塔
1.教義
2.バベルの塔
3.塔をたてる ルカ14・28
4.内的な真理
1.教義
霊界日記4979
教義
2.バベルの塔
天界の秘義1302
4節「かれらは言った、さあ、わたしらはわたしらのために都と塔を建てよう、その頂きを天の中に建てよう、わたしらはわたしらのために名を作ろう、かりにもわたしらが全地の面に散らされないためである」。『かれらは言った』は、そのようになるようになったことを意味し、『わたしらは都と塔とをわたしらのために建てよう』は、かれらが教義と礼拝とを形作ったことを意味しており、『都』は教義であり、『塔』は自己を礼拝することであり、『その頂きを天の中に立てること』は、かれらが天界にある物を支配するまでにも、を意味し、『わたしらはわたしらのために名を作ろう』は、そのことによってかれらは権力のための名声を得ることができるであろう、を意味し、『かりにもわたしらが全地の面に散らされないためである』は、もしそうでないなら、かれらは承認されないであろう、を意味している。
天界の秘義1304
「わたしらは都と塔とをわたしらに作ろう。」
これはかれらが教義と礼拝とを形作ったことを意味していることは『都』の意義から、また『塔』の意義からも認めることができよう、それについては間もなく記そう。教会は隣人に対する仁慈が去って、自己愛がそれに代って起ると、信仰の教義はそれが自己礼拝に変えられることができないかぎり無価値なものとなり、いかようなものもそれが自己のためにならない限り、引いてはそれが自己礼拝にならない限り、礼拝の中に聖いものとして考えられないといった性質をもっているのである。自己愛は凡てこのことを伴っている、なぜなら他の者にまさって自分自身を愛している者は自分に服従しない者を凡て憎悪し、その者が自分に服従するようになった時以外にはその者には何ら恩恵を示しはしないのみでなく、更に何かにより抑制されない限りは、自分自身を神の上にさえ挙げるまでも突進するからである。これが自己愛がほしいままにされた時のその性質であることが、そのあるがままにわたしに示されたのである。これが『都』と『塔』により意味されるものである。自己愛とそこから派生してくる欲念はことごとく凡ゆる物の中でも最も不潔なものであり、また最も汚れたものであり、奈落のものそのものであり、ここからたれでもかくも絶対的な奈落のものを内にもった礼拝の性質はいかようなものであるに違いないかを結論づけることができよう。
天界の秘義1306
『塔』は自己礼拝であることは『塔』の意義から明白である。自己礼拝は人間が自分自身を他の者の上に高めて礼拝されさえもするほどになる時存在している。それで傲慢と誇りである自己愛は『高いこと』、『高くそびえていること』、『もたげられていること』と呼ばれて、高い所にある凡ての物により記されている。例えばイザヤ書には―
人間のほこった眼は卑しくされ、人間の高ぶりも低くされ、エホバ御自身のみがその日高く崇められたもうであろう。万軍のエホバの日は凡てほこり高ぶっている者のうえに、もたげられている者凡ての上に臨んで、その者は卑しくされるであろう。また高くもたげられているレバノンの香柏の凡ての上に、バシャンの凡てのかしの木の上に、凡ての高い山の上に、もたげられている凡ての岡の上に、凡ての高くそびえた塔の上に、垣根をめぐらした壁の凡ての上に臨むからである(2・11,18)。
これは自己愛にかかわっており、自己愛が『高い』また『もたげられた』『香柏』『かしの木』『山』『岡』『塔』により記されているのである。
[2]さらに―
大いなる殺りくの日に、川が、水の流れが在り、塔は倒れるであろう(30・25)
これも同様に殺りくの自己愛を、礼拝の中で自己を高めることを意味している。さらに―
見よ、カルデヤ人の地を、この民はいなかった。アッシルはその基礎をズィームの中につくった、彼らはそのもの見の塔を立てるであろう、彼らはその宮殿をたてるであろう、かれはそれを廃墟にされるであろう(23・13)。
これはツロとその剥奪とについて言われている、他の言葉により表現されているもの見の塔はそこから発した幻想を意味している。エゼキエル書には―
ああ、ツロよ、わたしは多くの国民をおまえにむかって来させよう、彼らはツロの壁を滅ぼし、その塔を砕くであろう、わたしまたかれからその塵をかき落し、かれを乾ききった岩のようにしよう(26・3,4)。
