244戦隊3式戦の塗装とマークについての考察


244戦隊デカール集1/48 1/72  プラモ 3式戦1型丙 244戦隊


 まずはじめに、飛行機の塗装とマークは、戦隊の編制およびその変遷と深くかかわる事柄でもあるので、必ず本稿と同時に、244戦隊の編制について を参照し、よく理解していただきたい。
 なお、本稿の内容は、既に飛行隊編制が実施されているものとして記述した。


1. 藤田戦隊長時代(19年11月末まで)

 この時代には244戦隊の3式戦は皆、無塗装で運用されており、一部の機体には機首に赤い電光が描かれていた。尾翼マークに加え、これも一種の戦隊マークだが、塗装は時間整備等の機会に直されたため、全機にまで波及せずに終わってしまったと考えられる。
 飛行機、整備器材、備品、隊舎入口などに塗られた、いわゆる中隊色は次のようである。

つばくろ
とっぷう
みかづき
そよかぜ



薄緑

 尾翼マークは各隊共通で色は
。一部は「4」と「☆」にを用いた。巷間いわれるマークの飛行隊毎の色分けや、各飛行隊長、小隊長機に規則的に施す「隊長標識」などは存在しない。

 隊長機の動静は、その隊の全員が常に注視しているのであり、誰もが一見してそれと判別できるような標識を付ける必然性はない。だいいち、「隊長機」はその都度違う機体かもしれないのだ。地上では隊長機用掩体(係留位置は決まっていた)に収まっている機体が、空中では編隊の先頭を飛んでいるのが、隊長機である。
 また、主脚カバー数字は中隊色で書かれるのが原則で、地上勤務者はこの色で所属隊を判別していたというが、飛行隊編制実施以来、飛行機の配置(所属飛行隊)は臨機応変に変更されたので、これがどこまで統一されていたものかは疑問がある。


2. 小林戦隊長時代(19年12月以降)

 小林戦隊長時代も中隊色は基本的に変更はないと考えられるが、編制では、4個飛行隊から3個飛行隊への縮小、ならびに本部小隊(戦隊長編隊)の新編という変化があった。

本部小隊
そよかぜ
とっぷう
みかづき
(コバルトブルー)
薄緑



 小林時代の3式戦の塗装とマークに関して唯一特徴的に言えることは、「統一がとられていない」ということである。
 これは、
(1) 飛行隊改編による機体の配置換え
(2) 損耗の増大…結果として補充機(大半が立川航空廠からの中古機)の増加
(3) 浜松への移動と、これに伴う応急迷彩(浜松には戦闘機用掩体がなかったため)
などに起因している。この応急迷彩では、戦隊マークまで塗りつぶした機体も少なくない。

 当時、各飛行隊戦力の均衡を計るため、機体の配置換えは頻繁にあり、また補充機にも各々何らかの塗装が施されていたはずだが、これらの塗装等を改めてから運用するなどと悠長なことをしているはずがなく、また実際、無意味である。したがって、マーキングに中隊色は反映されていないと考えた方が妥当であり、生野隊長機88号が一つの例証である。

 20年5月、戦隊は使用機を5式戦に改変し、在来の3式戦は159〜164振武隊に転用されたが、これら諸隊は244戦隊の別働隊と位置づけられており、244戦隊の尾翼マークをそのまま使用した。なお、5式戦のマーキングに関しては、確たる情報は得られていない。


20年2月の4424号

機番不明予備機前の小林戦隊長(左)
20年2月の4424号機。翼内砲は撤去されて砲口も
テープで塞がれている。本機の「撃墜マーク」は撃破5、
体当り撃墜1を示している。

20年2〜3月頃の戦隊長予備機と推察される機体。
撮影場所等から戦隊長編隊の1機には間違いない。
戦隊長機とすれば、4月12日に撃墜されたのかも…。



3. 小林戦隊長乗機

 巷間、小林戦隊長乗機は6〜7機も存在したかのように書かれているが、事実は次の4機が全てと考えられる。また、5262が戦隊長予備機となっていた4月中旬、戦隊長自身は負傷により10日ほど空中勤務を外れており、下旬には5式戦への改変も始まったため、彼が本機に実際に搭乗した事実は確認できない。

