マリア・ワルトルタ

(1897〜1961)

わたしのことばを書き取らせた理由

 

「私はマリア・ワルトルタにした啓示をもって、人類の救い主、道、真理、命をより

接近して教える。理屈をやめて、自分の心に、私の時代の義人たちの霊的感激を復興

させよ。私は皆を“死んだ者”とは言わず、眠っている冬の木の冬眠の生き物にたと

える。神の太陽が光を豊かに注いでくださるように願う。『取って食べよ。取って飲

め。』と使徒たちに言ったことばを今ここに繰り返す。『あなたたちは神の賜物を

“飲ませてください”と言った人がだれであるかを知ったなら、あなたたちのほうか

ら頼むに違いない』(ヨハネ4・1〜42、特に10)。同じことを今の学者たちにも

サマリア人たちにも繰り返す。彼らは両方とも力が衰え、霊的に栄養不足だからで

ある。お願いする。私を追い返すな。私は皆を愛し、自分自身を与えることを厚く望

んでいる。一人残らず永遠の婚宴にあずからせたい。また言う。『この著作を取って読み、

他人にも読ませて、秘してはならぬ。時は近づいたからである』(黙示録22・11)。

あなたたちの主イエズス・キリストの恩寵が、『主イエズス、来てください』と愛の叫び

をもって迎えようとする人々に与えられますように。」―

(イエズス―たそがれの日々/P7より抜粋)

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(抄訳)あかし書房/フェデリコ・バルバロ訳/

『聖母マリアの詩』上・下

『イエズスに出会った人々』1〜3巻

『マグダラのマリア』『イエズス−たそがれの日々』

『受難の前日』『イエズスの受難』『復活』

 

(完全訳)天使館/『私に啓示された福音』

第1巻(マリアとイエズスの隠された誕生と生活/イエズスの公生活の第一年)

第2巻(イエズスの公生活の第一年、同第二年)

第3巻 上、中、下(イエズスの公生活の第二年つづき)

第4巻 上、中、下(イエズスの公生活の第二年つづき)

第5巻上、中、下(イエズスの公生活の第二年つづき、第三年)

第6巻上、中、下(イエズスの公生活の第三年、つづき)

第7巻上(イエズスの公生活の第三年、つづき)

 

 

 天使館/マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/

天使館/『聖母マリア』マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上・下

 

燦葉出版/田中眞理子訳/『聖なる時』『イエスが語る死の準備』/

 

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マリア・ワルトルタが主よりビジョンを与えられ、それを記述したもの。

まるで映画のシーンを見ているかのように福音書のストーリーが展開されます。

クリスチャンに限らず、生前の主を見たいと願わない人はいないでしょう。

これらの本はその願いを叶えてくれる主からの譬えようの無い贈り物。

感動のあまり涙なしには読めません。この本はまさに「新しい福音」であり

そして聖母マリアを初めて私達に教えてくれるものです。

 

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ところで、ダビデによる詩篇はスウェーデンボルグによれば

主の試練を歌ったものだそうです(天界の秘義1691)。とすると、

この詩篇主人公の嘆きは主ご自身の嘆きであり、主ご自身の独白です!!

 

神がこのように嘆かれる・・・?!

父性的と言われる全能の神エホバが、まるで弱い人間のように!

神なる主が本当にデリケートな方であることはマリア・ワルトルタを

読むとよく分ります。この中で主は何度ユダを思って泣かれたことか。

そのことは全編を通して、主の悲痛な嘆きとして書かれています。

福音書では主はなぜユダが裏切り者と知っておられながら

身辺に置いておかれたか、今ひとつ釈然としませんでしたが、

マリア・ワルトルタを読むと、主は最後までユダを

救おうと、どれほど胸を痛めておられたかがよく分ります。

 

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この中で私が非常に驚いたのは、主が神として聖母マリアをとても愛され、

また子として母をとても敬慕されておられたことです。

新約聖書の福音書では、主は母に対し、少し冷淡なような印象を

受けますが、それは全く違うことが分りました。

それどころか、これほど麗しい母と子の関係があるだろうか

というくらい、素晴らしいお二人の間柄でした。

 

それから、誠に感激したことは、羊飼いたちのことです。

主が降誕されたとき、十二名の純朴な羊飼いたちがお見舞いに行きますが、

かれらはその後迫害され、不遇の中で三十年間、まだ幼子であった

主の思い出だけをたよりに生きているのです。

 

公生活に入られた主は真っ先に彼ら一人一人を訪ねます。

彼らの喜びはいかばかりだったでしょう。

そのシーンを読むたびに感動して涙が出てしまいます。

その後彼らは方々で人々を主のもとへ導く羊飼いとして働きます。

使徒たちが逃げてしまったカルワリの丘まで、彼らは忠実に従います。

 

