無貌の月
     〜第一話:初戦〜



 ガタガタと、路面のがたつきが、シートを通して身体を揺さぶる。
 車が、舗装していない山道へと進入したのだろう。もっとも、窓の無いバンの後部からは、外の様子は分からない。

 腕時計を見る。
 午前零時二十五分。
 もうじき、目的地に到着する、予定時刻だ。

 外からは覗くことができないようになった、大型のバンの後部に、一緒に乗り込んだ仲間達を見渡す。

 自分を含め、全部で八人。

 うち六人が、迷彩服を着込んだ自衛隊員だ。
 皆、暗視装置や防弾・防刃装備で身を固め、ショットガンや自動小銃で武装している。
 それらの中には、本来自衛隊では正式採用されていないものも、含まれているそうである。もっとも、俺には、どれがそうなのかは、見当も付かないが。
 もちろん、こんな事が一般に洩れれば、大騒ぎとなる。平和に慣れたこの日本では、ただでさえ叩かれやすい職種だ。
 だが、これから戦う相手のことを想定すれば、当然必要とされる装備でもある。

 あとの二人、俺ともう一人は、ずっと軽装である。

 俺は、登山用具店で買ってきた、シャツとズボン、それに動きやすい登山靴を履いている。
 ただし、腰にはオートマチックの拳銃。
 大学を卒業してまだ数ヶ月の、二十三歳。こんなものを持つ生活とは、一生関わりたくないと望んできたのに……。

 もう一人は、更に輪をかけて、軽装だった。
 ジーンズの上下に、スニーカー。
 車の揺れにも関わらず、あどけない顔で眠っている。その神経の図太さは、見習いたいくらいである。
 まだ、二十歳そこそこの、若い女の子だ。肩の辺で切りそろえられた、やや薄めの色の髪が、化粧気のない顔にかかっている。
 彼女の腰にも、俺のものよりは一回り小さいながらも、拳銃が納められている。

「落ち着かないですか? 高草木(たかくさぎ)さん」

 向かいの席に座った、俺よりいくつか年上と思われる、確か浦木さんだったか、が声をかけてくれた。
 ごつい作りの、だが目だけは優しそうな顔で、話しかけてくる。

 この浦木さんも含め、自衛隊さん達は皆、かなりの体格の持ち主だ。
 聞いた話では、それも当然のこと。この部隊に選抜されるには、身体能力に、極めて厳しい条件が用いられるらしい。もちろんそれは、精神的な能力も、同様。

 防衛庁、陸上自衛隊所属、機甲科・対魔特殊部隊。
”人ではないもの”を狩ることを目的に、自衛隊と警察から選ばれてきた人間達により、完全な秘密裏に構成される、戦闘のトップエリート集団だ。

「大丈夫、今回のターゲットは、ランクにしても”C”ってとこだ。通常火器も十分通用する類のヤツで、それほど強力じゃない。
 それに今日の作戦では、君らは、いわば、お客さんなんだから」

 分厚い掌が、安心させるかのように、俺の肩を軽く叩く。

 ……そのとき、車が止まった。

 目的地に、到着したのである。

「う、んん……」
 なにか、妙に色気のある声を出しつつ、隣の席の少女が目を覚ます。
 まだ眠そうに、目をこすっている。

 それを横目で確認し、俺は車の外へと出た。

 山の冷たい風が、身体に吹き付けてくる。平地では、皆がまだ残暑が厳しいと愚痴る季節ではあるが、高地の夜ともなれば、それなりに気温も下がる。
 俺は思わず、はだけていたシャツの前を合わせた。

 中空に、美しい真円の光が鎮座し、地上を蒼く照らしている。
 今夜は満月だ。

 周囲は、木々に囲まれており、その奥まではのぞき込むことはできない。
 だが時折、木々が風に揺れて立てる葉音の間から、生き物達の気配を感じる鳴き声や、彼らが動くかすかな音が、耳に届く。

 そしておそらくは、周囲にはむせ返るような緑の匂いと、夜の香りとが漂っているのだろう。
 もっとも、今の俺には、それらは感じることができなかったが。

 そう、あの、五年前の事件。俺は、父母を、祖父を、そしてそれ以外の、全ての家族を失った。
 そして、以来、俺の鼻は何の匂いも感じることができなくなり、それと平行して、何を食べても全く味が分からなくなったのだ……。

