館林飛行場で撮影された3式戦の撃墜マーク
07.10.27

 『世界傑作機No.17飛燕』83頁上段に、機首部分に5個の撃墜マークと3個の撃破(?)マークを描いた3式戦の写真がある。
 キャプションは、「昭和20年7月調布で撮影」となっているが、これは誤りで、この写真は
20年6月、館林飛行場で撮影されたものである。
 撮影者の記憶から本機が244戦隊の機体であったことは確かなのだが、何故、本機が館林に置かれていたのだろうか。

 20年5月17日、244戦隊は調布を発ち知覧へ向かったが、ちょうどその時期一週間ほど、244戦隊が編成した3式戦特攻諸隊(161〜164振武隊)には館林への移動が命ぜられた。空襲を避けるとの名目だったが、これは、戦隊の移動をカモフラージュするための欺瞞行動であったと考えられる。
 当該の3式戦は、その際に何らかの理由で調布に帰還できず、一機だけ置き去りになっていたものと思われる。館林は、244戦隊も麾下に置かれた第30戦飛集の隷下飛行場であった。
 
 問題は本機の撃墜マークであるが、本機が244戦隊本隊で使用されていた20年4月までの時期に描かれたものとは考えられない。つまり、実戦果に基づかない
架空の撃墜マークである。
 記入位置については、「クローバーを描いた3式戦は存在しない」で記述したのと同様、整備作業の実務から考えてまずあり得ない場所なのだが、撃墜マークについては、私は以前、本機が特攻用機となってから、いわばアクセサリーとして描かれた可能性もあるのではないかと考えていた。
 そこで調布の特攻隊員諸氏に、乗機に個人的に何かを描いたことがあるか否かをお尋ねした結果、その答えは悉く「
とんでもない」「考えもしなかった」であった。

 その理由は、飛行機に操縦者の氏名や個人的マーク等を描くことは軍紀に触れる行為であり、また撃墜マークは戦果の証であるから、架空の撃墜マークの記入は即ち戦果の詐称となって、これも
軍紀上、許されないということであった。
 一部の特攻機の場合、それぞれ派手な塗装を施したり操縦者の名が大書きされた例などが知られているが、これも本来はあってはならないことなのである。

 では、館林に残されていた当該機には何故、架空の撃墜マークが描かれていたのか?…ここから先は想像力を働かせるしかないのだが、私は、本機が館林に置き去りとなってから描かれた落書きではないかと考えている。

 本機の場合、一機だけ置き去りになっていたことと過給器空気取入口のカバーが取り外されていることから見て、理由は不明だが、本機は既に現用ではなく、廃棄処分が決定していたのではないか。神聖な兵器であるべき戦闘機に落書きなど、処罰されて然るべき行為だが、もしも廃棄を待つ機体であったとするならば、なきにしもあらずかもしれない。

 一般に、死を目前にした(と思っていた)特攻隊は軍紀が緩みがちであり、また同情から、隊員と接する軍人たちも特攻隊員に対しては軍紀違反を大目に見る傾向があったと考えられる。特に、館林のように特攻隊だけで、お目付役となるべき戦隊や上部部隊が存在しない飛行場では、尚更であったと思われる。戦地へ行くと軍紀が緩むことを「
戦地気分」と称したそうだが、それに似たものであろう。

 戦隊が仕切り、陸軍中央部とも直結していた調布飛行場では考えもつかない行為でも、館林飛行場においては可能であったのかもしれない。館林の特攻4式戦の中に、信じがたいほど派手な個人的マークを施した機体が複数存在する事実は、この飛行場の雰囲気を表しているようにも思えるのだが。


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