わたしのことばを書きとらせた理由
イエズスが口述された福音書の最後の言葉
マリア・ヴァルトルタ
わたしのことばを書きとらせた理由/イエズスが口述された福音書の最後の言葉/
マリア・ヴァルトルタ/天使館/霊のパン第4号/P16〜32
[1947年4月28日]
イエズスは言われる。
「小さなヨハネ(マリア・ヴァルトルタ)を照らし、わたしのエピソードと言葉を書きとらせようと、わたしの気持ちを動かした理由は、わたしに関する正確な認識を、この霊魂=生贄(いけにえ)、愛する人に伝える喜びの他にもたくさんあります。
しかし、そのすべての中でも核心となっているのは、教え、戦う教会へのわたしの愛と、完徳への上昇を目指す霊魂たちを助けたいという熱い望みです。わたしを知ることは、この上昇を助けます。わたしの言葉は生命です。
主要事項を列挙します。
T「あなたたちは滅びようとしているのだし、わたしはあなたたちを救いたいのだから、これは最大の理由です」(1947年1月18日)。
[1947年2月3日]
イエズスは言われる。
『この作品の賜物の最も深い理由は、わたしの代弁者が知っている他の多くの理由の中でも、わたしの聖なる代理者であるピオ十世により糾弾された近代主義が、ますます有害になる人間的教えで、わたしの代理者に代表される聖なる教会を破綻に導くこの時代に、次の項目を否定する者たちと立ち向かい、さらなる手段を有すること。
ドグマの超自然性。キリストの神性。信仰においても、彼について伝承された歴史においても(福音書、使徒言行録、使徒書簡、聖伝)、神であり、真の、完全な人であるキリストの真理。
パウロとヨハネの教え、およびニケア、エフェソ、カルケドンの公会議が決定した教え、また、わたしの口授の教え、わたしから吹き込まれた真の教えのような、より最近の他の教え。
神の知恵であるがゆえに無限なわたしの知恵。
ドグマの、諸秘跡の、そして唯一、聖、公、使徒承伝の教会の神的起源。
わたしによって万人に与えられた福音書の、世の終わりまでの普遍性と持続性。
わたしの教えの本質は、初めから完全であり、相次いで起きる変化を通じて組み立てられたのではなく、与えられたままの、キリストの、恩寵の時代の、天の国の、そしてあなたたちの内なる神の国の教え、神的な、完全不変な、神を渇望する万人のための吉報なのです。
七つの頭と十本の角と、頭に七つの冠をかぶり、その尾で天の星の三分の一を掃き寄せて地上に投げつけ―また、わたしはあなたたちに言うが、実はそれらの星は地上よりももっとずっと低い所に落ちます―また、女を迫害する赤い大きな竜、あまりにも多くの者が礼拝し、それらの外観と不思議に魅せられている海と地の動物に立ち向かうわたしの天使は、今まで閉じられていたページさえもしっかりと開いた永遠の福音書を携えて、空中を飛翔する。人びとがその光によって、彼らを闇の中に窒息させようとする七つの口をもつ大きな竜のとぐろから自らを救うことが出来るように、また、わたしが帰って来るまで、粘り強い人びとの心に、まだ信仰と愛徳を見出し、この人びとが、サタンと人びとの仕業はありうると望ませないほど、夥しい数であるように』。
U 司祭と信者たちの内に、福音書への、またキリストに係わるものへの、生き生きとした愛を目覚めさせることです。そのすべてのことの中でも第一のことは、世界の救いの秘密である祈りのうちに、わたしの母に対する愛徳を新たにすることです。わたしの母、彼女は、あの呪われた竜に勝った勝利者です。彼女へのあなたたちの新たにされた愛と、新たにされた信仰と、彼女について言及されている知識をもって彼女の出力を助けなさい。マリアは世に救い主を与えました。世界はいまだに彼女によって救いを得るでしょう。
