リ ニ ア の 日 記
第六章 始まりのための終幕

Rising Sun


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 自分の中に何かの力が目覚めつつあったのは気付いていた。

 それが大きな力であることも、それを呼び起こすための手段もルークは知っていた。

 力を完全に目覚めさせる方法自体は何も難しいことではない。自分が親から授かった名を口にするだけだ。肝心なのはそれが示す意味だ。

 クリフォード=グランザム。それがルーク=ライナスの本当の名だ。クリフォードは母を捨てた男の名であり、グランザムは産まれた子供の父親を言おうとしなかった彼女を見捨てた家の名だった。

 母を苦しめたその二つの名を認める必要はないと思っていた。その名を思い出すだけで、彼の胸には未だに激しい怒りが込み上げてくる。男も家も母は恨むことはなかったが、それが彼女の命を縮めさせたことは確かだった。そして母が彼らを恨まなかったために、ルークもまたその存在を恨むことは出来なかったのである。それをすれば、母が悲しむのが解っていたから……。

 恨みたい者を恨めない。そんな束縛からルークが逃れることが出来たのは、彼の十三度目の誕生日、母の死の後のことだった。それ以後、ルークは家を出、クリフォードとグランザムの名を名乗ることはなかった。

 しかし力の目覚めに必要であったのは父親の名だ。その力を護っている何かは、ルークの父親から受け継いだ血の承認を待っていたためである。

 それをするということは、父親の存在を認めるということだった。そしてそれを認めるということは、必然的にグランザム家を認めるということでもあった。それはルークにとって自分自身を貶める行為に他ならない。昔の彼であれば、それをすることは絶対になかっただろう。

 だがルークはそれを許容した。今彼がしなければならないのはリニアを護ることだ。その代償が自分が苦しむことだというのならば、彼はそれを受け入れようと思った。リニアと共に生きることが出来るならば、それで構わないと彼は決断したのである。

 そしてルークの中に眠っていたものは、その決断に応えた。



 銀色の光はルークの胸から溢れ出していた。正確にはルークの胸に十字架の文様が浮かび上がり、そこから無数の銀色の帯が飛び出していたのだ。その帯は一箇所に集まっていくと、銀色に輝く若い女の姿をに変化する。

 それはディーア=スノウに似た姿をしていた。あまりに似ているために、リニアは思わず目を見開いた程だ。その時になって、リニアはようやく自分の身体から痛みが消えている事に気付く。

 だが場の事態をリニアの思考が理解する前に、状況は次々と変わっていった。

「コキュートス、この感覚はジュデッカか」

 まず変化を見せたのはアレスだった。リニアの力の覚醒にさえ余裕を浮かべていた彼が、上空に現れた女を見て驚きを隠さなかったのだ。

 そして彼の視線はすぐにルークに移る。しかしそれはアレスだけではない。その場にいる一同が皆、その視線を彼の方に集中していた。ルークを取り巻く精気の流動が異常な変化を見せていたためである。

 変化は場の精気の収束だけではない。皆の視線の先に立つルークの瞳は黄金色に輝いていた。それはいつかルークが一度だけ見せたことのある、あの黄金の双眸だった。

「なるほど、それがヴェリスが君に拘った理由ですか」

 アレスの表情からは先程までの驚きの表情は消えていた。普段と同様の、死を弄ぶ者としての顔がそこにはあった。しかし、リニアはどことなくではあるが、その表情が今までの彼とは違うような感覚を受ける。

「そのようだな」

 一方で、ルークは今までの披露など微塵も見せない様子でアレスに言葉を返す。彼は明らかに大きな変化を見せていた。ルークの両腕から感じられる暖かさはいつもの通りであったが、その中には今までとは異なる確かな力強さがある。

 彼そのものが変わってしまった訳ではないのは解っているのだが、何か取り残されたような気がして、リニアは思わず彼の服の裾を握りしめた。

「大丈夫。俺は、俺のままだ」

 リニアの不安に気付いていたのだろう。ルークはそう声を掛けると、彼女の頭をそっと優しく撫でる。変わらない普段の行為、それはリニアの不安を容易に打ち消した。

「そろそろ別れはよろしいですか。クリフォード=グランザム」

 呼ばれた名に、ルークは一瞬だけ顔を強ばらせたが、すぐに平静さを取り戻し、黄金に染まったその瞳をアレスに向ける。

「そうだな。貴様の顔もいい加減見飽きた。皆の敵討ちもあることだ。さっさと消えてもらおう」

 そう言うと、ルークは右腕をリニアから離し、それを水平に伸ばす。そして彼は言葉を放った。

「元の主が相手で悪いが、力を貸してくれ。ジュデッカ」

 上空に浮かぶ精霊の名を知っていたのは、何もアレスがその名を口にしたからではない。ルークは産まれる前から彼女と共にあったのだ。僅かばかりではあるが、精霊に刻まれた記憶を彼は共有していた。そして、その記憶の中にアレスの姿があったのもルークは気付いていた。

