王都青嵐伝
〜第一章、あるいは長めの開幕劇〜
第四話 前編



 尚武の都バームンクでは,道場同士のいざこざが絶えないし,街角でのケンカもいつものことである。

 それでも一定のルールは存在し,たとえば,街の何カ所かには”闘技場”と呼ばれている公認の試合場が存在する。
 闘技場といっても立派な建物があるわけではなく,ただの広場である。
 ここでは双方同意の上でならばどのような戦いも許可される。それこそ殴り合いのケンカから、武器を持っての斬り合いまでが、そこでは繰り広げられる。
 そしてこれが重要なのだが、ここで起きた結果については,それがどんなことだろうと何のおとがめも無し,というのが不文律となっているのだ。
 つまり、相手が大怪我をしようが,あるいはたとえ相手を殺してしまったとしても許される,ということである。

 それなりの覚悟と腕に自信があってこそ,初めてここで戦う資格を得るわけだ。

 多くの人々がそこには集まる。
 道場や流派のメンツをかけた戦いにのぞむ者達。ケンカが発展し、いつの間にかここで戦うことになった者。自分の修行の為に戦いを臨む者達。自分の強さを誰かに売り込みたい者達。そして,それらを観戦するために集まった武術関係者や野次馬達。

 そんな闘技場で,イツキが初めて勝負をするハメになったのは,こんなわけだった。



 夢を、見た。
 彼がまだ小さかった頃の夢だ。

 そのころの彼は、祖父によるつらい格闘術の修練を抜けだし、毎日街の近くの森の中に遊びに行っていた。

 彼には友人が少なかったが、それでもさほど寂しいと思ったことはなかった。
 彼にはこの森があったから。

 彼にはお気に入りの場所、秘密の遊び場があった。
 それは森の中の、ちょっとした空間だった。
 そこには小さな泉が湧き出ており、周りは狭いが開かれた空間となっていた。

 泉には綺麗な魚達が泳ぎ、その岸辺には森の小さな動物達がよく水を飲んだり、あるいは水遊びをするために集まっていた。
 また、岸辺に生えた木の枝には小鳥の巣があり、孵ったばかりの雛が親鳥にやかましく食事の催促をしていた。彼は親鳥の目を盗んでは、この小さな生命をのぞき込むのがとても楽しみだった。

 その日も、彼は森の中へと向かい、泉へとたどり着いた。
 だがそこはいつもとは違っていた。
 彼のお気に入りの、彼だけの秘密の場所。
 なのにそこには”侵入者”がいた。

 歳は自分と同じくらいだろうか?
 ふわふわとして柔らかそうな金色の長い髪を背中に垂らし、こぎれいな服を着た女の子が地面にしゃがみ込み、何かしていた。

 彼は自分の領地に進入してきたこの少女に文句を言おうと、彼女に近づいた。
 彼女はその足音に気づいたのだろう、彼の方を見上げた。

 とても綺麗な、大きな碧い瞳……、彼は文句を言おうとしていたのを、一瞬忘れた。

 彼が虚を突かれ、そこから立ち直る前に、彼女が泣きそうな声で言った。
「どうしよう、この子、このままじゃ死んじゃうよ。」

 その可愛らしい両手の中には、巣から落ちたのだろうか、まだ小さな小鳥の雛が乗っていた……。



 ……イツキは、はっと目を開けた。

 いつの間にか眠ってしまったらしい。
 もう空が、茜色に染まりはじめている。

 今日は仕事がハードであったことと、剣術道場が休みだったせいもあって、公園の芝の上でゴロ寝を決め込んでいた。
 疲れていたせいだろうか。それがどうやら、思ったよりも長い間眠ってしまっていたらしい。いくら暖かい季節とはいえ、もう少しで風邪を引いてしまうところだった。

 上体を起きあがらせ、ブルッと体を振るわせる。
 周囲では、子供達や子供連れの家族が、そろそろ帰り支度をしているところだった。

 ”まいったね、どうも。”

 結局、午後は寝続けで、何もできなかったようだ。

”くうう−−”

 ……何もしなくとも、腹だけは減るらしい。

 ”まだちょっと早い気もするけど、この時間なら、ケンもいるかな?”

