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魔導学院、聖珠闘技場は静寂に包まれていた。 聖珠闘技場は学院で最も使用頻度が高い闘技場だ。そのために夏休暇中も多くの行事がここでこなされたのだが、休暇が終わりに近づいた今となってはそれも完全に終わり、休暇後の再開に向けて閉鎖されていたのだ。 しかしそこには四つの人影があった。闘場に立っている人間が二人、闘場の脇で彼らを見守っている人間が二人。そして四人が立つその空間には、静かな雰囲気が満ちていた。 その中の一人、クリフは黒い長袖の服を身に纏いながら、その静寂に身を任せていたが、自分の相手を見据え、ゆっくりと口を開いた。 「アーバン、試合の前に一つだけ言っておく」 クリフのその言葉にアーバンはぴくりと反応する。その仕草を見て、聞こえているのを確信しながらクリフは続けた。 「手は抜くな。俺も本気で行く」 普段のクリフを知っている人間ならば、その言葉を聞いて嘲ったことだろう。しかし、その場にいる人間は、皆がその意味を理解していた。 「久しぶりね。あの姿のクリフを見るのは」 クリフ達からいくらか距離をとったところで、褐色の肌の女がそう呟く。その一言を隣にいたミーシアは聞き逃さなかった。 「そうね。ここで法衣を着ないことなんてまずないから」 ミーシアは魔族の女、保険医のジェシカにそう返すと、真剣な眼差しでクリフを眺める。彼女は、クリフが法衣を脱ぐということの意味を知っている。彼の法衣は、運だけの男として戦うための道具、言わば暗器と呼ばれる代物を隠すためのものだ。 だが本来、彼の戦いの質はそんなものではない。それは、ミーシアが良く知っているのだ。 「それだけクリフが本気になっているという事よ。単純な戦闘能力では、アーバンの方が上だから」 「しかも、相手もやる気だしね」 ジェシカはちらりとアーバンを眺める。彼もまた、法衣を纏わずに紺色の長袖の服を着ていた。もちろん、それによって身体の線から女であることが解るが、ここにいる者にそれを気にする必要はない。皆がそれを知っているからだ。 それに、彼女自身、重い法衣を着てクリフと互角に渡り合えるとは思っていなかったのである。確かにアーバンの方がクリフよりも自力はある。だが、クリフはアーバンの戦闘技術を知っているし、それを活かせるだけの経験があるのだ。 アーバンはクリフの力を見くびってもいなければ、狂信的に過信もしていない。彼のクリフへの心酔は、その上でのものだ。 「だけど、解せないことがあるのよね」 ジェシカは表情を曇らせながらそう呟いた。そんな彼女に、ミーシアは不思議そうに視線を送る。 「どうして今更グロースパウダーが効果を失っているかって事よ。あの薬は、ガルシア先生の秘薬なんでしょう?」 ジェシカの問にミーシアは沈黙する。ガルシア=バーグがアーバンに与えていた薬、その効果を彼女は知っているのだ。そして何故その薬が効果を示さなくなったのかも、大体の予測はしていた。 「アーシアとの関係が元に戻ったからだと思うわ。女の友人を身近に置いたことで、アーバンも自分が女であることを意識し始めた。グロースパウダーは想いに反応して、身体的な成長を変化させるものだから」 「アーバンの身体の成長が中性のままだったのは、特出した感情が無かったからだものね」 納得したように言葉を返すジェシカに、ミーシアはこくりと頷く。 「それは、どういうことですか?」 突然声を掛けられたのは、そんな会話の中でのことだった。 聞き覚えのある声、振り向くと、そこには大きく息を切らして立っているアーシアの姿があった。 「御姉様も、ジェシカ先生も知っていたんですか。アーバンが使っていた薬のことも、アーバンの身体のことも、それに……」 感情的に叫んでいたアーシアだったが、彼女はそこで言葉を止める。口にしていい言葉なのか解らなかった。事実、彼女自身、まだ先程しった事実を信じ切れていないのだ。 だが彼女は叫んだ。 「それに、アーバンの仇のことも!」 半ば盲目的に敬愛する姉に、そんな言葉を吐いたのはそれが初めてだった。だがアーバンの苦悩を思い浮かべると、アーシアは止めれなかったのだ。 しかしミーシアは妹のそんな言葉を咎めようともせずに、すっとアーバンの方に目を移した。 「そう。だから、今更なのね」 ミーシアが口にした言葉の意味をアーシアは理解が出来なかった。