魔 導 学 院 物 語
〜氷と呼ばれた暗殺者〜

第七章 師が与えてくれたもの


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 赤い飛沫が宙を舞う。

 それはひどく遅々とした光景だった。

 アーバンはそれが何であるかを確かめるよりも先に、素早く身を引く。同時に左肩に強い痛みが走るが、それを気にしている時間はなかった。金髪の青年は、敵から間合いをとったところで、現状を確かめる。

 痛みは目の前の青年が持つ片刃の剣によって斬り裂かれたためだ。飛沫はアーバン自身の血である。

 傷はそれほど深いものではない。痛みはするが耐えられないものではなく、戦いには支障がないだろう。問題といえるものがあるならば、それはもっと違うところにあった。

(何故、攻撃が避けれらなかった)

 アーバンは呼吸を整えながら自分が相対している敵を見据える。

 ネルス=パッカード、確かそんな名前だったとアーバンは記憶している。黒い瞳と髪、そして褐色の肌は、彼ら魔族と呼ばれる種族の特徴だ。

 その彼の手には、見慣れない片刃の剣が握られていた。湾曲し、刃に波のような紋様を持つその剣は、アーバンの記憶が正しければ太刀と呼ばれる代物だ。魔物狩人と呼ばれる連中の中に、この武器を好む者が多いという話は、師ガルシアから聞いたことがあった。

 それはともかく、第一級魔導師であるゾーン=ウィンディアの教え子だということで、彼の能力がそれなりであるのは解る。だが、実力の差を考えれば、本来歯牙にもかけないような相手である。

 実際、ネルスは確実にアーバンよりも格下の相手だ。だが、それには普段のアーバンに対してという条件がつく。

 ガルシア教室の元生徒の中でも、彼の戦闘能力は高いものだというのは周知のことだ。人を殺すために作られた暗殺人形。それが彼の能力だ。それは感情を無くした彼にとっては、これ以上とない有力な技能だった。

 しかし彼は動揺していた。それが致命的だったのだ。そして、彼の心を揺さぶっていたのは、目の前にいる青年ではなく、闘技場の壁際で自分を見ている男だった。

(クリフォード=エーヴンリュムス)

 忌々しいものを吐き出すように、アーバンは心中でその名を呟く。ネルスから傷を受けた今でも、浮かんでくるのは前日の彼の言葉と、彼の見せた涙だった。それらがアーバンの心を揺さぶっていたのだが、動揺というものをしたことがないがために、彼はそれに気付くことはできなかったのである。

 彼は自分の不調の原因を把握していなかったのである。そして理解できない動揺は、悪循環を招き、更に彼の精神を蝕んでいた。

「いったい、何のつもりだ?」

 そんな彼に、不満の声をあげたのはネルスだった。

 彼は現状に憤りを覚えていた。冷酷な刃クールエッジアーバン=エーフィスとの試合は、彼の師であるゾーンが申請したものだ。そうでなければネルス自身が彼と戦おうなどとは思わなかっただろう。

 事実、ガルシア教室元生徒の存在は、本格的に運用されてまだ間もない魔導学院においては、半ば神格化されていた。そしてネルスとて彼らの圧倒的な技能は目にしているのだ。それでも戦う気になったのは、彼が新たな力の領域に踏み出そうとしていたためだ。彼にとって、この戦いはそのために必要なものを手に入れるための戦いだった。

 しかし、現に優勢な立場にあるのはネルスだった。それが彼にはどうしても理解できなかったのである。

「貴様の力はこんなものではないだろう!」

 ネルスはそう怒鳴り声をあげた。アーバン同様、滅多に表情を変えない彼にとっては、ひどく珍しいものだ。しかし生粋の戦士である彼にとっては、今のアーバンの状況は一つの悪い冗談でしかなかった。

 それもそのはずだ。アーバンの動きは見て取れて悪いものだったし、何より彼の技能は、気配を生じさせないことを前提に展開される。感情がないことが彼の強さに繋がるのはそのためである。彼には殺気すら存在しなかったのだ。

 だが今の彼からは紛れもなく強い感情が見て取れる。その時点で、彼の戦闘力は極端に低下する。何度か攻撃を仕掛けられているのにも関わらず、ネルスが未だ致命的な一撃を受けていないのはそのためだ。

「それとも、俺は真面目に戦う程の相手でもないと言うことか? ふざけるなっ!」

 そして、ネルスはその状況を異なる意味でとってしまったのだろう。彼の殺気は途端に膨れ上がる。だが、そんな期をアーバンが見過ごすはずはなかった。

 アーバンはその肢体を霞のようにぶれさせると、一気に加速する。そして一瞬でネルスの死角に入り、闘気を込めた二指で彼を切り裂こうとする。

 普段のアーバンならばそんな状態のネルスは格好の標的になっただろう。しかし、今からは明らかに意志が感じ取られた。魔導の媒体となる精気は、人の想いを伝えやすいと言われている。その効果かどうかは解らないが、ネルスはアーバンの動きに寸でのところで反応し、その一撃を紙一重で避けたのだ。