 それは一つの賭でもあった。精霊は高位になるほどその主を選ぶ傾向にある。ジュデッカが元の主を選ぶか、それとも主でもない自分を選ぶかは酷く危険な賭だった。

 だが一種の確信があったのも事実である。ジュデッカが見せた記憶の断片の中に、見覚えのある顔をルークはもう一つ見つけていたのだ。それは冥霊帝ヴェリス、弧扇亭の中ではディーア=スノウとして知られる女だ。

 自分が生きた年数だけ上空の精霊はルークの中にいたのだ。ある種の信頼はあった。しかしそれは決定的には至らないもので、それを確信に変えたのは、かつての仲間であり、今でも仲間だと思い続けている彼女の存在だった。

(お前とアレスがどういう関係なのかは知らんが、何の確信もなくの俺の中で眠っていた彼女を呼び覚ました訳では無いだろう。ディーア)

 そして、他でもない。ジュデッカを呼び覚ましたのは間違いなくディーアだった。ルークが自分の中で胎動を感じ始めたのは、彼女に首筋を噛まれた時からであるし、ディーアはこうも言葉を残していったのだ。力を感じろと。それがリニア護る力になると。ルークは仲間が残したその言葉を信じたのである。

 ジュデッカはその想いを裏切らなかった。

 銀色の精霊は瞳を閉じると、その姿を再び無数の光の帯へと変化させる。それらは今度はリニアに向かって収束していった。

 光が収束した先にあったのは、リニアがお守り代わりにルークから預かっている銀色の宝珠だった。ルークから預かった当初はただの球体だったのだが、それに魔性石の装飾を加え、首飾りとして首に掛けていたのだ。

 それは精霊の帯を吸い込んでいくと、徐々に力を帯び始める。そしてそれが最高潮に達したとき変化は起こった。

 銀色の宝珠が魔性石の装飾から外れ、その形状を変え始めたのである。精霊によって形成される魔導器、精霊具は時に形状を変化させる力を持つ。ルークの母親の形見であったそれも同じ力を有していた。

 その宝珠が変えた形とは、銀色の装飾が成された長い杖だった。杖の頭には先程までの宝珠が埋め込まれている。ルークはそれを右手で掴むと、ぶんっと一振りをした。

「なるほど。当然と言えば当然だが、ジュデッカは君を主と認めた訳か。ならば私も本気で相手をせねばなるまい」

 そう言うと、アレスはどこからか黒い、握り拳大の珠を取り出す。ルークの母親の形見が球体であるのに対し、それはどちらかと言えば卵のような形をしている。その形状は色こそは違うが、カイラスが持っていたアースという魔導器と同じものだった。

「プルート。私の外套を頼む」

 アレスは手に持つ魔導器にそう命じた。すると黒い珠は周囲の精気を取込ながら、黒い布のようなものを吐き出していく。それらはアレスにまとわりつくと、漆黒のマントへと形を変えていった。それはリニアが今までに見た冥貴族が纏っていたものと同じものだった。

 それを纏い終わると、アレスはルークに言葉を掛けた。

「加減はしない。生きたいのであれば、その力で抗ってみせなさい」

 そう言った時のアレスの瞳は黄金色だった。その瞳が示すのは力の領域に目覚めた者なのだとルークは言う。アレスもその領域に身を置く者だったのである。

 アレスの周囲に精気が満ちていく。凄まじく力強いにも関わらず、酷く緻密で繊細な魔術の術式。それが構成されているのがリニアには解った。

(こんな力に抗えるの)

 それは絶望的な力だった。リニアがかき消した魔術の時などとは比較にならない、完全な魔術。それを目の当たりにしているような感覚を彼女は覚えていた。

 だがルークはリニアを抱く左腕に力を込めると、彼女に呟くように言った。

「心配するな。俺たちの方が上だ」

「俺たち」

 リニアは思わずルークの言葉を反芻した。ルークは確かに「俺」ではなく「俺たち」と言ったのだ。リニアがその意味を理解するよりも先にルークは言葉を続ける。

「この杖に精気を収束させてくれ。俺がそれを元に魔術を形成する」

「えええっ」

 今度はリニアの驚きの声があがった。ルークが言ったことがあまりにも突拍子もない事だったからだ。

 精気は意志に影響を受けやすい媒体である。その上、精気自体が事象に影響を与える効果があるために、意志によって方向性を示してやるとそれは魔術という形で事象を変化させる。それが魔導の技法である。

