〜 fragile III 〜



   何故あれほど素直に天使の存在を受け入れられたのだろう。幼い頃、繰り返し養母  
  から聞かされた伝説のせいだろうか。
   それは天使の勇者になってからずっとクライヴの心にあった疑問だった。
   彼女に力を貸そうと決意させたものは何だったのか。運命はあの時確かに自分の背
  中を押した。すべてが動き出し、始まった。
   そして今の自分がある。
   ただ、彼女を受け入れさせたきっかけをクライヴは思い出せないでいた。伝説のせ
  いだけではない、もっと強い力が働いたような気がするのに。
   何かの予感があったのだろうか?誰かが自分を変えにくる、そんな願望にも似た
  予感が───
   クライヴの口元に小さな苦笑が浮かんだ。そんな風に自分が考えていることもおか
  しいと思ったが、どこにいても彼女のことを考えてしまう自分をおかしいと思った。
  そんな思いが浮かばせた笑みだった。
   考えを打ち切るようにクライヴはグラスに口をつけた。土地物の赤ワインで、店の
  主人が勧めただけあっていいワインだった。あまやかな味をクライヴはゆっくり飲み
  干した。
   流行っている酒場なのだろう、それほど広くない店の中は客で賑わっていた。
  クライヴは混雑しているカウンター席を避けて奥にあるテーブル席で軽い食事を摂っ
  ていた。酒はそれほど好きでもないが気を紛らわすにはよかった。もともと強い体質
  なのか酔うことはないのだが。
   結局、どこにいても何を見ても彼女を思い出さずにいられないのだ。それをこの何
  日かで痛いほど理解した。それほど深く天使の存在はクライヴの身の内に根をおろし
  ていた。
   自分がそんな風になるなど考えたこともなかった。師・アーウィンが与えた影響と
  はまったく違う。アーウィンのいない世界は存在するが、彼女のいない世界は存在し
  得ない。
   どうしてこんなことになったのか。
   ずっとひとりで生きてきた。故郷も家族も友人も、個人的な私物やつながりは何ひ
  とつ持たないできた。それでいいと信じていた。
   暗い闇の世界を自分の生きる場所と定め、頑なに変化を拒んできた。望みは死ぬ前
  にできるだけ多くの吸血鬼を地獄へ道連れにすることだけだった。憎んで憎んで戦っ
  て、それで己の色を染め上げてしまいたかった。どうして憎まずにいられただろう?
  憎しみだけが今にも壊れそうな心を支えていたのに。
   それがいつしか変わり出した。世界を、彼女を通して眺めるようになっていた。彼
  女が訪れるのを心待ちにしている自分に気がついた。その時にはもう、憎しみは心を
  支えるための力ではなくなっていた。
   店の誰かがドライハウプ湖の話しをしているのが聞こえた。そうだ、とクライヴは
  思い出した。
   いつだったか、夜のドライハウプ湖を彼女と訪れたことがある。白い三日月が輝い
  て、湖に同じ姿を落としていた。吹く風はゆるくおだやかに、名も知らない夜咲く花
  の匂いを運んできた。彼女はこの世界を美しいと言った。あの時からではなかったか、
  世界を違う眼で眺めたのは。
   それまでクライヴが知っていた世界は単純な形をしていた。敵は吸血鬼であり、や
  つらの王であるレイブンルフトそのものだった。吸血鬼を生み出した世界をクライヴ
  は受け入れることができなかったし、吸血鬼に連なる自分もまた受け入れられるはず
  はないと思っていた。しかし天使を通して世界を見れば、そこには美しい自然があり、
  ささやかな幸せを大切にしたいと願う人々の暮らしがあった。気がつくと、それらを
  守るものとして、嫌われているはずの自分を世界は受け入れてくれていた。一度その
  事実を知ってしまえば、もう二度と前と同じ憎しみで世界を眺めることはできなかった。
   ───君はやつらが俺から奪ったものを知らないし、やつらがどんなに残忍だかわ
  からないからだ。
   生きることをあきらめないでほしい、彼女はあの時、そう願ってくれた。なのに自
  分はそんな言葉を投げつけなかったか。
   理不尽な苛立ちをぶつけているのはわかっていたが、そうしないではいられなかっ
  た。救いはないとうそぶきながら救いを求めて足掻く心を見透かされているようで怖
  かった。それなのに抗いたく引きつけられる強い力を感じた。その動揺があんな態度
  をとらせた。
   今ではクライヴもわかっていた。あれが、彼女に見せた初めての甘えだったのだと。
  それまでの自分は恐怖と戦うための虚勢を張るのに精一杯で、誰かに弱さを見せるこ
  となど考えもしなかったのに。
   クライヴはワインのボトルを手に取った。いつの間にか中身は空になっていた。二
  本目を注文するかどうかわずかに迷い、顔を上げようとしたその時だった。
   「どうぞ、一枚引いてみて」
   目の前に女の白い手とカードの束が差し出された。






 (コメント)
 まだ終わってません。話、続いています。
 これで半分くらいですね、だいたい予想通りの展開と
 長さになってます。
 私の文章は描写がくどいので読みづらいかもしれませんが 
 もう少し、おつき合い下さい。
 感想なども頂けると嬉しいのですが。



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