第四章 闇の領主
〜Turning point〜
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ルークが奇妙な感覚を感じ取ったのは、ヴァイスに戦いを任せたすぐ後のことだった。 リニアがいるというカイラスの隠れ家、そこまではまだ少し距離があったが、その方向から何とも言えない、不思議としか言いようのない感覚……、それをルークは感じていた。 それは邪眼を使用しているヴァイスから感じられるような感覚だった。だが、それとは似ているようで何かが違う。ヴァイスの雰囲気よりももっと身近に感じたことがある、そんな感覚をルークは受けていたのである。 (一体、何が起こっている?) 得体の知れないその感覚に、ルークは焦燥を募らせる。人は自分の理解を超えたものを感じたときに恐怖を覚える。ルークのそれも一種の恐怖だったのかも知れない。 だがその一方で、何故かルークは安堵感を覚えていた。何故だかは解らないが、リニアの無事を確信していた。 (とにかく、早くリニア達と合流しないと) 僅かに不安定になっている心を出来るだけ平静に戻しながら、ルークはカイラスの隠れ家へと急いだ。
カイラスの隠れ家に入り、階段を昇ったルークが見たものは、異常な光景だった。 ぼろぼろに痛んでいる壁、一部貫かれた天井、床に広がっている赤い水たまり、部屋の中に立ちこめる血の匂い。そして、驚いたように目を見開いているリニアと、背を向けている黒マントの人間。だが、それを纏っているのは―― 「あら、早かったのね。もう少しでリニアの精気が奪えたのに」 若い、女の声……。四ヶ月も聞き続けた、間違えることのない声だった。 「ディーア」 ゆっくりと振り返る女に、ルークは驚きを隠そうともせずに彼女の名を呟いた。彼女はその名を聞くと、身を凍らせるような冷笑を浮かべる。 ルークは、彼女の顔を見て再び驚愕した。その冷笑も、普段の彼女からは想像できないものであるのに加え、彼女の瞳は黄金色だったのだ。 「どういうことだ。ディーア」 警戒の色を強め、ルークは声を押し出すようにディーアに尋ねた。警戒しているのは、彼女が普段とは違う雰囲気を纏っているからではない。彼女の金色の瞳の意味を知っているからだ。 彼女は、ルークの態度を見て、くすりと小さく笑いながら、彼の質問に答えた。 「イウヴァルト、貴方が追っていた男のことなんだけど、彼に精気を集めるように命令したのは私なの」 「どういう意味だ?」 「解らない? じゃあ、私が元領主だと言えば、解ってもらえるかしら?」 領主、その一言はルークの表情を明らかに強ばらせた。彼は、それが示す意味をも知っていた。 「ヴァンパイアロード。なるほど、それで黄金の瞳か」 「ご名答」 話が上手く噛み合う二人に、リニアは驚愕する。ディーアの急変に頭を混乱させていたところに、この会話だ。彼女の驚きも無理はなかっただろう。 だが、ルークにしてみれば、それは異常なことではなかった。彼は以前から気付いていたのである。ディーアが闇の眷属であることに。 「貴方は初めから私に気を許していなかったものね。もっとも、信用はしてくれていたみたいだけれど」 「確かにな。だが、それも裏切られた訳だ」 「そうでもないわ。イウヴァルトを裁いたのはリニアを傷つけようとしたから。折角の私の獲物をね」 そう言うとディーアは動けないリニアの頬に優しく口づける。そして、その際に小声でリニアに話しかけた。 「無茶はしないから、もうしばらく我慢してね」 もちろんそれはルークには聞こえてはいない。彼の瞳には明らかに敵意が込められていたのがその証明だろう。しかし、その一言でリニアの混乱は次第におさまっていった。彼女が何をするつもりなのかは未だに解らないが、それが大切な事のようにリニアには感じられたのだ。 もっとも、心配がなくなったわけではない。ルークとディーア、この二人がまともに戦えば、無事ですむはずがないのだ。それでもリニアにはある種の確信があった。 ディーアはすっと立ち上がると、ルークとの対話を続ける。 「彼女は私の瞳に捕らわれているわ。それで、貴方はどうやって囚われのお姫様を助け出すのかしら? 早く助け出さないと、精気を奪っちゃうわよ」 ディーアは挑発を交えた言葉をルークに投げかける。彼女の言葉が本意でないのはリニアには解っていたことだが、ルークもそれには気付いていたようだった。 「目的は何だ? 別にリニアの精気を奪いたいのが本音ではあるまい?」 それが彼の言葉だった。彼はディーアの挑発に耳を貸そうとはしなかった。 「リニアの精気を奪うことが目的であれば、いつでも奪うことは出来たはずだろう? 今になってすることでもあるまい」 ディーアから放たれる雰囲気が特異であることには気付いていたが、それでも彼女を信用をしてたのは、リニアに危害を加えないであろうとは感じていたためだ。 「折角の小細工がこうもあっさり見破られるとはね。そう、別にイウヴァルトの件には私は関わっていないわ」 ルークの言葉は的を射ていたのだろう。ディーアはそう言うと、小さく笑った。それまでの冷笑の様なものではない。それには、僅かだが暖かい物が含まれていているのを感じた。 「でも彼が下らない野心を持ったお陰で面倒なことにはなったけれど、別れ際の状況としては最高の物を用意してくれたわ」 彼女はその言葉と共に、雰囲気を突然威圧的なものに変える。 「そう。目的はリニアじゃないわ。私の目的は貴方」 「なっ」 驚いたのは、ディーアの発した言葉だけではない。彼女を中心に収束しつつある精気にも、ルークは驚愕したのだ。その量も凄まじい物があったが、それよりも、目の前で起こっているような精気の流動は感じたことがなかったのである。 精気の流動が異質だということは、構成されている魔術が異質であることを示している。 「見せてみなさい。貴方の力を」 言葉が放たれた刹那、彼女は右手を前に突き出し、深い赤色の炎を召喚した。それは物凄い速さで、進路上にある全ての空間を飲み込みながらルークに突き進んでいった。 「くっ」 それが古代魔術であることはすぐに知れた。確かクリムゾンフレアという名の魔術であったとルークは記憶しているが、それを確かめている時間はなかった。 ルークは瞬時に足に闘気を込めると、それを用いて瞬発する。精気の流動を先に感じていたために、幾分か余裕は持てたが、それでもそれは僅かな差だった。 紅の炎は、そのまま部屋の壁を貫き、拡散する。 (脅威的だな。だが、それよりも、どういうことだ?) 彼女は目的は自分だと言った。ルークはそれに納得が出来なかったのである。おそらく今の一撃は彼女には当てる気がなかった攻撃だ。それを避けることに手間取ったのは、彼女の言葉に思考を遮られたためだ。 (俺の力だと?) 思い当たる節がないわけではない。ルークが用いている闘気は技法としてはかなり特殊な部類にはいると聞いたことがある。だが、それは今に始まった事ではない。この四ヶ月の間にディーアも何度も見ているはずだ。 そんな事を考えている間にも、彼女は次の魔術を放つために精気を収束し始める。 (くそっ、考えている暇はない) ルークはチッと舌打ちをすると、身体をぶれさせる。朧、ルークが攻撃をしかける際の常套手段だ。そして、いつものように彼の身体はその場から消える。 もちろん、実際に消えているわけではない。様々な要因によって、擬似的に消えたように見せかける技法なのだ。それによって相手が気付く前に、その死角に潜り込むのである。 しかし―― 「朧……。さすがにギルの教えを受けただけのことはあるわ。でも……」 ディーアにそれは見切られていたのである。ルークが死角にはいる前に、彼女はルークの方を向き、右腕を前に伸ばす。ルークは避けようとするが、加速した自分の速さのためにそれが叶うことはなかった。 ディーアはルークの首を右手で掴むと、すかさず一歩前に踏み出した。そして圧倒的な力でルークを押し出し、そのまま地面に叩きつけた。 「ぐぅっ」 気管を塞がれたまま背中に衝撃を受け、ルークは藻掻く。だがディーアの握力は尋常ではなく、振り解くことは出来なかった。 元々、彼女の腕力の強さは知っていたが、実際戦いにおいてこれほどの能力を示すとはルークは思っていなかった。