〜 fragile V 〜


   足取りは自然と喧噪から遠ざかり、気がつけば人気のない広場に出ていた。中央
  には白亜の石材を使った噴水があって座って休めるようになっていた。まだ湿り気
  のいくらか残るそれにクライヴは腰を下ろした。
   空気は染み込むように冷たく水の匂いがした。酒場の活気を浴びた後の身体には
  心地良かった。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。ざわめきの残っていた心が
  次第に和いでいくのを感じた。
   見上げると、街路樹の黒い枝葉が風に揺らいでいた。その風景に懐かしさを覚え、
  生まれ育った故郷の村を思い出した。家の周りにも同じような木立があって、何も
  することがない時にはよく幹に背を預けて座り込んでいた。
   小さな村の中で、クライヴは呪われた存在として忌み嫌われていた。同じ年頃の
  子供達もクライヴを受け入れようとしなかった。それを寂しいと感じたことはなか
  った。自分の出生を知れば幼な心にも仕方ないことだと思えた。そんなクライヴを
  養父母は不憫に思い慈しんでくれた。特に養母はいつも微笑みをたたえて迎え入れ
  てくれた。
   暖炉の脇で針仕事をしたり、あるいはクライヴに付き合って木の根元に座り込み
  カゴなどを編みながら、老いた彼女はよく話を聞かせてくれた。
   世界を悪魔から救った天使と勇者の物語。今は伝説となった知る人も少ないその
  話を、かつてエクレシア教国の大聖堂で一度だけ見た壁画の素晴らしさと併せて語
  っていた。話の締めくくりはいつも同じだった。
   ───クライヴ、天使様は本当にいらっしゃるんだよ…
   ───いつかお前のところにも天使様が現れるかもしれないね…
   そう言って、皺の刻まれた乾いた手のひらでクライヴの頬を撫でてくれた。その
  温かな感触をもう思い出すことは出来ないが、彼女の与えてくれた愛情と予言めい
  た語り口は今でも記憶に残っていた。
   ───あなたの大切な人は戻ってくるわ。
   また別な予言が心に浮かんできた。酒場で逢った謎めいた女の予言。クライヴに
  一枚だけカードを引かせると、彼女は鳶色の瞳にたっぷりの自信を浮かべて言った
  のだ。
   ───それもきっとすぐに、もしかしら今夜かもしれないわ。
   その言葉を残し、現れた時と同じようにふらりとどこかへ消えてしまった。
   カードの意味などクライヴにはわからない。もしかしたら彼女はまったく適当な
  ことを言ったのかもしれない。クライヴがどのカードを引いても同じ結果を出した
  かもしれないのだ。
   それでもいいとクライヴは思った。たとえ予言が今夜は叶わなくてもいい。養母
  の予言めいた言葉が長い時間をかけて成就したように、明日は叶うかもしれないと
  未来に願いを繋いでいくことが出来るなら、きっとそれを支えに自分はハンターを
  続けていくことが出来るだろう。
   クライヴは顔を伏せ、左の胸に手のひらを当てた。皮膚の下で脈打つ鼓動を感じ
  る。
   生きているのだ、と思った。
   この身体を流れるものは血であって憎しみではない。かつては憎しみが力だった。
  生き延びるためには強い憎しみが不可欠だった。だが今は違う。今は願いこそが力
  だ。養父母や、アーウィンや、自分のような存在を再び生み出してはならないと願
  う想いが剣を振るう力となる。その源には、いつも天使の姿があるのだ。
   木立が揺れ、クライヴは肌寒さを感じて顔を上げた。風が吹いていた。その風に
  乗って自分を呼ぶ声を聞いた。
   「──クライヴ?」
   人影は確かにそう呼びかけてきた。月の落とす光は脆弱でその人の姿形を映すこ
  とは出来なかった。
   「クライヴ、なのでしょう?」
   人影は少し前へ進んだ。街灯の光がその姿を浮かび上がらせた。
   アイリスがいた。クライヴを見つめて立っていた。ドライハウプ湖で別れた時の
  姿そのままに。ただ背中に純白の翼だけがなく。
   「クライヴ!」
   一瞬の沈黙の後、アイリスは走り出した。クライヴも同じようにした。互いに伸
  ばした指先が触れるか触れないかのうちにアイリスの身体が飛び込んできた。クラ
  イヴはそれを受け止めて、背中に両腕を回して抱き締めた。
   「アイリス……」
   そうしながらもクライヴはこれが現実だと信じられないでいた。あるいは、自分
  の願望が見せた幻ではないかとさえ思った。確かめるように彼女の顔に頬を寄せた。 
  肌の温もりと、薄金色の柔らかな髪と、かすかに漂う甘い花の香りを感じて、夢で
  も幻でもないと意識した。アイリスは確かに腕の中にいた。
   「……アイリス」
   何か言わなければと思うのに、口から出るのは溜め息のような呟きばかりだった。
