元々さほど綺麗とはいえない家ではあったようだが、こうなると病人であるチェリアの母親を置いておくことは出来ないとクリフは考えていた。彼女は幸い――と言っていいのかどうかは判らないが――今はまだ気絶はしているが･･･。

　クリフとミーシアは、騒乱双児が戒めから解放されてからしばらくして、チェリアの家に到着していた。距離を考えれば、早いほうだっただろう。

　というのも、クリフが突然嫌な予感を覚え、走ってこの場所に駆けつけたためだ。クリフの悪い予感は良く当たる。

「それで、何か手がかりはないのか？フォボスという、ブロンドの髪の魔術士がいたってだけじゃどうしようもない。」

　事の内容を聞き、クリフは後悔していた。三人だけでチェリアの家に行かせたことに対してだ。それは完全なクリフの判断ミスだった。

（だが･･･、二人揃っているときのこいつらの能力は並じゃないぞ。それを簡単にあしらうって事は･･･。）

　間違いなく高位の魔術士であることを認めざるを得ない。あまりにも厄介な状況に、クリフは舌打ちをする。

「そう言えば、あいつ、プラネットを持ってた。それに確かローグとか、鍵って･･･。」

「！！」

　クリフは思わずミーシアと顔を合わせた。

「ローグ＝イレイド、前々からティルスが警戒していた男か･･･。」

「私も元学院長から聞いたことがあります。能力は確かだけれども、危険な匂がする男だって。」

「だが、鍵だと？どういう意味だ？チェリアが･･･鍵！！」

　そう呟く中、何かを思いついたように、クリフは眼を見開いた。

「そうか、だからか。いくら創師の娘だからって、魔導術式を感じれるなんておかしいと思っていたんだ！くそっ、何故気付かなかったんだ！！」

　忌々しげにクリフは壁を叩いた。一人で納得し、荒れているクリフを、騒乱双児は唖然とした様子で見ていた。

「どういうことです先生？」

　戸惑いの表情でテューズは師に尋ねる。だが、

「聖王の刻印の鍵というです。」

　テューズの問に答えたのはクリフではなかった。いつの間に目を覚ましていたのか、チェリアの母親が青白い顔で一同の方を見ていた。

「おばさん、大丈夫なのか？」

「ええ。何とか。」

　と言ってはいるが、とても大丈夫そうには見えない。元々身体が丈夫なわけでもないためだろう。チェリアがさらわれた事もあるかもしれない。とにかく彼女の疲労は極みにきていた。だが彼女は話を続けた。

「イレイドはチェリアを使って聖王の刻印を解放させようとしているんです。」

　意味の解らない台詞だ。少なくともテューズとヒノクスにとっては。

「奴は気付いていたんだな。グレイムという創師の娘に鍵の資格が受け継がれていることに。」

「ええ。前々から、彼は娘に目を付けていましたから･･･。」

「ちょっと待てよっ！！先生も、おばさんも、何を言っているんだよっ！！訳がわかんねぇよっ！！」

　自分たちの理解を待たないまま話を進めていく二人に、ヒノクスは怒鳴った。だがクリフはそれに動じた様子もなく、彼に答える。

「話している暇はない。ミーシア、行くぞ。」

「はい。」

　二人の話を理解していたのか、彼女はクリフに相づちをうつ。二人とも今までに見たことにない雰囲気だ。だが騒乱双児はそれでは納得いかない。

「行くって何処に！！先生、チェリアが何処に連れて行かれたのか知っているんですか？」

　普段とは様子が違うクリフに向かって、テューズもまた叫んだ。それは自分たちを無視されたためだけではない。

　普段とは違う雰囲気のためか、目の前の人間が、本当にクリフなのか、それがひどく不安になったためだ。

「ああ。俺はミーシアと彼女を取り戻しに行く。関わった以上人ごとではないからな。お前らはカウント婦人を医者に連れて行け。かなり衰弱している。」

　見ると、確かにチェリアの母親は立っているのもやっとの様子だった。卒倒しそうな心を抑え、気力だけが彼女を支えているのだ。

　その姿を見て、ヒノクスとテューズは、顔を見合わせた。

　多分、クリフの指示が一番最良の方法なのだろう。クリフもミーシアもああ見えても高位の魔導師なのだ。

　機国大戦を戦い抜けた熟練の戦士と特級魔導師ガルシア＝バーグの教えを受けた生徒、実力においても、熟練においても自分達が叶う要素は無い。

　だが･･･。

「俺達を連れていって下さい。」

「何処に行こうとしているのか解りませんけど、聖都での土地勘なら、先生達よりも私たちの方が優れていると思います。」

　彼らはそう叫んだ。フォボスという魔術士に手も足も出なかった悔しさ、チェリアがさらわれていくのを見ているしかなかった不甲斐なさ。それらが彼らにその言葉を言わせたのだ。