小林戦隊長使用機の変遷
機番
使用期間
備考
4424
19年12月〜20年4月末
一貫して主用、その後159振武隊長高島少尉機となって沖縄へ出撃
3295
19年12月〜20年1月27日
体当りにより失われた
不明
20年2月〜4月12日
被撃墜
5262
20年4月中旬〜4月末
予備機として用意されたが、戦隊長が搭乗する機会があったかは不明

 小林戦隊長機および僚機は、尾翼赤塗装や機首から尾部に至る帯(時期と個々の機体によって色は異なる)を描く等の敢えて目立つマーキングを施していたが、これは前述の「隊長標識」という意味合いのものではなく、他飛行隊よりも戦力的に大きく劣る本部小隊の士気とプライドを高めると共に、自分が真っ先に突っ込むのだ…という彼一流の決意表明だったと考えられる。その結果、戦闘の激化と共に派手さを増していったのである。

 小林戦隊長が一貫して主用した4424号は、約5ヶ月の間に4度も塗装が変更されている。このような例は希だと思われるが、本機はよく働いていた結果、時間整備を受ける機会も多く、塗装もその際に直されたのであろう。

 4424には、14個の撃墜マークが写った、よく知られた写真(3枚)がある。これらの写真は、本機が特攻用機となった時点(20年5月)で撮られた愛機との送別記念写真であるが、これらの写真をよく観察すると、本機の落下タンク架には「5276」の製造番号が刻印されており、リタイアした5276という機体の部品が流用されていることが分かる。

小林戦隊長機4424号 塗装の変遷

19年12月初
12月中旬〜20年1月
上面塗装
なし
斑迷彩
なし
斑迷彩
斑迷彩
胴体帯
青?



注4
撃墜マーク (注1

1〜5 (白)
(赤)
9〜10 (白)
14 (白)注4
その他


空中線支柱撤去
主翼前縁赤注2
主翼前縁黄

注1=「撃墜マーク」は、本部小隊では撃墜・撃破を分けておらず、1月末までは撃破の数、その後は撃墜破の合計(うち撃墜は5機)
注2=昭和20年3月19日 機動部隊攻撃作戦時の写真では、本機の翼前縁は赤く塗られている。これはごく短期間のみの処置だったと推定されるので、本作戦遂行上の必要があって、大本営あるいは30FC司令部の命令で実施された可能性が高いと考える。

 戦隊長機は通常、戦闘隊の先頭を飛ぶべきものであり、その翼前縁は戦隊長機の更に前方に位置する機体からしか視認できないのだから、当日の大編隊の最先頭を飛ぶ
誘導機(4式重爆)から戦闘隊編隊長機を視認し易くする目的だったと考えるのが自然ではなかろうか。
 もしこれが正しいとしたなら、本作戦にともに参加した飛47、51、52各戦隊の編隊長機にも同様の処置がとられた蓋然性が高まるが、確認はできない。

注3=3月19日出撃前、戦隊長自身が尾翼に白で「必勝」と記入した
注4=戦隊長が14個目の戦果を記録したのは4月30日のことなので、14個のマークは5月に入ってから描かれたもの。また、5月時点では既に特攻用機であり、「死化粧」の意味で塗装の手直しをしたものと推察される


4. 震天制空隊機

 震天制空隊(はがくれ隊)の3式戦は当初、無塗装であったが、浜松移動時に戦隊の多くの機体に迷彩が施されたのに伴い、やや遅れて震天隊機にも迷彩が実施された。
 この頃から20年1月初めにかけての使用機としては、いずれも斑迷彩の89号(板垣)、57号(高山?)、73号(当初は板垣、のち佐藤?)などが確認できる。

 20年2月下旬(23日〜24日と推定)当時の震天隊機の姿は菊池俊吉氏の写真などによって記録されているが、これらから判ることは、おおよそ次の点である。

(1) 「16号」は中野軍曹機である。風防下に体当り2,通常撃破1を示す撃墜マークが描かれている。尾翼は赤く塗られており、方向舵に「」の字が白で書かれている。
(2) 「14号」は板垣軍曹機である。中野機とほぼ同じ塗装だが、撃墜マークがない。
(3) 佐々木隊長機、ョ田少尉機はいずれも無塗装、尾翼も通常の戦隊マークのみのようで。「29号」が、その1機である。
(4) これら4機は、いずれも空中線支柱を撤去している。


