第四章 闇の領主
〜Battle〜
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彼女らの目の前に現れたのは猿のような獣だった。 大きさは巨体と言われているバルクよりも二回り以上大きく、その身体は白い体毛に覆われている。更にその獣は卵のような物から変化したのだ。それだけでも目の前の獣が普通の猿でないことは伺えるが、何よりもそれを決定づけていたのは、その獣の目だった。 獣の瞳は殺意に満ちていたのだ。 だが、彼女らのそんな考えなど、全く関係ない様子で、黒マントの男は獣に命令する。 「シード、殺せ」 男の言葉をきっかけに、獣は動いた。その動きは巨体であるにも関わらず、凄まじく速く、ジェシカとの間合いを詰めたのだ。そして間髪待たずに、獣はその右腕をジェシカに向かって振り下ろした。 普通なら、間に合わない速さだった。だがジェシカは普通の人間ではない。実戦で戦ったことこそないものの、医療に役立つという理由で、彼女は兄であるジェイクから魔導闘気という技法を習っていたのだ。 ジェシカは足にそれを込め、一気に前に駆け出す。確かに巨体であるために、獣の腕は長く、攻撃範囲は広いが、かえって懐に踏み込めば攻撃をかわすことができると考えたのだ。 しかし、その判断は功を成さなかった。 懐に入ったことで、獣の攻撃は当たることはなかった。そこまでは良かったのだ。 「はぁっ!」 そして、ジェシカはすかさず拳に魔導闘気を込め、攻撃を放つ。その拳は確かに獣の急所を捕らえた。技術の熟練はないものの、医者として、人間に近い猿の急所を把握していたのである。そして、巨体であったが故に、的が大きくなったということも、彼女の攻撃が直撃した理由の一つだった。 だが、獣の身体は、魔導闘気を込め、絶大な威力を持っていたジェシカの拳を弾いた。 有り得ないことだった。如何に強靱な筋肉に包まれていようとも、生身の身体が、擬似的なものとはいえ、闘気を弾くなどとは考えられないことだ。だが、紛れもなくそれは目の前で起こったことなのである。 「なっ……」 予想外の出来事に、ジェシカは驚愕の声を吐き出す。だが、彼女が驚いている間に、彼女に獣の左腕が迫ってきていた。 (間に合わないっ!) ジェシカは防御のために、すかさず腕を交差させようとするが、それが無駄であることを瞬時に理解する。魔導闘気を巡らせている時間がないのだ。戦闘経験のない彼女がそれを判断できたのは、半ば奇跡的だったが、さすがにそれを防ぐまでの技量は彼女にはなかった。 しかし、そんなジェシカに突進してくる一つの影があった。その影は、ジェシカの身体を突き飛ばすと、彼女と共に店内の床を転がる。 「全く、戦いの経験もないのに無茶な真似しないでよね」 聞こえてきたのはレイシャの声だった。彼女がジェシカに突撃し、獣の攻撃から逃したのである。 立ち上がり様に、レイシャはすかさず懐から赤い小刀を取りだし、闘気を込め、そして腕を水平に振った。刹那、赤い閃光が煌めき、獣の心臓を穿つ。 闘気を物質に込めるのは、それほど簡単なことではないが、闘気が伝導さえすれば、それは殺傷力の高い武器となる。獣の身体を貫けたのはそのためだ。 獣は、胸を小刀に刺され、そのまま仰向けに倒れ込む。 「さあ、次は貴方の番よ。肩の分は、きっちり返させてもらわないとね」 レイシャは不敵に笑みを浮かべながらそう言うと、ビシッと男を指さす。もちろん、半分は演技だ。ヴァイスを手玉に取った敵を相手に、自分がどうにか出来ると思っているほど、彼女は自分の戦士としての技量に自信を持っているわけではない。 無論、全く自信が無いわけではないが、ルーク、ヴァイス、バルクの三人の能力は明らかに自分たちとはレベルが違うのだ。 (とにかく、私達が遅れをとれば、この男はリニア達を追いかけてしまうから、今の私の役目はルークが帰ってくるまでの間、この男を弧扇亭に引き留めておくこと。上手くあの二人がルークに出会ってくれていればいいけど……) 自身がすべきことを確認するために、彼女はそんな考えを頭に巡らせる。奇妙な卵から出現した獣を、一撃で仕留めることが出来たことが、彼女に落ち着いた考えを出来るだけの余裕を与えていたのである。 しかし、彼女の動揺は一気に膨れ上がることになった。 「なっ……」 目の前で起こった光景に、レイシャは絶句した。そして、それはジェシカも同じだったようで、彼女の緊迫した雰囲気が、レイシャにも伝わってきた。