 だが、精気は違う方向の意志は取り込むことが出来ない。術者が収束させた精気を他人が扱えないのはそのためで、感覚を共有しやすい一卵性の双子でも意志の共鳴をすることは出来ても、同一のものにするのは不可能に近いことだと言われているのだ。

 それを教えてくれたのは他ならないルークだった。いくらリニアとルークが近い感覚を有しているとはいえ、彼女が収束させた精気をルークが扱うことなど不可能に近いことだ。第一、ルークは魔術を使うことが出来なかったはずだ。

 しかしルークは躊躇わなかった。

「リニアとなら出来る。俺を、信じてくれ」

 ルークの自信がどこからくるものなのかは、リニアにも解らなかったが、彼が出来るという以上彼女はそれを疑わなかった。

 ルークの腕の中でリニアは体勢を変え、銀色の杖を両手でしっかりと握りしめる。そしてルークはリニアの背中に覆い被さるように彼女を後ろから抱きしめると、リニアの手の上に自分の手を乗せた。

「お願い。もう一度だけ、私に力を使わせて」

 リニアがそう叫ぶと、彼女の背中の羽根が消え、それはルークの背後に現れた。それはルークがリニアの力を介している証明でもある。そしてその二枚の翼が大きく開くと、そこには再び黒い光輪が現れた。

 異常な程の精気が場に収束していく。それはよほどの術式構成能力がない限り、制しきれる量ではないはずだった。だがルークは大きく目を見開くと、その血に受け継がれる能力を解放させる。

 リニアが収束させた、暴れるように激しい精気の流動は、次々とその流れを緩やかなものに変えていく。それがルークの能力であるのは間違いのないことだ。彼は押し寄せるように流れ込んでくる精気を高速に、そして繊細に術式として構成していっているのである。しかも、彼がどんな魔術を構成しているかというのはリニアにも理解できなかった。ただ、一つだけ解ることは、それが恐ろしく高度な魔術ということだけだ。

「燃え尽きなさい」

 だが先に魔術を完成させたのはアレスだった。漆黒の魔術士は右腕に煌々と燃え盛る火炎を宿すと、それをリニアとルークに向かって突き出した。

「クリムゾンフレア、テンペスト」

 アレスは言葉に力を宿し、右腕に宿った炎を放つ。深紅に染まったその炎はまるで嵐のように、眼前の全ての空間を飲み込みながら二人へと突き進んでくる。

 しかし怖くはなかった。迫ってくる炎が恐ろしいものだというのは解っている。だが、何故かリニアの心は酷く落ち着いていた。ルークが側にいることと、杖を介して伝わってくる彼の心がリニアを安心させていたのである。

 そして深紅の炎が眼前にまで迫ったとき、二人の魔術は発動した。

 瞬間、場からは一切の音が消滅した。続けてリニア達に迫ってきていた炎が音も立てずに凍り付き始める。更にその冷気は炎を伝いながら、アレスの方へとく向かっていった。

「くっ」

 アレスの表情が歪む。彼自身気付いているのだ。それからは逃れられないことを。たった一つの魔術により、お互いの形勢は逆転していた。アレスは足掻くように目の前に炎をもう一度は放つが、それも無意味なものだった。その炎さえもルークが作り出した魔術は一瞬にしてその熱量を奪い、氷へと変えていく。

 生じた氷によってアレスの姿は僅かな時間だけ視界から消えるが、氷はすぐに透き通ったものになり、凍り付いたアレスの姿を映し出していた。

「砕けろ」

 静寂の中に透き通るようなルークの声が響く。すると、凍り付いていた場は美しい音色をたてて粉々に崩壊し、一度だけ舞い上がるとゆっくり舞い降りてくる。粉末になった氷が関所の松明に照らされ降りて来る様は、七色の虹を作り、酷く幻想的で美しいものだった。リニアは思わずその光景に心を奪われる。

「これで、終わったんだ」

 雪と虹とか交わるような光景に見とれていたリニアの頬に、そっと暖かい掌が乗せられる。リニアはその手に自分の手を重ねると、眼を閉じ、しっかりと握りしめた。皆の仇を討てたという達成感と、皆を護ることを出来たという満足感が彼女の胸の中を駆けめぐる。

 今後ジェチナがどうなるのかという想いはあったが、アレスという街を混沌に至らしめていた存在が無くなったのだ。何もかもがうまくいくと思っていた。

 だがそんな彼女の思いはすぐに消え失せることになる。

「みぃぃぃちゃぁぁぁぁん」

 聞き覚えのある甘ったるい声が、リニアの耳に入ってくる。声のした方を振り向くと、そこにはリニアより僅かに大きいくらいの少女が、自分に向かって飛び込んでくる姿が映った。それは見覚えのある顔だった。それもそのはずである。彼女はリニアの――