後に使徒たちは正式なキリストの司祭となりますが、羊飼いたちは

使徒たちの蔭で目立ちません。しかしながら、彼らは非常に忠実で

野にいて重要な働きをします。かれらは主を知らない人々に主を伝え、

主のもとに、すなわち教会に、連れて来るのです。

 

・・・・

 

マリア・ワルトルタの中で、もう一つ驚いたのは、弟子たちは主が

神であることを認識していたのだろうかと以前から疑問に思っていたのですが、

主ははっきりと彼らに、ご自分が神であられることをおっしゃっていますし、

彼らもしばしば主を神であると告白していることでした。

 

主が父であるという表現はわずかですが、主が神であると告白する場面は

全編で百箇所を越えます。それと、当時の使徒や弟子たちは父と子という神が二人おられる

という概念は全く持っていなかったということです。彼らが主を神と言う場合は、唯一の神

ご自身という意味です。そこにおられるのは天の父なる神その方という感動と感謝に

溢れる言葉です。彼らは主を本当に唯一の父なる神であると認識していたのです。

彼らには神を父と子に分離してしまうことなど全く無縁だったのです。

 

・・・・

 

スウェーデンボルグは天界で天使たちが人々にこう話しているのを聞いています。

「あなたらは天界から汚れのない[欠点の無い]教義をまさに受けようとされており、

また、主から新しい聖書を受けられるでしょう、と。」(『霊界日記』4775)

 

スウェーデンボルグは『新しいエルサレムの教義』という本を著わしています。

彼は常々「わたし自身については、わたしはいかような霊の口からもいかような

天使の口からもいかようなものも得ることは許されてはいないのであり、

主の御口のみから受けているのである。」(『主の聖言』29)と言います。

 

もし「汚れのない教義」がスウェーデンボルグのそれを意味するなら、

「新しい聖書」とはこのマリア・ワルトルタの

本を指しているのではないかと思います。

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スウェーデンボルグは真理を飽くなく追究したいと願う人にはお薦めしますが、

すべての人に薦める勇気はありません。確かに、そこには膨大な真理があります。

(何か簡単なものは一度お読みになるのはよいと思います。)

 

しかし、マリア・ワルトルタはすべての人にお薦めします。カトリック、

プロテスタント、正教、仏教、何教であろうと、無宗教であろうと、

すべての人にとって、これは本当に読む価値のある本です。

どんな人も一度は新約聖書の福音書を読む価値があるのと同様です。

まして、キリストに関心をお持ちの方なら、これを読まなければ

大きな損失と言えるくらいの素晴らしい本です。

他にどんなに素晴らしい本があろうと、この本と較べることはできません。

なぜなら、この中で、生きておられる本当の神・主・イエス・キリストに

出会えるからです。

私はこれほど感激して涙が溢れてくる本を他に読んだことがありません。

 

  ・・・

マリア・ワルトルタの本はもう天国の中という気がします。

おそらく、自分が不潔の塊りのうちは、今でも不潔ですが、

とても読めなかっただろうと思います。

恐らく、スウェーデンボルグは霊的な知識の初歩でしょうから、

私でも読めますが、これはいきなりは難しいかもしれません。

汚い手(意志、心)では触れることはできないでしょう。

この中で出てくる主と聖母の直接の呼びかけは非常に厳しいものです。

一瞬たじたじとなってしまいます。

まだ私も、罪にまみれていて、とても正面から受け止めることは出来ません。

しかし、この本の中には確かに天国があることが分かります。

天国を垣間見せてくれます。

あわれにも、私は入ろうとして弾き飛ばされてしまうのです。

 

スウェーデンボルグは5合目まで、

マリア・ワルトルタはそこからはるか上、雪をかぶったあたりです。

清純さの象徴、白い雪・・・。

 

スウェーデンボルグはなるほど純粋な水です。しかし、聖母マリアの清冽さに

比べれば、常温のミネラルウォーターのような気がします。

(それは、スウェーデンボルグ本人が云々ではなく、

私たちの霊的レベルに合わせて主は与えて

くださっているということでしょう。)

皆様がマリア・ワルトルタを読まれ、本当の

主と聖母に出会われることを祈念して止みません。

 

 

 

マリア・ワルトルタに主はこう言われます。

 

「老ヨハネ(マリア・ワルトルタのそばにいた神父様のこと)に、

たくさんの平和と豊漁とを与えると伝えなさい。あなたには漁がない。

私が与える糸で網を作るという女性的な業だけをあなたに与える。

働きなさい、働きなさい・・・他のことができないという考えを捨てなさい。

この仕事にはすべてがある。

そしてまた“あなたに平和”と言いに来ないからと言って気にするな。

人にあいさつをするのは、到着したときと出発するときであって、

いつも一緒にいるときにはしない。

一緒にいることは、もはや平和である。

そして、あなたは私の客ではない。

あなたはすっかり私の腕の中にいて、片時もあなたから離れたりしない。

この世にいたときの私について、言いたいことがたくさんある!

