第二章 彷徨いの迷い子
〜Icy lightning〜
自分を取り巻く事態が良くなった訳ではないことを、リニアは良く理解している。 彼女がジェチナに来て、丁度一週間が過ぎようとしていた。先日の宿屋での騒ぎの後、リニアはルークとともに住居を移していた。今までいた部屋では場所が割れているということで、部屋を変えることにしたのだ。
話は数日前に遡ることになる。 「私は絶対反対よ!!」 病院の小さな部屋の中に、若い女の怒鳴り声が響きわたる。リニアはびくっと身体を振るわせると、思わずその声の主を見た。 羨ましくなるような艶やかな長い黒髪をなびかせながら、目の前に座っている男に対峙しているその褐色の肌の女性は、医者の卵であるジェシカだった。 ちなみに彼女と机を挟んで会話をしているのは、彼女の兄ジェイクである。こちらは正真正銘の医者だ。 「仕方ないだろう。今はアサシンギルドの動きが活発過ぎる。下手にリニア君を動かすのは危険だ」 話の内容は、リニアを半ば監禁状態で保護をするというものだった。こちら側が動きを見せなければ、連中もリニアを見つけることはできない。 更に言えば彼女がかくまわれる場所の情報を知るのは、その場所を用意したジェイクと、当の本人であるリニア、そして彼女の護衛をするルークのみである。ジェシカにすらその情報は教えられていない。 ジェイクがギルドに狙われるという考えも出来るが、アサシンギルドはこのジェチナを護る治安維持機関だ。一般市民、しかもジェチナでも数少ない医者を襲うというような、ジェチナの民に反感をかうようなことはみすみすしないだろうというのが、彼の見解だった。 「でもギルドの警戒は何時収まるか解らないのよ。長引けばいつかはばれちゃうだろうし、リニアの精神にも良くないわっ」 彼女の言うことももっともだった。隠者生活といっても、人である限り食べ物や水が必ず必要となる。そしてそれらを補充するためには何かしらの動きが生じさせてしまうはずなのである。それをギルドが見逃すとは思えない。 それにいくら大人びていると言ってもリニアはまだ子供だ。狭い部屋の中で長い間過ごさせるのはあまり良いことだとは思えない。 だがそれに口を出したのは、それまで暇そうにあくびをしていたカイラスだった。 「でもよ、リニアは赤珠国の王家の一員なんだろ? そんな要人なら赤珠国の捜索隊が動き出してもおかしくはないだろ」 リニアがルークに自分の身元を打ち明けた翌日、彼女は彼らにも自分が赤珠国王家の分家であるサハリン家の人間だという事実を話していた。ルークの予測を聞いていたジェイクはともかく、ジェシカとカイラスはひどく驚いたような表情を浮かべた。 だが、それを隠していたことをどうこう言う様子はなく、逆にそれを打ち明けてくれた事に対し、喜びを覚えたらしく、二人はより優しくリニアに接してくれるようになった。 優しく接してくれる人たちに、嘘を言っていたことに罪悪感を覚えていたリニアは、それにひどく助けられたのだ。 「それに、強行突破は不可能に近い」 静かな口調で話を進めたのは、ルークだった。一同は彼の言葉に耳を傾ける。 「連中には何人か切れ者のブレーンがいる。こちらが下手に動けばすぐにさとられる。そうなると前も話したが、リニアを連れての強行突破は無理だ」 「確かに、リニアを危険な目にあわせるわけにはいかないものね」 ジェシカは、ようやくそれを認めたように呟く。だが、その表情にはまだ納得の色はない。 (変だな) 不意にリニアはちょっとした違和感を感じる。ジェシカは確かに感情的な性格ではある。だが納得がいかないことを認めるような性格ではないはずだ。そうであればルークを53発も殴ったりはしない。 (私を気遣ってくれているとも思えるけど、それだけじゃない・・・) 心に引っかかる何かの答えを導き出そうとするが、考えがまとまる前に話は進んでいた。 「というわけで、しばらく窮屈な生活になると思うが、いいかね?」 「え? あ、はい」 突然掛けられたジェイクの言葉に、一瞬戸惑うが、彼女はすぐにその意味を理解し、そう答えた。 話に出ていた生活は、特にどうというものではない。ただ狭い部屋でルークと過ごせばいいだけだ。ほとんどここ2、3日で体験した生活と変わらないものだ。何かと騒がしいジェシカとカイラスを見れないと言うのに対しては、少し残念な気もするが。 しかし何よりも『彼』は護ってくれると言ったのだ。それを信じたい、そんな気持ちがリニアの心を占めていたのである。 「御迷惑をかけると思いますが、よろしく御願いします」 リニアのその一言に、四人は同時に強く頷いた。