だが、それを理解させてくれたのは、ジェシカの次の言葉だった。 「どうやら、事態はみたいね。だから今更、あの娘がクリフに試合を挑んだのね」 今更……。そう、今更なのだ。実力だけを言えば、アーバンはいつでもクリフに戦いを挑むことができる強さを持っていた。彼女がそれをしなかった理由は、クリフと戦うことに躊躇いを抱いていたからに過ぎない。 「御姉様、話は後です。今は二人を止めないと」 湧き起こる不安をかき消すために、アーシアはあえて大声を張り上げた。姉とてこんな、一歩間違えれば惨劇にもなるであろう戦いを望んでいるはずがないのだ。少なくとも、アーシアはそう思っていた。 だがミーシアから返ってきた答えは、彼女にとって意外なものだった。 「貴女の気持ちも解るけれど、この試合の邪魔はさせない」 そう言ってミーシアは闘場を遮るようにすっと腕を横に伸ばした。姉のその行動に、アーシアは愕然とする。 「どうしてですか! アーバンの強さは御姉様も知っているはずです。先生の命がどうなってもいいって言うんですか!」 有り得ない事態ではなかった。少なくともアーシアの頭の中では、行き着く先がそれだけしか思いつかなかったのである。ガルシア教室生徒時代、唯一アーバンが感情を露わにした瞬間、それはいつもヴァイス=セルクロードの名が出たときだった。その憎しみの炎が、そう簡単に消えているとはアーシアには思えなかったのである。 しかし、それでもミーシアはアーシアにそれをさせなかった。 「アーシア。二度は言わせないで。この試合を邪魔するというのなら、私は貴女と戦うわ」 それが脅しでないことを示すように、ミーシアは首に掛けていた丸い小さな銀色の珠を外し、それを手に握りしめた。 アース、それがミーシアが握った珠の名だ。彼女が戦士として戦うときにだけ用いる古代の魔導器。それはつまり、ミーシアの決意が本物であることを示していた。 「御姉様……」 アーシアはただそう呻くことしか出来なかった。 今の自分ならば、もしかしたら勝てるかも知れない。そういう自信はある。だがそれよりも、彼女に攻撃する事への躊躇いは、どうしても抑えることができなかったのである。アーシアにとって、姉は絶対なる存在なのだ。 項垂れる妹の姿を見て、ミーシアもまた苦悶の表情を浮かべる。だが彼女は退かなかった。ミーシアは俯いているアーシアの頭を軽く撫でると、その視線を闘場の方に移した。 そこでは既にクリフとアーバンの試合が始まっていた。
それが突きによる風圧で生じたものだと理解したときには、クリフはそれを避けていた。 (速い、な) 地面を蹴り、少し身体を移動させたところで、クリフは漠然とそんなことを考える。彼の動きが速いのは当然ことだ。ガルシア=バーグの最後の教え子の一人であること、そして、その中でも接近戦による戦いは彼女の専門分野だ。 しかしただ速いだけならば、アーバンよりも速い連中は学院生徒に存在する。名前を挙げれば学院教師ゾーンの生徒ネルス=パッカードなどだ。だが実際に戦った相手ならば、皆がアーバンの攻撃の方が速いと感じるだろう。 そんなことを考えている間にも、アーバンの攻撃は続く。脱力したように身体を揺らめかせたかと思うと、彼の身体は一瞬ぶれ、その場から消える。あえて構えないことによって、攻撃の瞬間を相手に錯覚させる彼の技の一つだ。以前、クリフがアーバンに襲われた時にも使われた技である。 クリフは大きく息を吸い、全身に神経を巡らせると、空気の動きに集中する。僅かな大気の流動、そこに彼はいるはずなのだ。 だが、感じたときには既にかわすことの出来る間合いではなかった。クリフは闘気を込めて置いた右腕をたてると、仕掛けて来るであろうアーバンの攻撃に備える。次の瞬間、クリフの右腕に鈍器で殴られたような衝撃が走った。クリフは次の攻撃に時間を生じさせるために、そのままその衝撃に身を任せ、今一度アーバンとの距離をとる。 (昔のアーバンなら、こんなに神経を使うこともなかったんだがな) 相手を視界に入れたところで、クリフは心中でそう呟いた。以前、クリフに戦いを仕掛けてきた時のアーバンの動きは、手に取るように解った。あの頃のアーバンの動きは、ひどく機械的で、それこそ無駄が無い動きだった。だが、だからこそ動きが読みやすかったのだ。 (死角、しかも最短のルートで攻撃をしてくるのなら、そこにだけ集中していればよかったんだがな) だが今の彼は無駄な動きの使い方を覚えた。