V わたしの周囲で動揺した様々な霊界を研究して、霊の師たちと霊魂の指導者たちの役目を助け、霊たちを救うためにわたしがとった様々な方法を彼らに知らせることです。なぜなら、たった一つの方法をすべての霊魂に当てはめるのは愚かだからです。自発的に完徳を目指している一義人をそこへ引きつける方法は、罪人である一信徒に適用される方法や一異教徒に用いられる方法とは違います。あなたたちの先生のように判断するに至るなら、あなたたちの間にも、権力と横暴を、あるいは黄金を、あるいは肉欲を、あるいは彼らの知識への傲慢の偶像を、真の神と取り替えた哀れな異教徒たちがたくさんいます。また、現代の新加入者たち、すなわちキリスト教的思想を受け入れはしても、離教した教会に属し、キリスト教的な国籍を受け入れない人たちを救うためにとられねばならない方法は異なります。誰をも見落とされてはなりません。他のすべての羊にもまして、これらの迷える羊たちを愛し、彼らを唯一の群に連れもどそうと捜している、牧者イエズスの望みが叶えられるよう努めなさい。
ある人びとは、本作品を読んで異議を唱えるでしょう、『イエスがローマ人やギリシャ人と接触したことは福音書からは明白でないから、わたしたちはこれらのページを拒否する』と。沈黙の厚い垂れ幕の背後にかろうじて透けて見られる、あるいは、ヘブライ人の砕かれない心性(メンタリティ)のために彼らが認可しない挿話を福音史家たちが外したりして、福音書からは明らかになっていないことが幾らでもあります。あなたたちは、わたしがしたことを全部知っているとでも思い込んでいるのですか?
まことにあなたたちに言いますが、わたしの公生活についてのこの解説を読み、受け入れた後でさえも、あなたたちはわたしに関するすべてを知ってはいません。もし、あなたたちに伝えるため、小さなヨハネにすべてを書きとらせたら、わたしの務めのすべての日々と、その日々になされた個々のすべての業を記録するという過労で、わたしは彼女を殺していたでしょう! 『イエズスの行われたことは、このほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界さえも、その書かれた本を納めきれないであろうと、わたしは思う』と、ヨハネは言っています(ヨハネ福音書あとがき、21・25)。誇張法は別として、まことにわたしは言うが、わたしの個々の活動、わたしの特別講義、一霊魂を救うためにしたわたしの償いと念祷をすべて書き記さねばならないとしたら、これらの書物を収納するためにあなたたちの図書館、それも最大の図書館の大きな書庫が必要となるでしょう。あなたたちに言っておくが、わたしの書物を納める場所をつくるためには、わたしについて知ることがわずかで、ほとんど常に好色と異端の、あなたたちの心を奪うあの汚い多くの印刷物、埃まみれの毒をもつ多くの空しい知識に火を放つほうが、あなたたちにとってはるかに役立つでしょう。