  クライヴは何度も彼女の名前を呼んでは髪に頬を擦りつけた。激しく胸が高鳴るせ
  いで痛みさえ覚えた。堰を切って溢れ出そうとする感情はあまりに強く、彼女を壊
  してしまうのではないかという怖れさえ芽生えた。クライヴは目を閉じ浅い呼吸を
  繰り返し、冷静さを保とうと努力した。
   やがて徐々に落ち着いてきた。きつく瞑っていた瞼をゆっくり開いた。腕の力を
  緩めてアイリスから少しだけ身体を離した。
   俯いていたアイリスの顎に指をかけ、そっと上を向かせた。両手で白い小さな顔
  を包み込んだ。その途端、アイリスの青い瞳から涙が溢れ出した。
   「……ごめんなさい」
   涙で頬を濡らしながらもアイリスは微笑んだ。クライヴの手に自らの手のひらを
  重ね、震える指先に力を入れた。ゆっくりと瞬きをして、ごめんなさいともう一度
  謝った。
   「泣くつもりなんてなかったのに……あなたの顔を見たらほっとして、気が…緩
   んでしまって…」
   長い睫毛が上下する度に新しく涙がこぼれ落ちた。彼女が泣くのを見たのはこれ
  が初めてだった。透明な涙が頬を伝って流れるのを、クライヴは驚きをもって見つ
  めていた。
   「ずっと不安だったから……。必ず帰ってくると約束したけど、本当に帰れるか
   どうかわからなくて……もしもあなたを裏切ることになったらどうしようかと、
   そればかり考えて、怖くて…‥」
   アイリスの身体からするすると力が抜けていった。クライヴはそれに気がつくと
  彼女の背中に手を回して自分の胸に寄りかからせた。いつも天使として気丈な振る
  舞いを見せていたアイリスも、やはり心の中は不安が駆け巡っていたのだと初めて
  理解した。
   天界に戻れば地上と直接関わりを持つことは出来なくなる。想う相手が手の届か
  ない場所にいるのは彼女も同じなのだ。ドライハウブ湖で別れたあの時、もう会え
  ないかもしれない恐ろしさを感じていたのはクライヴだけではなかった。クライヴ
  が彼女を離したくないと願っていたように、アイリスもクライヴと離れたくないと
  願っていたと。いたたまれない不安に流されそうになる時も、彼女も同じように必
  死に感情を堰き止めていたのだと。クライヴはアイリスの涙を見てようやく思い知
  った。
   アイリスが微笑んでいたのはクライヴの為だった。残される彼の不安が少しでも
  軽くなるように。もしも会えなくなっても、最後に思い出す自分の姿が幸せそうで
  あるように。その為だけにアイリスはすべての思いを笑顔の裏に隠していたのだ。
   「……俺は、どうしようもない馬鹿な男だ」
   クライヴは首を傾けてアイリスの髪に頬を寄せた。
   「自分のことばかり考えて、君の本当の心など知ろうともしなかった。自分だけ
   が辛いのだと思い上がっていた。本当に苦しくて辛かったのは、君だったのに」
   それでもアイリスは約束を守ってくれた。地上に戻ってきてくれた。純白の翼も
  天界の優しく美しい何もかもを残して。
   「いいえ、クライヴ」
   アイリスは顔を上げた。頬はまだ濡れていたが涙は止まっていた。クライヴを見
  つめる眼差しは天使であった時と変わらぬ輝きを宿していた。
   「…本当の私を見つけてくれたのは、あなたです。私はいつも天使としてあるべ
   き姿を自分に求めてきました。それが正しい道だと思っていました。けれど本当
   は、多くの人々を大切にする天使ではなく、たった一人の人を幸せにできる存在
   になりたかったのです。なのに私はそれを認めることが出来ませんでした。
   ──あなたに出逢うまでは。
   だから今、私はとても幸せです。あなたが私を望んでくれたから。私もあなたを
   愛しているから」
   心の底から沸き上がる素直な微笑みをアイリスは浮かべた。その姿をクライヴは
  魂を奪われる思いで見つめた。
   …なぜ自分が彼女を受け入れられたのかわからないと思っていた。答えは、ここ
  にあった。
   この瞳だと思った。何の思惑も含まない真っ直ぐな眼差し。どんな時でもあるが
  ままの自分を映してくれた青い目。恐ろしく澄んだヘブンリー・ブルー。それは神
  のいる至高の空の色だという。
   たぶんこの瞳を見た時から、自分は彼女に魅入られていたのだ。
   ためらいがちに伸びてきたアイリスの手をクライヴは取った。もう片方の手を腰
  に回して自分に引き寄せた。再び身体が近づいた。前髪の先が触れ合い、互いの吐
  息を肌に感じた。
   「…クライヴ…」
   アイリスの声を、クライヴは天上の楽音のように聞いた。名前を呼ばれるのが誇
  らしかった。この声は自分のものだと思った。声だけではない。髪も、身体も、心
  も、彼女を形造るすべてがクライヴのものだった。
   そのまま顔を落として、クライヴはアイリスに口づけた。


