カナの婚礼
わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか(マタイ12・48)/
なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は(ルカ11・27)/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
4.ヴァッスーラ
5.アグレダのマリア
6.グリニョン・ド・モンフォール
1.聖書
ヨハネ2・1−12
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義2649[2]
主が母から得られた最初の人間的なものが分離したことが、今以下に記されており、ついにはそれが充分に[完全に]除かれたことが記されているため、以下のことを知っておかなくてはならない。すなわち、主は徐々にまた絶える時も無く、実にその栄光を受けられた[その栄化されたもうた]その生涯の終りに至るまでも、単に人間的なものであったものを、すなわち、主が母から取得されたものを御自身から分離し、脱ぎ棄てられ、遂には主は、妊娠の方面ばかりでなく、出生の方面でも、最早彼女の息子ではなくなられて、神の御子となられ、かくて父と一つのものになられ、実にエホバ御自身となられたのである。主が母から来ている人間的なものをことごとく御自身から分離し、脱ぎ棄てられ、かくてもはや彼女の子ではあられなかったことは、ヨハネ伝の主の御言葉から明白である。―
葡萄酒が尽きた時、イエスの母はかれに言った、葡萄酒がありません。イエスは彼女に言われた、女よ、わたしとあなたとに何(のかかわり)がありますか(ヨハネ2・3,4)。
マタイ伝には―
或る者が言った。見よ、あなたの母と兄弟が外に立って、あなたに語ろうと求めています。しかしイエスは、かれに語った者に答えて言われた、わたしの母とはたれですか、わたしの兄弟とはたれですか。そして手を弟子たちの方に伸ばして、言われた、見よ、わたしの母を、わたしの兄弟を、たれでも天におられるわたしの父の御意志を行う者、その者がわたしの兄弟、わたしの姉妹、また母である(マタイ12・47−50)
ルカ伝には―
或る女の人が群集の中から声を張り上げて、かれに言った、何と祝福されていることでしょう。あなたを生んだ胎と、あなたが乳を吸われた胸とは、と。しかしイエスは言われた、何と祝福されていることであろう、神の聖言を聞いて、それを守る者たちよ!」(ルカ11・27、28)。
黙示録講解376ホ(29)
主により行われた奇跡はことごとく、旧約聖書に話されている主による凡ゆる奇蹟と同じく、天界と教会とに属しているような事柄を意味しており、すなわち、その中に含んでおり、そのため主の奇蹟は神的なものであったことを知らなくてはならない(「秘義」、7337、8364、9051番を参照。)この奇蹟も同様であり、聖言の他の所のように、ここでも『結婚の行事』は教会を意味し、『ガリラヤのカナ』は、異邦人の間の、を意味し、『ぶどう酒』はキリスト教会の真理のような、内なる教会の真理を意味しており、それゆえ主が『水をぶどう酒にされたこと』は、外なる教会の真理から、その中に隠されている内なるものを開かれることにより主は内なる教会の真理を作られることを意味している。『ユダヤ人の清めに従ってそこに置かれた石の六つの水がめ』は聖言におけるこれらの真理の凡てを意味し、そこからユダヤ教会とその礼拝におけるこれらの真理のことごとくを意味し、そうしたものは凡て主における、また主から発している神的な事柄を表象し、意味したのであり、それは永遠の事柄を含んでいたのである。そうした理由のため、『ユダヤ人の清めのために置かれた、石の六つの水がめ』が在ったのであり、『六』の数字は凡てのものを意味して真理について述べられており、『石』は真理を、『ユダヤ人の清め』は罪から清めることを意味し、かくてユダヤ教会の凡てのものが意味されているのは、かの教会は罪から清められることをその凡てのものとして顧慮しているためである、なぜならたれでも罪から清められるに応じて、教会となるからである。『その宴会の支配人』は真理に関わる幾多の知識の中にいる者たちを意味し、かれが花婿に『たれでも最初は良いぶどう酒を供え、人々が充分に飲んだときは、劣ったものを提供するが、あなたは今までも良いぶどう酒をとっておかれた』と言ったことは、教会はことごとく善から発した諸真理の中にその初まりを持っているが、しかし堕落して、善から発しない真理へ転落してしまうが、しかし今や、教会の終りにさえ、善から発した真理が、または純粋な真理が与えられている、即ち、主により与えられている、を意味しているのである。