 彼は食事を取りに、行きつけの食堂へと向かった。



「山鳩亭」、王都の西地区に位置する飲食街の中にある、イツキやケンの行きつけの食堂である。
 ちなみに、ここの店主の一人娘にして看板娘でもあるミラは、ケンの恋人であり、イツキにとっても長年の友人だ。そのせいもあって、イツキはよくここに食事に通う。
 素朴で暖かく、値段のわりに量の多い料理が売りで、毎晩それなりの賑わいを見せる店だ。

 が、この日の「山鳩亭」では、賑わいという言葉では収まりきらないような騒ぎが起きていたのだ。


「なんだ?」

 そろそろ辺りが暗くなり始めた頃店の前に付いたイツキは、その店内から聞こえる皿が割れるような音と、中をのぞき込む通行人達の姿に眉をひそめた。
 とにかく、あまりありがたくない出来事が店内で起きているようである。慌てて野次馬を押しのけ、店内に入った。

 店中はこの地方の他の店とほとんど変わりない作りで、八卓ばかりのテーブルと、奥の方にはカウンターがある。
 その奥の方のテーブルがひっくり返り、何人かの人間がにらみ合っている。彼らの足元には、食器とぶちまけられた料理が転がっている。先ほど聞こえた騒音は、このせいだろう。

”おいおい……”

 イツキは思わず、目を疑った。
 その険悪な雰囲気を発している連中の中に、彼の知った顔があったからだ。
 年の頃は十五歳くらいか。頭の後ろに短めに束ねた赤い髪、そして印象に強い、きりりとたくましい眉。半袖の上着と膝丈のズボンを身につけ、ブーツを履いた小柄な少女……。

”たしか、リディア、だったか?”

 リディア・ドラール。
 間違いない。このまえ、マークスと酒場で話しをしたとき一緒にいた少女だ。”拳狼”バッシュ・ドラールの実娘だと聞いている。

”どうして彼女がこの店に……。”

 ともかく、なぜかは分からないが、そのリディア・ドラールが友人の店で騒ぎを起こそうとしている。
 どうやら彼女はたった一人で、他の五人ばかりの男どもとにらみ合っているようだ。

 その脇で、ミラがその集団に向かって何か言っている。要するに店内で暴れるな、と言っている様だが、誰もその言葉に耳を貸している様子はない。

 イツキは”まずいな”と思った。
 リディアもそうだが、その相手も皆ちょっとこぎれいな服装をしている。そいつらは全員まだ若く、十代後半からせいぜい二十歳、イツキとそんなに変わらないだろう。
 マークスはリディアのことを、騎士見習いだと言っていた。ならば周囲の連中もその同僚か、あるいはどこかの貴族の坊ちゃん連中かもしれない。
 そんな連中が騒ぎを起こしたとなれば、面倒なことになりかねない。

”ともかく、騒ぎが大きくなる前に止めないと。”
 イツキがそう考え、集団に近づこうとしたその瞬間。

”バキッッ!”

 見事な音を立て、リディアの右拳が正面にいた相手の顎を射抜いた。
 男はそのまま、膝から脱力し、崩れ落ちる。あごの先を強打されることで、一瞬で意識を持って行かれてしまったのだ。

 イツキは目を見張った。

 恐ろしいほどにコンパクトで、洗練されたフォーム。
 スピード。
 相手の顎先をピンポイントで射抜く、極めて高い攻撃精度。
 そして何より、一瞬で全身のバネを収束させ攻撃を繰り出す、その瞬発力。

 彼女は、自分よりも頭半分は身長があり、遙かに体重があろうその相手を、拳の一撃で昏倒せしめたのだ。

 あまりの出来事に、一瞬棒立ちとなる若者達。
 だがリディアはその隙を見逃さない。
 彼女が次に標的と定めたのは、左端のやや小柄な男。
 連中の輪の中から飛び出し、脇に回り込む。
滑るようなステップ。そして両のつま先を踏みしめ、腰にひねりを加え回転させ、その力をそのまま肩から左の拳へと伝え、男の脇腹にねじ込む。

「ガッ……!」

 痛みと衝撃で傾いだ若者の側頭部、耳の辺りに、今度は右の拳が一直線に叩き込まれた。

”ガッ!!”
    ”ドシッッ!!”

