魔導学院物語

−魔導師クリフの試合−
第三章 浮かび上がる疑惑




 大音量の歓声が闘技場の中に響いていた。聖珠闘場・・・、魔導学院の闘技場の中では最小の物である。それでも最大収容人数は二千五百人、魔導学院の総生徒数が二千人弱であることを考えると、十分な代物である。そして、その闘技場は信じられないほどの熱気に包まれていた。

 今回の収容人数は二千四百人前後であった。その中には学院の教師や、事務部などの学院生徒以外の野次馬の姿も見ることができた。計算上は学院関係者の九割九分はこの会場につめ寄せていることになる。それほど運だけの男クリフォード=エーヴンリュムスと灼熱の魔女アーシア=サハリンの試合は話題を呼んでいたのだ。

(やっと念願が叶うのね・・・。)

 アーシアは楕円形の闘技場の中央で、周囲の人々さえも圧倒するような闘気を放っていた。目の前にはあの男、クリフォード=エーヴンリュムスがいる。ようやく掴んだ試合のチャンスである。彼女が入れ込むのも当然なのだろう。

 もちろん一昨日のアーバンの言葉も気になりはしたが、クリフの今までの試合の内容を考えれば自分に負ける要素など無いに等しい。十分に勝つ自信はあった。

(ラーシェルのお陰で人も集まったし、大衆の中で思い切り恥をかかしてやるんだから。)

 アーシアは周りの観客を眺めながら、同じバーグ教室出身であるラーシェル=ホフマンに感謝していた。

 申請受理から試合実行に移されるまでわずか3日、その間に学院中にこの試合の事が触れ回ったのはラーシェルの掌握するネットワークによるところが大きかったからだ。

 普段なら迷惑することの多い彼のネットワークであったが、今回に限り彼女の利益になるような方向に使用されたのである。

 そうして集まったこの観衆達はアーシアの気合いをさらに上昇させていた。

 だが、相手であるクリフの様子はいつもとは違っていた。今までに見たクリフの試合ではクリフは全くやる気がないようだったのを覚えている。それでもクリフは試合には勝利していた。が、それはどれも本当に運がクリフに味方しただけというような勝ち方だ。

 しかし今日のクリフは酷く真面目な顔をしていた。今ならば彼が第一級魔導師であるというのも頷けるかも知れない。

(どれほどのものかは知らないけど、一応第一級魔導師を相手にするわけだから、様子見位はしないとね。)

 いつもとの雰囲気の違いに気づいたアーシアは、僅かではあるが警戒の色を見せた。そしてそんな緊張の中、試合は始まった。


 試合の審判を行うのは特級魔導師であるクレノフ=エンディーノ副学院長であった。普通の試合ならば彼が出てくることなど無いのだが、第一級魔導師と、魔導学院生徒のトップの一人の戦いともなると、並の魔導師ではつとまらないという事で彼が選ばれたのだ。そして当の本人は真剣な表情で目の前で行われている試合を見ていた。

 しかし、彼でなくてもこの試合の審判はつとまっただろう。なぜなら、この試合は一瞬にして終結を迎えたからだ。

 アーシアは雰囲気の違うクリフに、違和感を抱き彼の動きを警戒していた。当のクリフは右手に奇妙な形の杖を持っている。おそらくは高度な術式が込められた魔導器なのだろう。

(成る程ね。技量で叶わない分は魔導器で補おうって言うのね。)

 魔導器は魔術を発動させる鍵に等しい物である。並の魔導師であれば魔導器無しには魔術を完成させることすらできない。つまり魔導器の有無、優劣も魔導師の一つのレベルなのである。

 もちろんアーシアも魔導器を身につけている。アーバンとの乱闘の時に付けていた手袋のような物がそれだ。実際には手袋についている玉のような物が魔導器となっている。この玉の中には術式という魔術の公式が組み込まれており、精気を媒体にこれを発動させることによって魔術を発動させることができるのだ。

 つまり高度な術式が込められた魔導器を持つ方が有利だと言うことができる。もちろんそれを使いこなせるだけの魔導技能を持っていればの話になるが・・・。

 とにかくそういった意味では傍目からはクリフの方が圧倒的有利に映っていた。アーシアが持つ魔導器プラネットは学院で配給される物だ。もちろんそれは教師にも配給される。術者との相性という物もあるだろうが、普通この魔導器以下の性能しか持たない物であればクリフもこのプラネットを使っているはずである。

 何よりアーシアを警戒させたのはその魔導器の存在であったのだ。

(さてと、どんな術式が込められてるのかしら?)

