試練は絶望を伴う

 

わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マタイ27・46)

 

天界の秘義1787

 

試練はことごとく何らかの種類の絶望を伴っており、(もしそうでないならそれは試練ではない)、それで慰安がその後に来るのである。試みられる者は不安に陥り、そこからその終りには絶望の状態が生まれてくるのである。試練の争闘そのものはそれ以外の何ものでもない。勝利を確信している者は不安を感じない、それで試練を持っていない。

 

[2]主もまた、あらゆる試練の中でも最も凄惨な、また残酷な試練に堪えられたため、絶望の状態におとしいれられたまわないわけにはいかなかったのであり、これらの試練を御自身の力により消散され、征服されたのであり、そのことはゲッセマネにおける主の試練から明らかに認めることができる。

 

 

天界の秘義8567

 

「なぜあなたらはエホバを試みますか」。これは、それが神的なもの〔神〕に反抗するものであって、その助けに彼らは絶望していることを意味していることは、『エホバを試みること』の意義から明白であり、それは神的なものに対して不満を持つこと〔呟くこと〕であり、それが主の御助けに絶望するまでも(呟くこと)を意味していることは、試練における不満〔呟き〕はそうした絶望を含んでいるためである。なぜなら試練は絶えず救いに絶望することであり、最初はそれは微かなものではあるが、時が経つにつれて甚だしくなり、遂には神的なものの現存〔臨在〕とその御助けとを疑い、殆どそれを否定するようにもなるからである。試練においては霊的な生命はその大半はこうした極限にまでも追いつめられるのである。なぜならその方法により自然的な生命は消滅してしまうからである、それはその時、その絶望の真中においてさえも、その最内部は主により誤謬に対する争闘に置かれているためであるが、それでこの絶望は次に主から徐々に注ぎ入れられる慰安によりまもなく消滅して行くのである、なぜなら霊的な試練の各々の後には慰安が与えられ、謂わば、生命が更新されるからである。(試練は絶望に至るまでも続けられることについては、1787、2694、5279、5280、7147、7155、7166、8165番を参照、試練の後に慰安が与えられることについては、3696、4572、5246、6829、8367、8370番を参照)。

 

 

 

 

 

天界の秘義8568〔10〕

 

従って彼らが水がないために不満を持った〔呟いた〕ことにより、真理が欠けているために起きる試練が意味されているのである、なぜなら人間は真理が欠けているために試練に陥ると、それを熾烈に求める切望(の状態)に置かれると同時に、そのため永遠の救いに絶望(する状態)に置かれ、そうしたことがその時苦しみと不満を生むからである。