それは駆け引きという、人同士の戦いに大きな意味合いを持つものを生じさせる。読みと経験で力の差を埋めるクリフのような技能者にとっては厄介な力を手に入れたことになるのだ。 (だが、そうでなければな) 戦いを楽しいと思ったことは無かったはずだ。しかし、どこかでそれに高揚感を覚えている自分がいることも確かだった。『同類』。不意に、クリフの脳裏には、先日ゾーンが吐いたその一言が頭に浮かんだ。 「そうなのかもな」 クリフがそう呟くのと、彼が周囲の精気を集束させるのはほとんど同時だった。アーバンのような闘気使いにとって、最も厄介であるのが魔術による遠距離攻撃だ。アーバンはそれを危惧し、クリフに向かって駆け出す。 間合いは微妙なところだった。クリフの魔術構成が速いのは、彼と対戦したことのあるアーシアからの助言で知っている。だがアーバンは躊躇わなかった。それが功を成し、アーバンはクリフの魔術構成が完成するよりも先に、攻撃の間合いに入り込む。 だがそれはクリフの仕掛けた罠だった。クリフは展開していた魔術構成を即座に中断すると、アーバンの繰り出した右拳を避け、彼の懐に入り込む。次の瞬間、アーバンの腹部には強い痛みが走った。 魔術の構成とは、そうそう途中で中断できるものではない。それは初めから完成させないことを前提に編まれたものだったのだ。それを理解するのと同時に、アーバンの目には掌打を突き上げてくるクリフの左手が見えた。すかさず左腕でそれを阻止するが、衝撃を吸収しきれずに、彼の身体は宙に浮く。その刹那、アーバンは腹部に再び衝撃が走った。 クリフの蹴りを喰らったのだ。アーバンの身体はそのまま弾き飛ばされ、地面を転がりながら闘場の外にある壁に叩きつけられた。 「嘘……」 その言葉を発したのは、闘場の脇でその試合を見ていたアーシアだった。彼女の目にはそれがひどく異常な光景に見えていたのだ。クリフが強いことは彼女自身が体感している。だが、あのアーバンを相手に、接近戦でこうも圧倒的な力を見せつけるとは思ってもいなかったのである。 「相性の問題ね」 不意に、アーシアの心を呼んだように、ジェシカがそう呟いた。 「アーバンの戦い方に似ている男がいたのよ。クリフは、その戦い方を熟知している。だから力の差があるアーバンともああして渡り合えるのよ」 ジェシカがそう言葉を発する間に、闘場ではアーバンがゆっくりと立ち上がっていた。
(それでも立って来るか) 自分の身体に、冷たい汗が流れるのをクリフは感じていた。そしてアーバンが完全に立ち上がったところで、彼はある変化に気付いた。 「精気?」 変化、それはアーバンを中心に精気が流動していたのだ。精気の流動が意味するものは感情の起伏、そして魔導という技法の発動だ。どちらとも、アーバンに似合わないものだ。だが、アーバンは地面を殴り、大理石の闘場を砕くと、それに優しく触れ、言葉を発した。 「大地よ、我が言葉に従え。マリオネット」 彼の言葉に反応し、大理石の欠片は次第に宙に浮いていく。クリフはその光景を驚愕の表情で見ていた。 (固体、しかも無機質の物体の操作は、熟練した魔術士でもそうそう使える物じゃないぞ) 心中でそう毒づきながら、クリフは全身に闘気を巡らせる。これから起こる事態を、彼は理解していた。 「いけ」 アーバンが声を掛けると、大理石の欠片は物凄い速さでクリフに向かって突き進んでいく。クリフは闘気を込めた拳でそれを打ち落としながら、アーバンの姿を確認する。だが、そこに彼の姿はなかった。 (しまった) 最悪の事態を理解した瞬間、クリフの側面から突き進んでくる一つの影を彼は確認した。腰を落とし、それに備えるが、弾丸のように突っ込んでくるその物体を、クリフは止めきることができなかった。 クリフはそのまま弾かれ、突進してきた物と一緒に地面を転がる。そして先に体勢を立て直したのは、クリフではなく、彼――アーバンだった。 見ると、クリフは仰向けになっていた。上にはアーバンの身体がのしかかり、彼は右腕を振り上げていた。 「先生がこの戒めを振り解くよりも先に、先生の頭蓋を割る自信はありました」 それはアーバンの勝利宣言だった。クリフは苦笑すると、「明確な判断だな」と言葉を返した。そしてクリフは言葉を続ける。 「お前の勝ちだ。アーバン」 その言葉にアーバンの表情が綻ぶのが見えた。が、それは一瞬のことだった。