 既に試合が始まり3分ほどの時間が流れている。周囲の観客もその場の雰囲気に飲まれ、沈黙していた。闘技場の中では平静にアーシアの動きを見ているクリフと、ある種の緊張のため脂汗を流しているアーシアの姿があった。

 相手の魔導器の能力が分からない以上、先に動くのは得策ではない。相手よりも確実に先手をとれる技能が彼女にあれば話は別であるが、彼女にはそれがなかった。それはクリフも同じであろうとアーシアは思っている。幸いこういった我慢比べならば、ガルシア=バーグに制御の術を学んだ彼女には自信があった。魔導の制御はすなわち精神の制御であるためだ。

 そして彼女の思惑通り先に動く様子を表したのはクリフであった。彼はそれまでとは違い、大きく息を吸い込む。それをアーシアは見逃さなかった。

(詠唱系の魔術?それとも即座に魔術を完成させるため?)

 色々な思惑が彼女の頭の中を駆けめぐる。だが、それは一瞬にして絶たれた。

「わーっ。」

 それまで沈黙していた場に不釣り合いな大声が辺りに響く。精神を制御する術を学んだアーシアも、さすがにその意味不明な大声には戸惑いを隠すことはできなかった。一瞬の瞬きと混乱の際に、目の前にいた男の姿は消える。そして、

「め〜ん。」

 という気楽な声とともに、頭に軽い衝撃が走る。あの杖で頭を軽く殴られたという事に気づくのはクレノフが「試合終了」と言ったすぐ後のことだった。

「ちょ、ちょっと待って下さい。私はまだ戦えます。」

 アーシアは慌ててクレノフに講義に入った。観客席の方からもクレームの罵声が飛んでいる。しかしクレノフは首を振って言った。

「学院の試合の規則は知っているな。その中の敗北判定項目に『致命傷となる様な攻撃を受けた場合』というのがあるだろう。頭を打たれると言うことはそれに相当する。つまりだ。」

「君の負けだ。アーシア=サハリン。」

 クリフが面倒くさそうにそう言った。その態度がアーシアの気性を逆なでする。

「じょ、冗談じゃないわっ。納得できません。」

「そうだーっ、納得できねー。」

「勝負つけろー。」

 観客席からもヤジは次々と飛んでくる。

「静まれっ!!」

 しかしそれらはクレノフのその一言で沈黙した。

「これは喧嘩ではない!正式な学院の試合だ!!意義のある者は後日直接私に申し出ろ!!」

 瞬時に場の雰囲気が静まる。クレノフの威厳に、野次を飛ばしていた観客全てが圧倒されたのだ。普段の彼は融通の利かない性格ではない。だが公式の場に出た時、彼は副学院長として振る舞わなければならない。そしてその時の彼は酷く厳格な存在であった。だが、だからこそ彼は副学院長という大任を任されたのである。何も彼が学院長の夫であったことがその全てではない。

 こうして試合はクリフの勝利という形で幕を閉じた。だがそうなると、一人だけ納得のいかない者がいた。アーシアである。彼女にしてみれば純粋な戦いで負けたわけではない。ただ大声に不意をつかれただけなのだ。

 当然彼女はただの我が侭娘ではない。試合中に油断をしたことに対しては彼女自身、自分のミスであった事は認めている。だが教師が生徒と戦うのに、妙な小細工を使うクリフが許せなかった。

 しかしクレノフが言っている事が正しい以上、彼女はそれに従わなければならない。従わなければアーシアは学院生徒から除名されてしまう。そうなれば迷惑をかけるのはやはり姉や家族にだ。自分に絶対的な(アーシア自身の感性においてのではあるが)正義があるのならともかく、今の現状では彼女には耐えるしかなかった。

