過ち
マリア・ワルトルタ26・8/天使館1巻P214
聖母がマリア・ワルトルタに:
わたしたちは自分が完全無欠ではないのに、自分は完全無欠だと信じ込むほど自分自身を愛しています。ではなぜ、隣人を不完全な人間だと言って愛さなくなるのですか?
絶対的な愛徳。赦すことを知り、赦そうとする愛徳。心のうちで隣人の不完全さを弁明して、先んじて赦すこと。過ちを犯した者にすべての情状酌量を認めて、直ちに赦すこと。
愛徳と同様、絶対的謙遜。たとえそれが、ただふっと心を過ぎった思いによる過失であっても反省して認めること。過失そのものよりも害があるのは、『わたしは間違いました』と言えない高慢です。神を除いて、人間は皆間違うのです。『わたしは決して間違わない』と言える人間がどこにいるでしょうか?
さらに、それよりもずっと難しい謙遜の行為があります。わたしたちのうちで神が行われる不思議を、神を公に讃美する必要がない場合には、黙して語らぬことです。神からそのような特別な恵みをいただいていない隣人をがっかりさせないために。もしそれを神が望まれるのであれば、おお! もし望まれるのであれば、神はご自身をそのしもべに啓示なさるのです! エリザベツは、あの時、ありのままのわたしを『見た』のでした。またわたしの夫は、彼がそれを知る時が来るやわたしの真相を知りました。
あなたたちが神のしもべであることを宣言する役目は、神にお任せしなさい。彼はそれを慈しみをもって急がれます。というのも、特別な使命に召されたどんな人も、神の無限の栄光をいや増す新しい栄光であり、神が望まれたような人間であることの証言、すなわち、自分の作り手を反映するより小さな完全さなのですから。おお、恩寵による神の愛子たちよ、日陰に、沈黙に止まりなさい。『生命』である唯一の言葉を聞くことができるように。永遠の輝きを放つ太陽をあなたたちの上に、あなたたちのうちに有するに値することができるように。
ヴァルトルタ/自叙伝/P541
どんな重大な過ちも、私を神から遠ざけることはないでしょう。たとえ、それが人間の裁きにも告白できないような重大な過ちであったとしても。主がいかに限りなく善い方であるかが分かってから、私は何事にも身震いすることはありません。むしろ、主は私が完全になりたいと望みながらもこれほどに不完全であるからこそ、私をこんなに愛してくださるのだと思うほどです。そして、私がそう―不完全―だったと気づけば気づくほど、私は彼のところへ行くのです。そして、大声で叫ぶのです、「イエズス、私を哀れんでください!」と。
もしも魂たちが、キリストによってどれほどの愛で愛されているかを知っているなら、一つの魂も失われることはないでしょう。彼らは過ちを犯すたびに、慈悲深い御心に逃げ込むことができるからです。信頼するどころか、神とその罰を恐れるのは間違いです。
魂たちは、愛を形においても本質においても損なわれていると、神を地上の専制的で強硬な独裁体制の君主のように見たり、あるいは神を見ようともしなかったりします。彼らは神から逃げ隠れします。そのようにして彼らは道に迷うのです。カトリックの中には、いまだにジャンセニスムが多く見られます。なぜ、過度に尊敬してイエズスから遠く離れているのでしょう? 尊敬はよいことです。けれども、あまりに高い所まで押し上げると、愛には有害です。父に信頼して身を任せる子供たちの愛の方が、手の届かない玉座にいる君主への被統治者の態度よりも、はるかによいでしょう。