「ここからは、目的地まで歩きだ。
 みな、必要以上に音や明かりを出さぬよう、注意。

 偵察斑からの情報によると、ターゲットに、こちらの作戦に変更を要するような行動は、見られないそうだ

 到着次第、打ち合わせ通りの行動に移る。

 ターゲットは、二体。
 必ず、仕とめろ。いいな」

 暗視装置を頭部に装備し、自動小銃を抱えた隊長さんが、指示を出す。

 俺は、緊張しながら、頷く。

 だが、先ほどの少女が、そんな俺の肩を軽く叩きつつ、声をかけてきた。

「だいじょうぶ、そんなに緊張しなくても」

 大きめの、くりくりとよく動く瞳が、俺を見ながら、笑っている。

「初めての実戦で、どきどきするのは、分かるけどね。

 でも、平気だって。ここにいるみんな、ベテランさんばっかなんだから。
 私たちの今日の任務は、その後ろから、ケ・ン・ガ・ク。

 ね? 何にも、心配ないって」

 彼女も含めた、隊員の皆の顔に、笑顔が浮かぶ。

 そんな周囲の雰囲気に、俺の中からもほんの少しだけ、緊張が解けた。



 彼女、麻生 美和子(あそう みわこ)に出会ったのは、二日前、今回の作戦の検討会が行われたときだ。

「初めまして。高草木 雅也です」
 そう挨拶する俺の顔を、彼女はポカンとした顔で眺めた。

 彼女だけではない。その、自衛隊の建物の中に作られた、即席の会議室にいた人々は、男も女も、皆似たような表情をしている。

 ……こうした反応には、今までの人生で、慣れていた。

 高草木家は、戦国の世から続く、旧い家だ。
 そして、その戦乱の時代と、その後の徳川の太平の世、そしてさらにその後に訪れた近代の動乱とを、二つの資質を武器に、生き残ってきた。

 一つには、その特異な、人外のものと評される、超常能力。
 人により、その能力の種類は異なっていたが、高草木家では、かなりの高確率で、そうした能力を持つ者が生まれた。例えば、予知の能力。例えば、手を触れずに物体を動かす能力。

 そして、もう一つの資質は、その異様とも言える”美貌”であった。

 不思議な力を持つ血と、男女共に現れるその”美”。

 時の権力者達は、例外なく、これらを欲した。

 それこそが、常に高草木家を支えた”力”であったのだ。

 そして、その力を守るために、外の血を入れることを頑なに拒み、血縁関係を閉鎖することで、それを保ってきた。
 暗い、どろどろとした内向的な血縁関係が繰り返され、その血は収束されていった。古く、澱(おり)が溜まり、腐敗しながらも、甘美な味わいを高めてゆく、ある種の食物の様に……。

 そしてその特性は、本家の者として、高草木の血を最も濃く受け継ぐ俺にも、当然現れていた。

 たいていの女性は、そして多少は反応は弱まるが男性も、初めて俺に会った人間は、高草木の血が作り出した”美”に驚愕する。

 もっとも、この外観のせいで得をしたことも多いが、トラブルに巻き込まれることも多く、俺は彼等のこうした反応には、うんざりしていた。
 しかも、得をしたことがある、と言っても、それはたいていの場合薄っぺらな物でしかなく、人生にとって本当に助けになってくれた、と感じたことは、一度もなかったし。

 実際、この部屋にいる大部分の人間は、興味が俺の外観のみに向かっているか、あるいはこちらが何もせずとも、敵意のこもった視線を向けてくるか、どちらかになっていた。

 そんな雰囲気に、辟易しそうになっていた俺の手が、突然凄い力で握られた。
 麻生だった。その華奢な体格からは、ちょっと信じられないような握力だ。

「初めまして、麻生 美和子です。

 歳はあなたの方が上みたいだけど、ここでは私が先輩。
 遠慮なく、いかせてもらうからね」

 その目は、物怖じもせずに、正面から俺の目を見つめていた。
 そしてその目の中には……、はっきりと、何か挑戦的な意志が見て取れた。まるで、俺に対し、勝負を挑んできているような。負けず嫌いを感じさせる、そんな意志。

 今までで、こんな目を俺に向けてくる異性に出会うのは、初めてだった。



 夜の闇の中、地面がむき出しになった、細い山道を、歩く。

 やがて、前方に、明かりが小さく見えた。

 隊長が無言で、手のジェスチャーのみで指令を出す。
 隊員のうち二人がそれに頷き、右手の森の茂みの中へと、音もなく消えていった。

 その場で数分間の待機のあと、再び明かりの方へと、足音を殺しながら向かっていく。

 俺の胸郭の中で、心臓がドクドクと、音を立てて暴れる。
 なんとか落ち着いて、音だけは立てないように、それだけに集中しつつ、隊員達の後ろを付いてゆく。

 ふと、麻生の方を見ると、彼女は平然と落ち着いた顔で、歩を進めている。

 それは、表面上のもので、実際には緊張しているのか? あるいは、実戦を積み、こうした落ち着きを修得したのだろうか?