 彼女は闘技場の更衣室で着替えると、そのまま闘技場を出ることにした。そして、彼女はそこで今最も会いたくない人物と出会った。クリフである。

「ん?残念だったな。」

 他人事のようにそう言ったクリフに、アーシアはカチンときた。そして彼女は負け惜しみじみて言うまいと思っていた言葉を口にしてしまった。

「試合では負けましたけど、私はまだ負けたと思ってません。」

「だろうな。」

 当然と言わんばかりの表情でクリフは言う。

「あんなふざけた勝ち方で、恥ずかしくないんですか?」

 アーシアはクリフをきっと睨む。しかし、クリフはまたもとぼけたような表情で言った。

「確かに、教師の勝ち方ではないわな。君が納得しないのももっともだ。」

 そして少し間を空けてからアーシアに尋ねる。

「で、君は俺にどうしろと?」

「もう一度、私と試合をして下さい。」

 アーシアの言葉はクリフの予測していたものだった。彼女の性格上、あれで諦めたとも思えなかったからだ。

 答えは既に決まっていたが、クリフは少し考えている様な素振りを見せた後に、彼女に答えた。

「いいだろう。」

 クリフの答えに、アーシアの表情は明るくなる。それを確かめて、クリフは言葉を続けた。

「ただし二つ条件がある。」

「条件?」

「そうだ。なに、大したことじゃない。」

「どんな内容ですか?」

 アーシアが訝しげにそう言うと、クリフはゆっくりと答えた。

「一つはこの試合は非公開の物にすること。騒がしいのは苦手でな。」

「分かりました。」

「そしてもう一つは、この試合で君がどうなろうと、俺は責任を負わないって事を了解して欲しい。」

 クリフの言葉にアーシアは反応する。考えもしなかったことだったからだ。逆の事態にはなっても、自分が叩きのめされる場合など彼女には想定できるものではなかった。

(上等じゃない。逆にあなたが怪我をしたって、私は知らないからね。)

「・・・分かりました。」

 アーシアは思ったことをいってやりたかった。だが、今回は自分が要求を受けてもらう立場だ。下手に機嫌を損ねるのは良策ではない。そう思い、アーシアはクリフの条件に従うことにした。

「申請は俺がしておく。君の方にも通知が来ると思うから、一応内容を確認した上で承諾をしておいてくれ。」

 クリフはアーシアが頷いたのを確かめると、そのまま闘技場を出ていった。


***


「なぁにが、先生が珍しく本気になってるよっ!!あれのど・こ・が、本気なのよ!!」

 部屋の中に女の怒鳴り声が響きわたる。声の主はもちろんアーシアだ。部屋はそれほど大きくもなく、殺風景である。ここは魔導学院の教室だった。教室といっても第六級魔導師以上の中級魔導師が専門教師についた後の教室であるため、5、6人、多くて10人ほどしか収容する必要のない。そのために実際に広さはそれほどでもないのだ。

 だが部屋の中には2人の生徒の姿しか見えなかった。一人はアーシア、そしてもう一人はシェーラである。残りの生徒はアーシアの機嫌の悪さを知って場所を移動したのである。

 皆、アーシアの機嫌が悪いときは関わりあいにならないようにしている。普段はそう性格は悪い方ではないし、機嫌が悪くなることも少ない。だが彼女が一度機嫌が悪くなると実力の差から手がつけられなくなる事がある。先日のアーバンとの乱闘もそれに当てはまる。

 なにせミーシア教室には彼女以外には上級魔導師(第三級魔導師以上)はいない。さらに言うならば彼女は特別なのだ。

 3年半ほど前まで、学院にはバーグ教室という教室が存在した。当時学院でも4名、世界でも8名しかいなかった特級魔導師。その中の一人であるガルシア=バーグが受け持った教室だ。

 当時という表現をしたのには理由がある。それは学院の特級魔導師は現在二人しかいないためだ。一人は学院長であるベルーナ=ヴァルギリス、もう一人はその夫で、副学院長であるクレノフ=エンディーノだ。

 元学院長であるクリーム=ヴァルギリスは隠居し、もう学院には所属していない。(その割には色々と学院に関わってはいるが)そしてもう一人の特級魔導師ガルシア=バーグは既にこの世を去っていた。

 ガルシア=バーグ、彼は戦士として有能だった人物だ。多くの戦場で活躍し、前の機国戦争はおろか、クリームが参戦した龍帝の反乱にも参加した人物だ。

 純粋に魔導能力だけを言えば、おそらく彼はクリーム達には叶わなかったであろう。だが彼が経験した戦いの数は彼女らのそれよりも遙かに多かった。そして彼はその戦いの中で手に入れた経験をかわれ、学院に招かれたのだ。そして彼が戦いの中で学んだ実践的な技能を学ぶために選定された6人の子供達がバーグ教室に所属していた6人だった。

 彼らは特別な存在として、学院創設当初から専門担当の教師についただけでなく、特級魔導師の支持を受けたのである。さらに純粋な戦士であった彼は、時には子供には耐えられないような事までも彼らに要求した。そして彼らは境遇だけでなく、実力も『特別』な物を手に入れたのである。

 だが、彼らが『完成』する前にガルシアは病床に伏せてしまった。そして後継にガルシアが選んだ人材が同じ特級魔導師であったクレノフと、新しく学院に入ってきたクリフであったのだ。それが3年ほど前のことである。

 もちろん学院の教員達はクリフがバーグ教室の生徒を受け継ぐことに猛威に反対した。第一級魔導師という階級を与えただけでなく、バーグ教室の生徒を受け継がせるという重要な役割を新参者に与える事が気にくわなかったのである。

 だが、その計画は学院上位四名の強行により、クリフはバーグ教室の後任になったのである。もちろん教員一同がそれを納得するわけでもなく、クリフは学院に来て早々、多くの敵を作る羽目になったのである。

 一方、現在副学院長であるクレノフに3人のバーグ教室生徒が任されたことについては、極当然のように扱われた。クレノフは特級魔導師であったし、当時学院長であったクリームの娘婿に当たる人物であるからだ。それに何より、彼を灼熱の魔神と言わしめた機国大戦での活躍は壮絶なものであった。

 彼はクリフが所属していた紅華隊ではなく、青嵐隊という義勇軍に属していた。そしてクレノフはその青嵐隊の突撃隊長を務めていたのだ。そのために必然と彼の戦闘数は多くなり、その度に彼は功績をあげていき、その驚異的な強さから彼は魔神と呼ばれるようになった。そしてアーシアはその魔神の教えを受けた魔導師でもあるのである。他の者達が特別視するのも当然のことだった。

 アーシア自身はその事を仕方のないことであると思っていた。大きな力を持つ者はその分、必ず制約を受ける。でなければ世界は混迷に陥るからだ。魔導同盟が制定した魔導師制度にしてもそうだ。能力のある者に魔導師としての資格を持たせることで、優秀な人材であることを証明すると同時に、その資格を持つ者がどれだけの能力者なのかを魔導同盟が把握するのである。彼女にしてみても同じだ。

 だが、分かってはいてもそれが当然であると受け取れるかは、また別の話だ。そういった特別な者を見る眼は彼女にとっても心地よい物ではない。1年前までは同じ教室に元バーグ教室生徒がいたが、もう他の2人は学院の教員や事務員になっている。そのため時折彼女は非常に孤独感に苛まされることがある。そんな彼女がこうやって強気でいられるのは今、傍らにいる少女−シェーラ=ヴァルギリス−のお陰であろう。

 シェーラはアーシアの第二の師クレノフと学院長ベルーナの娘だ。彼女は彼女の二親と違い、そう高い魔導能力の所持者ではない。だが彼女はその立場上、学院に入学した時から教室担当の教師についた。

 普通であれば専門担当の教師には第六級魔導師、すなわち中級魔導師以上の資格を持たなければつくことはできない。だが、バーグ教室などの幾つかの特例もあり、彼女もそれに含まれた。

 だが彼女が特例で専門担当の教師についたのは、アーシアの場合とは理由が異なる。そのために身分の事で特別視されることはあっても、恐怖の対象としてのそれは無かったのだ。つまり彼女もそう一般の生徒達とは変わらなかったのである。少なくとも『能力』という面に関しては・・・。

 しかし彼女は極普通にアーシアと接していた。周りを取り巻く面々があまりにも高い能力者であった事が最大の要因なのだろう。だが、それでも彼女の態度がアーシアの支えになっていたことは事実だった。だから彼女はこうやって我が侭を言えるのだ。

「感謝してるわ。」

 アーシアは隣で自分の様子を呆れながら見ている少女に聞こえないように、そう小さく呟いた。


***


「珍しいわね。貴方から試合の申請をするなんて。」

 眼鏡をかけた女性が、意外そうにそう言った。彼女はベルーナ=ヴァルギリス、学院の最高責任者だ。ベルーナの前には運だけの男クリフォード=エーヴンリュムスが立っていた。彼は相変わらず面倒そうな表情を浮かべ、気だるそうに返事をする。