3.マリア・ワルトルタ
天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第1巻P470/52・5−9
婚礼の宴は始まる。皆、食欲旺盛で、杯を干す。わずかな痕跡を残している(*)のは、イエズスとその母だけで、母は口数も少ない。イエズスは彼女よりは話す。しかしあまり話さないといっても、顰(しか)めっ面をしたり、他を蔑むのではない。問われればにこやかに答え、話しかける人には関心を示し、自分の意見を述べるが、その後は、瞑想するのが習性になっているかのように、自分自身に沈潜する。微笑むが決して笑わない。あまりに軽率な冗談を聞くと、聞かないということを示す。マリアはイエズスを凝視して糧にする。食卓の奥の方に席を占めているヨハネもまた同様で、先生の唇の動きから洩らさずに聞き入っている。
*少し食べ、少し飲む
マリアは、給仕たちと給仕頭が何かひそひそと話していたが、給仕頭が狼狽し、なすすべもなく消沈しているのに気づき、何か快からぬことが起きたと理解する。「子よ」と、マリアは小声でイエズスを呼び、あの言葉でイエズスの注意を促す。「子よ、葡萄酒がありません」。
「女人よ、このことについて、わたしとあなたとの間にもはや何がありますか?」。こう言って、イエズスは更に優しく微笑み、そしてマリアは微笑む。まるで、他の誰も知らない、自分たち二人だけの愉快な秘密である一つの真理を知っているかのように。
この語句の意味をイエズスはわたしに説明する。
「多くの翻訳者たちが省いてしまう、あの『もはや』という語句は、このフレーズの鍵であり、そのフレーズの真意を説明しています。
御父の意志が、教師になる時の到来をわたしに指示したその瞬間まで、わたしは母に従属する子でした。わたしの使命が始まったとき以来、わたしはもはや母に従属する者ではなく、神のしもべでした。わたしの母親に対する精神的縁、絆は破棄されました。その絆は、より高いもう一つの絆へと変化し、すべて霊魂のうちに隠れました。霊魂はいつも、わたしの聖女マリアを『マンマ』と呼んでいました。二人の愛は止むことなく、冷めることもなかった。それどころか、この愛は、第二の親子関係を結ぶに至って、彼女から離別し、彼女がわたしを救い主、福音宣教者として世に与えたときほど完璧であったことはない。彼女の第三番目の崇高な神秘的母性は、ゴルゴタの責め苦のうちに、世の贖罪主であるわたしを十字架の下で産んだときでした。
「わたしとあなたとの間にもはや何がありますか?」。最初は、わたしはあなたのもの、あなただけのものでした。あなたはわたしに命令し、わたしはあなたに従順しました。わたしはあなたの『従属者』でした。今、わたしはわたしの使命に属するものです、ということです。
わたしは言わなかったであろうか?『鋤に手をかけてから後を振り返る者は、神の国にふさわしくない』と。わたしが鋤に手をかけたのは、鋤の刃で土塊を掘るのではなく、人の心を掘り、そこに神の言葉を蒔くためでした。わたしがあの鋤から手を離したのは、十字架に釘づけられるためにその手をむしり取られたときだけでした。ひどくわたしを苦しめたのこの釘で、わたしは父の心を開き、そこから人類に対する赦しを湧き出させたのだ。
多くの人から忘れられているあの『もはや』という一句には、次のような意味があります。『おお母上、ただひとえに、ナザレのイエズスであったときまで、わたしはすべて余すところなくあなたのものでした。そしてあなたはわたしの霊魂のうちにおられます。しかし、わたしが待望されたメシアであるときから、わたしの父のものです。もうしばらく待ってください。使命が終わりましたら、すべて再び初めに戻って、わたしはすっかりあなたのものになるでしょう。赤ん坊のわたしを抱かれたときのようのに、わたしを両腕に抱き上げられるでしょう。もはや誰もあなたから、このあなたの子を奪うことはないでしょう。人類の恥、不名誉と見なされたこの子、罪人の母という汚名をあなたにも着せるために、人びとがあなたにその亡骸を投げつけたあなたの子を。そして後にあなたは勝利したわたしを有するでしょう。それからあなたも勝利し常に天でわたしを有するでしょう。しかし、今は、わたしはこのすべての人たちのものです。そして彼らにわたしを派遣された父のものです』。
