グリニョン・ド・モンフォール
(1673〜1716)
イエズス:「霊的乾燥の頂点に達し、邪悪の時代の実現を間近にひかえたとき、
あちらこちらで最後の時の説教者たち、世界を死の泥沼から引き上げるべき
人々の声が聞かれるだろうと、私のしもべ モンフォールのルイジ・マリア・
グリニョンが言った。事実彼は、教会を救うために私の聖心の幸いなる方
(聖母マリアのこと)が成し遂げるであろう明らかな恩恵の働きに関して、
三位一体の愛である聖霊から照らされていたのである。」
(デボラ/「生ける神より明かされた英知」/5巻下P80)
参考文献:
『聖母マリアへのまことの信心』/愛心館/
(デルコル神父訳と山下房三郎司祭訳の二種類出ています。)
『聖マリアの秘密』/デルコル神父訳/愛心館
『ロザリオの神秘』/斎田靖子訳/エンデルレ書店
聖母マリアの忠信な僕・司祭ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォール。
宗教改革によってひきおこされたキリスト教生活の退潮を聖母信心によって
既往にもどすことに専念。「聖母マリアへのまことの信心」の原稿が
発見されたのは彼が亡くなってから126年後の1842年。
彼自身がその中で予言していたように、この本は長い間悪魔の憎悪とネタミと
妨害によって、倉庫の片隅の“やみと沈黙とホコリ”の中に、隠されていました。
(山下訳あとがきより)
現教皇ヨハネ・パウロ二世も若い時からいく度となくこの本を愛読し、教皇に
なってからもこれを引用し、その愛読をはげましているそうです。
(デルコル神父訳解説より)
恐らく彼は主から何らかの啓示を受けていたのではないかという気がします。
現代のマリアのご出現やそれに伴う運動などと非常によく符号しています。
『聖母マリアへのまことの信心』/山下司祭訳より抜粋
(3)
「マリアは、神に、できるだけ自分をかくしてくださるように、できるだけ自分を、
貧しく卑しくしてくださるようにと、熱心に祈っておられました。だから、
神も喜んでほとんど全ての人の目から、マリアをおかくしになったのです。(中略)
天使たちは天使たちで、マリアをつらつらながめては、しばしば
互いにささやき合ったものです。「あの女は、どんなかたですか」(雅歌3・6)
それほど神が、マリアを、全被造物の目から、おおいかくしておいでになったからです。
むろん、神はときたま、マリアのお姿を被造物に、ホンのすこしばかり、かいま見せる
こともありました。しかしそれとても、マリアを、ますますかくしたいご意向から、
そうなさったに過ぎないのです。」
(4)
「全被造物の目から、自分をかくしたい、とのマリアのねがいにこたえて、神なる
御父も彼女に、一生のあいだ一度も、すくなくとも人目をひくような奇跡は
おこなわれませんでした。マリアが、奇跡を行なうカリスマを、
じゅうぶん持ち合わせていたにもかかわらず神なる御子も、
マリアには、人前でほとんど、お話しをさせませんでした。
彼女には、ご自分の神的知恵を、あふれるほど、与えておられたにもかかわらず。
神なる聖霊も、使徒や福音記者に、マリアにかんしては、ホンのわずかしか、
記録させませんでした。しかも、人びとにイエズス・キリストを知らせるため、
マリアのご登場がどうしても必要な場合に限り、そうさせたのです。
マリアが、ご自分のいたって誠実な妻であったにもかかわらず。」
(5)
「マリアは、芸術作品でいえば、神の傑作です。神だけが、マリアを知り、
マリアを独占しておいでになるのです。マリアは、神の御子の感嘆すべき母です。
神の御子は御母マリアのけんそんを、ますます、助成するため、生涯にわたって
彼女を低くし、かくすことを喜ばれたのです。彼女を実名ではなく
“女の方”という、まるで赤の他人みたいな呼び方で、あしらわれました。
にもかかわらず、心の中では、すべての天使、すべての人にもまして、
マリアを尊敬し、マリアを愛しておいでになるのです。
マリアは、聖霊の『閉じた園』(雅歌4・12)です。マリアは、聖霊のいとも
忠実な妻です。聖霊だけが、この閉じた園に、はいることがおできになるのです。
マリアは、聖なる三位一体が、お住まいになる聖所です。」
(6)
「神の偉大な御国」
(7)
「神の聖なる都であるマリア」
(32)
聖霊は言っておられます−「あの人も、この人も、彼女から生まれた」(詩篇87・5)。
ある教父たちの解説によりますと、マリアから最初に生まれた人は、神人イエズス・キリストです。
次に生まれた人は、養子縁組によって生まれた純潔な人、神とマリアとの子供です。
もしも人類のかしらイエズス・キリストがマリアから生まれたのなら、
このかしらのからだであるすべての救われる人も、当然の帰結として、
マリアから生まれねばなりません。