W 肉と血においては、アダムの、だが原罪を犯す以前の真実の無辜のアダムの子らである人の子とマリアの実像を、その真実に引き戻すことです。もし、人祖アダムとエバが、彼らの完全な人間性―人間の意味において、すなわち神の似姿と、物資的本性という二重の霊的本性をもつ被造物の意味―を失墜させていなければ、人の子らはわたしたちのようであるはずでした。彼らが何をしたかはあなたたちの知る通りです。完全な五官は、その大いなる鋭敏さにおいてさえも理性の支配下に置かれました。五官の中にわたしは身体的、道徳的なそれを含めます。完成された完全な愛は、従って花婿に官能性を強いることなく、ただ霊的愛の絆と子への愛のみを強います。こよなく愛された者。彼女から生まれた子に対する、一人の完全な女の余すところのない完璧さで愛された者。エバはマリアのように、かく愛すべきでした。すなわち、肉的快楽の子ではなく、その子は創造主の子であり、人類を増やせという命令のもとに果たされた従順の子であったからです。また、あの彼女の子が表象的にではなく実際に、神の子であると知っている、一人の完全な信仰者から全情熱を傾けてわたしは愛されました。
イエズスへのマリアの愛はあまりにも情愛に流されている、と批判する人たちにわたしは、マリアが誰だったかを考慮しなさい、と言います。罪汚れのない女、従って神に対する、身内に対する、夫に対する、子に対する、隣人に対する彼女の愛徳には風袋はありません。母がわたしのうちに、その胎の子を見るのみならず、何を見ていたかを考慮しなさい。そして最後に、マリアの国籍を考慮しなさい。現代からははるかに遠い昔、ヘブライ人種、東洋人種、これらの要素から、あなたたちには誇張されていると思われるかもしれない愛の言葉に、ある種の誇張の説明は由来します。普通の話にも文彩を用いた華麗な流儀、ヘブライ的流儀、東洋的流儀。当時の、この種族のすべての文書は一種の史的証言であり、この東洋的流儀は、幾世紀の流れを経た今も大して変わっていません。
あなたたちは二十世紀後、生命に対する邪悪が多くの愛を殺している時、これらのページを吟味しなければならないが、なぜあなたたちの時代の素っ気無い、軽薄な一人のナザレのマリアを示せ、とわたしに強要するのですか? マリアはあるがままの人であり、イスラエルの優しい、清らかな、情け深い少女、神の花嫁、神の童貞女なる母が、過度に病的に誉めそやされる女、あるいは冷ややかに利己的なあなたたちの世紀の女に変身することはありません。
マリアへのイエズスの愛は、あまりにも愛情がこもり過ぎている、と批判する人たちに言う、イエズスのうちには神が存在していたこと、三一なる神は、マリアを、全人類の悲苦を支払っていた彼女、神がその天の国を民草に与えるという創造を誇るために帰還できる手段であるマリアを愛することによって、慰められていたことを考慮しなさい、と。また、最後にどんな愛も、無軌道になる時、すなわち神のみ旨に反し、果たすべき義務に反する時にのみ罪となることを考慮するように。
今、考えなさい。マリアの愛はそのようなものでしたか? わたしの愛はそのようなものでしたか? ひたすら神のみ旨を果たそうとするわたしを、彼女は引き留めましたか? 母への愛ゆえに、わたしはよもや自分の使命を一蹴したでしょうか? いいえ。どちらの愛にもたった一つの熱望しか込められていなかったのです。それは世の救いのために、神のみ旨が成就されることでした。また、母はすべての別れを子に言い、子はすべての別れを母に言いました。母は子を公的教職の十字架とカルワリオの十字架にし、また子は母を孤独と責め苦に渡したのです。引き裂かれるのを感じるわたしたちの人間性と、苦痛のために粉々にされるわたしたちの心を顧みることなく。母は、共贖者だったからです。これは弱さでしょうか? センチメンタリズムでしょうか? 完全な愛です、おお、愛することを知らず、愛とその声色をもはや理解しない人びとよ!