 再び赤い飛沫が飛び散る。アーバンの指がネルスの頬をかすめた証拠だ。だがその一撃は、ネルスの感覚をひどく研ぎ澄まされたものに変えた。彼は意識を収束させると、その左腕に大気を絡ませる。そしてネルスはその左手を突き出し、声を放った。

「ティアウィンド」

 刹那、ネルスの腕に絡まった大気は流動し始め、一気にアーバンに向かって迸る。それは地面を爪痕のような軌跡を残しながら、アーバンの足を切り裂いた。

 避けたはずだった。だがアーバンの反応が僅かに遅れたのだ。それが致命的となった。

 ネルスはアーバンの動きが止まったのを確かめると、剣を構え、両足に力を込める。そして高速の瞬発を以て駆け出すと、闘気を込めた剣を躊躇うことなく剣を振り下ろした。

 ガキィィィン――

 金属音が周囲に響く。高速で斬りこんだネルスの剣を、横から飛び出してきた影が長い棒状の道具で受け止めたのだ。見るとそれはアーバンの担当教師であるクリフだった。

「君の勝ちだ。ネルス=パッカード」

 クリフはネルスの剣を銀色の杖で受け止めながら、小さくそう言い放った。ネルスは目の前にいるその男を睨む。

「邪魔をしないで下さい。エーヴンリュムス教師。彼ならば今の攻撃は避けられたはずだ」

 まだ戦いは終わっていない。そう言うかのように、彼はクリフを見据える。だがクリフはその視線を真っ向から受け止めると、落ち着いた口調で返した。

「普段の彼ならばそれも可能だろうが、今は無理だな。君が苛立つ理由も解らなくはないけどな、現時点で事を進めても君が得られるものは多くはないだろう」

 言い終わると、クリフは杖を前に押しだし、ネルスの剣を弾く。そしてそのまま彼を見据えて言葉を続けた。

「どうしても続けたいと言うのなら、力ずくでも止めさせてもらう」

「それが貴方にできると?」

「少なくとも冷静さを欠いている今の君に負ける気はない」

 その会話の後、ネルスは剣に力を込める。この戦いの拘りもあったが、それ以上に目の前の戦士と戦うことに、僅かではあるが興味を持ったからである。

「やめておけネルス」

 しかし、それは一人の男によって制止される。それはネルスの師であるゾーン=ウィンディアの声だった。

「先生?」

 ネルスには師の言葉が信じられなかった。彼の知るゾーンは、戦いを理由もなく制する人間ではない。そんなネルスの疑問に答えを出すかのように、彼は話を続けた。

「戦いを宣言したと同時に、周りに仕掛けられた数十枚の符がお前を襲う。瞬殺というやつだ」

「殺さない殺さない」

 クリフのそんな訂正の言葉をゾーンは無視する。

「とにかく、戦いを仕掛けたところで貴様の利にはならない。それなりに意義のある戦いが出来るのならばともかく、ただの無駄死にに終わるだけだ」

「いや、だから殺さないって」

 その言葉もついでに無視し、ゾーンは冷たい視線をアーバンに向ける。

「それに、こんな無駄な戦いを続けることもあるまい。まだうちの連中を相手にしていた方が経験にはなる。次は、もう少しまともな戦いを見せて欲しいものだな」

 言い終えると、ゾーンはネルスを率いて闘技場を去っていった。そして残されたクリフとアーバンの間には沈黙が生じる。

「自分が負けた理由が理解できるか?」

 僅かに続いた沈黙を、先に破ったのはクリフだった。アーバンは静かに「いえ」と言葉を返した。実際、彼は戦いが終わった今も、自分の敗因を理解することができなかった。というよりも、自分の心が乱れていたことを、彼は自覚できていないのだ。

 そんな彼にクリフは小さく言った。

「それを自分で考えてみろ。俺にそれを教えられても、お前は素直に受け止めないだろうし、考えることを止めた者に成長はない」

「はい」

 何故、そう言葉を返すことが出来たのか、その時のアーバンには理解できなかった。しかしこの日を境に彼の中で何かが変わったのは、誰よりもアーバン本人が感じていたことだった。



(きっと、あの時から惹かれていたのだろうな)

 アーバンは熱い湯を全身に浴びながら、そんな事を考えていた。

 彼は修練場で流した汗を落とすために学院の大浴場に足を運んでいた。とはいっても、ヒノクスの相手をしてから結構な時間が過ぎ、汗は乾いていたが、彼がこの浴場を使えるのは夜が更けてからだ。それも仕方がないことといえた。

 性別を隠している彼女にとって、汗を流すことが出来る場所というのはそうそうあるものではない。修練場や闘技場に備え付けのシャワー室はあるが、万が一と言うこともある。そのために、アーバンは彼女の秘密を知る人間の力を借りることで、入浴を済ませることにしていた。