ひとりの同じ母親が、からだのないあたまだけの子供を産みますか。
または、あたまのない、からだだけの子供を産みますか。
そうだとしたら、まさに世紀のオバケです。
これと同じ理くつで、恩寵の世界においても、かしらとそのからだは、ひとりの同じ
母親から生まれるのです。だから、もしもイエズス・キリストの神秘体のある成員が、
つまり救われる人が、神秘体のかしらをお産みになったマリアいがいの、他の母親から
生まれたとしたら、この人はもはや、イエズス・キリストの神秘体の成員でもなければ、
したがって、救われる人でもないわけです。
そんな人は恩寵界のオバケです。
(49)
世の救いは、マリアをとおして開始されました。だから、おなじくマリアを
とおして完成されるべきです。マリアは、イエズス・キリストが初めてこの世に
おいでになったときには、ほとんど目立たない存在でした。
当時の人々は神の御子について、まだ十分な知識もなく、ハッキリした認識も
持ち合わせていなかったので、もしもマリアがさいさいお姿をあらわしたら、
そのすばらしい魅力のために、人びとは先をあらそってマリアに、あまりに強く、
あまりに人間的に愛着したにちがいありません。そのために、真理から
遠ざかる危険があったのです。それほど神は、マリアの外貌までも神々しく
装ってくださったのです。こうした推測はけっして、でたらめではありません。
アレオパーグの聖デニスも、ちゃんと書き残しているとおりです。ある日、
かれはマリアを見たのですが、もしかれがシッカリした信仰をもっていなかったら、
またこの信仰が、そうじゃない、と教えてくれなかったら、かれはてっきり、
マリアを“神”だと感ちがいしたにちがいない、と書いているのです。
それはさておき、世の終わりにイエズス・キリストがおいでになる直前、
つまりキリストの再臨の直前、マリアは聖霊をとおして、人びとに知られ、
人前に姿を現さねばなりません。それはマリアをとおして、イエズス・キリストが、
あまねく世の人に知られ、愛され、奉仕されるためなのです。
聖霊が、ご自分の妻マリアを一生、ひたかくしにかくし、キリストが
公生活にはいって福音をのべ伝えてからも、マリアをホンのわずかしか
人間に出さなかった理由が、もうとっくに、なくなったからです。
(52)
悪魔にとって、いちばん恐ろしい敵は、神の母マリアです。(中略)
では、なぜ、悪魔はそれほどマリアをこわがるのでしょうか。
それは、第一、悪魔は高慢なのですから、神ごじしんと戦って負けたときよりも、
このちっぽけな、このいやしい、神のはしために負かされて、罰を受けるときのほうが、
もっともっと、くやしいからです。神の全能に負けるよりも、マリアのいやしさに
負けるほうが、悪魔にとっては、もっと、はずかしいからです。
(79,80)
わたしたちは、本能的に、クジャクよりも高慢、ガマよりも地上のものに愛着、
雄ヤギよりも劣情、ヘビよりもネタミ深く、ブタよりも食いしん坊、
トラよりも怒りっぽく、カメよりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりも
クラクラ変わります。わたしたちの霊魂の奥深にあるものはただ、無と罪だけ。
わたしたちが当然受けねばならないものはただ、神の怒りと永遠の苦罰だけ。
だからこそ、わたしたちの主イエズス・キリストが、ハッキリ言って
おられるのです。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分のいのちを憎まねばなりません。自分のいのちを愛する者は、
それを失い、わたしのために自分の命を憎む者はそれを救うのです。」
(マタイ16・24、ルカ9・23)
(106)
「マリアへのまことの信心の第一の特長は、それが内面的だということです。
すなわち、この信心は、精神と心から、でてくるのです。マリアについていだいている
尊敬の念から、マリアへの偉大さについての高度の認識から、マリアへの
熱く優しい愛から、発生しているのです。」
(107)
まことの信心の第二の特長は、それが愛情のこもったものだということです。
つまり、マリアに対する信頼に満ちた信心です。
ちょうど子供が、母親に対してもっている信頼のような。
まことの信心をもつ人は、からだと精神のあらゆる必要事にさいして、
正直に、信頼をもって、愛情をこめて、マリアのもとに馳せていきます。
どんなとき、どんな場所、どんな事がらにおいても、マリアの助けを呼ばわります。
疑惑の雲にとざされたときには、心を照らしていただくため。
道に迷ったときには、正道にひきもどしていただくため。
誘惑のときには、勇気をささえていただくため。(後略)
(108)
まことの信心の第三の特長は、それが聖だということです。すなわち、
マリアへのまことの信心は、人に罪をさけさせ、マリアの諸徳を模倣させます。
