クライヴにカードを差し出したのは、一人の若い女だった。腰まである鳶色の豊か
な髪と、同じ色の猫のような瞳が印象的だが見覚えのある顔ではなかった。クライヴ
の背中にぴしりと緊張が走り、他の客に気付かれぬようテーブルの下で油断なく剣の
柄に手をかけた。
「……誰だ」
「べつに怪しい者じゃないわ」
彼女はさらりと答えた。敵意は感じられなかった。蝋燭の灯りが発するくすんだ光
の中で、大人の女性らしい物慣れた態度で微笑みかけてきた。
「座らせてもらうわね」
そう言って、クライヴの向かいに腰掛けた。慣れた手つきでカードを混ぜ、撫でる
ように一列に並べてみせた。
「どれでも好きなカードを一枚ひいて」
「………」
「大丈夫よ。ただの占いだし、お金なんてとらないから」
「……占い?」
クライヴは呟き、不快な面持ちで眉を寄せた。
「俺には必要ない」
「ええ、あなたはそういう人だと思うわ」
拒否されることを予期していたように彼女は切り返し、長く揺れる髪を手の甲でか
き上げた。クライヴの露骨に冷ややかな眼差しにも臆する気配はなかった。テーブル
の上に肘をついて、胸の前で指を交差させ、クライヴを見上げるように目線を動かし
た。
「……でも、今だけは必要でしょう?」
クライヴは虚を突かれた。動揺ととまどいの入り交じった視線を受けて、彼女の眼
差しがふ、といたわりに似たやわらかなものに変わった。
「誤解しないで、私だって誰それ構わず声をかけているわけじゃないわ。ただ最初
にあなたを見たときに──」
彼女は言い淀み、数回、長い睫毛を上下させた。それから思い切ったように口を開
いた。
「誰か、とても大切な人を待ち続けているのだとわかった。それで、その人がいつ
戻ってくるのか占ってあげたくなったの。余計なお節介だとは思ったけど」
クライヴの指先から力が抜け、握りしめていた剣の柄から自然と手は離れた。
「……どうしてわかるんだ」
「私も同じように大切な人を待ち続けたことがあったから」
長く煙る睫毛を伏せ、彼女はそうとだけ答えた。多くは語りたがらなかった。だが
それで充分だった。クライヴはふと、自分の中に生まれた新しい認識に気がついた。
この素性のわからない、謎めいた女の語る言葉を信用していた。彼女は本当に誰かを
待ち続けた日々があったのだと、理屈でなく理解した。
それは、おそらくとても長い時間だっただろう。今の自分が感じているのと同じよ
うに。
「待っているだけなのは辛いわね」
組んだ指に顎の尖りを乗せ、彼女は話し始めた。
「追いかけていけるところなら……何処へでも行くのに。どんなところでも一緒に
いられるなら構わないのに。こうやって一人で待ち続けている以上に辛いことなん
てないわ」
クライヴは手のひらをきつく握り込んだ。脳裏に白くたおやかな天使の姿が浮かん
できた。それはドライハウプ湖でアイリスを見送った時の記憶だった。まるで時間が
巻き戻しされるように回想は鮮やかに打ち立てられた。
別れる間際までアイリスは微笑んでいた。堕天使を倒し、アルカヤを守れたことを
心から喜んでいた。喜びのもたらす笑顔は美しかった。どんな状況にあっても決して
失われることのない天上の輝きは、人々が天使にこうあってほしいと望む姿そのもの
だった。アイリスは自分が天使であることに誇りを抱いていた。クライヴが愛したの
は、そうした彼女ではなかったか。
一度天界に帰してしまえば、再び地上に戻れる保証はどこにもない。出来ることな
らこのまま地上に残ってほしいと、あのときクライヴはどれほど強く願っただろう。
同時に、その願いを告げてはならないことも悟っていた。告げれば、アイリスを天
界と地上の狭間で苦しめることになる。彼女は必ず帰ってくると約束したのだから。
それならばクライヴには見送ることしか選べなかった。
「私のあの人は──」
やわらかな声が耳を打った。
「長い時間をかけて私のところへ帰ってきてくれた。私の望んだ形じゃなかったけ
れど、それでも約束を守って帰ってきてくれた。だからあなたの大切な人もきっと
約束を果たしてくれる。どんな形になったとしても」
「もし……」
胸の痛みが抑えがたい言葉となってクライヴの口から漏れた。
「もしも帰ってこなかったら……」
それでも、と彼女は鳶色の瞳に深い共感を湛えて言った。
「果たされない約束ゆえに繋がれる絆もあるわ」
クライヴは黙ってカードに視線を落とした。
信じる心は強いだろうか。
いつ帰るともしれない相手を待ち続けることは辛くても、だからこそ想いは強くな
るのだと、そう信じて生きていくなら。見知らぬ女の占う未来すら自身を支える糧に
していけるなら、あるいはいつか願いは叶うだろうか。
「…一枚でいいのか」
顔を上げてクライヴは尋ねた。
「ええ。──どうぞ」
無造作に選んだ一枚を裏にしたまま彼女に向けて押しやった。彼女の綺麗に手入れ
された爪先がそのカードを示した。
「これでいいのね?」
確かめる言葉に、クライヴは口元を引き結び、顎を引いて頷いた。
カードは表に返された。
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