　だが二人の提案にクリフはさほど驚いた様子を見せなかった。多分予想はしていたのだろう。クリフは静かな口調で、それでありながら重い、威圧が籠もった声で二人に尋ねた。

「かなわないは解っているのにか？今度は殺されるかもしれんぞ？」

　だが二人は迷うことなく頷いた。

「怖くないってわけじゃありません。けど、助けたいんです、チェリアを。」

「それにかなわないかどうかはやってみなくちゃ判らないぜ。」

（精一杯の強がりか･･･。だが、覚悟は出来ているということだな･･･。）

　クリフはゆっくりと目を閉じると、一際大きいため息をついて言った。

「予定変更だ。テューズとヒノクスは俺とエッテムの塔にチェリア救出に向かう。ミーシアはカウント婦人を頼む。」

　クリフの言葉に、ミーシアが一瞬顔を曇らせるのが見えたが、彼女はすぐに表情を戻し、ゆっくりと頷く。

「じゃあ、お前ら、エッテムの塔まで案内してくれ。大体の場所から考えても、上手くすれば奴等より速くに目的地に着ける。」

「え？あ、はい。」

　先に目的地に着けるというクリフの理論は、解らなかったが、テューズは取りあえず相づちをうっておいた。そしてクリフ達はそのままチェリアの家を走りながら出ていった。

　クリフ達が家を出た後、チェリアの母親は残ったミーシアに、不思議そうに尋ねた。

「どうして、私たちを助けてくれるんです？」

　チェリアの母親の言葉は当然の物なのであるが、ミーシアにとっては意外だったのか、彼女はきょとんとした表情を見せた。

　だがくすりと微笑すると、ミーシアはひどく優しい表情でチェリアの母親に言った。

「幾つか理由があると思いますけど、大きいのは、傷つく母親を見たくないっていう事だと思います。先生も母子家庭だったらしくて、病弱だった御母様が凄く不憫だったって言ってましたから。」

　それは昔ミーシアがクリフから聞いた話だった。その話をしたときのクリフの表情が、ひどく寂しそうだったのを、ミーシアは覚えている。

「それに、あの二人に後悔させたくないんだと思います。」

「後悔、ですか？」

「ええ。先生、機国大戦で大切な人を亡くしているんです。だから、護れなかったという後悔を、あの二人には味わえさせたくないんですよ。」

　話し終えた後に、ミーシアはチェリアの母親に肩をかす。そして自信に満ちた瞳で、はっきりと彼女に向かって言った。

「きっと先生達はチェリアを取り戻してきます。だから、貴女も頑張らないと。」

「はい。そうですね。」

　それを聞いた後に、ミーシアはもう一度優しい笑みを浮かべた。そして彼女らは自分の使命を果たすために、歩き始めた。

「つまりだ。奴等がローグの手下である以上、ローグに鍵を手に入れたという報告をせにゃならんということだ。」

　隣で息を切らしている双子の姉弟に、クリフは余裕そうな表情で走りながら、先程の会話の説明をしていた。

　既にクリフの雰囲気は、二人の知る、運だけの男のものに戻っていた。そのために二人は安心に近い心境で、クリフの話を聞いていた。

　彼の言い分はこうだった。

「鍵がチェリアであることを知らなかった以上、ローグはまだ屋敷にいるはずだ。そして塔がある場所は聖都の外にある森の中、奴の屋敷は聖法街だ。つまり、正反対って事だよ。」

　つまり距離がかなり離れていることになるのである。それならば、クリフ達が先に塔に着く可能性も、少なからず出てくるはずである。

　もちろん荷物であるチェリアは、先に塔に運んでいるだろうが･･･。

「奴等は目的を果たすまではチェリアを殺さない。折角見つけた鍵だからな。ローグの到着を待って、さらに多分儀式にも結構時間がかかるはずだ。だが目的を果たせば、秘密を知っているチェリアの命は、危ないだろうな。」