四宮中尉機について

 四宮中尉が12月3日、片翼生還を果たした57号機は、その後20年1月末まで銀座松屋デパートに展示されている。
 だが、この際に写された写真では、四宮の頭文字「
」をイメージしたと思われる胴体の赤帯が認められない。これは、展示の前に機密保持の理由で消されたものと思われる。また、この写真では空中線支柱も撤去されているのだが、これも元々外されていたのか、あるいは展示のための輸送過程で外されたものか定かではない。

 本機のその後については、空襲で焼失したとも聞くが、一方、終戦時には村山の東航(陸軍少年飛行兵学校)に展示されていたという情報もある。

 なお57号は、過去の出版物では1型とされているが、これは誤り。正しくは機首が短い十干が以前のタイプである。


5. 迷彩について

 腐食の恐れさえなければ、運用上、飛行機は無塗装の方がよいわけで、3式戦も原則として無塗装で使われてきた。244戦隊でも同様だったのだが、19年12月中旬、浜松へ移動の際、当地には戦闘機用の掩体がなく、無防備なエプロンに飛行機を並べなければならなかったため、空襲対策として、3式戦への迷彩の実施が下命された。

 猶予期間は約2日弱だが、当然、昼間は演習および試験飛行、それに整備とが優先するので、主な塗装作業は夜間に、しかも灯火管制下の僅かな照明の元で実施せざるを得なかったであろう。
 また整備隊自身も一部が鉄道で先行してしまい、本隊も移動の準備に追われるため、一時的に極端な人手不足状態となる。塗装は本来、板金(金属)分隊の仕事だが、元々数名程度しかおらず、塗装作業の多くは、畑違いの素人作業手(動員学徒も駆り出されたようである)によって実施されたと考えられる。

 市販出版物の中には、安藤機45号について「左右の迷彩パターンが違うから塗り替えたのだろう…」などと、ピント外れの記述が見られるが、左右でパターンが違うのは不思議でも何でもなく、前記作業の途中で
塗り手が交代したからである。


6. 胴体後部帯

 胴体後部帯にも、いくつかの色が使われ、また複数の帯を巻いた機体もあった。これらは、外見上の見分けがつきにくかった97戦時代および3式戦無塗装運用時代に、個々の機体の識別、管理を容易にするための便法だったと思われる(スピナーの塗り分けなども同様)。

 97戦時代には、例えば「123」などと3桁の数字で各機を呼称し、3式戦時代には2桁の数字で呼ぶのが普通だったが、数十機を数字だけで識別、管理することは実務上、不便である。また当然、同番号が発生することも珍しくないので、混同を避けるために「赤○号」「青△号」などという覚えやすい呼び名も併用されていた。この、「赤」とか「青」とかいうのが、胴体帯の色(中隊色とは別)を指していたのではないかと推察される。

 なお、戦隊内で同番号が発生した場合には、3295号のように3桁の数字を脚カバーに書いて区別するのが原則だったのだが、この方式は、多くの写真の中でもこの一例しか確認できない。
 これはおそらく、この方式では手数がかかり、また遠方からは判読し難いので、脚カバー数字の上に帯(横棒)を付加して区別する方式に簡略化されたのではないかと想像する。


7. 落下タンク

 落下タンクの塗色は、厳密には定かでないが、正規には写真のように、ほぼ「灰色」と考えられる。また、竹+和紙製のタンクには上塗りを省略した、白黒写真ではほとんど黒に近い色調のものも多数混在していた。これは、「物資不足」などではなく、落下タンクは元来、消耗品なので、耐候性や長期保存性よりも、工程を簡略化して生産量の増大を計ったものだと思われる。

 この上塗り省略版は、いくつかの写真ではプロペラ・スピナーの茶色とほぼ同じ明度に見えることからも、これは防漏・防腐用に塗られたとされる柿渋の色=
濃い茶色(紫外線によって、より濃くなるという)そのものではないのだろうか?

現存する竹+和紙製落下タンク(大脇氏所蔵)

現存する竹+和紙製落下タンク(大脇氏所蔵)。写真提供 斎藤久夫氏



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