リ ニ ア の 日 記
第五章 滅亡への序幕

Preparedness


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 リニアはカイラスの身体に起こりつつある変化を驚愕の眼差しで見ていた。

 魔物と呼ばれるものの存在はリニアも知っている。実際、彼女自身魔物との遭遇は体験している。もっとも、それは一度だけであるし、人為的な遭遇ではあったが、リニアの想像が及ばない出来事ではなかった。

 だが、今、眼前で起こっていることは異常としか言いようがなかった。人が魔物に変わる。そんな事はまるでお伽噺の中でしか聞いたことのない話だ。しかし、それは変わることのない事実だった。

 ルークの方を見ると、彼の表情はひどく強ばっている。それが事態の悪さを示していた。

 そう、事態は最悪だった。ルークは変貌を遂げたカイラスの右腕に視線を向けながら歯ぎしりをする。

 人が魔物に変わる、それは元々起こり得ないことではない。精気という媒体を用いて、魔術という技法を手に入れた人が背負うことになったリスク。それが魔物化である。それは精気が人の意志を伝えやすい媒体であり、事象を変化させるという効果を持つために起こる可能性があることなのだが、現在、人の手によって生産されているような低レベルの魔導器を使用している限りは、まず実現することはない。

 だがそれを可能にする術がある。それがグールパウダーという秘薬だ。グールパウダーには様々な種類があるが、天使という種族が存在した頃は、それは医療のために用いられていたという。人の生命力を高めることにやって多くの病を克服する。そんな目的を持った薬だったという話を聞いたことがある。

 それが本当のことなのかどうかは解らない。ただ確かなのは、現在それがそういった目的で使用されていないということであり、グールパウダーを服用し続けた者の末路は皆、魔物に変わるということである。

「そこまでしなければならなかったのか」

 ルークは拳を強く握りしめながら、苦悶を吐くようにそう呻いた。彼には、どうしても納得が出来ないことがあったのだ。

「力を得ることが出来たお前には解らんことだよ」

 それが彼の答えだった。確かにルークもカイラスと同じだ。護りたいもののために、彼は強い力を望んだ。どんなことがあってもそれを護り通すために、彼は大人ですら過酷である修練を幼少の頃に受けた。ルークもまた、力を望んだ者の一人だった。

「理解したくもないな」

 力強い意志を含んだ声が、その場に響きわたる。おそらく、ルークがカイラスと同じ立場であったのなら、同じ道を歩んだのかもしれない。力があれば、護りたい者を護れる。それがどれだけ強い欲求をか掻き立てられるかは彼も理解している。

 だが、ルークはそれを強く否定した。

「解っているのか。完全に魔物になれば、確実にお前は見境無く殺戮を行うんだぞ」

 魔物は強い破壊の意志によって精気が形を保っているものだ。カイラスが魔物に変われば、彼は無差別に生命に対して殺戮を行うだろう。彼が護りたかったものすら区別無くだ。

 カイラスとてそれを理解していないはずはない。そして、彼はそれを解っていながら魔物になる道を選ぶような人間ではないはずだ。だが、現に彼はその道を歩んでいる。それがルークがどうしても納得できないことだった。

「お喋りは終わりにしよう」

 カイラスはそれに答えなかった。彼は獣になりかけた右腕をすっと差し出す。何度その光景を見ただろうか。集束する精気にあわせるように、ルークも意識を統一した。

「アイシクルランス」

 そしてルークの予想を違えることなく、カイラスの言葉に紡がれるように、先程よりも大きな氷柱がルークに放たれた。



 リニアにはただ見ていることしか出来なかった。

 初めから自分にどうにか出来ると思っていた訳ではない。カイラスがヴァイスであったことも知らなかった。そして、カイラスが何故ヴァイスという人間を演じなければならなかったのかも知らないのだ。そんな彼女が、この状況をどうにかできる訳もない。

 だがそれが解っていても、何もできない悔しさは変わるわけではない。ルークが迷っている姿を目の前にしているのだから尚更だ。

「この戦いは、貴女が招いたのですよ」

 突然の声に、リニアはぞくりと身を震わせる。声のした方を振り向くと、そこには赤い法衣を纏った男が薄い笑みを浮かべながら立っていた。

(いつの間に……)

 全身から一気に汗が噴き出す。いくらリニアが戦士でないとはいえ、男は真横に立っていたのだ。普通ならば気付かないはずはない。しかし、その男は目の前にいるにも関わらず、まるで存在していないようにすら感じるのだ。

「初めまして、赤珠の姫君」

 だが、彼の言葉は確かに重みを持っていた。そこでリニアはようやくその男が実在しているのだと実感する。

「貴方は、誰」

 リニアは出来るだけ動揺を抑えながら、静かにそう尋ねた。声を抑えたのはルークの注意がこちらに向くのを防ぐためだ。カイラスがヴァイス=セルクロードである以上、一瞬の隙も二人の戦いには大きな影響を及ぼすだろう。それがリニアの考えだった。

