リニアの日記

第三章 許されざる罪
〜Runaway〜




(知りたいと思うことは、罪ですか・・・・・・)

 もしそれが罪だというのなら、彼女はそれを知りたいとは思わなかっただろう。そしてもしそれが罪で無いというのなら、今ここに彼がいない理由を、彼女は見つけることができなかった。

「ルーク・・・・・・」

 起きたとき、いつもならば側にいるはずの彼がそこにはいなかった。ただ、いつか女将さんが作ってくれたテーブルの上に、一通の置き手紙だけが残されていたのである。

「はぁ」

 リニアは食堂のカウンターに座りながら、小さくため息をついた。食堂の中はがらんとし、周りには誰もいない。もう閉店時間をいくらか回っており、かなり時間が経っているのだ。そうなるとここは宿に住んでいる一同が食事をとる時間帯まで誰も使うことがない。

 リニアはそんな静寂の中で一人、物思いにふけっていた。

(どうして、いなくなったの?)

 そう心の中で呟くのは何度目だろう。彼女は昔からずっと孤独を恐れていた。

 現に今も言い表せないような不安にかられているのだ。今は正確には孤独ではないが、ルークが自分に何も言わずに宿を出たのは、やはり辛い物がある。例え、『故神祭までには戻る』という書き置きが残されていてもだ。

 彼でさえ自分の前から姿を消したのだ。その事実が、彼女をひどく不安にさせる。

 孤独が、怖い――

***

「ねぇ。あの子、本当に大丈夫なの?」

 カウンターに顔を伏せるリニアを、窓の外から見ながら、少し心配そうな表情でレイシャがそう尋ねた。

 尋ねた相手は、仕事を終え、弧扇亭に訪れたジェシカとカイラスだ。来たときには、既にルークの失踪の話は彼らにも伝わっていたらしく、状況を良く理解していた。だがレイシャにとって不思議だったのは、彼らがリニアに声を掛けようともしなかったことである。

「放っておくなんて、結構冷たいのね」

 続けて出た彼女の言葉に、ジェシカは眉をぴくりと動かし、顔をゆがめた。

「私だって、言葉くらいかけてあげたいわよっ!!」

 そして堰をきったように、彼女はレイシャをキッと睨むとそう怒鳴りつける。レイシャは突然のジェシカの豹変ぶりに明らかな戸惑いを見せた。ジェシカの瞳には、強い憂いが込められていたのだ。

 だがレイシャもそれで引くような性格ではない。彼女はジェシカを睨み返すと、負けじと声を張り上げる。

「ならかけてあげればいいじゃないっ!」

「何も解っていない貴女が、言う言葉じゃないでしょう!」

「いい加減にしろよ二人ともっ!!」

 険悪な雰囲気に突入しつつある二人に、戒めの言葉を口にしたのはカイラスだった。普段なら有り得ないカイラスの怒鳴り声に驚いたのだろう、一瞬二人の身体はびくっと震える。

「レイシャ、お前の言うことももっともだけど、リニアにとってルークは特別なんだ。そのことで俺達がどこまで口を出していいか解らないほどに。俺達が下手に口を出せば、傷つくのはあの子なんだ」

「・・・・・・。でもっ!」

 諭すようにカイラスがそう言うと、レイシャは何か納得のいかない様子でその言葉に抗おうとする。だがその前に彼女は、窓の向こうに座っているリニアの側に人が居ることに気付いた。

「あ、ディーア・・・・・・」

「え?」

 レイシャの不意の声に、カイラスとジェシカはきょとんとしながら後ろを振り向く。するとそこには彼女が言うようにディーアがいた。

***

 リニアが気付いたときには、ディーアはリニアが伏しているカウンターの向かい側に座っていた。気付かなかったのも不思議な話だが、もっと奇妙なことにリニアは何故かそれを当然のことのように受け止めていた。不思議な女性としか言いようがない。

 窓の外ではディーアの行為に怒りを露わにしたジェシカと、それを諫めているカイラスの姿があったが、それには二人は気付かなかった。

 ディーアが微笑んでいたからだ。だがそれはいつもの笑顔ではない。ひどく静かな、そして小さな憂いが込められた笑み。それが彼女の美しさを一層引き立たせていた。一言で表現すると、見とれていたのだ。

 彼女はひらりと身を翻してカウンターを飛び越えて来ると、リニアの隣に座って、彼女の瞳を見つめて言った。

「探さないんですか?」

「え?」

 前置きもなくそう尋ねられ、リニアは少し驚いたように声をあげた。それがルークの話であるのは、すぐに気付いた事である。

 リニアは表情を曇らせながら俯くと、少しの時間をあけた後にそれに答えた。

「こ、故神祭には戻ってくるって書き置きもあったし、それに・・・・・・」

 リニアがそんな言葉を吐く間も、ディーアはその瞳を反らさなかった。それ以上、誤魔化しの言葉を吐くことはリニアには出来なかった。確かにルークは書き置きを残している。本来なら不安になる必要はないのだろうが、どうしても不安が拭いきれないのだ。

