アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

 

 

 

 

出エジプト記3・6

 

神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

 

 

 

士師記2・10

「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。」

 

 

 

列王記下22・20

「それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない。」

 

 

 

ルカ20・37−38

 

死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。

 

 

 

 

 

天界の秘義6847

 

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。これは神的なものそれ自身を、また神の人間的なものを意味し、かくて主を意味していることは、アブラハム、イサク、ヤコブの表象から明白であり、それは主の神的なものそれ自身と神的な人間的なものである(アブラハムは神的なものそれ自身の方面の主を、イサクは神的な合理的なものの方面の主を、ヤコブは神的な自然的なものの方面の主を表象したことについては、1893、2011、2066、2072、2083、2630、3194、3210、3245、3251、3305、3439、3704、4180、4286、4538、4570、4615、6098、6185、6276、6425、6804番を参照。)『神』により神的なものが意味され、これらの名により表象的なものが意味され、そこから主におけるこれらのものが『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』により意味されるものである。

 

 

 

天界の秘義6877

 

「彼らは私に言います。その名は何ですか」。これは主の御性質を意味していることは、『名』の意義が性質であることから明白である(1754、1896、2009、2628、2724、3006、6674番を参照)。モーセのこの質問からヤコブの子孫の性質が現れているのである。即ち、彼らは『エホバ』の名を忘れたのみでなく、その中の一人が他の者よりは更に偉大である無数の神々を承認したのであり、そこから彼らはその名を知ろうとしたのであり、また神の名を承認することのみで充分であると信じもしたのである。ヤコブの子孫がこのようなものであったのは彼らは単に内なるものの無い外なるものの中にのみいたためであり、内なるものを持たない者らはその内部を明るくする光を全く天界から受けることが出来ないため、神についてはそれ以外のことを考えることは出来ないのである。それで彼らにエホバを承認させるために、彼らの父祖の神、即ち、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が見られ、その神が遣わされたと彼らに言われたのであり、かくして彼らはその父祖たちに対する盲目的な尊崇の念からエホバを承認するように仕向けられたのであり、それは内なる認識から些かも発しはしなかったのである。その民にはまたエホバを単に名前の方面でのみ拝することで充分であったのである、なぜなら彼らは教会の外なるもの以外には何一つ受けることは出来ず、かくて教会の内なるものを表象しているに過ぎないもの以外には何一つ受けることは出来なかったからである。外なるものがまた彼らの間に制定されたのは、それによって表象されているものの内なる形が天界で示され、かくして依然天界が多少なりと人間と連結されるためであったのである。

 

 

 

 

結婚愛28

 

「人間は死後も人間として生きる」。今しがた前に述べた理由から人間は死後も人間として生きることは世に今まで知られていなかったのであり、異常なことには、聖言が存在して、そこから永遠の生命のことが明らかにされている基督教世界においてさえ、そのことが知られていないのである。聖言の中に主は、

 死んだ者は凡て甦る。神は死んだ者の神ではなくて、生きた者の神である(マタイ22・31−32、ルカ20・37、38)。

と教えられており、更に、人間はその心の情愛と思考の方面では、天使たちと霊たちの最中にいて、もし彼らから引き離されるなら、死んでしまうほどにも彼らと交わっているのである。そして亡くなった者は凡て、最初の創造から、その者自身の者たちのもとへ来ており、現在も来ており、または聖言の中に言われているように、その者の父祖(*)のもとへ集められており、現在も集められていることが考察されるとき、このことが知られていないことは更に異常なことである。更に人間は天界からその心の内部に注いでいる流入と同一の共通の認識を持っており、これにより彼は真理を彼自身の中に内的に認識して、恰もそれを見ており、特に人間は死後も人間として、もし善良な生活をしたならば、幸いに生き、もし悪い生活をしたならば不幸に生きるというこの真理を認識しているのである。なぜならその心を少しくその身体の上へ高揚させ、またその感覚に最も近い思考から遠ざけている間に、そのことを考えない者があろうか。人はその心の中で神を拝しているとき、今にも死のうとして床に臥し、最後を期待しているとき、同じく死んだ者について、またその運命について聞くとき、その真理を認めるのである。

 

 

*士師記2・10、列王記下22・20など

 

 

創世記49・29

 

ヤコブは息子たちに命じた。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。」

 

 

 

創世記49・33

ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた。