リ ニ ア の 日 記
第六章 始まりのための終幕

Wake up Cursed Angel


<Back to a Page /Novel-Room /Go to next Page>


 血の匂い。

 ルークが西の関所にたどり着いて、初めに感じたのはそれだった。それが一人や二人のものであるはずがなかった。屋外でさえ血の匂いが明確に感じ取れるのだ。元々ルークは匂いには敏感な方ではあるが、彼でなくてもこの匂いには嗅ぎ取ることは出来ただろう。

(リニアっ)

 ルークの中に不安が広がる。何よりも願って止まないのは彼女の無事だ。あの時、アレスにはリニアを殺す意志はなかったようだが、あの男のことだ。いつ、何がきっかけで心変わりをしてもおかしくはない。

 加えて、アサシンギルドがリニアを手札として、本当に虎国と交渉をしようとしているのならば、彼らの間でいざこざが起こったことも考えられるのだ。どちらにしても状況はかんばしくない。

(くそっ)

 心中でそう毒づきながらも、ルークは心を落ち着かせるように努める。

 常に悪い状況を想定するのは彼の悪い癖だった。もちろんそれが長所として働くときもあるが、急いている人間にとっては、大抵あまり良い影響はもたらさない。少なくとも、今の彼にとっては。

 そんな時だった。不意にルークは大気が振動しているのに気付く。大きな力が発動しているときに感じられる感覚だ。闘気による力の集束、ルークは瞬時にそう判断した。同等の振動を起こせる魔術が発動しているような、精気の流動が感じられなかったためだ。

 この状況で、この場所で闘気が使われている。それは、そこで戦闘が行われていることの証明だった。

(バルク、か)

 思い当たるのは彼くらいしかいなかった。彼と共に行動していたジェフとハムスが獣人だったのだ。バルクも獣人だと考えるのが妥当だろう。元々高い闘気能力を有していた彼だ。ライカンスロープによってその力が更に上がったとしても不思議な話ではない。

(レイシャ達はバルクがリニアを取り戻しに行ったと言っていた。バルクがいるところに、彼女はいる)

 そう判断すると、ルークは力が集束する場を感じ取り、その方向へと駆け出した。

 関所の境界に来たとき、ルークの漆黒の瞳に映ったのは光の鎖に縛られているアレスの姿だった。そして、それに向かって灰色の毛皮に身を包んだ男が、凄まじい速度で突き進んでいくのが見える。それがバルクだと気付いたのは、彼がアレスに向かって攻撃を放ったときだった。

 右腕に凄まじい量の闘気が込められているのが解った。先程から感じている大気の揺れが、それのためであることもだ。

(これが半獣化の力か)

 圧倒的だと思った。普段から彼が高度な闘気能力者であることは理解していたつもりだったが、それはまだ人のレベルだった。しかし、今のバルクから感じられるのは竜にも匹敵する力だ。正直、今の彼を相手にして勝てるかどうかと尋ねられたならば、ルークは言葉を濁すことしか出来なかっただろう。

 だが、その勝負に彼が負けていることもルークは気付いていた。鎖に縛られているアレスが擬態であることを見抜いていたのだ。

(上かっ)

 バルク達をどうやって欺いたのかはルークにも解らなかった。今のバルクが戦闘の中で相手を見失うことなど考えられなかった。初めから束縛術に捕らわれている何かと戦っていたのならともかく、ルークが見る限りそれはただの抜け殻だ。入れ替わった時期を推測するならば恐らく束縛術に捕らわれる直前、だがそれならばバルクが相手を見失うはずはない。

 ルークがそんな思考を巡らせている間に、アレスは二指に込めた闘気の刃で、バルクの背中を切り裂いていた。自分と同じ技をアレスが使っていることには驚いたが、もうルークに無駄にする時間はなかった。彼は全身に闘気を込め、その場を駆け出していた。

「来ましたか」

 アレスがそう声を発したのは、ルークがその右手の二指に闘気を込めたのと同時だった。アレスもまた右手の二指に闘気を込め、それを振り上げていた。元よりバルクを殺す気は無かったのかも知れない。アレスは闘気をあっさり解放し、ゆっくりとその右腕を下ろした。

「ルークっ」

 不意にリニアの声が耳に入ってくる。彼女が無事であることはここに来たときに確認していた。しかし声を聞くのと聞かないのでは、その安心感は全くの別物だ。ルークは意識をアレスの動向に残したまま、視線をリニアに移した。

 彼女は安堵に顔を綻ばせていた。大きな赤い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれる。安堵したのは、ルークがここに来てくれたからだけではない。カイラスとの戦い、その結果がどうであれ、彼の心は傷つく。最悪、立ち直れないほどに。それが解っていたためだ。