「れ、レーミア御母様」

 突然現れた義母の姿に、リニアは困惑を見せた。彼女に会えた事自体は喜ばしいことだ。しかし、赤珠の王妹である彼女がこの街にいるということは、新しい風がこの街に吹き込んできていることを意味していた。

 しかしその風はこの街にどのような未来をもたらすのか。リニアの胸の不安は、それに対してのものだった。


☆★☆


 闇の中に三人の人間がいた。

 三人ともが黒い外套を纏っており、ほとんどが黒に統一されたその空間の雰囲気は、非常に重苦しいものだ。

 だが、重苦しいのは黒の色のせいだけではない。そこにいる黒髪の男女から湧き出る気配が、この場の重圧を作り出していたのである。

「久しぶりですね。ヴェリス」

 男は僅かに疲労の色を見せながらも、彼に対峙する黒髪の女に向かってそう言葉を放った。言葉を放った男は先程までリニア達と戦っていた男、アレスである。彼は二度目の炎を放つ際に、ジェミニという魔導器の片割れによって自分の分身を作り出し、リニア達の魔術から逃れていたのである。

 そして彼に対峙しているのは冥霊帝ヴェリス、ディーア=スノウだった。

「そうね。凄く会いたかったわ。先々代ノーザンクロス、サラテュード=エヴィルハイム」

 会いたかった。その単語にアレスはにやりと不敵な笑みを浮かべる。

「それほど私がつけた胸の傷が痛みますか。ディーア」

 アレスの挑発に、ディーアはその視線に明らかな敵意を示した。そして彼女は感情を押し殺したような声で彼に言う。

「王と私を裏切った貴方に、軽々しくその名を呼ばないで欲しいものね」

「構わないでしょう。元々それは、王から君を預かった際に、私が君に与えた名だ。そうでしょう先代ノーザンクロス」

「違う、これは王が私に下さった名だ」

「それ以上、私の主を苦しめないで頂けますか。先々代」

 二人のやりとりに、ディーア以上に怒りを露わにしたのは、もう一人の冥貴族、サリアだった。彼女はどこからか漆黒の鎌を取り出すとそれをアレスに向ける。

「止めなさい、サリア」

 しかしそれを制したのはディーアだ。

「どうしてです、ヴェリス様。いくら相手が冥貴領主だった男とはいえ、手負いの者を相手に何故そんなに警戒なさるのです」

「そんなことも解らない愚か者は、黙っているのだな」

 突然、アレスの口調が変わる。今までのように紳士ぶったものではなく、酷く威圧的な重々しいものにだ。急な変化と、それが持つ重圧感にサリアはすぐに圧倒された。

「彼女が私を殺さないのは、貴様がここにいるからだ。今ここで戦いを行えば、私が真っ先に貴様を殺すことを解っているのだよ。彼女の力をもってすれば、今の私を殺すことなど造作もないだろうが、それは足手まといがいない場合だ。護られていることにすら気付かない者が吠えるな」

 アレスの言葉にサリアは絶句する。ディーアは余計な事を言ったアレスに、表情を歪めるが、彼女はすぐに平静さを取り戻した。

「それはどうかしらね。サリアは私が力を与えた娘よ。その時から私のために命を落とす覚悟は出来ているわ」

「だが、君にそれを見殺しにすること出来ますか」

 そう言ったアレスの口調は、普段の彼のものに戻っていた。ディーアはそれを確かめると更に言葉を続ける。

「それは貴方次第よ。これ以上、リニア達に手を出すというのであれば、私は犠牲を払ってでも貴方を殺すわ」

「それについてはご心配なく。私は進んで熟していない実に手を出すほど野暮ではありませんよ。それに、特に自殺志願者というわけでもない」

 そして、アレスは再び不敵な笑みを浮かべると、こう言葉を付け加えた。

「だが、もし時が流れ、因果律の導きによって彼らと再び出会うことがあれば、その時はどうなるかは解りませんよ。何せ彼は私を殺すためにギルが技を仕込んだ青年ですし、それに私が生きていることにも気付いているようですからね」

 そう言って、アレスはディーア達に背中を見せる。そしてそれ以上は何も言うことはなく、彼は夜の闇へと去っていった。

 ディーアは未来に対して大きな不安を抱きながら、今はただ東の空から朝日が昇ってくるのを見ていた。

 それはジェチナが内包していた闇を消し去るかのように美しいものだった。


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