また、さらに本書には、ある情況の、ある複雑さが闇を覆い、こうして福音書の描写の輝きに暗い影を落としている箇所や、一つの挿話と別の挿話の間の割れ目かと思われるような、また暗い地帯をつくっている箇所、判読できず、それが判読できるには、創り出されたある種の状況を正確に理解するための鍵がある箇所や、赦しについての、柔和と謙遜についての根強く改心を否む反対者へのある種の厳正さなど、わたしの絶え間のない訓戒とはかくも対立するため、わたしがとらねばならなかった毅然としたある種のやり方などを照らす目的があります。ありとある憐れみをかけた後、神は善良であるがゆえに、ご自身の栄誉のため、その辛抱強さを乱用し神を試みることが許されると思い込んでいる者たちに、『もうたくさんだ』と言うこともお出来になる、ということを思い出しなさい。神を愚弄してはなりません。これは知恵に満ちた古人の言葉です。
X わずかな時間で完結した流血の受難において最高潮に達するわたしの長い受難の複雑さと持続期間を正確に知ることです。この受難は、五年間また五年間と続いた日々の拷問でわたしを磨り減らし、常に増大していき、わたしの受難と時を同じくして、心を苦しみの剣でつらぬかれる母の受難が共にありました。そしてこれを知ることで、あなたたちがもっとわたしたちを愛するように仕向けることです。
Y わたしの言葉の力と、それを受け入れた者が善意の人びとの隊列に属していたか、それとも決して正しくない官能的な意志に動かされている者たちの隊列に属していたかによって異なる、その効果を示すことです。
使徒たちとユダ。これぞ対立する二つの例です。至って不完全で、粗野で、無知で、荒っぽいが、しかし善意に溢れる使徒たち。彼らの大方よりも学識あり、都会と神殿での生活で洗練されてはいるが悪意をいだくユダ。前者の善における展開とその上昇を観察しなさい。後者の悪への展開とその下降を観察しなさい。
善良な十一人の使徒たちの完徳へのこの発展を、特に、心性の視覚的欠陥によって、聖人を重苦しい不明瞭な力との険しい、極めて厳しい闘いの果てに成聖に達する人間となし、火種と戦慄のない不自然な存在、したがって功績のない一存在に仕立て上げ、聖人たちの真実を変質させてきた人たちは、それを洞察しなさい。なぜかといえば功績はまさに、神の愛によって、また最後の目的、すなわち永遠に神を享受することを追及しつつ達成した、無軌道な情念と誘惑に対する勝利に由来するからです。
回心の奇跡は神からのみ来ると主張する人たちは、よく気をつけなさい。神は人に回心への道を用意されるが、暴力は振いません。もし人が回心を望まないならば、他の人の回心のために用意された道を空しいものとすることを。
わたしの言葉の多岐にわたる効果を検討する人たちは、人間的な人についてだけでなく、霊的な人についても考えるように。霊的な人についてのみならず、人間的な人についても。善意をもって受け入れられたわたしの言葉は、外部と内部の両方に完全さをもたらし、変えます。
使徒たちは、彼らの無知とわたしの謙遜のために、人の子を極度に信用し―彼らの中の善良な一教師は、謙遜で辛抱強い一教師以上の何ものでもなく、彼に対して、時として極端に自由な立場をとることが許されました。しかしそれは彼らが非礼だったのではなく、無知だったのです。免じて許すべきです―彼らの間では喧嘩ばやく、利己主義者で、彼らの愛情において、またわたしの愛情については焼餅やきで、人に対しては忍耐が足らず、《使徒たち》であることをちょっぴり鼻にかけ、途轍もない権力を与えられている者のように、彼らを群集に指し示したいと切望しました。しかし使徒たちは、まずわたしに倣うことによって自らの欲情を制し、わたしを喜ばせ、次いで真のわたしをますます知ることにより、神なる主としてわたしを遇し、愛するまでに、方法と愛を変えることにより、緩慢に、だが持続的に新しい人たちになっていきました。地球上でのわたしの人生の終わりに、彼らは多分まだ最初の時期のように軽薄で陽気な仲間でしょうか? 何よりも復活後に、神の子を友のように遇する友人たちでしょうか? いいえ、第一に王の管理人たちです。次いで神の司祭たちです。皆それぞれ、完璧に変えられています。
記述された使徒たちの性質は並外れており、不自然だと判断するであろう人たちは、これを考慮しなさい。わたしは気難しい学者ではなかったし、傲慢な王でもなく、他の人たちを自分には値しない奴だと見くびる教師でもありませんでした。わたしは人に同情することが出来ました。わたしは原料を取るだけで形造り、空っぽの容器をあらゆる種類の完全さで満たし、一つの火打ち石からアブラハムの一子(いっし)、神の一子を、また無から一教師を引き出して、神にはすべてが可能だ、ということを示したかった。あまりにも頻繁にわたしの知識の芳香を失っている彼らの知識に慢心し、自惚れている教師たちを混乱させるために。
Z 最後に、ユダの神秘、神が特別に恩恵を施した一霊魂の堕落というあの神秘を、あなたたちに明かします。実際に、あまりにもしばしば繰り返され、また、あなたたちのイエズスの心を痛ませる傷となる一神秘です。
神のしもべ、子からどのようにして悪霊に、また自分のうちで恩寵を殺して神を殺す神殺しに変貌するかを、あなたたちに明かそう。あなたたちが、そこから深淵へと落ちる小道に足を踏み入れるのを阻止し、深淵へと突き進む不賢明な羊たちをどう引き留めるかをあなたたちに教えるために。身の毛のよだつ、けれども平凡なユダの人物像、あなたたちがこれやあれやと闘うべく見出し、養っている小さな幾つもの蛇、七つの大罪がこぞってその中でのたうっている総体を研究するために、あなたたちの知的能力を傾けなさい。霊魂の師、霊的指導者というあなたたちの役務に最も役立つ講義ですから、あなたたちがより以上に学習すべき講義です。人生のあらゆる状況において、何と多くの人たちが、ユダを真似て、サタンに自分を渡し、永劫の死に遭遇していることか!