とりわけマリアのふかい謙虚、いきいきとした信仰、目をつぶっての服従、
たえまない祈り、あらゆる面での苦業、英雄的な忍耐、天使的な柔和、
神々しい純潔、熱烈な愛徳、神的英知、をまねさせます。
以上の諸徳は、マリアの十大善徳と呼ばれています。
(109)
マリアへのまことの信心の第四の特長は、それが不動だということです。それは人を、
善の中に強化し固定し、信心業をかんたんに放棄しない方向へともって行きます。
まことの信心は人を、世間に対して、世間のムードとコトワザに対して、勇敢にします。
肉に対しても、肉の倦怠と挑戦に対しても、勇敢にします。悪魔とその誘惑にも、勇敢に
します。そんな訳で、アリアへのまことの信心をもっている人は、人生の順境においても
逆境においても、不変不動です。グチもこぼさねば、泣きもせず、恐れもしません。
ときたま、信心の甘美に酔いしれて、失敗をしでかさないともかぎりません。
だが、失敗しても、倒れても、御母マリアに手をさしのべて、すぐに立ちあがります。
信心が無味乾燥になっても、ちっとも心配しません。マリアの忠実なしもべは、
イエズスとマリアへの“信仰に生きる”(ヘブル10・38)のであって、
けっしてからだの感覚にささえられて生きるのではないからです。
(114)
「わたしは、こんなことを予測しているのです。すなわち、この小さな本と、それを
書くため聖霊がお使いになった人(=著者)を、悪魔的な歯でかみ砕き、八ッ裂きに
しようと、多くの敵どもが、怒り狂う野じゅうのように、襲いかかってくるでしょう。
すくなくともかれらは、この本を出版させないために、どこかの倉庫の片すみに、
やみと沈黙とホコリの中に埋没させるでしょう。そればかりでなく、この本を
読んで、まことの信心を実行する人々に対してさえも、迫害の手をのべるでしょう。
かまうもんですか。いや、それで結構。こうした展望は、わたしを大いにはげまし、
大成功まちがいなし、との希望さえ与えてくれるのです。つまり、まもなく急テンポで
やってくる宇宙ぐるみの超非常事態に際会して、イエズスとマリアの
大軍団が、しかも忠勇無双の男女両兵士の大軍団が、世界のずい処に旗あげをし、
世俗に対して、悪魔に対して、腐敗した人間性に対して、血みどろの戦いをいどみ、
最後には勝利をおさめるのです。“読者は、よく読み取るように”(マタイ24・15)
“それができる者は、それを受け入れなさい”(マタイ19・12)」
(228)
第一週には、すべての祈り、すべての信心のわざを、自分自身を知り、
おかした罪を痛悔する恵みをねがうことに専念します。したがって、
すべてのことを、謙遜の精神でおこないます。そのためには、どうしたらいいの
でしょうか。もしお望みなら、わたしが前に述べた(78〜79)ように、自分の
内奥の醜悪な精神的土壌をふかく反省し、自分自身のことを、カタツムリだ、
ガマだ、ブタだ、ヘビだ、雄ヤギだ、と自嘲せねばなりません。または、
聖ベルナルドの次の三つのことばを、まじめに黙想するのも、いい方法です。
すなわち「おまえは過去において、どんなものだった? くさい粘液でした。
現在はどうだ? きたないクソ袋です。 将来はどうだ? ウジ虫のエサです」
(「人間の実体についての瞑想」3・8)
『ロザリオの神秘』より抜粋
「私の唱えるめでたし、十五連、または五連のロザリオは、悪霊に騙されている
者たちと、神の聖霊に導かれている人たちを見分けることができ、誤ることのない
基準です。崇高な観想によって鷲のように極点まで舞い上がったかのように見えながら、
悪霊によって惨めにも道を踏み迷った人たちを知っています。彼らが
めでたしやロザリオは、崇高な観想よりも遥かに下位にあると考えて軽蔑して
いるのを知った時、私にはこの人たちのどこが間違っているのかが分かりました。
めでたしの祈りは、神に救いを予定されている人々の上に天から降り注ぐ神聖な露です。
それは、その人たちがあらゆる徳性において成長できるように、驚くべき霊的な
能力を彼らに与えてくれるのです。霊魂という庭がこの祈りによって洗われれば、
人間の知性にはいよいよ磨きがかけられ、心は益々熱意に燃え、
霊的な敵を相手とする身の護りは、一層強固となります。」(P60)
「ロザリオは、女や、単純で無知な者の行なう信心だなどと
考えるとしたら、とんでもないことです。男も勿論のこと、
とりわけ男の中でも最も優れた者たちの持つべき信心です。」(P97)
「敬愛する読者よ、あなたがこの信心を実践し、周りに広めるのに力を貸すなら、
どんな霊的読書からよりもロザリオからもっと多くを学べるとお約束します。
ロザリオは、人々にイエスとマリアの徳について教え、彼らを心の祈りへ、
また救い主イエス・キリストを模倣するように導くからです。」(P118)
以上