 床に叩きつけられるように倒れ伏す、若者。
 それを確認もせず、リディアは再びなめらかな足さばきで、残る男達と間合いを取れる位置へと移動する。

”拳狼の娘、か……!”
 イツキはおもわず制止するのも忘れて、その動きに見とれた。

”拳狼”バッシュ・ドラール。
 拳闘を”競技”から”闘技”へと変えてしまった男。
 その必殺の破壊力を持つ双拳に加え、それまではただのパワーとタフネスの比べ合いであった殴り合いに、彼は独自の体裁きとコンビネーションを持ち込み、まったく新しい、独自の戦闘スタイルを確立した。
 彼が選手であった頃において、あるいは近衛兵となった現在でも、その戦闘スタイルはまさに無敵、と聞いている。

 そしてその戦闘能力は、確実に彼の娘へと伝えられているのだろうか。

 さらにリディアは動く。
 残る三人のうち、驚愕のため明らかに動けなくなってしまっている、大柄な中央の男。その男に向かって、滑るようなフットワークで突進する。
 が……、

 リディアは気づかす、イツキも止める間がなかった。
 若者達のうち、右端にいた赤毛の男。そいつが傍らのテーブルの上にあったジョッキを手に取ると、それを彼女の顔に向かって投げつけたのだ。

 とっさに避けようとするリディア。しかしジョッキの中に残っていた液体が、彼女の顔にかかり、目の中に入る。
 バランスを崩した彼女は、勢いを止められずに、正面にいた男にそのまま突っ込む。
 腰が引けていたその男には、ぶつかってきた小柄なリディアの体をも支えることができずに、そのまま二人もつれるように床に倒れ込んだ。

「くっ!」

 リディアは跳ね起きようとするが、一緒に倒れた男ともつれ合いはたせず、そこに隙が生じる。

”ゲシッ!”

 先ほど、彼女にジョッキを投げつけた男が、その脇腹を蹴り上げた。

「うゲッ……!」

 その蹴りをもろに喰らい、リディアの口から、うめき声とも悲鳴とも付かない音が吐き出される。
 赤毛の男は容赦しない。

”ガッ! ガギッッ!!”

 何とか頭と腹をガードしようとする彼女の体に、さらに力まかせに二、三発蹴り込む。そのたびにリディアの口からは、声にならない空気が吐き出された。

 その光景に、ミラが思わず悲鳴を上げる。

 このころには、先ほど彼女と一緒に倒れた男も立ち上がり、忌々しそうにそれに混ざろうとした。だが、そいつがその行動を起こす前に、イツキは動いた。

 若者の右腕を掴み、背中にねじ上げる。同時に空いた手で、相手の後頭部の髪の毛を掴み、こちらは後方へと引っ張る。
 イツキは、痛みのために悲鳴を上げ、体のバランスを崩されたその体を、さっきからリディアに蹴りを喰らわせている男の方に放りやる。そいつはたたらを踏んでよろめき、仲間とぶつかった。

 若者達は新たな乱入者を、一瞬惚けたような顔で眺めた。
 やがてその顔が、敵意に満ちたものへと変わってゆく。

 その機先を制して、イツキが怒鳴った。

「おまえら、いいかげんにしろ! 好き放題、ハデに騒ぎやがって!!
 言っとくが、このぐらいにしておかないと、そろそろ警護兵共が騒ぎを聞きつけてやってくるぞ?
 奴等の世話にでもなりたいのか!?」

 警護兵、という言葉が効いたらしい。若者達の目に浮かんでいた凶暴性が萎み、多少の理性の色が浮かんだ。悪い兆候ではない。イツキは自分の行動が成果を上げたことを、彼等の目つきから悟った。

 まず最初に動いたのは、先ほどリディアにジョッキを投げつけた、赤毛の男だった。
 最後に忌々しげにリディアを軽く小突いた後、倒れた仲間の一人を助け起こす。身長はそれほどないが、結構な筋力の持ち主らしい。脱力し、重くなっているはずの仲間の体を、それほど苦もなく抱え起こす。
 あわてて他の一人が、もう一人のけが人に手を貸した。

