも最大。あなたがたの精神的土壌もスッカリ汚染されています。ありていにいえば、あなたがたもダラクしたアダムとエバの子ども衆の同類です。

だか、それだからといって、失望するには及びません。気をおとしてはいけません。かえって、よろこびなさい。よろこびの秘けつが―わたしがいま、あなたにお伝えする秘けつがここにあります。この秘けつは、ほとんどすべての信者が、いや、いちばん熱心な信者さえも知っていないのです。

 あなたの金銀財宝を、あなたの宝石箱の中にしまっておいてはいけません。それはすでに、ドロ棒の悪霊が、穴をあけているではありませんか。それはまた、これほど偉大、これほど貴重な宝をしまっておくには、あまりに小さく、あまりにもろく、あまりに古くはありませんか。

 罪のために汚染し、腐敗したあなたの水ビンの中に、泉から汲み取ってきた清らかな、透明な水を入れてはいけません。たとえ水ビンの中に罪はもうなくても、罪のわるいにおいはまだ残っているはずです。そのためにこそ、せっかくの泉の水が汚染されているのです。特級ぶどう酒を、くさったぶどう酒がまだいっぱいはいっている、古いぶどう酒だるに入れてはいけません。入れたらすぐにくさります。そればかりか、そのまま売り出される危険もありましょう。

 

 

 

178.救われるべきかたがたよ。もうこれで十分だと思いますけれど、もっと強調させて頂きます。愛徳の黄金を、純潔の銀を、恩寵の水を、クドクと善徳の美酒を、穴のあいた袋に、古くてこわれた箱に、人間性の腐敗した器物に入れて、安心しきっていてはなりません。そんなことをすると、ドロ棒にやられます。すなわち悪魔が、昼も夜も、ぬすみの好機をさがしながら、ねらっているからです。そんなことをすると、自愛心のわるいにおいのために、自分自身への過信、我意の悪臭のために、せっかく神から頂いた最も清いものを汚染してしまうからです。

 マリアのご胎に、マリアのみ心に、あなたのすべての宝、すべての恩寵、すべての善徳をしまっておきなさい。マリアこそ、“霊妙な器”です。“あがむべき器”です。“信心のすぐれた器”です。神ご自身が、そのすべての完徳とともに、その中に閉じこもって以来、この器は、このうえもなく霊妙となったのです。最も霊妙な霊魂の、霊妙な住まいとなったのです。

 この器は、信心のすぐれた器―柔和・恩寵・善徳において、最もすぐれた霊魂が住まう、永遠の住み家です。さいごに、マリアおいう名のこの器は、“黄金の堂”のように高価です。“ダビデの塔”のように強く“象牙の塔”のように清純です。

 

 

 

179.そんなわけで、マリアの忠実なしもべたちは、ダマスコの聖ヨハネとともに、マリアにあえて次のように申し上げることができるのです。

「ああ、神の御母マリア。わたしはあなたに信頼していますから、きっと救われます。あなたのご保護によりすがっていますから、だれも恐れません。あなたの助けを求めていますから、どんな敵とも勇ましく戦い、どんな敵をも敗走さすことができます。あなたへの信心こそ、あなたが救おうと望んでおいでになる人びとに、あなたがお与えになる、精強な救いの武器だからです」(「お告げの祝日」の説教)

 

 

 

 

『聖母マリアへのまことの信心』2.