わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか

マタイ27・46

試練は絶望を伴う

主はエホバと他の者と語られるように語られた(主の卑下の状態)

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.アグレダのマリア

 

 

1.聖書

 

マタイ27・45−50

 

 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海面を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

 

 

マルコ15・33−37

 

 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

 

 

ルカ23・44

 

 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義9528

 

「シッテムの木材で。」これは、慈悲から、を意味されていることは『シッテムの木材』の意義から明白であり、それは主のみに属した功績の善であり(9472、9486番を参照)、功績の善は慈悲であるため、それでこれもまた『シッテムの木材』により意味されている。なぜなら主は純粋な愛から、引いては純粋な慈悲から人間的なものを着けられ、最も甚だしい試練にさえも、遂には十字架の苦難にも堪えられて、人類を救おうとされたからであり、それで功績と義とは主のものとなったのである。このことから功績の善は慈悲であることが明らかである。慈悲は悲惨な状態の中に堅く閉じ込められている者たちに対する神的な愛〔神の愛〕である。(主は最も甚だしい試練すら受けられて、そのことにより天界と地獄とを秩序づけられ、また主は愛と信仰とをもって主を受け入れる者たちを救うために神的な愛〔神の愛〕から戦われたことについては、1266、1663、1668、1676、1690、1691、1737、1787、1812、1813、18820、1921、2083、2159、2574、2649、2776、2795、2813、2816、3318、4180、4286、4295、5078番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義9930[5]

 

さらに―

あなたはあなたの油注がれた者を怒られる、あなたはその王冠を地にまでさえも罪に定められた(詩篇89・38、39)。

 

 ここでもまた『油注がれた者』は主を意味し、『怒り』は主が諸々の地獄と戦われた時に存在した試練の状態を意味しており、その時の悲嘆が『怒り』と『罪に定められること』により記されているのである、例えば主が最後に十字架の上で御自分が『見捨てられた』と嘆かれたことが(そのことにより記されているのである)、なぜなら十字架は幾多の試練の中の、即ち、諸々の地獄との幾多の争闘の中の最後のものであり、この最後の試練の後で主は神的な善を着けられ、かくてその神的な人間的なものを主の中に存在したところの神的なものそれ自身[神性それ自体]に結合されたからである。

 

 

3.アグレダのマリア

 

アグレダのマリア/神の都市/P237

 

 時は第九時近くとなり、天地は暗くなり、荒れ狂う様子を見せます。主は大声で叫ばれます、「我が神よ、何ぞ我を見棄て給うや?」(マテオ27・46)。この御言葉はヘブライ語でおっしゃるので、理解できない人たちもいます。「エリ、エリ」で始まるので、預言者エリアを呼び出しているのかと思います。主の御悲しみは、全人類を救いたいのに、咎められる者たちの幸福を与えられないということにあります。

 主の聖心のお苦しみは御体の御苦しみとなります。「我、渇く!」アダムの子孫たちが、主の功徳によりもたらされた赦しと自由を受け取るよう渇望しておられますが、大勢の者たちがこの恩寵をないがしろにしています。聖母は御子に御心を合わせ、貧乏人、困窮者、下賎の者、忌み嫌われた人たち全員が救世主のところに集まり、主の渇きを少しでも癒して欲しいと呼びかけます。しかし、不信なユダヤ人たちや処刑役人たちは頑固です。肝を酢に漬けたものに海綿を浸し、葦の枝の先にその海綿をさし、嘲りながら主の口許に持っていきます。「私の渇きのため、酢を飲ませようとした」(預言者9・29。詩篇69・229がダビデの預言の成就を物語ります。

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P245

 

 第四の御言葉、「神よ、我が神よ、何ゆえ我を見棄て給いしか?」を聞いた悪魔たちは、主の人類に対する愛が永遠無限であると判ります。神は人類の救いのため、主が極度に苦しまれることを許されます。主は人類の一部が救われないことを予知し、残念に思います。もしも、その反抗的な人々さえも救われるならば、主はもっともっと苦しみたいのです。主の人間に対する愛の故に、ルシフェルたちは嫉妬で気が狂い、神の愛に対して無力であると感じます。