神を眺める

 

 

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

太陽

 

 

 

出エジプト記3・6

 

神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

 

 

 

 

天界の秘義6849

 

「彼は神を眺めることを恐れたからである」(出エジプト記3・6)。これは、内部が神的なものそれ自身の臨在により害されはしないように、を意味していることは以下から明白である、即ち、『恐れること』の意義は、それが、即ち、内部が害されはしないかと恐れることであり―なぜならそのことがその恐れの原因であったからである―『神を眺めること』の意義は神的なものそれ自身が臨在することである、なぜなら主は内なるものから眺められることによってのみ、人間の前に現存し給うのであり、そのこと[内なるものから眺めること]は仁慈から発した信仰を通して行われるからである。主が外なる形をとって何人かに現れ給うにしても、感動を受けるものは内部である、なぜなら神的なものは最内部までも浸透し給うからである。内部が神的なものそれ自身の臨在[現存]により害われないことについては、そのために内部が守られたことについては、実情は以下のごとくである。神的なものそれ自身は純粋な愛であり、純粋な愛はこの世界の太陽の火よりも更に熾烈なものである、それでもし神的愛が仮にもその純粋なままに天使、霊、または人間に流れ入るとするなら、彼は全く死滅してしまうのである。そこからエホバまたは主は聖言では『焼き尽くす火』と呼ばれ給うているのである。それで天界の諸天使は太陽としての主から発している熱の流入により害されないように、その各々の者はある希薄な、適当な雲により覆われており、その雲によりかの太陽から流れ入る熱は緩和されているのである。