 結局リディアの連撃を喰らった方は一人では歩けずに、仲間に肩を借りながら、店を出た。

 内心ほっとして彼らをを見送るイツキの目が、野次馬をかき分けつつ店の戸をくぐる赤毛の男の目と、合った。

”こいつ……”、嫌な目をしていやがる。イツキの頭の中に警鐘が鳴る。
 やや濁った暴力性感じさせる、それでいて妙な冷静さを含んだ瞳。”こいつとは関わりたくない、危険だ”、そう強く感じさせる何かが、その瞳の中に潜んでいた。


 連中と入れ替わるように、見慣れた巨体が店内に入ってきた。ケンである。

「おい、どうした、何の騒ぎだ?
 警護兵の連中が、こっちに走って来るが。」

 その胸に、怯えていたミラが飛び込む。
 彼女はケンに必死で事態を伝えようとしているが、あまりに慌てているため、その内容はさっぱり要領を得なかった。

 ケンは困って、助けを求めるようにイツキの方を見るが、今はそれに関わっている場合ではない。イツキは倒れているリディアの方へと駆け寄る。

「おい、ちょっと、大丈夫か?」彼女を抱え起こそうとする。
「今、もうそこに警護兵が来てるらしい。君も彼らのやっかいになるのは、まずいだろう。」

”バシッ”
 リディアを助け起こそうとしたそのイツキの手を、リディアの手が払った。
「私にさわるな……!」
 しぼり出すように言った彼女の目が、イツキの顔を睨み付ける。

 困惑するイツキ。

 リディアはそれを無視して立ち上がろうとするが、突然、また座り込む。右足首を痛めているのだろうか。思わず、というように手で押さえている。

”どうする……?” 先日の酒場での失言のことがあり、イツキとしては、彼女にあまり強く対応していいのか判断できなかった。彼としては彼女を警護兵に渡したくはないが、この状態では……。

 ……と、その彼女の体が、ひょいっ、と持ち上げられた。
 ケンが、彼のその太い右腕を彼女の体に回して、軽々と担ぎ上げたのだ。

「な……!」
 驚くリディアと呆気にとられるイツキを無視して、ケンは彼女をそのまま店の奥へと運んでいってしまう。ミラが慌てて、その後をパタパタと追いかけていった。



 その後が、大変だった。

 ケン達の姿が消えた直後、警備兵達が駆け込んできた。
 イツキはその対応に追われていたのである。

 やっきになって、騒ぎの元凶を掴もうとする彼ら。イツキは、彼らを誤魔化そうとするのに必死だった。

 ……ええ、騒ぎを起こしたのは柄の悪い連中で、周りの迷惑をかえりみずにケンカを始め、警備兵さん達が来ると聞いて、慌てて逃げ出していきました。そう、歳はだいたい三〇〜四〇歳くらいで……。

 最後の方では、店の他の常連さんも口裏あわせて助けてくれたおかげで、なんとか警備兵達を納得させることができたが、そのころにはイツキも疲れ果てて、グッタリとしていた。

 そこに、ケンが店の奥の方から顔を出した。
「イツキ。」
 手招きする。

「ああ、どうした? 彼女。」
 イツキはそちらに向かいながら、尋ねた。

「それがな、ちょっと足を怪我しているようでな。お前に見てもらいたいたいんだ。」
 それとな、とやや言い辛そうに続ける。「ミラがお前に説明を聞きたいんだそうだ。」

”はあ……。” 思わずため息が出る。
 とはいえ、ミラの言い分も、もっともだろう。重い足取りで、イツキも店の奥へとついていった。


 店の裏側に入る。
 ミラと友人であるイツキも、何度かこちらにおじゃましたことがある。店主の家族の居は二階に集まっており、一階は店と厨房、倉庫、風呂と、ちょっとした客間からなる。イツキはそのうちの倉庫へと入っていった。