「仕方あるまい。今の内に自身の欠点を知っておかないと後々致命的な事になる。」

「そうね。」

 ベルーナはゆっくりと答える。

「でも、下手をすれば壊れるわよ。あの娘、プライドが高いから・・・。」

「知らんよ。大体、元々ふっかけたのはお前と元学院長だ。」

「ほとんどお母様の独断だったんだけどね。」

 ベルーナは苦笑いを浮かべる。学院の大抵の事は、彼女と彼女の夫であるクレノフが主に決めている。(もちろん会議などを使うことも多いが、大体は彼女たちが決定権を握っている)しかし時折クリームが学院のことに口を出すことがあるのだ。今回の一件も彼女の差し金だった。

「ま、一度引き受けた仕事だ。出来る限りのことはする。だが、それで壊れても責任はとらんよ。」

「分かってるわ。」

 ベルーナはそうゆっくりと返す。そして少し間をおいた後もう一言付け加えた。

「でも、信じているんでしょう?」

 その問に、クリフも少し間をおく。彼はしばらく考えた後、はっきりとその問に答えた。

「ミーシアの言葉と、アーシアの周りの環境をな。俺はアーシアのことを良く知っているわけじゃない。第一、あの娘は本来なら俺が関わらなくても良かった娘だろ?そんなに気にはしてなかったさ。」

「あれだけ疎まれてて?」

「俺を疎んでる奴なんて学院には吐いて捨てるほどいる。そんなのを一々気にしていたら、やってられんよ。」

 その言葉にベルーナは顔を曇らせる。

「ごめんなさい。」

 ベルーナは一言そう謝る。クリフはそれを見ると、呆れたように言った。

「お前が謝ることじゃないだろう。」

「でも貴方を推したのは私たちだし・・・。それも、一番間の悪いときに。」

「気にしてはいない。それに、今の生活、結構楽しくやっている。感謝しているんだ。」

 その言葉は事実だ。クリフ自身、ここに来るまではそれほど長い時をここで過ごすとは思っていなかったのだから。

「うん・・・。」

 ベルーナは有り難そうにそう頷く。

「とにかく。試合の件、頼んだ。」

「わかったわ。」

 ベルーナの返事を聞くと、クリフはそのまま彼女の部屋を出ていく。その時、ふとベルーナは考えた。

(もし、彼が運だけの男として学院に来ていなかったら、こんな事も起こらなかったでしょうにね。)

と。彼女のその想いをが意味しているところを学院のほとんどの人間は知らない。そして彼女は、憂いを込めた小さなため息をついた。


***


 学院長室で、クリフとベルーナが対話をしていた頃、ミーシア教室では小さな言い争いが起こっていた。

「うるさいわね!ちょっと油断しただけよ!!」

 そう怒鳴り声をあげているのは、言うまでもなくアーシアだった。そして彼女の視線の先には、栗毛の青年が立っていた。身長はアーシアより少し高いくらいで、顔の所々に悪戯っぽい幼さを残している。

 彼の名はラーシェル=ホフマン、アーシアと同じくバーグ教室、そしてクレノフ教室に所属していた少年だ。1年前に教員課程を受けずに卒業したために、教師ではないが、学院の事務部に入っている。

「だが、負けたんだろう?宿敵に。」

 ラーシェルはあえて皮肉たっぷりにそう言う。

「だ、誰が宿敵よ!あんな人を宿敵なんて思ったことはないわよっ。」

「シスコンも程々にしておいた方がいいぞ。いくらミーシアがクリフ先生に取られて悔しいと言っても、限度があるだろ〜。」

 図星に近いことを言われ、アーシアの怒りは極限にまで達する。

「殺す!!」

 アーシアは近くにある物を何構わず掴むと、ラーシェルに向かって投げつける。ラーシェルはそれを悠々と避けながら、アーシアの反応を見ておかしそうに笑う。

「嫌な性格してますね〜。」

 二人のやりとりを見ていたシェーラが、横で呆れている長身の金髪の男に向かって言う。

「全くだ。」

 その男はシェーラの言葉に頷くと、いい加減鬱陶しくなったのか、どこからか白と黒、二つの猫の置物を取り出し、それぞれを二人に向かってもの凄い勢いで投げつけた。しかしさすがはガルシア=バーグの訓練を受けた二人である。それを難なくかわすと、金髪の男に向かって怒鳴ってきた。