 ルークはリニアを見て、にこりと微笑むと、視線を再びアレスに戻した。その笑みが、自分が大丈夫であることを語っていることはリニアにも解った。

 ルークの視線がアレスを捕らえ、それらが絡み合う。ルークは彼を睨み付けたまま、その下に倒れているバルクに言葉を書けた。

「生きているな、バルク」

「なんとか、な」

 苦しげな声ではあったが、致命傷には至っていないようだった。ルークはふぅっとため息をつくと「十分だ」と言葉を続ける。

「ゆっくり休んでいろ。後は、俺が始末をつける」

 そう言うと、ルークはその右手の二指に闘気を込める。アレスはそれを見て僅かに微笑む。

「思ったよりも早かったのですね、ルーク=ライナス。ヴァイスを殺すのにもう少し手間取ってくれると思っていたのですが」

 明らかな挑発。その言葉によって揺れるルークの心を楽しんでいるのだろう。だが、ルークはそれにはぴくりともせずに、冷たい視線を彼に向けながら、言葉を紡いだ。

「お前は多くの人間の運命を狂わせた。そして、これからも狂わせ続けるだろう。だから、目障りだ。消えろ」

 言い終わるよりも先に、彼の姿はまるで朧のようにぶれる。ルークが攻撃を仕掛けたのだ。次の瞬間、ルークはアレスの右側面に立ち、その右腕を振り上げていた。それは吸い込まれるようにアレスの首筋への軌道を描いていく。

 だが、それがアレスに届くことはなかった。彼は素早くそれに反応すると、ルークと同じように右手の二指に闘気を込め、闘気の刃――気刃でそれを受け止めた。

「残念ですね。それは、虚ろなる心を者が使ったときに真価を発揮する」

 言うが早いか、突然指にかかった抵抗が消えるのと同時にアレスの身体がぶれる。ルークはその光景に目を見開いた。自分の攻撃と同じ攻撃、ルークは動揺しながらもそう判断する。しかし、その判断こそがあだとなった。

 ルークはアレスの気配の軌跡を追った。彼が言うように、朧と呼ばれるこの技は、感情を一切封じた状態にあるときに真価を発揮する。それは精気が感情を伝えやすい性質を持っているためだ。その精気に込められた感情がどんなものなのかを追うのは困難なことではあるが、強い意識がどこにあるか、というのを知るのはそれほど難しいことではない。熟練した戦士はそうやって敵の位置を知ることも多い。

 しかし、そこで自分の判断が誤りだったことをルークは知る。気配がルークの両側面に二つあったのだ。

「ちぃっ」

 何が起こったのかは解らなかった。解っているのは自分の身に危険が迫っていることだけだ。だが、どちらの気配がアレスであるのかは、ルークにも判断出来なかった。

(解らないのならば、両方斬ればいいっ)

 ルークは左手の二指にも闘気を込めると、それを両脇に向かって水平に振る。その攻撃は標的を捉えた、はずだった。

(手応えがないっ)

 それを理解するのと、上空に気配があるのに気付くのとはほぼ同時だった。両脇に生じた気配に比べ、それが微少なものであったために気付かなかったのだ。完全に避けることは出来ない。そう判断したルークは咄嗟に身体をよじった。

 右肩に痛みが走る。しかし、それで心を乱すわけにはいかなかった。ルークはすかさず後方へと跳ぶと、敵の追撃に備える。

 追撃はなかった。アレスは不敵に笑みを浮かべながらルークの様子を見ていた。一方、ルークはその僅かに出来た余裕の中で現状を把握する。

 傷は大したことはない。気刃がかすった程度であり、血はにじみ出しているが、戦いに左右されるほどではなかった。

 そしてアレスの攻撃だ。あれは、確かにルークが使ったのと同じものだった。ただし、身体をぶれさせるところまではである。そこから行われたこともルークには理解出来た。

(龍神の法、か)

 ルークが習得している流派の名は破邪滅法という。伝説の三大古代種族の一つである海皇種族の流れを組む流派らしく、習得する者は稀ではあっても、皆無ではないとは思っていた。事実、ルークの師からそれを受け継いだのは何もルークだけではない。ルークがそれを見て大きな反応を見せなかったのはそのためだ。

 そして、破邪滅法には二つの技法がある。麒神の法と龍神の法、そう呼ばれるものである。闘気能力を駆使されて作られた麒神の法、そして疑似闘気である魔導闘気を駆使して作られた龍神の法の二つだ。アレスが用いたのは、おそらく龍神の法なのだろう。