何故こんなにも安らぐのだろうと思う。 ずっと独りになるのが怖かった。だから自分を認めてくれたあの人が大好きだった。私を必要としてくれた人・・・。血の繋がりが無くても、私を娘だと言ってくれた人・・・。 「あなたたちがなんといお〜と〜、み〜ちゃんはわたしのむすめです〜」 いつものように、間延びした、緊張感のない口調だったけれど、それはすがるものを必要としていた少女にとっては、これ以上ない救いの言葉だった。 父が生きていた頃はそんなに好きでなかった人だ。父を奪った事を恨みもした。だけど、父の死後、自分を暖かく受け入れてくれた人はあの人だけだった。 (私に安らぎをくれた人・・・) そう。あの人といると凄く安らげた。まるで全てを包み込んでくれるような、そんな安らぎ・・・。でも、『彼』がくれる安らぎは、それとはまた別の物だった。 「どうした? 眠れないのか?」 不意にかけられた言葉に、ベッドに寝そべっていたリニアは、その声の主の方に首を向けると、小さく首を振った。 そこは小さな部屋だった。彼――ルークが住んでいたところと、ほとんど変わらない部屋・・・。それもそのはずだろう。彼らが移住してきた所は、ルークが借りていた宿の隣の部屋なのだ。 「灯台下暗しともいうだろう」 ジェイクのその言葉に騙されたような気分になりながら、リニアとルークはこの部屋に越してきたのだった。元々部屋の家具は備えつけのものであることもあり、ルークの部屋とほとんど変わらないのである。 「大丈夫、考え事していただけだから」 そう言ってリニアは小さく微笑む。 リニアに声を掛けてきたのはルークだった。彼はリニアと同じベッドの上にいた。ルークがジェシカに叩き起こされた時もそうであるが、ルークと同じベッドで寝るのはリニアの習慣となっていた。ルークに手を握られていると、ひどく安心するのだ。 それに加え、ルークの支えになっているという充実感もあった。 ルークの眠りはひどく浅い。本人が言うには、あまり良い夢を見ないというのだ。そのせいかどうかは解らないが、ルークが度々うなされる事があるのに、リニアはこの数日間一緒に寝ていて気付いていた。 『うるさいっ! 黙れと言っているっ!!』 そう怒鳴りながら目を覚ました時にはさすがに驚いたものだ。 (みんな、色々な事に縛られているんだ) ふと、リニアはジェイクの病院でのとある出来事を思い出した。
「お前、少し変だぞ」 とカイラスが言う。それはリニアも感じていたことだ。明らかにジェシカは自分をここに置いておきたくないような様子だった。 「うるさいわね」 当のジェシカは、ひどく沈んだ様子で、項垂れながらそう答えた。会ってそれほど時間が経っているわけではないが、それはリニアが初めて見る光景だ。 「なら俺の所に来るなよ。俺はいつまでもお前の面倒なんて見てられねぇぞ」 「うるさいって言ってるの、年下のくせに。昔はあんたの方が面倒かけてたでしょ」 「へいへい」 半ば呆れたようにカイラスはそう返した。慣れているところを見ると、二人にとってはそう珍しいことではないのだろう。 しばらく場には沈黙が続く。が、少し時間が経った後に、不意にジェシカが口を開く。 「巻き込みたくないのよ。リニアを」 呻くように言葉が絞り出る。 「お父さんとお母さんはギルドの礎になって死んだわ。キャランやフォーカスもこの街の抗争に巻き込まれて死んだ・・・。兄さんはそれが許せなくてエピィデミックに加わったわ・・・」 次々と出るジェシカの苦悶の声を、カイラスは黙って聞いていた。彼にもジェシカの言いたいことが解っているのだろう。 「自分から来たルークは別にしても、あの子は望まないで来たのよ! もう、この街に運命を狂わされる人間を見たくないのよ・・・。」 そう言って彼女は再び項垂れる・・・。カイラスは、ばつが悪そうに頬を掻きながら、ジェシカのその様子を見守っていたが、すぐに表所を戻し言った。 「だから俺らが動いてるんだろ? 何処まで出来るか解らねぇけど、やれるときにやれることはする。お前の親父さんの受け売りだぜ」 「そ、そんな事、解ってるわよっ!」 ジェシカは途端に元気を取り戻し、そう言った。おそらく父親、という単語が聞いたのだろう。彼女は何故か怒ったような表情で立ち上がると、一瞬だ表情を和らげ、一言だけ小さく呟いた。 「ありがとう」 と・・・。
リニアはしみじみとそう思う。 (無駄にしたくない・・・、みんなの気持ち) だからリニアは思った。必ず戻ってみせると・・・。それが自分を護ってくれる人たちにできる、最大の恩返しだと思ったから・・・。 いつの間にかリニアは深い眠りについていた。ルークの手の温もりを感じながら・・・。