「お強いですね。それに、良い判断だ」

 男は何故か嬉しそうにそう言うと、視線を戦っている二人に移した。

「私の名はアレス。彼に、カイラス=シュナイダーに力を与えた者です」

 アレスと名乗った男の発言に、リニアの瞳には強い敵意が籠もる。力、その単語の意味をリニアは理解することが出来なかった。ただ、ルークとカイラスの会話から、カイラスが力を得たことが、最悪の現状を招いていることだけは理解していたのだ。

 その敵意に気付いていないわけではないだろうが、アレスはまるで動揺することもなく、言葉を続けた。

「そんなに睨まないで下さい。彼が望んだのは大きな力です。並の人間では得ることは手に入れることすら困難な力。得るために相応の覚悟はあって当然だとは思いませんか」

「その結果が魔物に変わることだというの」

「そういう事です。彼はそれを納得した上で獣の芽を受け容れた。護るべき者を護るためにね」

 護るべき者、その言葉にリニアは押し黙らされる。それを望んだカイラスの想いが解るからだ。自分とてどれだけ力を望んだことがあるだろうか。現に、彼女は今も見ていることしかできないのだ。

「何もできない。何も知らない。それは罪なのですよ。リニア=パーウェル」

 アレスは薄い笑いを浮かべながら静かにそう言った。

「カイラス=シュナイダーはヴァイス=セルクロードとなってキース=レイモンドにギルドマスターに並ぶ権力を与えた。全てはジェイク=コーレンの願いを叶えるために」

「ジェイク、さん」

 リニアにとって、そこでジェイクの名が出てきたのは意外だった。だが気付けない事ではなかったはずだった。カイラスはジェイクお抱えの情報屋だったのだから。

 リニアの中で、何かが繋がった。彼女にもようやく話が見えてきたのだ。何が現状を招くに至った原因なのかを。

 ジェイクは、この街を変えようとしていたのだ。リニア達がこの街に来るよりも前、ブラッディファングというジェチナの巨大勢力がまだ存在していた頃から。

 もちろん、それは彼だけで行えることではなかった。キース=レイモンド、アサシンギルドでも権力を持っていた彼の力が大きな要因となった。ジェイクとキースの交渉、それは初めから結果が決まっていたものだったのだ。

 この街に変革をもたらす計画は、ジェイク、キース、そして力の象徴であるヴァイスの存在により、実行されるはずだったのだろう。ルークが現れ、そしてリニアが現れるまでは。

「貴女とルーク=ライナス、貴女達の出会いがジェイク=コーレンにとっては誤算だった。貴女達の出会いはこの街を変革に導いたが、それはジェイク=コーレンが予測したものではなかったからです」

「私達の出会いが無ければ、私達がこの街を変えなければ、ギルドマスターにジェイクさんの計画を悟らせることはなかった」

 彼女の答えに、アレスは笑みを深める。

「さすがに理解が早い。その通りですよ。ですが、貴女がもしそれに気付いていれば、彼の死は変えることが出来た」

 アレスの出した答えに、リニアは心中で呻いた。彼が言っていることは結果でしかないことは解っている。また、それが正しいのかも解らない。

 しかし、それでも彼の言葉はリニアに大きな痛みを与えた。リニア達がこの街の変革の中心にいたのは紛れもない事実だからだ。そして、そういった事に胸を痛めるのがリニアという少女だった。アレスはそれを理解していた。

「確かに、私は自分を許せないかも知れない」

 リニアはゆっくりとそう呟いた。しかし、唇を強く噛むと、アレスの方を強く睨む。

「でも、私はそれ以上に貴方を許せない」

 彼女の台詞に、アレスの表情から初めて笑みが消える。リニアのその反応は彼の予想になかったのだろう。リニアは、アレスを睨んだまま言葉を続けた。

「貴方はこうやってカイラスも追い込んだんでしょう。でなければ、彼はこんな無茶はしないわ」

「なるほど」

 納得したのだろう。アレスは再び薄い笑みを浮かべる。

「確かにそれは認めます。ですが、貴女には何もできないでしょう。ならばせめて見守ってあげなさい。彼らの戦いを」

 何もできない。その言葉は再びリニアの心を抉る。しかし、彼女は静かに二人の戦いに目を移す。無力、それは解っている。だが彼女はそれから逃げることだけはしたくなかった。



 無数の氷柱が宙を舞う。

 ルークの瞳は、その全てを捕らえていた。難しいことではない。師が彼に与えてくれた技術はこの程度ではない。ルークは右手の二指に闘気を込めると、自分に迫ってくる氷柱のみを静かに斬り裂いた。