七部に別れている七つの理由
T.福音宣教前(常に童貞であるマリアの無原罪の御宿りから聖ヨセフの死まで)。
U.公生活の第一年。
V.公生活の第二年
W.公生活の第三年。
X.前−受難(テベツからニサンまで、すなわちラザロの臨終からベタニアでの晩餐まで)。
Y.受難(ラザロへの告別からわたしの埋葬までと、復活の夜明けに至るまでの日々)。
Z.復活から聖霊降臨まで。
わたしがここで指摘するこの七部の区分を適切とみなし、これに則るように。
さて、今は? あなたたちは師に何か言いたいことがありますか? わたしに話さなくてもいいのです。だがあなたたちの心の中で話し、ただそれをすることが出来るなら、小さなヨハネに話しなさい。しかし、この二つのどの場合にも、わたしがあなたたちのうちに見たいと思うあの正義をもって話しなさい。なぜなら、このキリスト者、この姉妹、神のこの道具に対する愛徳を踏みにじって、あなたたちは小さなヨハネを苦しませるからです。もう一度、まことにあなたたちに言いますが、わたしの道具になることは、静穏な喜びではありません。苦労と努力の連続であり、世は師に与えたもの、すなわち苦しみを、その弟子たちにも与えるから、すべてに苦しみがあります。少なくとも司祭たち、特に信徒同朋たちは、自らの十字架を担って進んで行くこれからの小さな殉教者たちを助ける必要があるでしょう・・・また、自分自身に語りかけることによって、あなたたちは心の中に傲慢、羨望、不信仰と別の苦情を持ちます。しかし、わたしはあなたたちの泣き言と、醜聞に腹を立てるあなたたちの茫然自失に答えましょう。
最後の晩餐の夜に、わたしを愛していた十一人に、わたしは言いました。『慰め主、聖霊が来られるであろう時、わたしが言ったことをすべてあなたたちに思い出させるでしょう』と。わたしは話していた時、そこに居合わせている者たちの他にも、精神において、真実と意欲をもってわたしの弟子になるであろうすべての者たちを、常に目前にしていました。すでにその恩寵とともに、神を思い出させる能力をあなたたちに吹き込んでおられる聖霊は、霊魂を原罪の茫然自失から引き出し、アダムの悲しい遺産により、霊的視力と知識を享受すべく神から創造された霊魂の輝きを覆い隠す闇から解き放ち、彼に導かれた者たちと神の子らである者たちの心の中で、わたしが言ったこと、福音書が宣言することを『思い出させる』という、師の御業を完成なさるのです。
ここで思い出させることは、福音書の精神を照らすことです。なぜかといえば、精神を理解しなければ、福音書の言葉は何ひとつ思い出せないからです。また、愛である福音書の精神は、愛によって、すなわち聖霊によって理解させられるからです。その御者は、こうして福音書の真の著者であり、唯一の注釈者でもあります。というのも、たとえ自分の作品をその読者たちに理解させられなくても、著者だけがその作品の精神を知り、それを理解しているのですから。しかし、あらゆる人間の完全さは脱漏だらけですから、人間の著者がなしえないところに完全無欠、無限の上智である聖霊は、到達します。したがって、聖霊、福音書の著者のみが、神の子らの霊魂の奥深くにそれを思い出させて、注釈し、完成なさる御者でもあるのです。
『父がわたしの名によってお遣わしになる、聖霊、その方がすべてのことをあなたたちに教え、わたしが言ったことをすべて思い出させてくださる』(ヨハネ14・26)。
『真理の霊であるその方が来られると、真理のあらゆる面であなたたちを導いてくださる。その方は自分勝手に語るのではなく、聞いたことをすべて語り、将来起きることをあなたたちにお告げになるからである。その方はわたしに栄光をお与えになる。わたしのものを受けて、あなたたちに告げ知らせてくださるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、その方がわたしのものを受け、あなたたちに告げ知らせてくださると、わたしは言ったのである』(ヨハネ16・13−14−15)。