”それとも……”

 自分の持つ『能力』に、絶対の自信を持っているのか。



 その先に、小さな山小屋が見えた。
 中に誰かいることは、明かりと、僅かに聞こえる、おそらくはラジオの音だろうか? で分かる。

 隊長が腕時計で、時間を確認し、マスクを顔に降ろす。
 そして、右手を挙げ……、振り下ろした。

”ダッ!!”

 茂みに隠れた俺と麻生の見ている前で、自衛隊員達が、滑るような足取りで、小屋の扉へと駆け寄り、窓からの死角へと潜り込む。
 打ち合わせでは、今頃、建物の裏手にも、先ほど分かれた二人の隊員が、張り付いているはずである。

 次の瞬間、二丁のショットガンが火を噴き、ドアノブと蝶番とを吹き飛ばす。
 一瞬を待たずして、破壊により作られた隙間から、特殊手榴弾が投げ込まれる。

”ズッッッン!!”
 大きな音と共に、閃光と、多量の煙が小屋から吹き出した。

 それに伴い開始される、四丁の火器による、小屋の中への十字砲火。

 火薬の破裂する音と、銃や排出された薬莢が立てる、生理的に耳に触るような金属音が、絶え間なく俺の耳を叩く。

 そしてそれが一通り過ぎ去ったあと、今までが嘘ような静寂が、その場を支配した。



 隊員が銃を構えつつ小屋の中に入り、そして、出てきた。

 こちらを向き、手招きする。

「さ、行くわよ」

 麻生が、俺に声を掛ける。

 俺は本能的に、行きたくはないという思いに支配され、一瞬、立ちすくんだ。

 しかし麻生は、そんな俺の手を握り、容赦なく小屋の方へと引きずっていく。

 小屋の中は、もはや形のある物は、残っていなかった。
 壁も、家具類も、鉛の弾丸によって、ずたずたに引き裂かれている。

 そして、二体の『それ』も……。

 『それ』はもはや、『人型』だとか、『魔』だとか、そんなことを考えさせるような形をしていなかった。
 床に転がる、朱い、グニャグニャとした、ただの肉の塊……。

 俺の頭の中を、五年前の、『あの』シーンが掠める。

 喉元に、すっぱい物がこみ上げてきた。

 麻生の制止も聞かず、口元を押さえながら、小屋を飛び出す。
 後ろから、あきれたような、あるいはバカにしたようなため息が聞こえたような気もしたが、それに構う余裕は、俺には無かった。

 とにかく、なんとしても一旦、その場から離れたかった。

 俺は、森の中に駆け込み、しばらく走り、そして……、吐いた。

「ゲェッ! ヴゲッッ!!」

 木にもたれかかり、その根本に胃の中の物を、吐き出す。
 自衛隊施設からの出撃前、無理矢理ハラに詰め込んでおいたものが、逆流する。

 その全てを吐き出し終わっても、俺の胸のムカツキは、なかなか収まらなかった。



 胃が空っぽになり、もう吐く物が無くなって、やっと一息つけた。

 それと共に、憂鬱な気分が頭をもたげてくる。

”俺、このあと、本当にやっていけるのかなあ……”

 あまり、自信がない。が、こんな事に自信を持てるとしたら、その方が異常なんだ、と自分を納得させる。

「そろそろ、戻るか」

 だいぶ走りはしたが、基本的に真っ直ぐ移動してきただけのはずである。
 今夜は月も明るいし、道に迷うこともないだろう。

 それより心配なのは、どんな顔で、皆のところに戻ればよいのか、だった。

「ま、しょうがないか」

 悩んでも、仕方がないことだ。向こうも、俺がこういうことになる可能性は、考えていただろうし。

 浦木さん辺りが、フォローを入れてくれるのを、期待することにしよう。

 そう考え、きびすを返そうとした俺の耳に、”ガサッ” という、草木の擦れる音が入ってきた。

「?」

 音のした方を向き、驚いた。

 子供だ。せいぜい十歳かそこらの、子供。
 長くのばされた髪からして、女の子だろう。Tシャツに、ホットパンツといった軽装で、その手足や服は、月明かりの下、やや薄汚れて見えた。怯えた表情で、こちらを見ている。

”何でこんなところに、子供が……?”