 ひどく精神が敏感になっているのが解る。それは、ルークの戦士としてのスキルだ。

「無駄だカイラス。それは、もう何度も見た。いくら強力なっているとはいえ、今の俺には無意味だ」

「そうだろうな」

 カイラスの返答に、ルークはぴくりと眉をひそめる。無意味だと解っていて攻撃を続けるほど、彼は愚かではない。それに気付くと同時に、ルークの直感は彼に危険を伝える。

「アイシクルバイト」

 だが、ルークがそれに反応するよりも先に、カイラスは言葉を紡いだ。そして、同時にそれまでカイラスが放った氷柱の欠片が、鋭い刃となって一斉にルークに向かって集束を始めた。

 アイシクルランスによって散らばった氷柱は数十をこえ、それはルークを取り囲んでいた。全ては、ルークの逃げ道を無くすための、カイラスの伏線だったのだ。

「くっ」

 ルークは思わず呻いた。もし、彼が魔術を駆使できたのならば、その攻撃から逃れることはそれほど難易ではなかっただろう。だが闘気は魔術に比べ、周囲的な攻撃、防御を不得手とする。もちろん、カイラスの攻撃はそれを見越してのものだった。

 だが――

「まだだっ」

 ルークはそう叫ぶと、その場にしゃがみ込み、地面に右手の掌を乗せる。そして右手に闘気を込めると、一気にそれを解放した。刹那、ルークの掌は地面に凄まじい衝撃を与え、激しい勢いで大量の土が舞い上がった。

 土の柱、そう表現するのが正しいだろう。それはルークを包み込みながら、彼に放たれた氷の槍を粉砕していった。

 土が、雨のように舞い降りる。ルークによって巻き上げられた土は上空で拡散し、落下しているのだ。そして、そこにはルークの姿があった。

「無傷、か」

 砂の雨に打たれるルークの姿を見て、カイラスは呟いた。元よりまともな効果を望んでいたわけではない。彼の能力は人智を越えると言ってもいい。だが、不意をつき、相手の弱点をついた結果が無傷なのだ。さすがに驚愕するしかない。

「俺はお前が怖い」

 そう呟いたカイラスに、ルークは訝しげな表情を見せた。だが、カイラスは構わず言葉を続ける。

「ジェイクの計画が半ば固まり始めた頃、お前は現れた。微妙な均衡の上に成り立っていたジェチナにとって、貴様ほどの能力者の到来はその存亡に関わるほどのものだった」

 カイラスの言っていることも、ルークには理解出来た。ジェイクの計画について、ルークがその全貌を知っているわけではない。だが、その大まかな内容は予測することが出来た。

「ギルドに強力な戦士を、エピィデミックに人心を集めることで、自分が新勢力として台頭するその時までジェチナの均衡を保つ。それが奴の計画だった」

「そう。だからこそ、強力な力を持ち、どういう動きをとるか解らないお前の存在は危険だった」

「だから、俺を弧扇亭に引き入れたのか」

 その問に、カイラスはしばらく沈黙する。だが僅かな間の後に、彼はそれに答えた。

「そうだな。中立の立場にある弧扇亭にお前を引き込むことでジェチナの均衡を保つ。それが最善の策だった。リニアが来てからは、それが正しかったのだと強く確信したよ。このまま変わらなければ良いと思った」

 それはカイラスの正直な想いだったのだろう。だが、だからこそ二人は戦わなければならなかった。

「ルーク、俺を殺す覚悟がないのなら、大人しく死んでくれ。俺は、生きた証が欲しい。ジェイクとジェシカ、そしてレーナを護ること、それが俺の望みだ。そのためには他の連中がどうなろうと、俺には関係がない」

「本当に、それでいいのか」

 ルークは静かにそう呟いた。少なくとも、カイラスも弧扇亭という空間を特別な存在として思っていたはずだ。それは、ルークにも解っていた。しかし、彼はそれさえも捨てようとしているのだ。その覚悟に行き着くまでに、どれだけの迷いがあったのかは、ルークにも良く解った。

 彼も、もし同じ状況に立たされたのならば、同じ行動を取るだろうからだ。

「それが、俺の生きた証だ」

 ただ一言、カイラスはそう呟いた。彼の言葉に決意したように、ルークは静かに拳を握りしめる。

「悪いが、俺はお前を止める。それが、お前を殺すことになってもだ。お前の望みの中に、俺が望む娘の幸せはない」

 ルークもまた、覚悟を決めていた。カイラスが特定の人間の幸せを望むように、ルークにも絶対に護りたいものがある。加えて、彼にはカイラスの行動によって、カイラスが望む、彼女らの幸せがあるとは思わなかったからだ。

 何より、ルークは彼を魔物に変えたくなかった。人の意志があるまま、彼を殺してやりたかった。

 そして、二人の戦いは終幕を迎える。


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