リ ニ ア の 日 記
第六章 始まりのための終幕

The atrocious event smeared with blood


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 場に充満した、むせ返るような生臭い匂い。リニアはそれに激しい嘔吐感を覚えていた。

 血の匂い。それは決して初めて経験するものではない。この街に来た時にも、そしてそれ以来、幾度となく経験した匂いだ。しかし今回のそれは、これまでリニアが経験してきたものよりも明らかに密度の濃いものだった。

 目の前で起こったことは一瞬だ。アレスの部下だと思われる男は、動くと同時に持っていた小刀を逆手に持ち、アサシンギルドの精鋭達を襲い始めたのだ。その動きにルークほどの速さはなく、バルクほどの力強さはない。だが、戦闘経験のないリニアや、その場にいたアサシンギルドの戦士達にとってはそれすら脅威に違いなかった。

「いやあぁぁぁぁぁっ、やめてぇぇぇぇぇっ」

 ようやく状況を理解し、リニアが悲鳴をあげたのは、男が行動を起こして十数秒が経過した頃だった。反応というには遅すぎる対応だが、人がゴミ屑のようになぎ倒されていく光景の異常さを考えれば仕方がなかったことだろう。

 そして、その声と同時に男は静かに動きを止めた。リニアを中心に集束する精気の流動に、アレスが反応した為である。

 リニアは胸が詰まるような不快感に何とか堪えながら、深い紅色の瞳に眼前の光景を焼き付ける。広がるのは人の身体の山だ。身体は血にまみれ、瞳からは精気が失せていることからも、倒れている連中が既に絶命していることは解る。彼らがほんの少し前まで生きていたこと。そして、その中の過半数が弧扇亭で見たことのある顔であることが、リニアの心を強く痛めた。

(どうして)

 リニアは心中でそう呻いた。その言葉を反芻する度に、リニアの心の中に怒りが沸き起こる。無論、目の前の惨劇を見ての恐怖はある。だが、それよりもリニアには許せなかった。この事態を招いた、死霊使いの名を持つ男の事が。

 生き残っているのは一握りである。ギルドマスター・セイルと、彼を護っている数人の戦士のみだ。この惨劇を目の当たりにして、セイルの護衛に回ったのだろう。彼らはアレスとその部下に対し、更に警戒を強めたようだった。だが、リニアにはそんなことはどうでもいい。

 リニアにとっても彼らは敵に近い存在だ。だが、殺さなくても良かったはずだ。少なくとも殺さなくてもこの場は制することが出来たはずなのである。そんなことは戦闘の経験がほとんどないリニアですら解る。それ程までにアレスを護った男の能力は脅威的だった。それこそルークやカイラス、バルクらに匹敵する程にだ。

 何より、その最大の証明はリニアの横に立っているアレスの笑みだ。彼にとっては、自分が殺されそうになったことさえ予想の範疇にあり、一つの楽しみにしか過ぎないのだろう。それが、リニアの怒りを更に彷彿とさせる。

 リニアは沸き起こった怒りと、強い侮蔑をその瞳に込め、自分の横に立つアレスを睨み付けた。

「そんなに人を殺めるのが楽しいですか」

 それは感情が押し込められた声だった。そして、その言葉に紡がれるようにリニアの周囲に精気が集束していく。アレスはその様子に楽しげに目を細めた。

「リニア=パーウェル。貴女は大きな勘違いをしている。これはただの防衛行為ですよ」

「防衛行為ですって」

 それが詭弁であることは解っていた。だが、解っていながらもリニアはそう問い返した。そうしなければ彼女が感じている苛立ちをどうすることも出来なかったためだ。

 アレスはリニアの心情を理解しているであろうにも関わらず、悠々と言葉を続ける。

「そうですとも。彼らはルーク=ライナスに対抗するために組織された部隊だ。いくらフォボスとはいえ、不意でもつかなければこうも上手く敵の数を減らすことは出来なかった」