呼吸を遮られ、ルークの意志は混濁たる深い底へと沈み始める。 「ギルから受け継いだ技は素晴らしいわ。でも、私が見たいのはそれじゃないの。貴方は、あの男の名前を受け継いだのでしょう?」 しかし、名前、その言葉にルークの瞳にいきなり憎悪が籠もる。ルークは、今までとは比べ物にならない力でそれを振り解くと、ディーアの腹を蹴り、彼女を突き飛ばした。 「はぁ、はぁ」 呼吸を整えながら、ルークは殺意的な光が籠もった瞳をディーアに向ける。そして、荒ぶる感情を抑えることなく、それを言葉に変え、叫んだ。 「答えろディーアっ! お前は、あの男を知っているのかっ!」 ルークの叫びに、ディーアは立ち上がりながら、僅かに口元を歪ませた。 「それを知りたければ、私を制してみなさい」 ディーアが言い終わるよりも先にルークは動き出していた。漲る力と殺意を、彼は抑えることが出来なかったのだ。 ルークは瞬時に彼女との間合いを詰め、信じられないほどの闘気が込められた拳を彼女に放つ。だがそれはディーアに受け流され、そのまま彼女の後ろにあった壁を穿った。 「無駄ね」 冷たい声がその場に響く。そしてルークはディーアの右手に精気が収束していくのを感じる。刹那、彼の身体が強い衝撃を受け、遙か後方へと弾き飛ばされていった。 「があっ」 腹部と背中に鈍い痛みが走る。腹部に魔導闘気を込めた一撃を受け、その衝撃で彼は壁に激突したのだ。だが、それでもルークの瞳から戦意は喪失していなかった。彼はゆっくりと立ち上がると、再び身体中に闘気を巡らせる。 しかしディーアはその様子を見て、冷ややかな瞳を彼にルークに向けた。 「そう。まだ足りないのね。やっぱり生け贄が必要かしら?」 その呟きの後に、ディーアはすっとリニアがいる方向に手を突き出す。嫌な予感が、ルークの中を走った。 「ディーアは彼女を気に入っていたようだけど、私にとってはどうでもいいわ。締め付けなさい」 そして、ディーアはその手を少しずつ握りしめていった。同時にリニアの身体には徐々に圧力が掛けられる。 「う、あっ」 身体を何かが締め付ける苦しみに、リニアは苦悶の声をあげる。それほど強い力ではない。だが、突然その力が加わったために、彼女は声をあげたのだ。しかし彼女の戒めは長く続くことはなく、すぐに解かれる。全ては、挑発だったのだ。 だがルークにはそれが解らなかった。渦巻く怒り、滾るように熱く流動する血、彼の中で何かが弾けた。 そして、部屋の中を一陣の風が流れた。次の瞬間、ディーアは危険を感じ、半ば本能で防御体勢にはいる。刹那、彼女は魔導闘気を巡らせた腕に強い痛みを覚え、一気に弾き飛ばされた。 それは、ルークの攻撃だった。今まで以上の速さで、今まで以上の力を以て放った一撃。それがディーアの身体に放たれたのだ。ディーアは痛みが広がっていく腕をさすりながら、小さく笑みを浮かべた。 一方で、リニアは驚愕の表情でそれを見ていた。突然、彼に収束し始めた精気、彼が見せた凄まじい攻撃、そして何よりも驚いたのは、彼の双眸だった。それはいつの間にか金色の光を放ち始めていたのである。 「そんなに死にたいのなら、殺してやる」 ずっと、躊躇いがあった。自分たちに危害を加えられている時にでも、どこかで彼女を信頼していたのだ。何も、彼女に対する信用は、リニアに危害を加えないであろうという感覚だけではない。ルークもまた、彼女の不思議な雰囲気に惹かれていた一人だった。 しかしリニアに危害を加えるとなると、話は別だった。ルークは、彼女に危害を加える者を許さない。たとえ、それが仲間であってもだ。それは強い怒りだった。 だが、先程までの荒々しい殺意とは全く質が違うものだ。リニアを護らなければいけないという、一種の使命感を含んだ感情だった。そして、それを感じたとき、先程までとは違う種の力が、身体から漲り始めたのを彼は感じていた。 「るーく?」 いつの間にか、リニアの声は出るようになっていた。不意に聞こえた彼女の声にルークは意識をとられる。ルークの視界に、赤い目を大きく見開いているリニアの姿が映る。それは彼の瞳からディーアの姿が消えたことを示すものだった。 (しまった) 自分の身体に不思議な力が漲ると同時に、彼は冷静さを取り戻していた。そしてルークは自分が犯してしまった失態に危険を感じる。すかさず視線を戻すと、思った通り、そこには既にディーアの姿はなかった。 「それが、見たかったの」 背後に彼女の気配を感じたときには既に遅かった。首筋に、刺すような鋭い痛みが走る。それが噛まれたのだと気付くのは、一瞬後、彼女がルークの背後から離れた時だった。 「何をした?」 血が流れ始めた首筋を押さえながら、ルークは彼女を視界に入れ、そう尋ねた。彼女は僅かに表情を曇らせながら、言葉を紡ぐ。 「私はただ種に水を撒いただけ。種が育つようにね」 「種だと? 何を言っている?」 ディーアは、ルークの問に答えを返さずに、言葉を続ける。 「きっと、因果律の環を貴方も感じる時が来る。その時、貴方には必ず力が必要になる」 「だから何を言っている?」 「リニアを、護りたいのでしょう?」 突然リニアの名が出たことで、再びルークに動揺が走る。 「力を感じなさい。それは、そこにあるのだから。それが彼女を守る力になる。必ずね」 言い終わると、彼女は黒いマントを翻し、リニアの方を振り向いた。 「ごめんなさいね。変なことにまで付き合わせて。ここでお別れだけれど、楽しかったわ」 「ディーア……」 「それと、それを、大切にしなさい。大事なものだから」 そう言って、ディーアはリニアの胸にある、銀色の珠を指さした。それはいつかルークから貰った物だった。意味は解らなかったが、リニアはこくりと頷いた。どうしてかは解らないが、彼女の言葉には説得力があったのである。 「それじゃ、私は行くわ。残念だけれど、彼のことは私の口からは教えられない。もし、知りたいのであれば、望みなさい。血が導いてくれるわ」 「待て、ディーア」 ルークの声に、彼女は振り返らなかった。彼女はそのまま炎の魔術によって開かれた穴に向かって歩いていくと、小さく呟く。 「さよなら」 その呟きが二人の耳にはいるのと、目映い閃光が部屋を包むのはほとんど同時だった。目を開いたときには、そこに彼女の姿はなった。そしてその時にはルークの瞳も、元の黒色に戻っていた。 こうしてディーア=スノウという女の失踪と共に、ジェチナで起きた事件は幕を閉じたのである。
☆★☆ 「ディーアが冥貴族ねぇ……。変な人だとは思っていたのよねぇ」「それは言えてるかも」 ディーアがジェチナを去ったその日、リニアは弧扇亭に集まった一同に、事の真相を話していた。ディーアがヴァンパイアだったこと、イウヴァルトをディーアが倒したこと、そして、ディーアがこの街を去ったこと。だが、意外にその反応は大きい物ではなかった。 彼女が異質な雰囲気を纏っていたのは皆が感じていたことだ。今更、ということだったのだろう。風の様な人だった。その彼女がいつか突然になくなることを、皆が感じていたのかも知れない。 だが、一同のその表情には明らかに寂寥が見て取ることができた。リニアやルークにもそうであったように、彼女は大切な仲間だった。
その中で、リニアは弧扇亭の裏庭で一人月を眺めていた。月を見ていたのには特に理由はない。何となくだ。そして彼女は何となく、首に掛けた、ルークから貰った珠を弄んでいた。 「どうして、あいつらに領主と、ヴェリスという名の話をしなかったんだ?」 そんな彼女に、後ろから声が掛けられる。それはルークの声だった。リニアは微笑みながら振り向くと、そこにはやはり見慣れたルークの顔があった。部屋に戻ってこないので心配して様子を見に来てくれたのだろう。表情には出さないが、彼が意外に心配性なのは、弧扇亭の皆が知っていた。 それはともかく、彼はその二つのことを、あの一見の後にリニアから聞いていた。だがリニアはそれを他の人間には話さなかったのだ。リニアはルークの問に、少し考えるような素振りを見せた後に、それに答えた。 「どうしてかな? ほら、やっぱり、ヴェリスっていう名前は、あんまり好かれている名前じゃないから」 その言葉を、ルークはすぐに納得する。 冥霊帝ヴェリス、圧倒的な戦闘力を有し、龍帝に仕えた女魔術士だ。