 そう思いながらも、本能的な警戒心が浮かび、俺は反射的に『集中』に入った。

 それとほとんど同時に、少女の腕が上がる。
 その小さな手の中には、まるで冗談に見えるような、おおよそ似合わない、大型の拳銃が握られていた。

 その銃口が、俺の方へと向けられる。

 だが、それより先に、俺の『集中』は完成されていた。


 ……周囲の時間の流れが、突然ゆっくりとしたものに変わる。

 少女の腕がスローモーションで動き、握られた拳銃から、弾丸が放たれる。
 弾丸が、俺の方に向け、飛んでくる。だが、今の俺には、その弾丸の回転さえも見ることができる。

 周囲の時間がゆっくり感じられる、といっても、それはあくまで感覚的な問題で、俺の身体が弾丸よりも速く動けるようになったわけでは、ない。

 少女の身体の動きから、その銃口の向きを読み、そこから体をかわすのだ。

 自分の身体が、やはりもどかしいほどゆっくりと動き、弾丸を避ける。

 そのまま、恐怖心に突き動かされ、少女に向けて突進する。

 怯えた表情で、発射の反動で上を向いた銃口を、再び俺に向けようとする少女。
 だが、遅すぎる。

 俺の、最大の力が込められた右足の蹴りが、少女の腹部へと、吸い込まれる。

 彼女はゆっくりと、身体を二つに折り、後方へと吹き飛んでゆく。

 俺の目には、その彼女の口から漏れる唾液や、衝撃に揺れる髪の毛の一本々々の動きまでが、はっきりと見て取れた。

 数メートル程も宙を飛び、木の幹に叩きつけられ、今度はその反動で身体を反らせ、少女は地面へと倒れ込んだ……。


 ……、やばい。
 俺は、はっとする。

”まさか、殺してしまったか?”

『集中』時の俺は、すべての身体能力が、極限まで高められる。
 動体視力、反射神経、触覚、心肺機能、瞬発力、そして筋力。

 その間、俺の体感する時間は、雨粒が止まって見えるほどにゆっくりとしものになり、肌の感覚は、周囲の空気の一粒々々が感じられると錯覚するほどに、鋭敏になる。
 そして、身体の筋肉は、人間が自らを壊さぬように設定された安全装置から、解放される。

 家族の者は、俺のこの状態を、『超集中状態』と呼んでいた。

 リミッターのはずれた肉体は、その外観の体格からは想像もできないような、圧倒的なパワーを吐き出す。

 恐怖にかられ、手加減もなしに、そのパワーを思い切り叩き込んでしまった。

 少女は、ぴくりとも動かない。

 今度は、先ほどとは反対の恐怖が、俺の心に浮かび上がる。

 俺は思わず『集中』を解き、少女へと駆け寄った。

「おい!」

 少女の身体に、手を掛ける。
 それが、失敗だった。

 少女が、跳ね起きる。
 その瞳は、『人』の瞳が持つことのない色、金色に輝き、俺を睨んだ。

”なっ!!”

 再度、神経を『集中』させる……が、間に合わない。

 少女が、俺に飛びかかってくる。
 その口元には、先ほどまではなかった、長く鋭い牙が生えていた。

 あまりに迂闊であった。
 こんなところにいる、拳銃を持った女の子が、まともな存在のわけは無かったのだ。

 気が動転していたあまり、そんなことにすら、注意を払えないとは。

 彼女の動きは、スローモーションのように、はっきりと見て取れる。
 だが、俺の身体も、やはりゆっくりとしか、動かない。

 このままでは、間に合わない。
 彼女の牙は、俺の首に達するだろう。

 おそらく、致命傷は回避できるかもしれない。だが、それに何の意味がある。
 二人きりしかいない、この場所。この攻撃で死ぬことがなかったとして、そんな状態で、この場を切り抜けることができるだろうか。

 そのとき、

 ほとんど絶望しかけ、それでも何とかもがこうとする俺の目の前で、少女の体が、突然、霞んだ。

 まるで何か、目には見えない巨大なハンマーで殴られたように、彼女の体は地面へと叩きつけられた。
 弾丸の動きさえも捕らえる俺の目でも、霞んで見えるほどの、圧倒的なパワーで。

”ぐちゃり……!!”