福音書の著者が聖霊であるなら、本作品の中で言われること、またヨハネがその福音書を締めくくる言葉で理解させる起きたことを、どうして思い出せなかったのかがわからない、と異議を唱えるなら、神の思いは人の思いと異なり、常に正しく、批判の余地はないとわたしは答えます。
またさらに、啓示は最後の使徒とともに完結し、付け加えるべきものはもはや何一つ無かった。なぜなら、その使徒自身が黙示録の中で、『これらに何かを加える者がいるならば、神はその者に、この書に記されている災害を加えられる』(22・18)と言っている、ということは、ヨハネの黙示録がすべての啓示の最後の完成であると解釈できるのではないか、と異議を唱えるなら、本作品は、啓示に付け加えるためではなく、自然な成り行きと超自然な同意でつくり出された脱漏を埋めるものだ、とわたしは答えます。それに、駄目になった石を取り替え、欠けている小石を補い、その完成された美しさを再現するモザイク職人のように、もしわたしが神的愛徳の筋書を再構築する満足を得ようとし、またそれを、人類が闇と恐怖の深淵に向って真っ逆さまに墜落するこの世紀にとっておくとしたら、あなたたちはわたしにそれを禁じることが出来ますか? 上天の光、声と招きに対してこんなにも鈍感な霊をもち、耳が聞こえず、無気力なあなたたちは、今は間に合っている、と言うことが出来ますか?
実はあなたたちは、あなたたちが持っている、だがあなたたちの救い主を『見る』にはもはや不足している光を新しい光で増幅するわたしを祝福してしかるべきなのです。この知識を通じて、完徳への上昇であるゆえ救いとなるあなたたちの愛における刷新を達成し、道、真理、生命を見ること、わたしの生きた時代の義人たちが味わったあの霊的感動を感じること。
あなたたちを『死者』とは言わず、眠る者、まどろむ者と言います。冬眠中の植物に似ています。神的太陽はあなたたちにその輝きを浴びせます。目を覚まし、自らを与える太陽を祝福し、彼があなたたちを表層から深層まで暖め、再びあなたたちを花々と果実で覆うように、喜びと共に迎え入れなさい。
立ち上がりなさい。わたしの贈物のもとに来なさい。『取って食べなさい。取って飲みなさい』と、わたしは使徒たちに言いました。
『もしあなたが神の賜物を知り、またあなたに<水を飲ませてください>と言う人が誰であるかを知っていたら、あなた自身のほうからそれを願い出たであろう』と、わたしはサマリアの女に言いました。
サマリア人に言ったように、今も学者たちにそう言います。なぜなら両極の中間に位置する人たちにもそれは必要です。学者たちは自分自身のためにも、栄養失調にならず、力を無くさないために、また、神−神、神−人、師、そして救い主に関する認識不足のために弱っている者には超自然の養分として必要です。サマリア人たちにとっては、その霊魂が泉から遠く離れて死ぬ時、生きた水が必要だからです。学者たちとサマリア人たちの中間に位置する者たちは、大部分が重罪を犯していない大衆ですが、怠慢、生温さのため進歩の無い静止状態にあり、成聖に関して誤った概念をもち、地獄に落ちないために遵法者となり、上辺だけの信心業に足を取られて小心翼々と暮らし、極めて険しい英雄的行為、険しい道へと第一歩を踏み出そうとはしません。彼らが、この静止状態から抜け出し、英雄的歩みを始めるために、この作品から後押しされるように願います。