 こうして心配してくれる仲間もいるはずなのに、孤独の恐怖から逃れられないのである。

 リニアは言葉を詰まらせ、どうしていいか解らない自分に苛立ちを感じながら、唇をきゅっと強く噛んだ。

 強くなったつもりだった。少なくとも父親を失ったあの時に比べては。それがこの様だ。弱い自分が腹立たしかった。

 だがそんな彼女を、ディーアはそっと優しく抱きしめると、小さな声で彼女に囁いた。

「リニアさんは、もう少し自分に素直になった方がいいです。それにきっとルークさんも」

「え?」

 そこでルークの名前が出てくるのはリニアには意外だった。だがディーアはそんなリニアの戸惑いには構わず言葉を続ける。

「あんなに近い場所にいるのに、何が不安なんです?」

 ディーアはリニアの頭を撫でながら、静かに、まるで子供をあやすかのようにそう尋ねた。まるで母親のように・・・・・・。

「ルークが傷つくのを、見たくないの。本当は、ルークのこと知りたいのに、でも、それを聞いたらルークが凄く傷つきそうで、それが怖いの」

 同じ痛みを知っているからこそ湧き起こる躊躇い。罪だと感じる想い・・・・・・。ずっと伏せてきた想いだったのに、何故か彼女には素直に言えた。ほとんど感じたことのない母親の匂い。それに惹かれたのかもしれない。あるいは、ディーア自身の魅力に。

 ディーアはリニアの背中を優しく撫でてやると、ゆっくりとそれに答える。

「私の持論ですけど、弱いことは悪い事じゃないと思います。それに人には知られたくない想いがあることも。でも、相手を本当に求めたいのなら、ゆっくりとでも心を開いていくべきです」

――例えそれが自分や相手を傷つけるとしても――

 口には出さなかったが、ディーアはそう言っているようにリニアには思えた。もしかしたら自分の勝手な解釈かも知れない。だけど、それは彼女の次の言葉で確信に変わった。

「それに、きっと彼は傷ついている。今のリニアさんのように、大切な人を傷つけるのを拒んで。想いを、誰にも話すことが出来ずに。だから、行ってきてください」

 そしてもう一言

「大切な人を失うのは、辛いですから」

 きゅっと、リニアを覆っている腕の力が強くなるのを、彼女は感じる。

(ディーアも、なんだ)

 その時、初めてディーアのことが理解できたような気がした。掴み所の無かったのに、今はこんなに身近に感じる。だがやはり何故かそれが当然のことのように感じられるから不思議だ。

(誰に似ているの?)

 それは初めてディーアと出会ったときに感じた疑問だ。そしてずっと心のどこかで引っかかっていた疑問でもある。でも、それはもうどうでも良かった。彼女はディーア=スノウという人間なのだから。誰に似ているかなど、もう関係がなかった。

「私、探してくる」

 優しい胸に抱かれている感覚から離れるのは少し名残惜しかった。だが、リニアはディーアの抱擁から身を解放すると、強い意志を含んだ赤い双眸をディーアに向け、はっきりとした口調でそう言った。

 今から自分がしようとしていることの結果が怖くないわけではない。しかしそれよりも今はルークに会うことが自分がすべきことだと感じていたのだ。

 ディーアがいつもの微笑みを浮かべながら、こくりと頷いたのを確かめると、リニアは駆け出すように弧扇亭を出た。手がかりはない。だがもしルークの行方を知っている人がいるとすれば、あの人だけだとリニアは確信していた。

 ルークがジェチナに来て、僅かであるが一番最初に心を開いた人物――ジェイク=コーレン。リニアは彼の経営する病院へと向かった。

***

 罪がある。決して許されない罪。そして許したくない罪・・・・・・。

(許せるものか・・・・・・)

 何度、彼はそう自身に言い放っただろうか。許されないのは、彼自身が犯した罪だ。毎年、この時期になると彼の罪悪感は留まることなく大きくなる。

 大切な人がいた。絶対に護りたい人がいた。例え、どんな痛みをともなうとしても、側についていたい人がいた。

 あの人が、自分をあの男の代わりとしてみていたこともルークは知っていた。だがそれでも良かった。あの人が、幸せでいてくれたのなら・・・・・・。笑っていてくれたのなら・・・・・・。それで十分だった。

 でも、あの人は最後に言ったのだ。『ごめんね』と・・・・・・。

(あの男の代わりを務めることすら、俺にはできなかった・・・・・・)

 あの人が誰よりも愛した男・・・・・・。あの人を置いて、街から消えた男・・・・・・。顔すら見たことのない男・・・・・・。そして、ルークが最も憎んだ男・・・・・・。

 しかしそれでも、自分を否定することになっても、ルークはその手に掴んでいたかったのだ。あの人の微笑みを。

 だがルークは罪を犯していた。愛する者を憎む罪、そしてそれによって愛する者を傷つけていた罪・・・・・・。誰よりも護りたかったのに、誰よりも傷つけていた。それがルークが犯した罪だ。

「母様・・・・・・」

 ルークは暗闇の中で、俯きながら愛していた者を呼ぶ。返ってくる答えなど無いことを知りながら・・・・・・。彼女は、もう死んだのだ。

 だが――

「ルークっ!!」

 一つの声が漆黒の闇の中でこだまする。聞き間違えることのない声だ。この半年間、ずっと同じ時を過ごした少女の声。

 顔をあげると、そこには大きく息をきらしたリニアが、静かに立っていた。




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