彼はすぐに表彰を戻すと、そのままの体勢でクリフに尋ねてきたのだ。 「約束を、覚えていていますか?」 その一言に、クリフの表情にも再び緊張が走る。クリフはアーバンが戒めを解かないことで、彼が事実を知ったことに気付いていた。 「ああ。覚えている」 暗黙ではあったが、約束とはクリフの知るヴァイスの情報を、彼に教えるというものだ。だがクリフは迷うこともなくそう言葉を続けた。アーバンはそれを聞き、ゆっくりと口を開く。 「その前に、幾つか尋ねたいことがあるのです」 「ああ」 何を尋ねてくるのかは大方予想はついていた。だがアーバンの口から出た言葉は、クリフにとっては意外なものだった。 「今の私で、ヴァイス=セルクロードに勝てるでしょうか?」 その質問に戸惑いを感じたものの、クリフは率直に言葉を返した。 「ヴァイス=セルクロードが、機国大戦時の能力を持っていたとしたら、まだ勝つことは難しいだろうな」 「そうですか」 アーバンは納得したようにそう言葉を返した。そしてしばらく迷っているような仕草を見せた後に、彼は次の質問を口にする。 「それでは、貴方が、ヴァイス=セルクロードだと呼ばれていたと言うのは、本当のことなのですか」 「ああ。本当だ」 その問にも、クリフは迷わずに答えた。その返答のすぐ後に、闘場の脇から騒がしい声が聞こえてきたが、それがアーシアのものであること以外はアーバンには解らなかった。それよりも、自分の身体から湧き起こってくる殺意を抑えることに、彼は必死だったのだ。 だが彼にはもう一つだけ聞かなければいけないことがあった。彼は胸を切り裂かれるような感覚を受けながらも、三度その重い口を開いた。 「これが、最後質問です。私の兄を殺したのは貴方なのですか」 三度目の問には、クリフも僅かな間だけ口を噤んだが、それでもゆっくりと、そしてしっかりとした口調で答えを返した。 「そうだ。カイラスは、俺が殺した」 返答を聞いた瞬間、アーバンの中で怒りが弾けた。 彼は大きく目を見開くと、絶叫をあげながら振り上げた拳を、クリフの顔にめがけて振り下ろした。 だがそれがクリフの顔に当たることはなかった。アーバンの拳はクリフの顔の真横の地面を穿っただけだった。アーバンは右腕を引き抜くとクリフの両肩を掴んで、呻いた。 「どうして……。どうしてなんですか」 アーバンがそう言葉を吐き出すのと同時に、クリフの顔にはぽつりぽつりと暖かい雫が落ちてきた。それはアーバンの涙だった彼女はそれを拭うこともせずに言葉を絞り出す。 「どうして、偽り続けてくれなかったんですか!」 苦悩に満ちたその言葉に、クリフは何も答えることが出来なかった。アーバンは続ける。 「貴方がヴァイス=セルクロードだということは解っていました。兄を殺したのが貴方だということも解っていた。でも、私に貴方が殺せるはずがないことくらい解っていたでしょう」 それは絶叫に近かった。 事実に気付き始めたのは、クリフを襲ったときに見せた、彼の涙の意味に気付いた頃だった。それでも、アーバンはクリフの側にいたかった。彼が偽り続けてくれるのなら、自分を偽れると思っていた。だが事実を知って、それを耐えることができるほど、アーバンの心は強くはなかった。 「偽り続けて欲しかった。私の気持ちを知っていたのなら、騙し続けて欲しかった。そうすれば何もかも我慢できたのに」 堰き止めていた想いを吐き出す彼女に、クリフは何も答えなかった。答えることができなかったのだ。 闘技場の中には、ただ、アーバンの慟哭だけが響いていた。
☆★☆ 「落ち着いた?」アーバンは保健室のベッドの上に座りながら俯いていた。声を掛けたのは保険医のジェシカだ。側で心配そうにしているアーシアの姿が見えたが、今はそれに気遣うだけの余裕は彼女にはなかった。彼女はジェシカの言葉に、ただ小さく頷いた。 「どうして、先生は兄を殺したんだ?」 不意に、彼女はそんな問をジェシカに投げかけた。だが、ジェシカはそれに答えようとはしなかった。 「それは、レーナがクリフに直接聞かないと駄目よ」 レーナ、それはアーバンの本当の名だ。ずっとジェシカはアーバンをその名で呼んでいた。アーバンはそれをひどく嫌がったが、彼女はそれを止めることはしなかった。 「辛いかも知れないけど、そうでなきゃ貴女も、クリフも前へは進めない」 「先生も?」 意外な言葉にアーバンは顔をあげる。するとジェシカは小さく頷いた。 