獣が、二人の目の前で何事もなかったように立ち上がったのである。胸に刺さった小刀は、引き抜かれ、傷口は淡い光を放ちながら、塞がれていく。 「まさか、あの程度でシードを倒せたと思っていたのか?」 嘲るように男が口にした言葉に、レイシャははっと我に返る。冷たい汗が、身体を流れるのが手に取るように解った。それが恐怖という感覚であることは、レイシャは気付いていた。 「あれって、魔物よね?」 自分の言葉に自信がないのだろう、ジェシカは確かめるようにレイシャにそう言葉を掛けた。しかしレイシャは強ばった表情を浮かべながら「さあ?」とジェシカに言葉を返す。 「私だって魔物なんて見たことはないわよ。第一、魔物が卵から孵るなんて聞いたことないわ」 それはジェシカも同じだだ。魔物と呼ばれる存在は、大陸の人間ならば誰でも知っているものだ。古来より人、いや、生命の天敵として存在してきた物……。それが魔物である。 だがそれは須く精気の収束により発生する物であり、卵から生まれる物ではない。しかも、それは特定の場所でのみ発生すると言われ、ジェチナのような街で発生するような物でもないのだ。 ジェシカだけでなく、戦士であるレイシャが魔物を見たことがないのもそのためだった。 しかし、彼女らの感覚は、それが普通の生物でないことを訴えていたのだ。そうなると、彼女らに思いつくのは魔物という存在しかなかったのである。 (傷口が再生している。しかも淡い光を放ちながら……。となると、やっぱり……) そして、その様な状況も、目の前の獣が魔物であることを証明していた。魔物は生き物ではないために、精気を取り込んで傷を癒すことができると言われているのである。 「君達が思っているように、彼は魔物だよ。もっとも、正確にはトゥースに魂を喰われた人間だがね」 男が口にした言葉に、二人は思わず息を呑んだ。 魂を食われる。その言葉に覚えがないわけではない。扱いきれない魔導の技法を使用したとき、人は魂を喰われ、魔物になると言う話は聞いたことがある。だがそれは、ジェシカやレイシャにとっては、お伽話程度の話であり、全く信憑性のない話だったのだ。 所詮、子供心に恐怖した存在であるのだが、そういった話であるからこそ、逆に恐怖というものが湧いてきたのである。 「彼女達が持っていったブラッディトゥースは、俗に魂喰いと呼ばれる代物だ。気の荒い精霊が宿っていてね。彼を制することが出来ない者が使えば、使用者はたちまち魔物になる」 その言葉に、レイシャはぎくりとする。今、その魔導器を持っているのはリニアとディーアだ。もし下手に発動でもすることがあれば……。そんな危惧が彼女の頭をよぎったのである。 だが、男はそれを感じたようで、不敵な笑みを浮かべながら答えた。 「トゥースを発動させるには特殊な術式が必要となる。普通の人間に扱えるものではないよ」 そして、男は言葉を付け足した。 「だから安心して君達はシードに殺されたまえ」 そう言って男が右腕をすっと上げると、再び獣の眼に狂気が宿った。そして、途端に場には精気が収束し始めたのである。 しかも、それを収束させているのは酷く洗練された術式だった。どういう構成が成されているのかは、複雑すぎてジェシカ達には解らなかったが、それが知性を持たない獣が構成できるものではないと言うことだけは、二人にも理解することができた。 「ウガアァァァァッ!!」 そして、唸るように吐き出したその雄叫びによって、魔術は完成した。ジェシカとレイシャの前には、煌々たる紅の炎が展開した。 魔術が放たれることを察知していた二人は、即座に守護系の魔術を構成していたが、それが気休めにしかならないことを一瞬にして悟らされる。 「ライトカーテン!」 それでも、二人は同時に光の幕のような物を、目の前に展開させた。しなければ、待っているのは確実な死だけだった。 だが、彼女らの予想通り、展開した魔術は獣が放った魔術によって難なくかき消されていく。そして、進路上の全ての空間を飲み込みながら、炎は二人の身体を包み込んだ。 幸運だったのは、二人が魔術を同時に発動させたことだろう。ジェシカとレイシャ、二人が展開した光の幕は、微妙に影響しあい、通常のものよりも強い防御幕となっていたのである。彼女達は、何とか生き長らえていた。 「い、生きてる?」 俯せに倒れながら、呻くようにジェシカはそう声を発した。 