戦闘飛行戦隊の編制は時代によって変遷があるが、244戦隊の場合、ここに図示した2例が代表的なものである。 | |
図−1 昭和18年当時の編制 この時期(19年初頭まで)の特徴は、中隊編制と飛行場大隊を編制内に抱えていたことである。空中勤務者である各中隊長は、飛行班(12機)と、それに付随する戦闘整備(注1)を担う整備班約50名、両者を指揮・監督していた。 飛行場大隊は整備中隊と警備中隊に分かれ、整備中隊は主に戦闘整備を上回る中整備(注2)を担当していた。整備中隊は約100名、警備中隊は約140名程度の陣容であり、戦隊の総人員は、500名弱であった。 整備中隊内の指揮小隊は大格に配置されて、発動機換装、事故原因探求、連絡・曳航機整備、外来機整備等を担当した。 注1 戦闘整備とは、今でいうライン整備。日常の保守、点検、試運転、燃弾補給等。 注2 中整備とは、時間点検および戦闘整備以上の作業でシリンダーヘッドの分解整備までを指す。それ以上の後方整備(オーバーホール等)は航空廠の担当。 |
図−2 昭和20年1〜3月当時の編制 昭和19年初めから終戦までは基本的に同じだが、19年10月1日から12月8日までは4個飛行隊編制がとられ、震天制空隊は19年11月7日から20年3月10日まで存在した。また、19年12月中旬から20年2月中旬までの間、各整備小隊人員のほとんどは飛行隊とともに浜松に移動しており、調布では独立整備隊が不足を補った。 この時代の特徴は、飛行場大隊が飛行師団長の直轄となって戦隊から分離され、更に飛行隊編制が採用されたことにより、戦隊内から軍編制上の中隊が消滅したことである。 整備隊は、従来、飛行場大隊内に位置していた整備中隊と各中隊整備班を統合、強化したもので、新たに編成された独立整備隊(師団長直轄。独整と略称した)も戦隊整備隊を補佐、協力する関係にあった。 整備隊本部小隊は、率先空中指揮を執る小林戦隊長の着任(注3)とともに飛行隊内に作られた本部小隊(戦隊長編隊)と震天制空隊機の整備を担うため、在来の指揮小隊とは別に新編されたもので、第1分隊と第2分隊が本部小隊と震天隊を交互に担当した。 また、震天制空隊は戦隊長の隷下にあったが、作戦行動上は飛行師団長の直接指揮下にあり、出撃命令等は師団長から発せられた。 注3 前任の藤田少佐は病弱で空中指揮を執らなかったので、戦隊長編隊も存在しなかった。 飛行隊の名称について ほとんど全ての市販航空出版物は、飛行隊編制実施後の記述にもかかわらず「××中隊」などの表記をしているが、中隊が存在しないのだから、これは誤り。ただし、慣習上、会話や私信の中では、「わが中隊」などという言い方が続いていたことは、事実である。 各飛行隊の呼び方は、当時もいくつかのバリエーションが存在したが、「つばくろ隊」「とっぷう隊(注4)」等が、無線呼び出し符合を兼ねた正式な名称(注5)であり、対応する各整備小隊も同じ名で呼ばれた。しかし、戦隊本部小隊の呼出符号「たかね」はやや馴染みにくかったようで、「本部小隊」あるいは「本部」と呼ぶのが普通だった。 なお、郵便・電報の宛名、地方(民間)への説明などの場合、飛行隊は「東部第百八部隊(または小林部隊) 竹田隊 ××少尉」のように表した。これは、空中での指揮関係とは別に、地上では先任飛行隊長(注6)である竹田大尉が、操縦者全員を監督する立場にあったからである。整備隊の場合は、同様に「三谷隊 ××伍長」などとなる。 通称号である東部第108部隊は20年4月までで、以降は帥第34213部隊(注7)が用いられたが、これは馴染み難く、復員までこの名称を知らずに過ごした隊員も少なくなかった。また、浜松移動時には中部第18931部隊、知覧移動時には、西部第108部隊の名称も使用されている。 注4 当初、第2中隊は「さきもり隊」と呼ばれていた。 注5 47戦隊の「あさひ隊」「ふじ隊」、53戦隊の「まつうら隊」「こんごう隊」等の名称も同様。 注6 通常、飛行隊長は3名いたが、その中の最先任(上級者)が先任飛行隊長として戦隊長に次ぐ地位におり、全空中勤務者の教育・人事や、戦隊長が指揮を執らない場合の作戦指揮を代行した。また、先任飛行隊長が率いる飛行隊を基幹飛行隊と呼んだ。 注7 帥(すい)は航空総軍(帥部隊)の麾下を示す。帥を師(し)と誤記している出版物が大半。 飛行機の配置について 戦闘戦隊が中隊編制であった当時には、飛行機は各中隊の占有物に近く、通常、他の中隊に配置換えされることはなかったという。 しかし飛行隊編制実施後は、飛行機は全て整備隊長の管理下に置かれ、どの隊へ飛行機を配給するかは整備隊長の権限になった。そこで、特に戦闘が激しい時期には速やかに戦力の均衡を図るため、飛行機の配置換えは、かなり頻繁に実施された。 いわゆる中隊色は、中隊編制時代には当該中隊の象徴としての強い意味があり、飛行機の塗装等にも厳格に反映されていたはずだが、飛行隊編制実施後の「中隊色」は象徴ではなく、便宜上の目印でしかなくなったため、慣習として存続してはいたものの、これに拘る必要性は薄れたと考えられる。 |