 低い木箱にリディアが座っており、その隣に、心配そうな顔をしたミラが立っている。
 リディアの顔はやや蒼ざめており、袖や裾からのぞいた肌には、擦り傷やすでに青くなった痣が見える。顔は比較的無事だが、そこかしこに汚れがついていた。ミラはぬらした布でその顔を拭ってやるが、そのたびにリディアの口からはくぐもったうめき声が漏れる。

「どんな様子?」イツキが声をかける。

 二人の顔が「はっ」とあがる。
 そこにイツキの姿を見て、リディアは不機嫌そうな顔になり、ミラの方は少しほっとした顔になる。

 ミラがイツキに声をかけてきた。
「イツキ、彼女、右足首を怪我してるみたいなの。
 見てもらえない?」

 どれ、としゃがみ込むイツキ。それに対して、リディアが「さわるな!」と言う。

「君な、いいかげんにしろ!」イツキは怒鳴った。
 先日、彼女の信奉する拳闘を軽視する発言をしたことは、後悔していたし、できれば後で謝罪したいとも思っていた。
 しかし、いい加減にして欲しいのも確かだ。ひとの友人の店で乱闘したあげく、怪我をして、警護兵からかくまってもらい、そのあげくこの態度はなかろう。疲れのせいもあって、イツキは怒りにキレかかっていた。

 びくっ、と一瞬からだを強張らせるリディア。その隙に彼女の右足を取り、無理矢理履いていたブーツを脱がす。苦痛の声が聞こえたような気もするが、とりあえず無視した。
 なるほど、足首のあたりが、やや赤くなって、腫れている。イツキはまず、膝の辺りを軽く叩き、「足首のところに響いて痛いとか、そういうのあるかな?」と訊いた。

 彼女は黙って首を振る。

 つま先のところでも、似たようなことを繰り返す。こちらも痛みはない。
 大丈夫、骨折はしていないようだ。もしも骨が折れていた場合、もっとひどい顔色で脂汗をにじませたり吐き気を訴えたりするのが普通だし、痛みの部位から少し離れたところを叩いても、それが骨を伝わって響いて、痛みを訴えることが多い。

 その後、右足を中心にあちこちをざっと調べた結果、とりあえずは大丈夫らしいと判断し、イツキはミラに包帯と湿布薬を頼んだ。

 薬を布に塗り、それを右足首に貼る。足首を甲の側に曲げるようにしながら、足の裏と足首に包帯を掛け、固定する。このとき、足の甲の上で包帯を左右交差するように巻くと、足首が横方向へねじれるのも防止できる。

 こうした治療の技術については、柔術と共に祖父から教わった。柔術を造った土地の人間達は、よほどの凝り性だったようである。壊し方を練る傍ら、直し方も研究していたらしい。

「普段の訓練とかで分かってるとは思うけど、今日より明日・明後日の方が腫れて痛くなるからね。向こう数日間は、無理しない方がいい。」

 今はおとなしくしているリディアにそう声をかけ、ミラの方を向く。
「あと、お願いできるかな?
 胴体の方は、基本的には打ち身だけみたいだから、湿布だけはっといてよ。俺より、ミラにまかせた方がいいだろ?」

「あ、うん!」
 突然ふられて、慌てて答えるミラ。なんだか、ほとんど嬉しそうに男共を部屋の外に追い出し、扉を閉める。

 イツキとケンは顔を合わせ、なんとなく笑ってしまった。どうやら、まかせておいて大丈夫そうである。


 彼女にリディアを任せたあと、イツキはケンと共に今度は店の掃除を手伝わされ、店主であるミラの親父さんの愚痴を聞かされ、なんだかんだで、食事を取り一息つけたころには、もう結構遅い時間になっていた……。



「大丈夫?」「……」
 尋ねるイツキ。対してリディアは、何も答えない。

 今イツキはリディアを背負い、夜の道を王城の方へと向かっている。


「もうこんな時間なんだよ!
 怪我してる女の子が、一人で出歩いてちゃ危ないじゃない。」

 そう言って、ミラはリディアをイツキに押しつけた。

「いや、別に俺でなくてケンでも……。」言いかけるイツキに対し、

「ダメ。ケンは今日は約束があるの。」
 きっぱりと言い切る。

”それって……”ミラとの約束じゃないのか?
 そう思いつつも、結局イツキはミラの勢いの前に押し切られてしまった。

 未だ足元が怪しいリディアを背負う。彼女も最初はいやがったが、やはりミラに押し切られてしまい、仕方なく彼の背中に負ぶさった。
 ケンが、少し申し訳なさそうな顔をしながら、見送ってくれた。