「なんとかね……」 一応、返事は返ってくるが、声に力が込められていないのはすぐに理解できた。発動した魔術の規模の大きさを考えれば、当然と言えば当然だろう。いくら威力が削がれたとはいえ、人に耐えきれるものではなかったのである。 「ほう。クリムゾンフレアを浴びてまだ生きているのか」 興味深そうに男は声をあげた。クリムゾンフレア、それは古代魔術と呼ばれる魔術の一つである。古代魔術の中では意外に知られている物であるが、高度な魔術構成能力を有さなければ使いこなすことは不可能だと言われているものであった。 「あれを浴びて生きているというのは称賛に値するが、壊れた玩具に構っている暇はないのでね。私はトゥースを持って逃げた連中を追うことにさせてもらおう」 男はそう言うと、何処からか十字架のような物を取り出し、それを眺める。 「南か。まだ、それほどは離れていないな」 「南?」 訝しげな声をあげたのはジェシカだった。男が言っているのは十中八九リニア達の居場所だ。訳の解らない奇術を使いこなすのだ。彼女らの居場所が判る程度では驚かなっていた。だが、ジェイクの営む病院は弧扇亭から北側にあるのだ。 「なんで、そんなところに……」 思わず口にした言葉に、男は小さく笑みを浮かべた。 「なるほど、君達の思惑とも異なる展開になっているらしいな。どうやら面白くなってきたようだ」 男はそう言うと、黒いマントを翻し、弧扇亭の裏口の方へと歩いていく。 「そう簡単に、行かせるわけないでしょう」 涼しげな顔で自分たちの横を通過しようとする男に、レイシャは身体に残った力を振り絞って魔術を構成する。だが、瞬間、丸太のように太い足が彼女の身体を蹴り上げた。 「げほっ」 そんな苦悶の声を吐きながら、レイシャの身体は宙を舞い、彼女の身体は店のカウンターに叩きつけられる。カウンターの方も、レイシャが衝突したことによって、ドガッという音をたてて崩れ去る。 「レイシャ!」 ジェシカの悲痛な叫び声があがる。そして同時に、男の笑い声が店の中に響きわたった。 「そうだったな。壊れた玩具は、ちゃんと片づけておかねばな。シード、遊ぶなり喰らうなり、好きなようにするがいい。もうしばらくすれば、他にも獲物が来るようだからな」 男はそう言い残すと、静かにその場を去っていった。そして、場にはジェシカ達だけが残された。 (最悪の状況ね……) ジェシカは心中でそう呻いた。男を足止めすることも出来ず、自分たちはこうして危機にさらされている。そう思った刹那、ジェシカは突然冷たい汗が噴き出してくるのを感じた。二度目の恐怖、それは死への恐怖だった。静かに、獣はジェシカに歩み寄ってくる。 死が眼前に迫ったのは、今が始まったことではない。だが、今回は今までとは違う。戦うことも出来ず、逃げることもできない。目の前にあるのは、絶対の死だけだった。 (死にたくない) そう思ったのは、獣が右腕を振り上げた瞬間だった。不意に、脳裏に一人の男の顔が浮かび上がる。 (こんなことなら、変な意地、はっておくんじゃなかったな) 半ば諦めかけたとき、一筋の閃光が獣の身体を貫いた。突然の出来事に、ジェシカは目を丸くするが、それが魔術であることは、精気が流動しているのを感じ、理解する。そして、それを理解するのと同時に、聞き慣れた声が耳に入ってきた。 「大丈夫か、ジェシカっ!」 魔術が放たれた方を見ると、そこには金髪の青年の姿があった。彼は酷く息を乱しながら、すっと右手を突き出していた。 「か、カイラス……」 彼の姿を見て、ジェシカの身体から力が抜けていく。危険が過ぎ去った訳ではないのは理解している。だが、思わぬ助け船が入り、ふと気が抜けたのだ。 「どいていろ、ジェシカ。仕留める」 カイラスは手に持っている銀色の珠玉に精神を集中する。刹那、珠玉に光が収束していく。 「レイストライクっ!」 そして、息を吐き出すと同時に、カイラスの手の珠玉から握り拳大の光の球体が出現する。カイラスはそれを一度握りしめると、思い切りそれを放り投げる。だが、それは獣の前で弾けた。 「魔導障壁だとっ」 予想外の出来事に、カイラスは思わず叫んだ。しかし、それが大きな隙となった。獣の身体は一気に加速し、カイラスとの距離を詰める。そして獣はその強靱な握力でカイラスの首を掴んだ。 「がぁっ」 呼吸を止められ、カイラスは藻掻くが、身体を宙づりにされ抗うことは出来なかった。だが、今度は別の方向から閃光が放たれ、獣の頭に衝突する。