「だからといって殺すことはなかったでしょう。彼の技量なら、殺さずに制することも出来たはずです。違いますか」

 リニアはそう言葉を吐き出すと、紅い視線をアレスの部下――おそらく彼がフォボスなのだろう――に移す。あれだけの人を殺したというのに、彼は全く表情を崩していなかった。それどころか呼吸すら乱れていないのだ。それは彼が余裕を残していることの証明でもある。

 アレスはくすりと小さく嗤うと不気味な色を瞳に込め、リニアに言葉を返す。

「確かに。彼らを殺さないよう指示することは出来ました。ですが、彼らを生かしておくことに、私に何の利益があるというのです。むしろ、ここで死んで貰った方が、舞台が映えるでしょう」

「――っ」

 アレスの言葉に、リニアの怒りは最高潮に達した。彼女の瞳の紅が深みを帯びると共に、どす黒い憎しみの感情が彼女の心の中に巡り始める。精気の集束が加速する。それも信じられないような加速度でだ。アレスの表情から一瞬、笑みが消えた。

「アレス様っ」

 この場に起こった異常の為か、それともアレスの表情から笑みが消えた為か、フォボスと呼ばれた男は強い警戒をリニアに示し、右手を彼女に向かって差し出す。魔術の体制に入ったのだ。

「騒ぐな、フォボス」

 だが、フォボスの動きを止めたのはアレスの一喝だった。彼の表情には再び笑みが浮かんでいる。さすがにフォボスにもその意図が理解できなかったのだろう。彼の動きは僅かに止まった。

 そして、アサシンギルドの戦士の一部は、それを見逃さなかった。先程は不意を突かれたとはいえ、彼らは対ルーク用に鍛えられた戦士達だ。高速の瞬発を以てその場を駆け出していた。

 向かってくるのは数人。反応は出来たが、魔術の構成を途中で中断したフォボスに、それに対応する術はなかった。アサシンギルドの戦士達は、フォボスを捉えたはずだった。

「目障りです」

 リニアが起こしたのとは違う精気の流動がその場を制した。同時に巨大な光の奔流がアサシンギルドの戦士達に向かって迸る。それはアレスが放った魔術だった。

 感じたことのないほど複雑な魔術の構成。それに導かれるように放たれた魔術は、延長上にいたアサシンギルドの戦士達を包み込むと瞬時に彼らの肉体を焼いた。そして、勢いを衰えさせることはなく、そのままその延長上にいた残りのアサシンギルドの戦士達に向かって突き進んでいく。

「来たれ、光霊の障壁」

 高速で接近する光の奔流にいち早く反応したのはセイルだった。いや、反応は皆が出来ていたのだろう。ただ、精気の集束から魔術の発動までの時間があまりも早く、誰もそれに対抗するための魔術を構成することが出来なかったのだ。セイルを除いては。

「フォーススクリーン」

 厚い光の幕、セイルが展開した魔術も高度なものだった。その魔術を使いこなせるというだけでも、セイルの戦士としての能力が並でないことは解る。だが、アレスの力はそれを明らかに上回っていた。

 光の並と幕が衝突すると同時に、周囲には爆音が響き渡った。力の均衡が生まれ、崩れた証拠である。爆煙が引いた後、そこにあったのは両腕を失ったセイルの姿だった。

 アレスの攻撃を防ぐことには成功したのだろう。しかし、彼はその代償に光の幕にかかった過剰な反動をそのまま両腕に受けてしまったのである。その結果が両腕の消失だった。

「ギルドマスター」

 攻撃に参加しなかった五名の戦士達がセイルに駆け寄ろうとする。だがセイルはそれを一喝した。

「敵の眼前だ。気を抜くなっ」

 セイルの言葉に、一同ははっとすると、警戒を再びアレス達に戻した。それは同時にリニアの平静さをも取り戻させていた。リニアはその声の主であるセイルに視線を移した。

 激痛が走っているであろうにも関わらず、セイルは額から大量の汗を流しながらも鋭い視線でアレスを睨み付けていた。一方でアレスは、その視線を受け、にやりと笑みを浮かべる。