 月が、綺麗だ。ひとたび繁華街を出ればもう人通りも少ない街を、その蒼白い光で明るく照らしている。夜になり、すっかり涼しくなった風が頬に当たり、気持ちがいい。
 そんな中を、イツキは背中に寄りかかる温もりを意識しつつ歩く。首筋に当たる息づかいが、こそばゆい。
 最初はいやがり、騒がしかった彼女も、今ではすっかりおとなしくしている。もっとも、その代わりに、何か話しかけても返事もしないのだが。
 だから、イツキはただ黙って歩いた。

 女性経験の少ないイツキは、生まれて始めてのこの状態に気分が落ち着かなかった。
 まあ、多少は”役得”と思わなくもなかったが、最初は軽く感じた彼女の体も徐々に重くなってきており、何よりこの沈黙に疲れを感じていた。

 だから、王城の脇にある騎士見習いの宿舎が見えてきたときには、正直ほっとした。

「あの……」
 今まで黙っていたリディアが、不意に声を出した。
「あの、ここまでで結構です。後は、歩けます。」

「そお?」
 考えてみれば、このまま宿舎まで背負っていくというのは、お互い結構恥ずかしいかもしれない。そう思ったイツキはしゃがみ込み、彼女を背から降ろした。

 リディアはゆっくりと地面に立った。試すように、軽く右足に重心をかける。少し眉をひそめたようだが、大丈夫そうだ。それを確認すると、リディアはイツキに言った。

「どうもありがとうございました。
 失礼します。」

「あ、ちょっと待って。」
 イツキが声をかける。

 月明かりの中、かるく、そのくっきりとした眉をひそめ、彼女がイツキの方を見る。

「この前は、ごめん。」
 イツキは彼女のその顔を見ながら、謝った。
「拳闘は競技でしかない、そう言ったのは、間違いだった。
 今日の君の、遙かに体格の大きい人間を二人叩きのめしたあれ、凄かった。正直、見とれた。このあいだの言葉は、俺の間違いだった。だから、ごめん。」

 そう言って頭を下げるイツキを、びっくりしたような顔で眺めていたリディアは、慌てるように言った。

「あ、え、そんな、いいです。
 私こそ、助けてもらって、怪我の世話までして頂いたに、こんなで……。
 ですから、えっと……。」

 なんだか、見てて微笑ましい。

 思わず顔が笑ってしまうイツキ。そんな彼を見て、リディアも照れたように笑った。イツキがはじめて見る彼女の笑顔は、その年齢よりも妙に可愛らしかった。


「……さてと、俺はもう行くね。」
 適当なところで切り上げるように、イツキが言った。

「あ、はい。あの……、」
 何か言いたげな、リディア。

「?」イツキは問いかけるように彼女を見る。

「えっと、その、今日は、本当にありがとうございました。
 それと……、今度、よろしければ道場の方に伺ってもよろしいでしょうか?」

「うん、別にかまわないと思うけど。どうしたの?」

「はい、このあいだの話しの続きなんですけど。イツキさんの格闘術を見せていただきたいんです。今日もそのつもりで……っ!」

 なにやら”しまった”という感じで、口をつぐむ。

”なるほど……” どこであの店のことを聞いたのかは知らないが、なんだか、彼女があそこにいた理由が、分かったような気がする。

”もしかしたら、俺に喧嘩を売るつもりで来たのか。”
 ほぼ、間違いないだろう。そんな考えを顔に出さないよう気をつけつつ、イツキは答えた。

「いいよ、いつでもおいで。たいてい、夕方からは、俺は道場にいるから。
 でも、剣術じゃなくて体術の方が見たいのなら、道場よりもどこか別の場所の方が見せやすいんだけど。」