   唇はやわらかく、しっとりと互いを受け止めた。アイリスの身体がわずかに強張
  り、すぐに緩んだ。両手をクライヴの首に回した。これ以上近づけないほど胸が重
  なった。
   深く、浅く。何度も唇を重ねた。少し離れては角度を変えて、また口づけた。せ
  っかく鎮めたはずの鼓動は再び早くなっていった。何かが内側からせがむように込
  み上げてきて追い叩いていた。クライヴもアイリスもその感覚を追いかけるのに夢
  中で他の何も考えることが出来なかった。ただ閉じた視界の裏側で互いの姿だけを
  思い浮かべていた。
   長い口づけの後、ようやくクライヴはアイリスを離した。腕を外して、半歩後ろ
  に下がった。二人は見つめ合った。アイリスは目元を赤く染め、何か言いたげな顔
  をしていた。
   クライヴは手を伸ばし、頬にかかる薄金色の髪を優しく撫でた。白い項が目に入
  り、細い首からなだらかな肩へと手のひらを滑らせた。その間も視線は外さなかっ
  た。瞳はいつでもお互いを映していた。
   すべてはこの日のためにあったのだとクライヴは思った。
   養母の言葉も、アーウィンと過ごした日も、レイブンルフトとの戦いでさえ一つ
  の糸で繋がれていた。酒場で会った女の予言もそうだろう。全体を知ることは出来
  ない不可視の大きな流れ。人はそれを運命と呼ぶのかもしれない。
   けれど天使の手を取ることを望んだのは紛れもないクライヴ自身だった。もし今
  すべての記憶を消されて、初めてアイリスが舞い降りてきたあの夜に還されたとし
  ても、きっとまた同じ道を通ってここへ辿り着くに違いなかった。それは予感では
  なく確信だった。
   アイリスの瞳を見ながらクライヴは胸の内で誓った。
   これからも自分は彼女と共にある運命を選ぶだろう。自分の意思で彼女と生きて
  行くだろう。いつの日か、死が二人を分かつまで。
   その前に彼女に言わなければならないことがあった。本当なら最初に告げなけれ
  ばならなかった言葉。ずっと言いたくて、言えなかった唯一つの思い。
   クライヴは微笑み、アイリスにそれを告げた。


 
                                           <The End>  


  (コメント)
  ここまでのお付き合い、ありがとうございました。
  このお話は文章量が少ないくせに書くのが辛くて、「私にフェバ小説は
  無理なのか?」「書くなっていうことなのか?」と自問自答の連続でし
  た。でも無事に終わってよかった…(疲)
  ラスト、慌てて書いてないか?とご不満の向きもあると思いますが、勘
  弁して下さい。私はただクライヴにあの台詞を言わせたかっただけなん
  です。(その割には肝心のフレーズを書いてないけど)
  天使アイリスに関しても細かい設定があるんですが、今回は出せなかっ 
  たのが残念です。しかし、私がクライヴのことしか考えてないのがバレ
  バレの小説だったなぁ。
  実はクライヴとアイリスの物語はもう一本ネタはあるんですが、これは 
  長編になるので同盟には送れないでしょう。読みたい人を募集してメー
  ルで送るか、はたまたHPの開設が早いか。
  なにはともあれ、読んで頂けただけで嬉しいです。
  もう一度、心から感謝します。ありがとうございました。

                                    きりはらとおる


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