「クリフはずっと十年前の騒乱を引きずってる。色んな道を辿って、色々な経験をしてきたみたいだけど、そこでどうしても立ち止まってるの」 ジェシカはアーバンの横に座ると、静かに彼女を抱きしめた。 「貴女の耳で、真実を確かめてきなさい。起こった事実だけじゃなく、ね」 そう言って、ジェシカはアーバンを解放した。見ると、彼女の瞳にもうっすらと涙が浮かんでいた。 アーバンはしばらくそれを眺めていたが、何か意を決したように立ち上がった。そして小さいが、はっきりした声でジェシカに言った。 「先生に会って、確かめてくる。他の誰でもない、先生の真実を」 そしてアーバンは彼女に小さく頭を下げ、こう続けた。 「それと、兄を愛してくれて、ありがとう」 と。その言葉を聞き、ジェシカは強く頷いた。 アーバンが保健室を去った後、ジェシカは壁に身体を預けていたアーシアに声を掛けた。 「元気出しなさい。貴女は無力なんかじゃないわ。貴女が必要となるのは今からなんだから」 そしてアーシアの横に立ち、彼女の頭に手を乗せて、言葉を続ける。 「あの娘を、レーナをよろしくね」 掛けられた言葉に、アーシアはゆっくりと頷いた。
☆★☆ クリフは自室の椅子の上に腰掛けていた。試合が終わった後、彼は真っ直ぐここに戻ってきていたのだ。彼にあったのは強い罪悪感と、自責の念だけだった。事実は今更になって打ち明けたのは、彼女にそのことを直接聞かれて、答えないでいられるほど自分が強くなかったからだ。クリフはそんな自分に対し、強い嫌悪感を覚える。 「クリフの悪いところね」 不意に掛けられたその言葉に、クリフが振り向くことはなかった。だが彼女はクリフの正面へと歩み寄ってくると、強い眼差しで彼を見つめた。 「事実だけを伝えれば、それでいいの? それじゃ何の解決にもならないわ。貴方の本心、真実を伝えなきゃ」 「だが言ったところで、それは言い訳にしかならないだろう」 「そうかもしれない。でもそうじゃないときだってあるわ」 返ってきた言葉に、クリフは言葉を詰まらせる。この説得が、クリフの心をなじる事なのは、ミーシアも知っている。だがこのままではいけないのだ。 「昔、私、貴方に言ったわよね。一緒に生きようって。クリフはそれに答えてくれたよね。あれは今は違うの?」 「そんなことはないっ!」 慌ててクリフはそう叫んだ。もちろん彼女がそれを理解していることは解っていたが、言葉に出さなければ全てが消えてしまいそうな、そんな不安にかられたのだ。だがミーシアはそれを聞くと、嬉しそうに小さく微笑んだ。 「私ね、今が好き。あの頃も好きだったけれど、私は今を生きたい。一緒に、生きようよ」 言い終えると、彼女は静かにクリフに身体を預けてきた。クリフはそれを受け止めると、彼女を強く抱きしめる。優しい温もりが伝わってきた。それと同時に、彼女の不安も伝わってくる。それを拭いたくて、クリフは僅かに彼女を引き離すと、彼女の唇を求めた。 長い沈黙の後、突然部屋の扉が叩く音が聞こえてきた。そして続けてアーバンの声。ミーシアは名残惜しそうにクリフから身体を離すと、扉を開いた。そしてアーバンの姿を確かめると、首に掛けていた魔導器を取り外し、アーバンに握らせた。 「これね、実はカイラスの形見なの」 驚いたように瞳を開くアーバンに、ミーシアは言葉を続ける。 「アーバンには返せなかったけど、レーナ、貴女になら返すことが出来るわ」 そう言ってにっこりと微笑むと、ミーシアはアーバンを部屋の中に招き入れ、クリフの前の椅子に彼女を座らせた。そして「がんばってね」とアーバンの耳元で小さく囁くと、そのままクリフの部屋を出ていった。 部屋に二人だけが残され、しばらくの間沈黙が続くが、しばらくしてクリフが静かに口を開いた。 「アーバン、今から君に十年前に起こった事、全てを話す」 「はい」 クリフの言葉に、アーバンは小さく頷く。それを確かめてクリフは言葉を続けた。 「だがそれは俺の真実だ。君の真実は、君自身の考えで作り出してくれ」 それにもアーバンは強く頷いた。クリフはそれに頷くと、静かにゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。十年前に起こった、ジェチナという街の出来事。その街が変革を迎えた時の出来事を。
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