244戦隊にクローバーを描いた3式戦は存在しない


 近年、雑誌イラストやプラモ・デカール等で流布されてきた市川大尉乗機に三つ葉のクローバーが描かれていたとする説は、明らかな虚説であり、故人の名誉を傷つけることでもあるために看過できず、敢えて戦隊史の中で是正したが、実は、本件の疑念を最初に指摘したのは、筆者が持参した雑誌のイラストを見た故三谷庸雄氏(整備隊長)だった。

 三谷氏は「これはない」と言い、更に「米兵の落書きではないか」とも語った。筆者には全く寝耳に水の話で驚き、その際には深く聞けなかったのだが、今にして思えば、三谷氏は終戦後の八日市飛行場に11月下旬まで留まって占領軍への引継ぎを経験していたので、占領軍兵士の同様な行状を目撃していたのではないかと思われる。

クローバー=「シロツメクサ」または「シャムロック」。三つ葉はキリスト教の三位一体を、四つ葉は十字架を象徴する。アイルランドの国章・国花でもある。


本当は何が描かれているのか

 前記および244戦隊史の記述は、描かれていたマークが、撮影者が主張する「クローバー」であることを前提にしているのだが、明確な写真がない以上、本マークがクローバーを示すものだとは、一切証明されてはいない

 しかし最大の疑問は、撮影者にとって、このマークがそれほど印象的なものであったのなら、何故、当該部分を撮影していないのか?ということである。
 想像するに、おそらく撮影者は機首部分の撃墜マークには注目したが、当該マークには記録すべき価値を感じず、シャッターを切らなかったのではなかろうか。

 では何故、価値を感じなかったのか。一つは、当該マークが、マークとも絵ともつかない、意味ある形を成さぬ、まさに「落書き」としか表現しようのないものだった可能性。また一つは、占領軍部隊のインシグニアなど、一目で占領軍兵士が描いたと判断できるものだった可能性である。

 最近、当該マークがクローバーではなく、実は鳥が羽ばたく姿ではないか…とする説も聞くが、もしそうであるなら、撮影者心理としてなおのこと、明確に写されて然るべきだろう。

第8写真偵察飛行隊P38の尾翼マーク

 1945年9月28日、本隊が調布に進駐した
第8写真偵察飛行隊のP−38が尾翼に描いて
いたマーク。

 同隊が属する第6写真偵察群のインシグニア
で、鷹をイメージしたものだという。
 但し、
本件との関連は不明

(原写真とは左右を反転している)




敗戦後の状況

 敗戦後、占領軍によって撮影された皇軍機について、「放置されて終戦を…」とか「事故機云々」などと、全くの想像で書かれたキャプションを目にするが、20年8月25日頃の武装解除完了時点では、皇軍の矜持を示す意味合いからも、多くの機体が完整状態(プロペラさえ付ければ飛べる状態)に仕上げられており、写真に残されているような破壊は、20年9月以降、占領軍あるいはその命令を受けた日本人によるものなのである。

 また、終戦前に事故等でリタイアした機体は、
原因探求の後、物資窮乏のおりから早急に金属工場へ回収し、原材料として再生されていたはずであり、そのまま飛行場に放置しておく余裕などなかったであろう。放置されたのは、あくまでも占領が開始されて以降の話である。

 武装解除から占領、そして各飛行場の接収までにはかなりの時間的経過があり(大半は10月から12月にかけて)、またその間、飛行場には誰でも出入りできた環境も加わり、放置されていた旧軍機は落書きや悪戯を受けている可能性が少なくない。よって、占領後に撮影された飛行機の状態が、終戦時(8月15日)そのままと即断してしまうことはできないのだ。

 なお、戦後、天文台下の射朶
(しゃだ)から水田に落ちて放置された3式戦「29号」(世界の傑作機No.17『飛燕』43頁=撮影地が立川との説明は誤り)に矢印を芸術的にデザインした尾翼マークが描かれているが、これも占領軍による落書きと思われる。



12
個の撃墜マーク…何故、機首に描いたのか

 まず、撃墜マークは戦果の象徴、つまり操縦者の功績そのものである。よって、単に操縦者や整備兵の好みで記入できるようなものではなく、ある規範のもとでのみ描かれていた(但し、当該の操縦者全員が描いたわけではない)。

 本件の撃墜マークは、244戦隊の各飛行隊が採用していた形状、記入位置ともに大きく相違するものであり、更に、以下に述べる記入位置の不自然さを考慮すれば、本機の撃墜マークは、戦後何者かによって描かれた落書きだと判断される。