わたしはこれらの言葉をあなたたちに言います。この食物と、生きた水という飲み物をあなたたちに供します。わたしの言葉は命です。そしてわたしはあなたたちがわたしと共にこの命を生きることを望みます。また、あなたたちの霊の生命力を破壊するサタンの毒気を相殺するわたしの言葉を増幅します。
わたしを追い返さないでください。わたしはあなたたちにわたしを与えたいと渇望しています。あなたたちを愛しているからです。わたしの癒し難い渇きです。天での婚姻の宴にあなたたちを支度させるために、あなたたちにわたしを授けたいという熱い思いに駆られています。あなたたちは、無気力にならないために、子羊の婚姻の時に飾られた衣装を着るために、落とし穴と茨と蛇で一杯の地球というこの砂漠での試練を乗り越えた後の、神の大いなる祝祭のために、その害を蒙らずに火の間を通り、爬虫類を踏みつけ、あなたたちのうちにわたしを有することによって、死ぬことなく毒を吸い取らねばならぬために、わたしを必要とするのです。
もう一度あなたたちに言います、『取りなさい、この作品を取りなさい。そして<封じないで>読み、人にも読ませなさい。<なぜなら時が近いからです>(黙示録22・10)、<また聖なる者はいよいよ聖なる者となれ>(同22・11)とあるからです。
あなたたちの主イエズス・キリストの恩寵が、この作品の中にわたしの接近を見、また『主イエズスよ、来てください!』との叫びを上げ、彼らの守りのためそれが成し遂げられるよう強く要求する者たち皆と共にあらんことを」。
それからイエズスは特にわたし(ヴァルトルタ)に言われる。
「本作品の序言には、ヨハネによる福音書第一章第一節から十八節までを全文載せなさい。全文を、書かれているように。あなたが本作品の全レポートを書き取ったように、ヨハネは神の霊の口授を書き取ったのです。主祷文の祈りと、最後の晩餐の席上でのわたしの祈りに、何一つ付け加えたり省いたりする箇所がないように、本作品には何一つ付け加えたり省いたりする箇所はありません。これらの章節のどの言葉も神的宝玉であり、いじってはなりません。これらの章節のためになすことは一つしかありません。それは、これらのすべての美の英知のうちに、聖霊がそれらの章節を照らしてくださるよう、熱く祈ることです。
それから、わたしの公生活が始まる箇所に達したら、ヨハネの第一章十九節から二十八節までと、ルカの第三章三節から十八節までを、全文、あたかも一つの章のように書き写しなさい。言葉少なで、規律を旨とする苦行者であり、そして他に言うべきことのない先駆者のすべてがそこにあります。その後にわたしの洗礼を書き込み、時折わたしが言ったように前に進みなさい。
あなたの労苦は終わりました。今は享受すべき愛と報いがあります。
わたしの魂よ、あなたに何と言うべきでしょうか? わたしに奪われた霊を込めて、あなたはわたしに尋ねる。『主よ、あなたは今、あなたの婢をどうなさりたいのですか?』と。わたしはあなたに言うことができよう、『粘土の壷を砕き、そこから真髄(エッセンス)を抽出し、わたしのいる所に持って行く』と。両方にとって喜びでしょう。しかし、あなたのうちに住んでいないキリストの匂いをまだ残しているあなたの芳香が、ここに今しばし漂っているように、まだもう少し、もうほんのちょっと、わたしはあなたを必要としています。またその時、ヨハネのために言ったように、あなたに言うでしょう、『わたしが帰って来るまであなたが生き残ることをわたしが望んだとしても、生き残ることがあなたとどんな関わりがあるのですか?』と。
疲れを知らない声、わたしの小さな人よ、あなたに平安。あなたに平和。平和と祝福。師はあなたに言う、『ありがとう』。『祝福された者であれ』と、主はあなたに言われる。イエズス、あなたのイエズスはあなたに言う、『わたしはいつもあなたと共にいよう、わたしを愛する人たちと共にいるのはいとも甘美で快いものだから』と。