「何するんだフォールス!危ねぇだろ!!」

「しかも貴方本気で投げてきて!怪我したらどうするのよ。」

「お前ら、妙なところで気があうんだな。」

 フォールスと呼ばれた男は、呆れた表情でそう言った。と言ってもフォールス自身、どのようにすればこの二人が収まるのか位は分かっている。何せフォールスはバーグ教室、そしてクレノフ教室のクラスリーダーだった男だ。中でも騒がしかったこの二人の止め方を知っていなければ、クラスリーダーなど勤まるはずもない。

 フォールスはラーシェルの方を見ると、静かにこう言った。

「第一、折角情報を持ってきてやったんだろう?子供じみたことはやめておけ。」

「情報?」

 アーシアはラーシェルの方を見る。性格は別として、ラーシェルの情報は確かな物だ。しかも今持ってくる情報となると・・・。

運だけの男の情報なの?」

 アーシアの言葉にラーシェルは得意そうに頷く。そして彼は持ってきた鞄の中から数枚の書類を取り出す。そこには『クリフォード=エーヴンリュムス』と書かれた物と、『運だけの男』と書かれた物があった。」

「何、これ?」

「ま、読んでみろよ。」

 ラーシェルの言葉に、アーシアは急かされるようにその書類を見る。まず、クリフの名前が書かれた書類、これが教師の能力や履歴などが書かれている物であることはアーシアも知っている。しかし・・・。

「何も書いて無いじゃない。」

 アーシアは一瞬自分がからかわれたのだと思い、ラーシェルを睨み付ける。しかし彼の表情は至って真面目な物だった。アーシアは彼にしては珍しい真面目な表情を見て、取りあえず次の書類を見てみることにした。その内容を見てアーシアは訝しげな顔をする。

「これって、どういう事?」

 アーシアはラーシェルの胸ぐらを掴んでまるで尋問のように尋ねる。

「見たとおりの事だろ?クリフ先生を運だけの男の名称で呼ぶように仕向けたのは当時の学院長ってことさ。」

 書類の内容は学院長から事務部への情報操作の命令書であった。内容はラーシェルが言った通りの物である。しかも、それにはクリフのサインまであった。

「じゃあ何?あの男は自分から甘んじて運だけの男って呼ばれてる訳?何のために?」

 アーシアの目は殺気立っている。ラーシェルは胸ぐらを掴んでいる、彼女の手を振り解いて言った。

「知るかよ。もう少し時間があればデータベースのもっと深いところをみれるんだろーけどな。これも閲覧できる範囲じゃなかったんだぜ。更に加えて、能力や履歴を隠すって事はだ。何かあるんじゃないのか?」

 そして、少し間をおいて。

「あと、ちょっと聞いた話なんだけどさ。先生、闘気使いって話だぜ。」

「闘気使い?でも試合では一度も・・・。」

 アーシアは何度かクリフの試合を見たことがある。だが、その時には彼は一度も闘気を使ってはいない。

「先生は全ての試合で勝利を収めている。しかも毎回ぎりぎりの所で。」

 突然フォールスがそう呟く。ぽつりと言ったフォールスの言葉にアーシアははっとする。

「じゃあ、何?今までの相手はあの人に本気すら出させることが出来なかったって事?馬鹿馬鹿しい。」

 アーシアは付き合いきれないといった様子で、部屋を出ようとする。だが、フォールス小さく言った一言は彼女の足を止めた。

「先生に負けた理由が、不意打ちだけだと思っているのか?」

「どういう事よ。」

 アーシアはきびすを返すと、フォールスを睨み付ける。フォールスははっきりと至極真面目な表情で言った。

「それが自分で分からないのなら、お前は何度戦っても、先生にはかてんよ。」

 その言葉はアーシアの怒りを最大限にまで引き上げた。

「うるさいわねっ!!」

 アーシアはそれだけを言うと、ドアを荒々しく開け、教室を出ていった。彼女に試合の受理が知らされたのは、その後すぐのことだった。





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