龍帝の反乱以後、彼女は忽然と姿を消したが、今尚、その名を畏怖する者も、恨んでいる者もいる。それはジェチナの人間にも多く存在するのだ。 ディーアとそのヴェリスが同一の人間なのかはリニアには解らなかったが、あえてディーアの印象を悪くすることもないだろうと彼女は考え、それを話さなかったのである。そして、ヴェリスがディーアでいた時間が楽しいと言ったことにも理由があったのかもしれない。それはリニアも一緒だった。 「ところでルークこそ追わなくて良かったの? 結局、理解できないことが増えただけなんでしょう?」 リニアのその言葉に、ルークは僅かに反応する。 ディーアが残した言葉、その一つ一つがルークの心に酷く曖昧に残ったことは、リニアにも解っていた。その問にルークも「どうしてだろうな」と苦笑して返した。 「確かに今も頭の中が混乱しているんだけどな。何となく追えなかった」 追ってはいけないような気がしたのだ。言葉ではなく、もっと違うもので、ルークはそれをディーアに遮られたように感じていた。そして、それに暖かい想いが込められていたために、彼は追えなかったのだ。 「じゃあ一緒だね」 「そうだな」 そんな言葉を交わして、二人は微笑みあう。思えば、こうして笑いあえる空間を作ってくれたのは彼女なのかも知れない。そんな想いがリニアの頭によぎった。 (まぁ、いいか) 考えることはたくさんあったが、今日の出来事全てを受け入れた彼女は疲れていた。いつの間にか、彼女は小さな寝息をたて始める。 ルークはふぅっと小さく呆れたように微笑むと、彼女を静かに抱えてゆっくりと弧扇亭の中に入っていった。 月は、まるでそれを眺めるかのように、静かに輝いていた。
☆★☆ 漆黒の闇の中がある。そして、その中に二人の人間の影があった。一人は包帯のようなものに顔を覆った男、そしてもう一人は黒の地に、幾つかの赤い線が入った法衣を纏った黒髪の男だった。 「どうして、あんな男に力を与えた」 覆面の男は、静かにもう一人の男にそう尋ねた。その声には明らかに怒りが込められていた。だが男は、覆面の男――ヴァイスとは対照的に小さく微笑むと、彼に言葉を返した。 「イウヴァルトに高い冥貴の力を与えた事を言っているのですか? それとも、デイモスに彼を護らせた事を言っているのですか?」 「両方だ。更に、獣の卵まで与えていたな。どういうつもりだ」 ヴァイスは飄々としているその男に、不快感を覚える。しかし彼はそれさえも楽しむように笑っていた。 「どういうつもりも何も、私は力を欲している人間に、力を与えているだけですよ。だから貴方にも力を与えた。眷属の、イビルアイの力をね」 「くっ」 彼の言葉にヴァイスは呻く。 「私は楽しめればそれでいいのですよ。だから貴重な竜の力を与えたデイモスを殺されても、貴方に何も言わないのです。それとも、私と戦ってみますか?」 そう言って、男は妖艶な笑みを浮かべた。ヴァイスは、男の漆黒の瞳に冷たい感覚を覚えながらも、それを薙ぎ払う。 「もし、この街に危害を加えるというのなら、俺は誰とでも戦う。それが貴様であってもだ」 そう言いながらも、ヴァイスの額には珠のような汗が噴き出していた。男はそんなヴァイスの様子を見て、再び笑みを浮かべる。 「もちろん冗談ですよ。私は貴方のその直情的なところが気に入っているのです。その貴方を敵に回す訳がないではないですか」 その言葉が、ほとんど信用にならないものであることを、ヴァイスは知っている。この男はただ遊んでいるだけなのだ。自分たちが足掻く姿を見て。だが、今はそれで構わないと彼は考えていた。 今、何よりもすべきことは、この街を護ることだ。そのために、たとえ悪魔に魂を売ることになろうとも、彼はいとわなかった。 アレスと名乗るこの男に、踊らされている事を知りつつも、それは彼がこの街に対して唯一出来ることであり、使命であった。 ジェチナの街は、ディーアという風を送り出し、そして新しい風を迎えようとしていた。
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