「全然意味解らねぇよ。」

　一人説明を続けるクリフに、愚痴るような声で、ヒノクスがそう言った。無理もない。チェリアの家を出てから、ほどんど全力疾走に近い速さで走り続けている。

　それ自体も腹が立つのだが、それよりも全く息を切らしていないクリフには、物凄く納得いかないものを、二人は感じていた。

　さらに加えて意味の解らない話だ。元々短気であるヒノクスが愚痴るのは無理もないだろう。

（さて、どう説明したらいいものか･･･。）

　クリフは走っている最中であるにも関わらず、そんな事を考えていた。考えてみれば、騒乱双児の知識がどれほどの物なのか、クリフは全く認知していない。

　理由は至って簡単である。基本的に学院で二人の面倒を見ているのが自分ではないからだ。テューズはサフィアに、ヒノクスはアーバンにほとんどの事を任せている。

　もちろん大まかな事は指示はしているが、それ以外のことは特に関与はしていない。クリフが運だけの男と侮蔑される理由の中の一つに、それも含まれるのだろうが、クリフにしてみれば、それ自体はそれほど大したことでもない。（さすがに給金が無くなったのはかなり厳しいが･･･）

　それよりも彼にとっては、二人にどの程度の事まで話せば良いのかということが重要だった。大きすぎる力と知識は、時に人を暴走させる。事実、あまりにも卓越した能力故に、無能と言われた自分を嘲り、学院を出た天才を彼は知っている。

（だが･･･、教えなければいけない時期なのかもしれないな。）

　不意にクリフはそう思った。彼らは完膚無きまでにフォボスという男に敗北した。にも関わらず、こうして着いてきているのだ。変わり始めているのかもしれない。色々な意味でだ。

（それならば、見守ってやるか･･･。お前達がどう変わるのか。）

　それが吉と出るか、凶と出るのかは、クリフにも判らなかった。だが今ならば、手遅れになる前に止めてやることが出来る。いや、止めてみせる。彼はそんなことを思いながら、横を走る二人の生徒達に話し始めた･･･。

　が、背徳を犯さんという自分の罪を表すように、彼はあえてこの馬車で屋敷を出たのだ。

「ローグ様･･･、もうじき塔に着きます。」

　白いローブを纏った若い男がそう報告したのは、既に塔が見え始めた頃だった。彼は自分の野望が始まるであろう、その塔を見ながら、自分に事の報告をした男の事を思い出していた。

　時は、数刻前に戻る。

　ローグは屋敷の書斎にいた。基本的に彼は屋敷にいる間は、この部屋で時間を過ごす。そこは唯一彼の屋敷で黒で覆われた部屋である。彼が野心を抱き始めた頃に作り上げた部屋･･･、思えばこの部屋の漆黒の色が、その野心を包み隠してきたのかもしれない。

「鍵が手に入ったようですよ、ローグ。今、馬車の用意をさせています。」

　彼にそれを伝えたのは、漆黒の地に赤い文様の入ったローブに身を纏ったアレスだった。アレスもチェリアがさらわれた場にいたのだ。そしてこうして鍵が手に入ったことをローグに伝えに来たのだった。

「すまないな。それで、君の方の目的の者には会えたのかね？」

　鍵が手に入った事に、実際大きな喜びを感じていたローグであったが、いやに嬉しそうにしているアレスがひどく気になり、彼はそう尋ねた。

「ええ。まだ若いながら優れた能力の持ち主でしたよ。ですが、貴方の飼い犬に挑むには未熟過ぎではありましたが･･･。」

「フォボスと戦ったのかね？」

　ローグは意外そうにそう尋ねた。彼と戦う理由が見付からなかったからだ。

「ええ。まぁ、戦ったというにはあまりに実力の差がありましたが･･･。鍵の娘の家にいたのですよ。それで探しに出た連中を薙ぎ倒し、仕方がなくフォボスが出たという感じですね。」

「死んだのかね？」

　半ば確信した様子で尋ねる。フォボスは間違いなく強い。おそらくローグ自身よりも。そして同様に非情さを持った男でもある。人殺しを好むというわけではないようだが、人を殺すことを、フォボスは躊躇わない。

　フォボスを配下においたのは半年ほど前のことだ。ローグが他国に出かけた際、野党に襲われたのを救ってくれたのが彼だった。彼は野党共に、躊躇わずに強力な炎の魔術を放った。場には黒こげになった野党だけが残り、そしてローグはその強さに感嘆し、彼を引き抜いたのだ。