もっとも、魔導障壁によってその威力はほとんど削がれていたが、一瞬だけ獣の注意はカイラスから外れたのだ。 カイラスはその期を逃さなかった。彼は袖の下から一本の糸のような物を取り出すと、それを獣の腕に巻き付け、一気にその両端を引いた。同時に、獣の腕は宙を舞う。 「名のある創師が作った鋼線だ。ついでにこれも喰らっておけっ!」 カイラスはそう言って魔導闘気を込めた右拳で獣の顔を殴り飛ばす。そして、その反動を利用してカイラスは獣との間合いをとった。 「ガアァァァァァッ!!!」 腕を切られたこともあるのだろう。獣の眼に込められた狂気は、更に強い物となる。そして、獣の身体を中心に再び精気が収束し始める。 「させるかっ!」 カイラスには、獣が発動させようとしている術式が読めたのだろう。彼は銀色の珠玉を右手に持ち、意識を集中させる。刹那、カイラスを中心に獣と同等の、尋常でないほどの精気が収束する。 そして、カイラスの魔術は、獣の物よりも先に完成する。 「大地よ、重力の戒めとなりて我が敵を押しつぶせ!」 彼はそう叫ぶと、獣の頭を飛び越え、その背後を取り、獣の背中に右手をのせる。 「グラビゲーション!」 瞬間、カイラスの右手を中心に、凄まじい重力の場が発生した。そしてそれと同時に獣は魔術を放ったのである。しかし、重力は炎を巻き込みながら獣の身体を焼いていった。もちろん、カイラスの放った魔術は、信じられないほどの力で獣の身体を押しつぶしていく。 しばらくして、獣の身体は動きを止めた。 「さすがに、これだけやれば大人しくなるだろう」 酷く疲れた様子で、カイラスはそれだけを言うと、大量の汗をかきながらその場に座り込む。本来、彼の能力で使いこなせる物ではないのだ。 ジェシカは、その魔術を知っていた。かつてジェチナ最大の勢力として君臨したブラッディファング、その総帥である男が使っていた魔術だ。 だがその男は二年前、一人の男との戦いによって命を落としていた。それによって、その魔術は魔導器と共に、その息子に受け継がれていたのだ。 「カイラス、それ……」 ジェシカは、カイラスがそれを使うことを躊躇っていたことを知っていた。だから、ジェシカは何かを言わなければならないような衝動に襲われる。だが―― 「良かった。大丈夫だったんだな」 カイラスは安心したようにそう言うと、小さく笑った。ジェシカは何を言いたかったのも忘れ、同じく笑みを浮かべる。 「お邪魔して悪いんだけど、誰か忘れてない?」 何となくいい雰囲気の二人に、一人の女が声を掛ける。見ると、レイシャが二人の方をじぃっと何か不服そうに見ている姿があった。 「まー、いいけどね」 不機嫌にそう言うレイシャに、二人は同時に苦笑を浮かべた。 しかし、突然レイシャの顔から笑みが消える。二人がそれに危惧を覚え、後ろを振り向くと、そこには全身を焼かれ、肉が爛れた獣が立ちあがっていたのだ。 「まだ、生きてやがったのかっ」 カイラスは何とか魔術を構成しようとするが、酷い虚脱感が身体を襲い、それができなかった。獣は、三度深紅の炎を召喚しようとする。カイラスはジェシカだけでも護ろうと、彼女を抱き寄せた。 しかし、獣の魔術は、いつまでたっても放たれることはなかったのである。奇妙に思い、見上げると、そこにはルークが立っていた。獣を見ると、それの脳天がルークの指で貫かれていたのである。 途端に、魔物の身体は光出し、その光は帯状に展開し、一カ所に収束していく。そしてそれは一つの宝石のような石になった。 「魔物を倒すには、核を貫くのが一番だ。この街の人間は、そんなことも知らないのか?」 呆れたようにそう言うルークに、カイラスは苦笑しながら答えた。 「まったく、いつも美味しいところとっていきやがって」 そんな彼に、ルークはこほんと咳をし、言葉を返した。 「そういう意味では、お前も美味しい思いをしていると思うのだがな」 「え?」 不思議そうにカイラスは声を揚げるが、すぐに自分がジェシカを抱いている自分を思い出す。カイラスは未だジェシカの肩を抱いたまま、「ははは」と笑うが、逆にジェシカの拳が飛び、カイラスの頬を捕らえる。 「いつまでくっついてるのよ」 酷く照れながらジェシカはそう言ったが、しばらくして、彼女はもう一度口を開いた。 「ありがと。カイラス」 静かに言ったその言葉に、カイラスは小さく、満足そうに微笑んだ。
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