これが、あの短い一句、だが濃密な意味を持つ一句『もはや』の真意です」。
マリアは給仕たちに命じる。「彼が言う通りにしなさい」。自分に微笑みかける子の目の中に、マリアは、『召し出された者たち』への偉大な教えにふさわしく隠されている同意を読み取った。そして給仕たちに「甕に水をいっぱい入れなさい」と、イエズスは命じる。
わたしは給仕たちが井戸から運んだ水で大甕を満たすのを見る(滴を撥ね散らしてバケツを上げ下ろしする滑車の軋る音を聞く)。給仕頭が、その液体を少しばかり柄杓(ひしゃく)に掬い上げ仰天し、次に味見してますます仰天し、味わってからそれを家の主人と花婿(彼らは近くにいたので)に告げる。
マリアは再び息子を見、微笑む。彼の微笑が送り返されると、ほんのりと頬を染めてお辞儀をする。幸せそのものだ。
広間には囁きが伝わり、皆の頭がイエズスとマリアの方に巡らされ、もっとよく二人を見ようとして立ち上がる者もいれば、大甕を見に行く者もいる。しばしの沈黙があって、やがてイエズスへの称讃の声が一斉に上がる。
イエズスは立ち上がり、一言述べる。「マリアに感謝してください」。そして宴から逃れる。二人の弟子はイエズスの後に従う。敷居からイエズスは繰り返す。「この家に平安あれ。神の祝福が皆さんの上に」。それから付け加える。「母上、さようなら」
ビジョンは止む。
イエズスは次のようにわたしに教えられる。
「わたしは弟子たちに、『母を喜ばせに行こう』と言った。この言葉からは窺い知れない、遥かに深遠な意味をわたしはこの一言に込めていた。わたしと会うことで母を喜ばせようとしたのではなく、彼女こそ、わたしの奇跡の活動の発起人、人類が有する最初の恩人であることを知らせ、喜ばせようとしたのです。このことを常に記憶してほしい。わたしの最初の奇跡は、マリアによってなされたのです。最初の奇跡です。マリアがこの奇跡の鍵を象徴します。わたしは母には何一つ拒まないし、彼女に願われるなら恵みの時も早めます。わたしがあなた方を恵むと、神に次ぐ善良な彼女が、欣喜雀躍するのをわたしは知っています。何はともあれ、彼女は愛そのものなのだから。わたしが『母を喜ばせに行こう』と言った理由はそれなのです。
その上、わたしはわたしの力と共にマリアの力を世に示したかった。マリアは肉においてわたしに結合すべく定められた―わたしたちは一つの肉であったから。わたしは彼女のうちにあり、香り高く、生命に満ちた雌蕊を囲む百合の花弁のように、彼女はわたしを取り囲んでいる―わたしは自分の肉をもって、彼女はその霊魂をもって、わたしたちは十字架上にいたので、苦しみにおいてわたしに結合していたし、花冠とそこから抽出されるエッセンスをもって香る百合の花のように、マリアが、世に示す力においてわたしに結合しているのは当然でした。
あの婚宴の列席者たちに言ったように、わたしはあなたたちに言う。『マリアに感謝しなさい。あなたたちが、奇跡の主を、わたしの恩寵を、特に赦しの恩寵を有したのは、彼女によってなのだ』と。
平安のうちに憩いなさい。わたしたちはあなたと一緒にいる」。
あかし書房/マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P23
イエズスは、先ほどのことばの意味を私に説明する。
「多くの翻訳者たちが省いている“もはや”はこの文章の鍵になるものなので、その真に意味するところを話しておく。
私は、父のおぼしめしによって師(ラビ)になる時を知らされるまで母に仕えていた。そして、私はその使命が始まった時に、母に仕える子ではなく神の僕となったのである。親に対する外部的なきずなは解かれたが、それは、より高く私の心のすべてを集中させるきずなへと変わった。私の心は聖母マリアを相変わらず“母様”と呼び、私の愛はいっときも止まることなく冷えることもない。母は私をわが子として産むと同時にメシアとして、伝道者として産んだのであるが、この世に私を与えた時にその愛は頂点に達した。マリアの“第三の”崇高で神秘的な母性は、私をカルワリオの想像を絶する苦しみのもとに十字架にかけるがために産むことにより、この世の贖い主としたのである。