 音が、聞こえてくるようだった。

 地面に当たった少女の体は、ひしゃげ、破裂する。
 血液が飛び散り、俺の体にも、降り注ぐ。その一滴々々が宙を飛ぶさまを、『集中状態』にある俺の目は、とらえていた。

 突然のことに、何が起きたのか、理解できなかった。

 ただ、匂いを感じなくなったはずの俺の鼻の奥に、五年前、最後に感じた香りが、蘇ってきた。
 ……むせ返るような、血の匂い。

”やばい……”

 だが、止まらなかった。

 先ほどの小屋の中で、二体の死体を見て、頭を掠めた、『あのとき』の光景。
 それが、今度こそはっきりと、頭の中に浮かび上がった。



 ……広い部屋。その全てが、朱く染め上げられている。
 壁も、畳も、ふすまも、窓の障子も、天井も、家具も、飾られた掛け軸も……。

 畳には、いくつもの肉体が、転がっている。
 ねじくれ、裂け、へし折られ、爆(は)ぜ、ひしゃげ、そして動かなくなった、肉の塊。

 そしてその中の一つ、顔の右半分だけが原形をとどめた、俺の母親の濁った目が、俺の方に呆然と向けられている。

 辺りを支配する、血の色。血の、したたり落ちる音。足の裏にからみつく、ねっとりとした血の感触。部屋中に満ちた、鉄臭い、血の香り。

 血。血。血。血。血。血……。

 そして、そんな朱く染め上げられた世界の中心で、ただ一人、一点の染みも無い真っ白なワンピースに身を包み立つ、『彼女』。

 『彼女』は、ゆっくりと俺の方を向き、そして……、愛しげに微笑んだ。



”うっっっ……!”

 再び、強烈な吐き気がこみ上げてくる。
『集中』を続けていられない。

 俺は、地面にへたりこみ、吐こうとした。

 しかし、先ほど全ての内容物を吐き出した俺の胃袋は、もうそれ以上、何も出そうとはしてくれない。
 ただ、腹の中で、よじれ、鋭い痛みを伴って痙攣するだけだ。

 痛い! 苦しい、くるしいよ……!!

 右手で腹を押さえ、左手で血に濡れた地面を掻きえぐり、ただひたすら、痛みに悶える。
 両目から、涙があふれ、それが鼻に伝わり、顔中をべたべたにする。

 誰か、助けてくれ! 誰か、誰か……!!


 ……と、誰かが側に、いた。
 地面にうずくまる俺の隣に、そっとしゃがみ込む気配。

 その人の手が、俺の背中を、優しくさする。

 懐かしさを感じさせる、その気配。
 そして……、

「大丈夫? しっかりして。
 心配ないわ。私が、側にいるから」

 ……優しく、懐かしい、その声。
 五年前、あの事件が起きたそのときまで、生まれたときから、常に隣にあった、その声。

 背筋が、凍りつく。

 その、魂を鷲掴みにされたような感覚に、今まであれほど暴れ狂っていた内蔵さえも、その動きを、止める。

 首を曲げ、その人の方を見る。
 首の筋肉が緊張に凝り固まり、まるでぎちぎちと音を立てるかのように、ぎこちなく動く。

 そこに、『彼女』が、いた。

 五年前と変わらず、美しい、その顔。

 いや、それは嘘だろう。
五年の年月は、確実に彼女の美しさを、変えていた。

 少女から、女へと。

 黒く艶やかな、真っ直ぐに流れ落ちる、その長い黒髪。やや切れ長な、まつげの長い、その黒い瞳。透き通るように白く、きめ細かな、肌。五年前と比べ、僅かに丸みの落とされた、その優美な曲線を描く、顔の輪郭。やや小さめの、鼻梁。そこだけは、紅く色づく、唇。

 高草木の旧き血が、ここにその歴史を集結させたような、その非現実なまでに美しい顔。
 彼女の顔を、満月が、蒼く照らしている。

 その彼女が、俺の側で、俺に微笑んでいた。
 あのとき、朱く染まった世界の真ん中で、俺に向けられていたのと同じ、汚れなく、無垢な、その微笑みで。


 ……汚れない? 嘘をつけ。

 俺の頭の中で、別の俺が、囁く。

 汚れなく、など無いはずだ。そうだろう?
 それは、おまえが、一番よく知っているはずだ。

 そいつは嘲笑を上げ、俺を問いつめる。

 そう、その通りだ。
 俺が、一番よく知っている。なぜなら……。


 彼女を汚したのは、この俺なのだから。


「清花……」

 彼女の名を、呼ぶ。
 愛しい、俺の、半身。

 俺の……、双子の、妹。



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「無貌の月」、開幕です。
 作者にとっての第二作目、ということで、いくつか、新しいチャレンジをするつもりです。
 では、宜しくお願いします。    藤井 貴文(ふじい たかふみ)

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