 244戦隊に限らず、一般に撃墜マークの記入位置は、風防下、胴体後部あるいは垂直尾翼に限られている。何故ならば、ここなら特に足場を用いずとも楽に作業ができるからである。迷彩や部隊マークとは違い、撃墜マークは描かねばならないという性質のものではないのだから、敢えて困難な場所にまで描こうとはしないのが自然の成りゆきだろう。
 しかしながら本機のマークは、作業が困難な機首部分に敢えて描かれている。これは逆に言えば、本機の機首部分には、この位置でも楽に作業のできる安定した足場が存在していたことを示唆する。

 足場と言えば、この写真自体、撮影者は何処でカメラを構えていたのか?…見る人は不思議に思わないだろうか。周りに何もないとしたら、この撮影者は高さ2メートル近い台を用意していたことになる。
 だが、撮影者、撃墜マークの記入者、それに、ひっかき傷による「参」の文字の記入者、少なくとも三者が、同様の足場をそれぞれ用意した上で、この位置で一連の作業を行ったとは、到底考えられない。撮影当時、周囲には100機を越える皇軍機がひしめき、3式戦だけでも30機以上は存在していたのである。この三者が本機の機首にのみ拘った理由は何か。

 これは証拠がないので想像になるが、本機の周囲が下図のようになっていたと考えれば説明がつく。また撮影者が、この機首部分のアップのみで、当該機をカメラを引いて(やや離れて)写していないのは、この近接して置かれた他機が視界の邪魔をしていたからだと思われる。
 類似の状況は、当時の飛行場のいたるところに現出していたのだが、3式戦の機首部分にこれほど接近できる環境は、おそらく他になかったのではなかろうか。

 よって、これら一連の行為は、当該機と衝突状態にあった他機の主翼上で行われたものと推察される。そしてこのような状況が現出したのは、20年9月4日占領後のことであって、完整状態の各機が広いエプロンに整然と並べられていたそれ以前では決してないのである。

 なお、ひっかき傷で書かれた「参」の文字だが、陛下から賜った神聖な兵器である飛行機に意図的に傷を付けるなど、明らかな犯罪であり、また航空の基本常識からしても、絶対にあってはならない行為である。現代、巷に溢れる自動車ですら、車体やガラスに傷を付けて文字を書くなど、いったい誰がするだろうか。

 つまり、このような行為は皇軍部隊の解散後、飛行場が実質無管理状態になってからのみ、行い得るということだ。したがって「参」の文字も12個の撃墜マークも、20年9月の、ほぼ同時期に描かれたものと考えられる。

落書きでも「参」一文字とは考えにくいので、画面外には「××見参」または「参上」などと書かれているのかもしれない。
現用の航空機にメモする必要がある場合には、チョーク(白墨)で書いた。

カメラと当該機の位置関係を推定

当時は、狭い範囲に大半の飛行機同士が衝突状態で置かれていた。



この撃墜マークは誰が描いたのか

 先にも触れたが、皇軍部隊解散後の調布飛行場は、30〜40名の人員で組織した残務整理班がいたものの、広い飛行場のことだから実質的には無管理状態で、どこからでも自由に出入り可能だった。付近住民たちも近道をして、飛行場の中を通り抜けていた。この状態は、占領軍による施設整備が動き出す20年末頃まで続いた。

 この時期の飛行場は、少年航空ファンたちにとっては天国と言ってよいもので、かつての陸鷲たちに触れようと、多くの少年たちが近隣から訪れていた。
 落書きは彼らにも可能ではあっただろうが、あの物資窮乏のおりに予め塗料を用意した上で、数時間も一ヶ所に留まっての作業(これには国有財産の窃取、あるいは飛行機を修復しているなどと疑われる危険がある)であることや、あの時代の日本人が、敵を殺した証である撃墜マークを、その仲間である占領軍が駐屯する傍で描けるものか…甚だ疑わしい。日本人には、釘で傷を付けたり羽布を破る程度が、せいぜいだっただろう。

 やはり、これほど手の込んだ作業をこの場所で実施可能であったのは、占領軍兵士以外には考えられない。


矢印の不思議

 落書きにしても、本件の撃墜マークについては、以前から不思議に思っていたことがある。塗りたて状態で白く鮮やかなB29?のシルエットに対して、赤とおぼしき矢印部分はムラが著しく、あたかも相当の月日を経て褪せたように見えるのである。この差はいったい何なのか。

 白のシルエットは明らかに塗料で塗られているが、一方、赤い矢印は、塗料ではなく筆記具、たぶん
クレヨンで塗り潰されている可能性が高いと思う。
 また、下のように写真を拡大してみると、元々正確でないシルエットもかなり輪郭が乱れており、小林戦隊長機等に描かれたB29のシルエットの正確さとは比べようもない。実に雑な仕事であることが分かる。

撃墜マーク部分を拡大



白いプラスチックに赤のクレヨンを塗ってみた

因みに、白いプラスチックに赤のクレヨンを塗るとこう見える。



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