『私とあなたとの間に、もはや何のかかわりがありますか』いままでの私は、母のもの、すべて母のものであった。母は私に命じ、私はそれに従い“仕えた”そして、“いま私は、私の使命のものである”
私が言っているではないか。『鋤(すき)に手をつけてから振り向いて、家に残る人にあいさつをする人は神の国にふさわしくない』と。私は鋤をもって土くれではなく人の心を開いて、そこに神のみことばを蒔くために鋤に手をつけた。その手を離すのは、人間が私を十字架にかけるためにさらっていくときだけだが、これも拷問のあの釘でもって私の父の心を開き、人類のための赦しをほとばしらせるためのものである。
『私がナザレトのマリアのものだけであったころ、母よ、あなたは私のすべてでした。心の中ではいまもそのままです。しかし、久しく待たれていたメシアの使命を行い始めた私は、私の父のものです。しばらく待ってください。私の使命が終われば、再び“すべて”あなたのものとなります。幼いころのように私をかき抱くその時、あなたの子は人類の恥と見なされているので、だれもあなたの腕から奪い取ったりすることはない。それどころか、あなたに犯罪者の母という汚名を着せるために私の亡きがらをあなたの前に投げ捨てるに違いない。その後、勝利を得た私に出会い、あなたもまた勝利を得て、ついには天においていつまでも私を自分のものとする時が来ますが、いまの私はすべての人々のものであり、また私を皆のもとに送られた私の父のものです』
以上が、多くの人々に忘れられているあの短くて意味深長なことば“もはや”の意味するところである」
それから、イエズスは次のことを教えてくれた。
「弟子たちに『母を喜ばせるために行こう』と言った私のことばには深い意味がこめられていたのである。すなわち、母に私を見る喜びを与えるだけではなく、私に最初の奇跡を行うように勧めるのは母であること、母は人類の最初の恩人であると知らせるためであった。
よく覚えておきなさい。私の最初の奇跡は、マリアのために行われたのである。これはマリアが奇跡の鍵であることを象徴している。私が母を拒むことは一つとしてなく、母の願いであれば恵みの時も早める。善良さにおいて母は神に次ぐものであり、あなたたちに恵みを配ることこそ母を幸せにすることだと私は知っている。母は愛そのものなのである。それを知っている私は『母を喜ばせるために行こう』と言ったのだ。
さらにまた私の力量と一緒に、母の力量をも、この世に示したかったのである。私はマリアに宿る運命であったので―香り高い生き生きとした雌しべを取り囲む百合の花弁のように、私は母の胎内で母に囲まれ同じ一つの肉体であった。また、“苦しみの時に十字架上で、私は肉体をもって母は心をもって苦しむことで一体であったように”―母は“この世に現される力量においても”私に結ばれていることは明らかである。
私が婚礼の列席者に言ったことを、あなたたちに言っておきたい。『マリアに感謝しなさい。あなたたちが奇跡の主をもらえたのも、私のいろいろな恵み、とりわけ赦しの恵みをもらえるのも母のおかげであり、母によるものである』
さあ、安らかに眠りなさい。私たちはあなたとともにいる」
天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第1巻P492/54・7
「カナの奇跡を、わたしは母を喜ばせるために行いました。いわばわたしが母にした借りの前払いです。彼女は恩寵を早める女人なのです。ここでわたしはこの聖なる町に、メシアというわたしの権力の発起者として、公に敬意を表します。しかし、あのカナで、わたしは神の聖女、すべてが聖なる女人に尊敬を表しました。世界は彼女によって、わたしを有するのです。世界におけるわたしの最初の奇跡が、彼女のためになされたのは当然です」。
マリア・ワルトルタ/神に出会った人々1巻/P71
「カナは母を喜ばせるために私が行いたかったのです。カナは、母に支払うべき前金でした。母は恩寵を早めるものです。メシアとしての私の能力をここで公にし、聖なる町に敬意を表するつもりです。しかし、カナで、私は何もかも聖である神の聖なる婦人に尊敬を表したのです。この世で行われる私の最初の奇跡が母のために行われたのは正当なことです」
聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P9