部屋を変えて数日間は、特に大きな変化を見ることはできなかった。といっても、部屋からほとんどでない生活なので、あまり確かなこととは言えないが、少なくともリニアに危険が迫るような事はなかった。 だがそれが起きたのは、丁度リニアがジェチナに来て2週間が過ぎようとしていた頃だった。
だがその日の夜、いつものように寝ていたルークはひどい違和感を感じたのだった。 「リニア・・・、起きているな?」 「あ、うん。」 それは意外な台詞だった。ルークは寝むれないことを心配するような台詞は言っても、眠りを妨げるような台詞は一度も口にしなかったのである。だが今のルークからは明らかにリニアを起こそうとする意図が伺えた。 「どうしたの?」 不思議そうにそう聞くと、ルークは小さな声で答えた。 「何者かが、この宿を包囲している・・・。相当な数だ」 ルークがそう言い終わる前に、下の階から宿屋の女将の怒鳴り声が聞こえてきた。 「一体何の用だいこんな夜に!! この街の人間なら知らないはずはないだろ、掟をね」 「女将、悪ぃな。用があるのはこの街の連中じゃないんだよ」 続いて聞き覚えのある男の声。それは確か・・・ 「鉄の爪、バルクか」 忌々しそうにルークが呻いた。 ジェチナアサシンギルド、暗殺者の双頭・・・。とは言ってもジェチナの暗殺者は一般にそう呼ばれる人種とは明らかに異なる。彼らはあまりに血にまみれたためにそう呼ばれるようになっただけであり、闇の中で人を殺める技能を積んだ人間ではないのだ。 しかしだからこそ、戦いにくい相手でもある。特にこのバルクという男は戦いに執着する人間だという。おそらく、今度はこの前のように退きはしない。 「リニア、逃げる用意をしておけ」 「はい」 とは言っても、このような状況を想定し、普段着で寝ていたために、それほどすることもない。そんなことを考えている間にも、女将さんとバルクの言い争いの声は近づいてきた。 「ジェフ、ハムス、その鬱陶しいのを押さえつけておけ」 「何するんだいっ! こらっ、馴れ馴れしく触るんじゃないよっ!!」 「うげっ」 「暴れないで下さい〜」 そんな緊張感のないやりとりの中、一つの足跡が近づいてくる。その音は、部屋の前でぴたりととまった。刹那 バゴォという音とともに、部屋のドアが吹き飛ぶ。そしてそこには、不敵な笑みを浮かべた長身の男――バルクがいた。 バルクはルークの顔を確認すると、ビシッと指差し、彼に向かって言った。 「とりあえず、前の決着をつけようじゃねぇか、死神ぃ」 どうやらリニアの事は眼中にないらしく、バルクは戦闘態勢に入る。だが 「お前に付き合う気はない。遊びたいのなら、一人で遊んでいろ」 言うと同時に、ルークはリニアの身体を抱える。だがバルクの方も、その行動は読んでいたようである。彼は右手に闘気を込め、ルークに殴りかかる。 しかしルークの身体は一瞬ぶれると、次の瞬間には窓に最も近い場所まで移動していた。そしてバルクの拳はそのまま直進し、その進行方向上にあった部屋の壁を穿つ。 「あーーーーーっ、何するんだいっ!!」 それは女将さんの声なのであるが、それを気にする者は誰もいなかった。その時にはルークが動いていたからだ。 ルークはリニアをかばうように、身体を丸めながら窓の方に飛び込む。ガシャンという音が聞こえたときにはリニアは浮遊感に包まれていた。 落ちていく感覚、ひどく孤独を感じる感覚だ。だが怖くはなかった。ルークが側にいるのを感じられたからだ。 「しっかりと捕まっていろ!」 ルークの指示に従い、リニアはしっかりと彼の服にしがみつく。そのためだろう。ルークはバランスを崩さずに、そのまま上手く着地に成功した。二階を見ると、バルクも飛び降りようと行動を起こしていた。が・・・ 「うちの宿を壊すんじゃないよっ!!」 という声とともに、ぱこーんという良い音が響く。見ると女将さんの手には何処から持ってきたのか解らないフライパンが握られており、バルクはそれに不意打ちを食らったようだった。苦しげに頭を抱えている。 「逃げるぞ」 すかさずルークがそう言った。よく見ると、周りには十数人の人間が、宿を囲んでいたのだ。しかしルークにしてみれば、どうという数ではないだろう。だがルークは逃げるという選択をとった。 理由の一つは、バルクが追ってくる前に逃げたいという事だ。下手に実力が均衡している事は先日の戦いで理解していた。まともにやりあえば、リニアを護るどころではない。 そしてもう一つは、『人を殺したときのルークの苦しんでいる様子を見たくない』とリニアが言った事が原因だった。そして不幸なことに、殺さずにこれだけの人数を捌く術を、ルークは持っていなかったのである。 (とにかく、今はジェイクが用意した他の場所に逃げる。時間さえ過ぎれば、カイラスが赤珠の人間を見つけてくれる) リニアが名目だけでも王家である限り、赤珠の人間が彼女を見捨てることはないはずだ。とにかく、赤珠国の捜索隊と、カイラスが接触するまで逃げ切ればこちらの勝ちなのである。 ルークは身体に闘気を込め、人の能力を超えた速さで跳躍する。そして暗殺者達の頭上を越え、そのままジェチナの路地裏に走り去っていった。ざわめく暗殺者達の声が聞こえていたが、それはしばらくの事だった。