「その眼、判断、やはり貴方は興味に値する男だ。だが、貴方は人でありすぎた。自らが敷いた修羅の道を、貴方は踏み外したのです」

「黙れっ」

 二人の会話の意味がリニアには解らなかった。だが、その言葉に明らかにセイルを動揺させている。その会話は二人にとっては酷く重要な話のようだった。

 アレスは取り残されている周囲の人間を無視し、言葉を続ける。

「私が認めたのは貴方のその信念だ。情に流され、堕落した貴方には用はありません」

 アレスがそう言い放つと、今度はフォボスを中心に精気の集束が始まった。その流動はアレスのそれに比べれば幾分かゆっくりとしたものだったが、それでも高位の魔術士の者であることは間違いない。加えて、構成されていくのは繊細に組み立てられていく術式だ。それは強力な魔術の展開を意味していた。

 セイルにそれを避ける術は残されていなかった。両腕を失い、その痛みの為に魔術も構成できず、出血の為にまともに動くことも出来ない。しかし、その彼の前に残った五人の戦士達が立ちはだかった。

 彼らは各々、自らがもてる最大の力を使って守護の魔術を構成し始める。セイルはその光景に驚愕する。

「何をしている。そんなことをしても防げはせん。貴様らだけでも逃げろ」

 そんなことはこの場にいる五人全てが解っているはずだった。今、彼らの前に展開しつつある魔術は、先程アレスが放ったそれと同等の力を持っていると判断されるのだ。確かにここにいる五人はルーク用に鍛えられた戦士ではあるが、魔術のエキスパートではない。セイルの守護魔術で防げないものを、彼らが防げるはずはなかった。

 だが、五人はその場を離れることはなかった。それがセイルに対する、どんな想いの表れなのかは解らなかったが、それはリニアにセイルという人間の重要性を確認させるのには十分だった。

「やめなさい。貴方がそれを放つと同時に、私はこの男を殺します」

 リニアは懐に仕込んであった短刀を取り出すと、それが意味がないものだと解りながらも、魔術を展開し始める。それがアレスに効くはずがないのは解っている。しかしフォボスの注意を少しでも反らせればそれで十分だった。

 それだけでも魔術の精度は格段に落ちるし、もしかしたら魔術の発動を止められるかも知れない。彼女はそう思ったのだ。

 だが、フォボスは止まらなかった。苦悶に顔を歪めるリニアに、アレスの笑みが映った。

「彼は同じ間違いを二度繰り返さない。貴方の負けですよ、リニア=パーウェル」

 リニアは悔しさに歯を食いしばった。続いてリニアは精気の流動からフォボスの魔術が完成したことを気付かされる。完全なる構成の元に展開された、完璧な魔術。それは既に人間の域を超えているようにリニアには感じられた。

 しかし、その魔術が発動することはなかった。

 突然、上空から何かが落ちてくると同時に、雷が落ちたような轟音がその場に響いたのだ。そしてフォボスが立っていた方向から激しい砂埃が流れてくる。

 リニアには何が起こったのかは解らなかったが、フォボスが展開した魔術が霧散したことだけは理解できた。

「何が起こってるのかは知らねぇが、どう見てもこいつは敵だよな」

 砂埃が静まっていく中、風が流れてくる方向から低い男の声が聞こえてきた。聞き覚えのある声である。弧扇亭という場所の中で、共に時間を過ごした仲間の声だ。聞き間違えるはずはない。

「バルク……」

 砂埃が止んだ後、リニアは驚愕の表情でその声の主の名を呼んだ。驚いているのは彼がここにいる為ではない。彼の全身が、灰色の体毛に覆われていた為である。そして彼はその太い右腕でフォボスの首を鷲づかみにし、吊り上げていた。

「ほう、ベルセルカーか」

 そんな異常な光景の中、アレスの楽しげな声だけがリニアの耳に響いていた。


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