地上で彼女の子であったわたしの三十三年間に、わたしが母に言った言葉の数々は、わたし―聖体が彼女―聖体容器と交わした語り合いに比較すれば無きにひとしい。それでもあの言葉の数々は人間の知性がそれを知り、人間の唇が繰り返すには、あまりにも神的で、あまりにも清らかである。エルサレムの神殿の主の契約の箱があった至聖所には祭司だけが入れた。しかし天のエルサレムの神殿には、わたし、神のみが入り、そしてわたしだけがわたしの母至聖なる箱マリアの秘密を知っている。
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P132
「幼子を抱いてエジプトの砂漠を渡った 聖母マリアのその腕に抱かれて安らぎなさい。慈しみで私を讃えてくれた聖母マリアを 讃えなさい、私は聖母を大いに庇護してきたではないか? わが霊が太陽を身にまとった女性を蔽った日から、すべての時代の人間が マリアをいと幸なる者と呼ぶように、私は彼女に大いなることをなした。聖母マリアを敬わなくなった者たちは恥辱と不名誉を受ける宿命にある。私が大いに庇護してきたマリアについての あなたがたの嘲笑に添えられた注釈を 私はまったく快く思っていない。彼らの一人ひとりは その報いを受けよう。あなたがたの霊魂を謙虚にせよ、今よりさらに謙虚にせよ 聖母マリアの執り成しを乞い願うときに しかめ面をするのを差しひかえよ。私が、彼女の執り成しを聞き入れないだろうなどと言うのは いったい誰なのか? あなたがたの聖母は カナでの婚礼の際に執り成してくださったではないか? これらの印しは あなたがたの霊魂が 自分たちが拒絶しているものは何なのかを理解できるようにするために行われたものである。この印しは 来るべきすべての世代の人間のためのものであった。太陽で身を飾り、わが聖霊により豊かにされて、三重に聖となられ この世を満たすこの女は、神の母の位をもつ。
5.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P186
元后の御言葉
私の娘よ、御子の御受難と十字架には大変な価値があり、十字架の道行きに参加する人々にもその価値があることを私は理解しました。従って、私自身も御子に付き添い、御子の悲しみと苦しみ全てを共に受ける許可を御子に願い、頂きました。その苦しみの期間、神がいつも下さる喜びを抹消して下さることもお願いし、そうして頂きました。御子は私を心から愛しておられるので、私のこの願いは御子の希望でもあったのです。喜びが消えると御子はよそよそしくなり、私をカナの婚宴や十字架刑の時、私を母と呼ばず、婦人と呼ばれたのです。御子自身の苦しみと私の苦しみを一致同化するための印です。
私たちの内、ほとんど全員は、自己犠牲と十字架への本当の道を嫌がり、怖がります。そして、この世の真の最高の祝福を失います。受難は、罪からの回復のための唯一の手段であるから、苦しみを避ける限り、回復は不可能となります。苦しみと悲しみにより、罪の湯気は減り、情欲は押し潰され、誇りと高慢は引き下ろされ、感覚はコントロールされ、悪への傾向はなくなります。自由意志は理性による枠の中に入れられ、情欲に我が身を任すことはなくなるでしょう。神の慈愛は、苦しみ悲しむ人々の上に注がれます。この苦しみの意味を知らない人や、苦しみから逃れる人は、愚かか気違いです。
6.グリニョン・ド・モンフォール
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P33
19.イエズスのご生涯の事跡を、たんねんにしらべていくと、イエズスが、マリアをとおして、かずかずの奇跡をおこない始めるのを望まれたことがよく分かります。イエズスは、マリアのことばをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつのことばを述べられるとすぐ、ヨハネはまったく聖化されたのです。これは、恩寵界の最初にして最大の奇跡です。(ルカ1・41)
イエズスは、カナの結婚披露宴で、マリアのつつましいねがいによって、水を、ぶどう酒に変えてくださいました。これは、自然界での最初の奇跡です。(ヨハネ2・1〜12)イエズスは、マリアをとおしてこそ、ご自分の奇跡をおこない始め、おこない続けられたのです。イエズスは世界終末の夕べにいたるまで、マリアをとおして、奇跡をおこない続けていかれるのです。