十数分全力で走っていたためだろう。ルークの息はひどく荒いものになっていた。闘気能力のお陰で、幾分か肉体的な負担は押させることができていたものの、闘気の使用による疲労はそれを上回っていたのである。 更にリニアをずっと背負っていたのだ。無茶と言えば無茶な行為である。 「ここまで、来れば、取りあえずは、大丈夫、だろう」 ルークは息も途切れ途切れにそう言うと、リニアを背中から降ろし、その場に座り込んでしまった。 「大丈・・・」 声を掛けようとするが、ルークは右手を差し出し、それを遮る。そして彼が大きな呼吸を何度か繰り返すと、それまで荒れていた呼吸が嘘のように静まっていった。 「悪い、少し呼吸を整えたかった。体力は人並みにしかないのでな。回復するまで言葉を吐きたくなかったんだ。回復を怠ると逃げ切れなくなるからな」 見るとルークの額からは玉のような汗が滝のように流れ出していた。だが不思議なことに、その流れも既に止まっている。まるで汗が一度に噴き出したかのようにだ。だがルークの呼吸が落ち着いたのを見ると、悪い傾向ではないようだ。 「とにかくだ。後もう少しだ。ここからは慎重に・・・」 リニアを安心させるためだろう。珍しく顔を柔らかいものに変え、言葉を紡ごうとする。だがその台詞は途中で止まってしまった。いや、止めさせられたというべきだろう。ルークの視線は、リニアの真後ろにあった。 振り向くと、そこには黒装束に身を包んだ、一人の青年が立っていた。背丈や体格ははルークと似たところだろう。口元を黒い包帯のようなもので覆っているので顔は解らない。ただ、彼の容貌には特徴があった。 まるで人を凍り付かせるような、漆黒の双眸・・・。ルークの瞳とは明らかに質が違う。全てを押さえつけるような強大な威圧感・・・。そんなものがその瞳からは感じられた。 「氷の閃光・・・、ヴァイス=セルクロード・・・」 ルークがそう言うのと、その男が右手を差し出すのとは、ほとんど同時だった。そしてその刹那、一瞬にして場の雰囲気が重くなるのをリニアは感じた。 「彼の者を刻め」 ひどく中性的な声で、その男はそう呟く。同時に場の精気が収束し始めた。魔導という技法を発動させた証拠だ。だがその収束の仕方は、リニアが今までに感じたことのないものだった。 (逃げなきゃ) そんな考えがリニアの頭の中に浮かぶ。何故かは解らない。しかしリニアの本能は明らかにその異常な事態を危険だと感じていた。 「リニア、離れるなっ」 ルークもそれを感じていたようで、そう叫ぶ。そしてリニアがルークの服にしがみつくのと同時に、男の周りにはパキッ、パキッと乾いた音を立てながら、無数の巨大なつららが現れる。 「氷?」 それはルークの台詞だった。彼が疑問の声をあげたのも無理はない。数多くある魔術の中でも、氷の魔術というのは聞いたことがない。ただ、限定された例外を除いては。 二人のそんな考えを余所に、男は強い威圧感を込めた一言を吐いた。 「アイシクルランス」 その言葉をきっかけにするように、その氷の槍はリニア達に向かって、物凄い速さで突き進んでくる。 ルークはすかさず右手の人差し指と中指に闘気を込めると、自分達に向かってくるつららだけを明確に切り裂いた。だがその表情からは明らかに焦燥の色が見ることができた。 「氷だと? しかも、あの感覚・・・。まさか闇の眷属だとでも言うのか・・・」 闇の眷属。その名にリニアは驚愕の表情を浮かべる。 その名は、邪眼と呼ばれる力を駆使する、伝説の古代種族の名だった。冥貴族と呼ばれる、強力な力を有する種を中心に統一された種・・・。 「ルーク=ライナス。その娘は、渡して貰う」 夜のジェチナの静寂の中で、その男は小さくも、ひどく威圧的な声でそう言った。 初めて出会う、未知の者に対する恐怖の中、リニアは、自分の手に力が籠もるのを、感じていた。 こうしてジェチナの静寂は破られていった。
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