 ブロスナン道場はあくまで「剣術」道場である。そんな中で、ただの道場生であるイツキが、勝手に体術のデモンストレーションをするのはまずい。ほかの、郊外の人目に付かない空き地とかのほうが、都合がいい。

 しかし、リディアは言った。
「えっと、できれば道場の方がいいんですけど。」

”なんで?” イツキは疑問に思う。

 その思いが伝わったのだろうか? リディアは、言い辛そうに、それになんだか顔を赤らめながら、恥ずかしそうに言った。

「その、ですね、よろしければそのとき、サラ・ブロスナン殿に紹介していただきたいんですけど……。
 このまえ、マークス殿と伺ったときには、自分はお話しできませんでしたので。」

「ああ、そっか。」イツキは納得する。

 サラはその剣技と美貌から広い層のファンを持つが、その中で一番熱狂的なのが年下の女の子達である。だからリディアのこの申し入れは、とてもよく理解できた。
 普段、サラはこうした女の子達に対しやや困惑しており、紹介などされるのは迷惑そうだが、

「うん、わかった。それじゃ、そうしよう。」

 この子ならいいだろう。イツキは思う。サラと同じ、武術にその人生をかけている娘だ。きっと、仲良くなるだろう。

「ホントですか?」

 ぱっと、その顔が明るくなった。第一印象よりも、豊かな表情を持った少女である。見ていて楽しい気分になる。

 そこに、不意に声がかかった。

「……ずいぶん、楽しそうにしてるじゃないか?」

 路地のところ、薄暗がりに男が立っている。赤毛に中肉・中背、やや小柄なイツキよりは、少し大きいという程度だろう。ただし袖から除く腕には、太く筋肉がついている。そしてその、何とも言えない嫌な目つき。
 酒場にいた、倒れたリディアを容赦なく蹴りまくっていた、あの若者である。

「ガムダス……、」
 リディアがその男を睨む。ガムダス、と言うのが、この男の名前らしい。

「ドラール卿の一人娘は、こんな夜遅くまで、男と二人でお出かけてしていたというわけだ。」

 絡んでくるガムダス。その挑発に、リディアが眉をつり上げさせる。簡単に熱しやすい性格だと言うことは、イツキにも分かっている。慌ててイツキは、止めに入る。

「彼女、怪我をしたんでね。送ってきただけだよ。」

 二人の間に割って入る。

 そのイツキの全身を、ガムダスの目が観察するように眺めた。

「昼間、酒場にいたヤツだな。」
 覚えていたらしい。”忘れていてくれていて良かったのに” イツキは心の中で毒づいた。

「その呪い紐(まじないひも)、たしか桟橋の労働者の間で流行ってるってヤツだな。」

 どうやら、観察眼もあるようだ。確かにイツキは、近頃仲間内で流行っている呪いの紐を、左手首に巻いていた。一応、幸運を運んでくれる、ということになっているが。

「なるほど。」まるでせせら笑うように、ガムダスが言った。
「お嬢様は、しがない労働者と恋仲な訳だ。
 ま、”馬にも乗れない騎士”の娘には、お似合いかもしれないな。」

「!!」
 その言葉に、リディアが意味にならない怒りの叫びを上げた。イツキが止めに入る間もない。
「貴様、いいだろう。そこまで言うなら勝負してやる!
 騎士見習いのルールに則った決闘だ、受けろ!!」

「はっ!」バカにしたような笑いが、その叫びへの答えだった。
「怪我で足を引きずっている女の子に、暴力をふるう気にはなれないね。悪いけど、ご辞退させていただくよ。」

「貴様……!」
 歯を食いしばり、男を睨み付けるリディア。彼女が続けて叫ぼうとしたとき、その脇から静かな声がかけられた。

「なら、俺がやろう。」

 驚いたように声の方を振り向く、リディアとガムダス。

 そしてイツキが、静かに、繰り返すように言った。

「なら、俺が相手をしよう。逃げるなよ、騎士見習いどの。」



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 第四話、前編でした。  やっぱ格闘シーンが入ると、書いてて楽しいです。
 この調子で第一章、最後まで行きたいです。
                藤井 貴文(ふじい たかふみ)

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