「龍神幻朧舞、貴方が使う麒神幻朧舞とは違い、精気に想いを乗せることによって意識的な残像を作り出す技です。破邪滅法を使うことの出来る貴方には理解出来るでしょう」

 アレスはまるでルークの心を読んだかのように、静かにそう言った。

「バルクを欺いたのもそれか」

「いえ。あれは貴方と同じ麒神幻朧舞ですよ。私は貴方と違い、両方の法を使えますので」

 にこやかな表情で返ってきたその言葉に、ルークはギリッと派を食いしばる。魔術、というよりも精気を扱う技法である魔導を使用することの出来ないルークには、精気を媒体とする闘気法、魔導闘気を使うことは出来なかった。そして、破邪滅法が麒龍、二つの技法を体得して初めて完成型となるのは、師からの言葉で知っている。

「麒神の法だけでそれだけの強さを習得出来た貴方は称賛に値する。だが、その両方を使用する私には、貴方の攻撃に穴が見える。それは、微々たるものですが、上に行くにつれ、その穴は致命的になっていく」

「黙れっ」

 それ以上、その言葉に耐えることは出来なかった。全身に闘気を込め、ルークは駆け出していた。

 見透かされているような気がした。抑えているある感情を。それを知った上でアレスが自分を挑発しているようにしか思えなかった。

 ルークの行動を見たアレスの表情に、僅かに落胆の色が浮かぶ。

「私は熟す前の実は嫌いなのですがね」

 心が乱れたルークの攻撃を裁くことなど、アレスにとっては造作もないことだった。突き出されたルークの腕を避けると、アレスはルークの懐に入り込む。そして掌をルークの腹部にあてると、一気に力を解放した。

「がぁっ」

 外部よりも内部に衝撃を与える一撃だった。力無く沈んで行くルークの身体を、アレスは下からの掌打で突き上げた。そして僅かに浮いた彼の身体を、闘気を込めた一蹴で弾き飛ばす。ルークの身体は何度も地面に叩きつけられながら、ようやくその勢いを止めた。

「全く興醒めです。あのヴェリスが拘ったというから、楽しみにしていたものを。その程度の覚悟しか持たない戦士ならば、残念ながら興味はないです」

 何故そこでヴェリス――ディーアの名が出てくるのか、ルークには解らなかった。だが、身体中を駆けめぐる激痛は、そんな疑問を容易にかき消していく。

「終わりにしましょう」

 アレスはそう言うと、その右腕をルークに向かって突き出した。そこには凄まじい速さで精気が集束していく。

「クリムゾンフレアか」

 構成されている術式に覚えがあったのだろう。そう驚きの声をあげたのはアサシンギルドのギルドマスター、セイルだった。上位の魔術士であっても術式を組み立てるのが困難であるその魔術を、アレスはまるで積み木を組み立てるように容易に構成しているのだ。それは脅威としか言いようがなかった。そして、それは明らかなルークの死を意味していた。

「駄目」

 その絶望的な光景の中、小さく言葉を吐き出したのはリニアだった。彼女の瞳には苦しんでいるルークの姿が映っている。信じられなかった。彼がこうも赤子のように扱われる姿を。

 彼女は単なる映像であったその光景を、現実のものとして理解していく。

 胸に、どす黒い感情が再び芽吹いた。

「さようなら、ルーク=ライナス」

 アレスの無機質な声がその場に響いた。滅亡を司る深紅の炎、それが、その進路上にある全ての空間を飲み込みながら、ルークに向かって突き進んでいく。

「だめぇぇぇぇぇぇぇっ」

 その時だった。漆黒の艶を放つ一つの影が、物凄い速さでルークの元に飛び込んできたのだ。それは、ルークを抱きかかえると、凄まじい勢いで精気を吸収しながらその場に魔術の防御壁を作り出した。

 轟音がその場に鳴り響いた。燃えさかっていた滅亡の炎は一瞬にしてかき消され、場の精気は荒れ狂ったように異常な流動を見せる。何が起こっているのか、誰にも解らなかった。

 爆煙が引いた後、ルークが倒れていた場所には、彼を抱きしめているリニアの姿があった。しかし、その場にいた誰もが、その少女の姿に目を疑う。

 彼女は、荒々しく呼吸をしていた。そして、彼女が息を吐き出すと共に、彼女の背中に律動的にある物が浮かび上がっていたのだ。

 それは美しい程までの黒い艶を放つ、二枚の大きな翼だった。


<Back to a Page /Novel-Room /Go to next Page>

Copyright 2000-2002 Hiragi Kuon. All Rights Reserved.