アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

 

 

 

天界の秘義6847

 

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」。これは神的なものそれ自身を、また神の人間的なものを意味し、かくて主を意味していることは、アブラハム、イサク、ヤコブの表象から明白であり、それは主の神的なものそれ自身と神的な人間的なものである(アブラハムは神的なものそれ自身の方面の主を、イサクは神的な合理的なものの方面の主を、ヤコブは神的な自然的なものの方面の主を表象したことについては、1893、2011、2066、2072、2083、2630、3194、3210、3245、3251、3305、3439、3704、4180、4286、4538、4570、4615、6098、6185、6276、6425、6804番を参照。)『神』により神的なものが意味され、これらの名により表象的なものが意味され、そこから主におけるこれらのものが『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』により意味されるものである。

 

 

天界の秘義6877

 

「彼らは私に言います。その名は何ですか」。これは主の御性質を意味していることは、『名』の意義が性質であることから明白である(1754、1896、2009、2628、2724、3006、6674番を参照)。モーセのこの質問からヤコブの子孫の性質が現れているのである。即ち、彼らは『エホバ』の名を忘れたのみでなく、その中の一人が他の者よりは更に偉大である無数の神々を承認したのであり、そこから彼らはその名を知ろうとしたのであり、また神の名を承認することのみで充分であると信じもしたのである。ヤコブの子孫がこのようなものであったのは彼らは単に内なるものの無い外なるものの中にのみいたためであり、内なるものを持たない者らはその内部を明るくする光を全く天界から受けることだ出来ないため、神についてはそれ以外のことを考えることは出来ないのである。それで彼らにエホバを承認させるために、彼らの父祖の神、即ち、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が見られ、その神が遣わされたと彼らに言われたのであり、かくして彼らはその父祖たちに対する盲目的な尊崇の念からエホバを承認するように仕向けられたのであり、それは内なる認識から些かも発しはしなかったのである。その民にはまたエホバを単に名前の方面でのみ拝することで充分であったのである、なぜなら彼らは教会の外なるもの以外には何一つ受けることは出来ず、かくて教会の内なるものを表象しているに過ぎないもの以外には何一つ受けることは出来なかったからである。外なるものがまた彼らの間に制定されたのは、それによって表象されているものの内なる形が天界で示され、かくして依然天界が多少なりと人間と連結されるためであったのである。