あなたがたのうち、塔を建てようとするとき

ルカ14・28

 

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は(マタイ19・29)・・捨てる

 

ルカ14・25−33

 

大勢の群集が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない。 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方のいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。

 

 

天界の秘義4599[5]

 

ルカ伝には―

 たれであれその十字架を負って、わたしの後から来ない者は、わたしの弟子となることはできない。あなた方の中でたれか塔をたてようとねがったなら、まず座って、自分にはそれをたておえるものがあるかどうかと、その費用をかぞえないであろうか。またはどの王が、他の王と戦争をしようとして、先ず座って、三万をもって自分を攻めてくる者を一万をもってむかえうつことができるかどうかと考えないであろうか(14・27、28、31、33)。

 

 聖言の内意を知らない者は、ここの主はたとえにより語られたのであって、塔を建てて戦争をすることによりそれ以上のことは何ら意味されてはいないと考えて、聖言の譬えはすべて表意的なものであり、表象的なものであって、塔を建てることは内的な諸真理を自己のために得ることであり、『戦争をすること』はその諸真理から戦うことであることを知らないに違いない、なぜならここにとり扱われている主題は教会のものであって、ここでは主の『弟子たち』と呼ばれている者たちが受ける試練であるからである。これらの試練がかれらの負わねばならない『十字架』により意味されており、彼らは彼ら自身からはまたは彼ら自身のものであるものからは決して征服はしないで、主から征服することが、『たれでも自分の持っているものをことごとく放棄しない者はわたしの弟子となることはできない』により意味されているのである。このようにしてこの凡ての事柄は一つのものとしてまとまるのであるが、それに反しその塔と戦いとについて語られていることが内的な意義なしに、単に比喩的にのみ理解されるなら、それらのものは一つのものとしてはまとまらないのである。このことから内意からいかような光が発するかが明らかである。

 

 

天界の秘義4599[6]

 

 自己と世を求める愛の中にいる者らの内部が、かくてかれらが戦う源泉ともなり、またかれらがその宗教を確認する手段ともなっている誤謬がまた『塔』によりその対立した意義において表現されているのである、例えばイザヤ書には―

 

 人々の高ぶりは低くされるであろう。万軍のエホバは、誇りたかぶっている凡ての者の上に、持ち上げられている凡ての者の上に高められたもうて、かれは卑しくされるであろう。また高く持ち上げられているレバノンの香柏の凡ての上に、バシャンの樫の木の凡ての上に、高い山の凡ての上に、高く持ち上げられている凡ての岡の上に、壮大な塔の凡ての上に、堅固にされた外壁の凡ての上に高められたもうであろう(イザヤ2・11−15)。

 

ここにこれらの愛の内部と外部とは、『香柏』、『樫の木』、『山』、『岡』、『塔』、『外壁』により記され(内的な誤謬は『塔』により記されており)、かくてまた内的なものは高い物により記されているが、以下の相違があるのである、すなわち悪と誤謬の中にいる者らは自分自身が高いものであって、他の者の上にいると信じているが、善と真理の中にいる者たちは自分自身が低いものであって、他の者の下にいると信じているのである(マタイ20・26、27、マルコ10・44)。にも拘らず善と真理とは天界では至高者に、すなわち、主に近いものであるため、高い物により記されているのである。さらに聖言では『塔』は真理について述べられているが、『山』は善について述べられているのである。

 

 

天界の秘義6765

 

 人間が再生しつつあるときは、かれは誤謬との争闘へ入れられ、そのとき主により真理の中に留めおかれるが、しかしそれはかれが真理であると自分自身に説きつけた真理の中に留めおかれるのであり、この真理からかれは誤謬と戦うのである。かれはまた純正なものではない真理からも―もしその真理が何らかの方法で善と連結されることのできるようなものでありさえするなら―戦うことができるのであり、それは無垢により善と連結するのである。なぜなら無垢は連結の手段であるからである。ここから人間は何らかの教義から教会の中で再生することができるが、しかし純正な真理の中にいる者たちはとくに顕著に再生することができるのである。

 

 

天界の秘義8715

 

「十人の君」。これは第三位におかれた主要な諸真理を意味していることは以下から明白である、すなわち、『君』の意義は(前のように)主要な事柄であり、『十人』の意義もまた多くの事柄ではあるが、しかし低い度における多くの事柄である(『数十』または『十』もまた多くのものを意味していることについては、3107、4638番を参照)。君たちが千人の上に、百人の上に秩序正しく置かれたことは、全ての数から抽象された、第一の度、第二の度、第三の度における多くの事柄を表象したのであり、それは聖言の他の記事における場合と同様であり、例えば主がその僕について、かれは『一万タラントの負債をもっていた』と言われ、またその僕の同輩はその僕には『百ペンスの負債をもっていた』と言われた場合と同様であり(マタイ18・24、28)、また『ある王が他の王と戦おうとして、自分は一万をもって二万をつれてやってくる他の者と会戦することができようか、否かと思案した』と話されている場合とも同じなのである(ルカ14・31)。

 

 

天界の秘義10227[18]

 

ルカ伝には―

あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることはできない(14・33)。

 

『財産[所有]』はその内意では聖言から発している霊的な財と富とを意味していることを知らない者は、自分が救われるためには自分自身から富をことごとく剥ぎとってしまわなくてはならないとしか考えることはできないが、それでもそれがこの言葉の意味ではなく、『財産』によりここでは人間自身の理知から発した事柄の凡てが意味されているのである、なぜならたれ一人自分自身から賢明になることはできないのであり、ただ主のみから賢明になることができるのであり、それで『財産をことごとく棄て去ること』は理知と知恵を一つとして自己に帰しはしないことを意味しており、このことを行わない者は主により教えられることはできないのであり、すなわち、『主の弟子』となることはできないからである。