しかし、きょうはあなたを喜ばせたいので“あなたに平和”と言おう。」

(『イエズスに出会った人々・1』・P313)

 

「何かの使命を委託された私の下僕たちに、

世間でいわれる幸せな一生を与えたことはない。

なぜかと言うと、このような使命は苦しみの中に苦しみによって

行われるものだから。

こういう人々は“人を贖うために苦しむ”という

私に似た望みしか持っていないからである。」

(同・P11

 

そして

病床に臥しながらも忠実に筆記者としての役目を果たした

「小さなヨハネ」・マリア・ワルトルタに主はこう仰せられます。

 

「おまえの苦労は終わった。今は愛と報いを味わうがよい。

私の疲れを知らない声、おまえに平和と祝福あれ。ありがとう。

おまえのイエズスが言う。『私は何時までも一緒にいよう。

愛している人々とともにいることは私の喜びだからである。』」

(『イエズス・たそがれの日々』・P7

 

 

どうか主よ御心ならば私をあなたの

さらに小さな「ヨハネ」の一人に加えて下さい。

弱い私に力を与えお守り下さい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活P103

 

この著作はすべての人々のためのものであるが、特に司祭たちのためである。

司祭たちの手を取って、病める人の中に引っ張り、その病気の徴候を察し、

あなたたちがそれを治療するようにである。では来て見なさい。来て食しな

さい。来て飲みなさい。そして否定してはいけない。あなたたちの中で、善

き人々は、この著作において聖なる喜びを味わうでしょう。正直な学者たち

は光を、悪くはないが不注意な人々は楽しみを、愚かな人々は、自分たちの

知識を暴露するための手段を得るであろう。

 

 

 

 

2005年3月13日(日)あとがきより

 

マリア・ワルトルタの全訳版第2巻(天使館)を読了しました。

しかし、その最後で洗者ヨハネの弟子たちに主は言われます。

ヨハネで行き詰まる時が来る、そうしたらわたしのところへ来なさいと。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷159・7

 

「しかし・・・あなたのお考えでは、わたしたちは洗礼者と共に

いる方がいいのか、それともあなたと共にいる方がいいのでしょうか?」

 

「古い葡萄酒がある間は、最早その味が舌に馴染んでいる

葡萄酒を飲みなさい。その後・・・それが腐った水に変わり、

どこにでも悪臭を撒き散らすようになったら、

あなたたちは新しい葡萄酒を愛でるようになるでしょう」。

 

「洗礼者はその業を再開するでしょうか?」

 

「もちろんです。わたしはもう彼に或知らせを送りました。

行きなさい、行きなさい。あなたたちにそれができるうちに、

あなたたちのヨハネを享受し、彼を幸せにしてやりなさい。

その後で、あなたたちはわたしを愛するでしょう。また

あなたたちは行き悩むでしょう。なぜなら・・・古い葡萄酒

に引っかかった者で、ある日突然、新しい葡萄酒を欲しがる人は

いないからでもあります。そして言うのです。『古い葡萄酒はもっと旨かった』と。

またわたしは実際に、あなたたちには酸っぱく思われるに違いない

特別の味をもつでしょう。しかしあなたたちは、一日々々、この命の味を

味わうことになるでしょう。友人たちよ、さようなら。

神はあなたたちと共に」。

 

 

スウェーデンボルグは現代の洗者ヨハネです。

スウェーデンボルグで行き詰まったら、

マリア・ワルトルタのところへ行けばいいのです。

いずれ皆行くでしょう。

マリア・ワルトルタ(による福音)は主御自身です。

 

 

 

 

2019年2月10日

 

これを付け加えます。

 

 

天界と地獄282

 

「無垢は天界の凡ゆる善における最も内なるものであるため、

それを感じる者は非常な感動を受け―それは最内部の天界の

天使が近づいてくるとき起ることではあるが―自分が最早自分

自身のものではないように自分に思われ、そこから、世のいか

ような歓喜もそれに較べるとき、取るに足らぬもののようにも

思われる歓喜を感じ、その歓喜に恰も我と我が

身を忘れるようにも思われるのである。」

 

 

 

天界と地獄283

 

「無垢の善にいる者は凡て無垢に感動し、たれでもその善に

いるに応じて、感動するが、無垢の善にいない者らは感動はしない。」

 

 

 

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