わたしの平和、小さなヨハネよ。来て、わたしの胸で眠りなさい」。
そしてこの言葉をもって、本作品(全10巻のこの福音書)の草稿のための示唆と与えられた最後の説明も終わった。
ヴィアレッジョにて、
1947年4月28日
マリア・ヴァルトルタ
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P14
マリア・ワルトルタは、宗教的なこの著作を、天から与えられた口述、あるいはヴィジョンによるものであると絶えず明白に主張している。自分のことを、神の手の中なる“ペン”または“道具”といいつづけたのである。そして、ワルトルタ自身が次のように書き残している。
“私は書いていることを知るために、そしてある場合、自分自身も分からないことを書くために、人間からの助けを借りたことはない、といい切れるのである”。人間からのすべての否定的な批評を避けられなかったワルトルタ女史の著作は、権威ある専門家の多くから認められたのである。しかしこのような本は、いろいろな反対に遭うであろうということは、前もってイエズスご自身がマリア・ワルトルタに知らせているのである。
ここには細かく書けないが、第七巻の1862ページに次のようなことばが書かれている。
「現在も、二十世紀前と同じように、私が相手にして話そうとするある人々が反対するであろう。もう一度私は逆らいのしるしとなろう。・・・善意の人々は、べトレヘムの羊飼いたちと素朴な人々の反応を感じるであろう。しかし、世のある人々は、あの時代の律法学士たち、ファリサイ人たち、サドカイ人たち、司祭たちと同じような悪意の反応を表すであろう。・・・限りないあわれみの新しい試みをもって自分自身をもう一度知らせようとする私に対して、あの聖金曜日の時と同じような裁きを下すであろう。彼らはその裁きによって自らも裁かれるであろう。しかし目を開き、そしてエンマウスの人々のように、(ルカ24・32)“彼が聖書を説明されたとき、心の中は燃えていた”“彼だ!”と私を認めるであろう人々に、私の平和を約束する」。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P15
第二巻25ページには、イエズスのことばとして次のようにしるされている。
「マリア、あなたが今することは何であるか分かっているか。あるいはむしろあなたに私の福音を“表わす”をもって何をしているか分かっているか。これは、人間を私に導くためのより強い、もう一つの試みである。あなたは熱心な祈りをもってこれを望んだのである。今の人間は、ことばを聞くのに慣れて、疲れるだけである。これは一つの罪であるが、このとおりである。そのため私は私の福音のヴィジョンを与え、これをもっとはっきり、もっと魅力あるものとするために説明している。あなたに“見る”というなぐさめを与え、そして皆に私を知る、という望みを与えようとする。そしてもしこれも役に立たないならば、そして愚かな残酷な子供のように、その値うちも理解せずこの贈物も拒むならば、あなたに私の贈物が残り、彼らは私の怒りを知るだろう。彼らに向かって、いにしえのあのとがめをくり返すことができよう。
『われわれは君たちのために笛を吹いたが、
君たちは踊らず、
悲しみの歌を歌ったのに、
君たちは泣かなかった』(ルカ7・32)
しかし回心しようとしないそのような人々が、自分の頭の上に燃える炭を集めるのをかまわずに、その代わりに牧者を知ろうとする小羊たちを相手にしよう。私はその牧者である。そして、あなたはその羊を私に向かわせる杖である」。