　だからこそその子供達が死んだということを確信していたのだが、彼の予想は見事に外れていた。

「いえ。私がさせませんでした。」

「君が？」

　怪訝そうな表情でローグは尋ねた。フォボスがローグ意外の人間の命令を聞くことはない。わずか半年前に拾った男を、自分の腹心においているのは、そのためだ。

「私が力を貸す条件を、覚えていますか？」

「決して、君の楽しみの邪魔をしない、だったな。」

　三ヶ月前、彼を仲間に引き入れたときの条件がそれだった。その答えを聞き、アレスは満足そうに話を続ける。

「あの二人、殺すには惜しいと思いましてね。彼に言っておいたんですよ。もしその兄弟を殺せば、鍵の娘を殺す。と、それでは貴方に都合が悪いでしょう？」

　ぞっとするような冷笑を浮かべ、アレスは何の躊躇いもなくそう言い放った。

「貴方の命を条件に出した方が効果的ではあったのでしょうが、さすがにそれを口にすると彼の理性を留めておく自信が無かったので･･･。」

　本来なら本人を目の前にして言う言葉ではない。が、彼ならばそう言うだろう。ローグはそれを理解していた。恐らく彼こそが、最も自分の理想に近い人間だからだ。

　もし自分に彼ほどの力と、知識と、そして自信があれば、ローグも同じ様な場で、同じ台詞を吐いただろう。

　種としては、最も扱いにくい人間の一つだ。だが理解できるからこそ、ローグはまだ彼にとって自分が興味の対象内の人間だということも理解していた。

「無難な選択肢だな。君ならば私を殺すことくらいは造作もないことだろうが、まだ私は君にとって楽しみがいのある玩具なのだろう？」

　ローグは幾分か余裕のある様子でそう尋ねた。

　玩具･･･、アレスが自分をその程度にしか見ていないことも、彼は理解していた。というよりも彼にとっては全てが自分の玩具でしかないのだろう。

「人聞きの悪い･･･。まぁ、興味があるのは確かですよ。ですが貴方の野望を考えてみれば、それも当然でしょう？」

（野望か･･･）

　ローグはその言葉に、苦笑した。確かにそうとしか言いようがないだろう。何せ彼がやろうとしていることは聖都の陥落である。

　過去に一度しか落とされた事のない聖都の陥落、それをローグは成そうとしていたのである。

　それは夢物語だった。少なくとも彼が刻印の話を知るまでは･･･。だが彼は手に入れたのだ。フォボスという強力な魔術士と、アレスという莫大な知識を持つ古代魔導師。そして彼は最後の駒である刻印を手に入れようとしている。

「困難ではあるが、無理なことではない。事実、聖王の刻印を持った男が過去に聖都を落としているのだ。レヴァ神の加護を受けているといっても、迷信で国は護れんよ。」

「ですが侮れない男がいるのでしょう？」

「ランフォードの事かね？確かにな。だが仕留められなかった訳ではない。機が熟するまで待っていたのだ。」

（そう、機は熟したのだ。刻印さえ手に入れれば、法皇の目など気にする必要はない。すぐにでも奴を消させてもらう。）

　長い間、彼にとってティルス＝ランフォードはひどく邪魔な存在だった。鼻が利くというのだろうか。ローグの陰謀に気付いているらしく、間接的にだがそれを抑えようとしていた。

　ローグが私兵を動かせなかったのはそのためである。準備が整っていない以上、彼は陰謀の証拠を残すわけにはいかなかったのである。だが逆に言えば、証拠さえなければ、ティルスは動けなかったのである。

（法皇の犬がっ！）

　侮蔑を含んだ言葉を、ローグは心の中で叫んだ。そして彼はアレスに向かって言った。

「だがもう気兼ねをする必要はないな。アレス、アサシンの準備を頼む。ランフォードを消す。」

「まだ時期が早いのでは？」

　不思議そうにアレスはローグに尋ねた。ここまで慎重に事を進めてきたローグが、刻印を手に入れる前に強攻策に出たのが、意外だったのだろう。だがローグは自信を持ちながら言葉を返した。

「かまわんよ。今ランフォードが殺されても、法皇が私に警戒を抱くまでに聖都は私の物になっている。」

　それを聞くと、アレスは妖艶な微笑を浮かべ、こくりと頷いた。そして彼は部屋を出る前にこう言い残した。

「では貴方が刻印を手に入れるのを楽しみにしていますよ。一、友人としてね。」

　そう言うと、すぐにアレスはその場を去った。

「友人だと、心にもないことを･･･。」

　ローグは彼が去った後にそう呟いた。だがその表情には残酷な笑みが浮かんでいる。

　そしてその後しばらくして、ローグも屋敷を出た。全ては聖王の刻印と呼ばれる力に導かれるままに･･･。