 大浴場も、管理を任されているのが第二保健室の主ジェシカ=コーレンだからこそ使用できるのだ。彼女は、アーバンの古い顔なじみだった。

 それはともかく、アーバンは鏡の前に立ち、先程まで考えていたことを思い返す。

「学院を出ることを、私自身はおそらく望んでいない。だが、ここにいることは出来ない」

 まるで自分を納得させるように、彼女はその言葉を口にした。実際、アーシアにその事を打ち明けた今も、彼女はひどく迷っているのだ。

 しかし彼女はそれを抑えるしかなかった。もし彼女が女であることを知られれば、クリフに非難が押し寄せることは明白だ。知らなかったと言えば、クリフの生徒の管理能力を追求されるだろうし、知っていたと公言すれば、それを隠蔽していた理由を追及されるだろう。どちらにせよ、クリフを快く思わない連中が動く格好の材料となってしまう。

 かといって、生徒でいる期間だけならばともかく、教師となってこの学院で過ごすとなると、それを隠し続ける自信は彼女にはなかった。

 アーバンは鏡に映った自分を見る。僅かではあるが乳房や臀部が膨らみはじめ、腰なども次第にくびれが生じ始めている。その変化に気付いたのは、二ヶ月ほど前に初潮を迎えた時だ。以降、彼女の身体は明らかに女としての成長を続けていた。ヒノクスとの修練の時にわざわざ服を着込んでいるのも、身体の線を隠すためだ。

 しかし、そんな小細工がいつまでも通じるはずもない。鈍いヒノクスはともかく、何かのきっかけでそれが気付かれるとも限られないのだ。

 そして問題はそれだけではない。その問題だけならば、学院側の工作で、何とかなる問題だろう。だがもう一つ、彼女には抑えきれない想いがあったのだ。

(復讐に駆られた自分を、先生に見られたくはない)

 彼女の大元の目的は、父親と兄の仇である男を殺すことだ。ヴァイス=セルクロード、それがその男の名である。

 だがアーバンは仇をとれなくてもいいと思っていた。それよりも彼女は今あるこの空間に身をおいていたかった。しかし、ヴァイス当人を目の前にしたとき、彼女は自分の感情を抑える自信がなかったのである。

 そして最後に彼女は貪欲な自分を知っていた。

 今まではクリフに対する想いは敬意だと思っていたのだ。そう納得させることが出来ていたと表現した方が正しいかも知れない。身体的にも女としての自覚はなかったし、何よりも周囲の目というものが、彼を男として維持していてくれていた。

 だがそれが崩れたとき、彼女は自身のクリフに対する想いを、敬意で留めておくことは出来ないだろうと考えていたのである。現に、彼女には今もクリフに抱かれたいという欲求がある。彼をもっと近くに感じていたいという想いがあるのだ。

 しかしそれが叶わないことも、彼女は知っている。

(先生は、ミーシアを愛している)

 いや、愛するという表現は正しくないように思えた。あの二人は、二人で一つなのだ。お互いに失うことの出来ない半身。そう表現するのが相応しいだろう。

 そして皮肉なことに、アーバンが求めているのは、『ミーシアによって保たれている状態のクリフ』なのだ。それはどう足掻いても手に入れることはできない。

 結局、学院を出ることを望んでいるのは、彼女自身なのだ。

「今が続くわけがないことくらい解っていたはずなのにな」

 アーバンは鏡に映る自分に、嘲るようにそう吐き捨てた。そして彼女はゆっくりと湯船に身を沈める。

 考える力、もしそれをクリフから学ばなければ、どれだけ楽だっただろうと思う。人形で居続けることが出来れば、これほど苦しまなかったに違いない。

 それでも、彼は考えることを止めようとはしなかった。それだけが彼がクリフが教えてくれたことなのであり、現状という喜びを与えてくれたものなのだから。

 温もりを与え続けてくれる湯の中で、彼女は学院を出ることを決意した。

☆★☆

 場所は、学院の置かれる赤珠国王都アネスティーンの宿に移る。学院からそれほど離れた場所にあるわけではないその宿で、ラーシェルは一人の男と会っていた。

「それで、この人に間違いはないのか?」

 ラーシェルは一枚の写真を見せながら、男にそう尋ねる。男はそれをしばらく眺めた後に、こくりと頷いた。

「ああ。間違いないよ。ジェチナの街に魔物狩人組合ハンターズギルドが設立した時に一度だけ見ただけなんだけど、ジェチナでは有名な人だったし、忘れるわけないよ。この人がヴァイス=セルクロードだ」

 その男はジェチナ魔物狩人組合ハンターズギルドに所属する男だった。以前、ラーシェルが事務の仕事でジェチナに訪問したときに知り合った友人である。

 ラーシェルは彼の返答ににやりと嬉しそうな笑みを浮かべた。ようやく、彼は氷の閃光アイシィライトニングの正体に辿り着いていたのだ。

 彼にあったのは、一つの謎を解いたという達成感と、アーシアにそれを報告することができるという満足感だった。そして彼はその事実が大きな事件をもたらす事を知らなかったのである。

 ラーシェルの持つ写真には、魔導学院のとある教師の姿が写されていた。

 彼の名はクリフォード=エーヴンリュムスといった。



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