その意義は類似している。
[3]礼拝における自己愛がまたは自己礼拝が『塔』と呼ばれているのは、『都』は(前の402番に示したように)教義を意味しているという理由によっており、都は前には塔により強固にされて、その塔の中には見張りの者[物見の者]がおり、また辺境にも塔があって、それはそうした理由から『見張りの者[物見の者]の塔』と呼ばれ(列王記下9・17、17・9、18・8)また『見張りの[物見の]の塔』とも呼ばれたのである(イザヤ23・13)。さらに、主の教会が『ぶどう園』にたとえられる時は、礼拝とその維持とに属した事柄はイザヤ書5・1、2、マタイ21・33、マルコ12・1に明白であるように、『ぶどうしぼり器』と『ぶどう園の塔』にたとえられている。
霊界日記4979
後に、主がおられる太陽の左側に、或る一種の塔が現れて、そこで多くの者が労苦しており、彼らはその塔を建てて、それを天界へ、雲の上の方までも挙げようとしていた。それはまた、地の雲の上方のような、非常に高い所までも達するように建てられた。彼らは絶えず労苦して、それを建てた。このようにバビロンの塔が表象されたが、その際また、生きた経験によりその塔の意味していることも示された。下には、前にその山の上にいた者らの中の或る者らがいて、その際会議を用いて、その人々の規範としなくてはならない教義について相談したのである。その教義がその塔により表象されたものであった、なぜなら塔は教義であるからである。
霊界日記4980
その間、私と彼らとの間の交流が閉じられてしまい、そのため私は彼らの行なったことは知らなかった、しかし後で、その教義が送り出されて、有効なものとされ、それで交流が開かれ、その教義が読まれた、それは以下の趣旨のものであった、即ち、第一に、彼らは法皇を、キリストの代理者として拝し、崇めなくてはならない、第二に、彼は〔法王は〕ぺテロの鍵を持っており、それで彼が欲する者にはたれにでも天界を、また地獄を開きもし、閉じることも出来る、第三に、彼らはマリアを天の女神として拝さなくてはならない、第四に、彼らはマリアの下に、聖徒たちを、即ち、前には聖い人間であって、後に聖徒とされた聖徒をまた拝さなくてはならない、第五に、皇帝と王を治める至高の権能は法王に属している、第六に、皇帝と王とは教会の事柄には何らのかかわりをも持たない、第七に、これらの事柄を承認しようとしない者らは、地上であれ、天界であれ、その何れにおいても地獄に定められて、何ら祝福を受けない。
霊界日記4981
これらがその教義的なものであり、それを彼らがその際送り出したのであり、それがかの高い塔により表象されたのである。その高いことは、彼らは人類の救いについては全く何一つ考えはしないで、ただ彼ら自身の救いについてのみ考えているという事情に負うたのである。かくてそれは悪魔的な自己愛から発したのであり、その自己愛もまた高いことにより表象されているのである。
3.塔をたてる ルカ14・28
天界の秘義4599
内的な諸真理を自己のために得ること
「戦争をすること」
は、その諸真理から戦うこと
ここでは主の「弟子たち」と呼ばれている者たちが受ける試練であるから。
これらの試練が、かれらの受けねばならない「十字架」により意味されており、かれらはかれら自身からはまたはかれら自身のものからは決して征服はしないで、主から征服することが「たれでも自分の持っているものをことごとく放棄しない者はわたしの弟子となることはできない」により意味されているのである。
このようにしてこの凡ての事柄は一つのものとしてまとまるのであるが、それに反し、その塔と戦いにとについて語られていることが内的な意義なしに単に比喩的にのみ理解されるなら、それらのものは一つのものとしてはまとまらないのである。このことから内意からいかような光が発するかが明らかである。
4.内的な真理
天界の秘義4599
内的(なものに向かって)
内的なものは壮大なまた高い物により、かくて山や岡や塔や家の屋根といった物により表現されている。
内的なものは高いものとして現れる(2148)。
塔
内的な真理
5.もの見の塔
天界の秘義1306
自己愛から発した幻想