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 生野文介氏逝去 2012.11.13

 244戦隊そよかぜ飛行隊長であった生野文介氏が、本年2月21日、90歳で逝去なさっていたことを知りました。心からご冥福をお祈りいたします。
 生野さんは、航士第55期の軽爆分科で、飛行第3戦隊附のときに戦闘に転科、明野教導飛行師団で航士第57期、58期の教育にあたった後、昭和19年11月末、同じく明野教官であった小林大尉とともに244戦隊に赴任されました。

 戦後は航空自衛隊に奉職。F−86およびF−4ファントムの教官として多くの操縦者を育て、昭和50年に防府の第12飛行教育団司令(空将補)を最後に退官されました。学生からは「鬼の生野」と呼ばれていたと聞きます。終戦時までの飛行時間は1500時間、生涯では4000時間に達していました。
 その後は郷里大分へ帰り、予科士官学校時代に習って興味があったという測量技術を改めて学ばれ、土地家屋調査士としても活動されています。

 2006年秋、最後の戦隊会でお会いしたとき、
自分がいた3戦隊はその後比島で全滅。知覧でも試験飛行中に試射をしたところ、胴体砲がプロペラを吹っ飛ばして海上に不時着(=昭和20年6月5日1000頃)して約5時間漂流。捜索機が来て真上を飛んでも、カポックで浮いているだけだから頭しか海面に出ていないために見付けてもらえず、諦めかけて意識が遠のいた頃に漁船に助け上げられた。
 八日市ではP51を攻撃中、相手が火を噴いたと思った途端、他の敵機の射弾を浴びて左肩と左膝下に負傷、落下傘降下したりと、今こうして生きていることが自分でも不思議なくらいだ…

と、しみじみ話しておられました。負傷した左脚は神経が切れていて、戦後何度も手術を繰り返してようやく繋がったとのこと。

 よく言われる3式戦の可動率についても伺ったところ、
うちの隊では、持っていた12〜13機のうち常時10機は揃っていて(出撃可能の意)飛行機に問題があったという記憶はない
とのご返事でした。

 実は、生野大尉の負傷入院によって、急遽そよかぜ隊長に任ぜられたのが先に紹介した小原伝大尉で、小原大尉は隊長として初の戦闘で壮烈な戦死を遂げたのです。ですから、今回、生野さんと小原さんのことを続けて書くのは、偶然ではないような気がします。

 藤田時代の244戦隊は、実質的に指揮官であった村岡英夫大尉の力量もあって、大所帯ながらよく纏まっていましたが、小林時代には、幹部全員が同年代で階級、出身期等も差がなく、戦闘分科対軽爆分科の対立が徐々に深刻化しました。

 生野さんも軽爆ではありますが、傍から眺めていた整備第2小隊長鶴身祐昌さんによると
おっとりタイプの生野が両者のクッションになって、何とか纏めていた」とのこと。
 下記の八日市に於ける第11飛行師団命令に違反する戦闘が惹起されたのも、あるいは7月16日に生野大尉が戦列を離れた結果、いわば歯止めが効かなくなった影響であったのだろうか、とも想像します。

 「敗軍の将、兵を語らず」という言葉があります。57期生で、戦後自衛隊でも部下であった方が『飛燕戦闘機隊』を読まれて、生野さんがこんな凄い人だったとは初めて知った…と驚かれていたと耳にしました。自衛隊時代には、大東亜戦時の話はほとんどされなかったそうです。
 もっともっと色々なお話を聞かせて貰いたかったのですが、たぶん、話しては下さらなかったでありましょう。

昭和20年2月下旬、生野文介大尉と愛機飛燕の英姿。永遠に残したいものです。 合掌


 小原少佐之碑
2012.11.7

 大津市にお住まいの岩波明美さんから、昭和20年7月25日朝の八日市上空に於ける戦闘で戦死された小原伝(つとう)大尉の慰霊碑の写真を送っていただきました。岩波さん、本当にありがとうございました。
 当方、土地勘がないのですが、この場所は、東近江市中里町の国道307号線中里交差点そばで、地図で見ると、八日市飛行場の北東約7Kmほどの地点になります。

 碑は二つあり、小さい方は昭和25年建立で、消えかかって不明確ですが、「小原大尉空中戦死之地」とあるようにも思えます。大きい方は、下記のように昭和30年代に建てられたようです。
 碑には、「岡村みつ、沢村志つ」の名が刻まれています。当初、遺族の方なのかと思いましたが、どうも違うようです。

 以前、岡山県の片田知宏さんから寄せられた情報では、片田さんが学生時代に下宿していたお宅が小原大尉の叔母さんの家(父の実家らしい)で、叔母さんは昭和30年代の新聞記事を保存しており、それには、この石碑と地元の婦人たち多数が写っていたとのこと。叔母さんは、「碑は地元の人が建てた」と語っていたそうです。
 したがって「岡村みつ、沢村志つ」のお二人は、地元の篤志家であったのだと思われます。

 それにしても、昭和25年といえば、終戦間もない未だ貧しい時代に、よくも英霊を弔う碑を個人的に建立したものだと感心します。やはり、眼前で展開された苛烈な空中戦と小原大尉の戦死の瞬間を目撃した衝撃の強さ故、だったのでしょうか。

 『歴史と旅 増刊・証言でつづる終戦秘話』(秋田書店)に次の文章が出ていますので引用します。

我が家上空でくりひろげられた日米両戦闘機の激烈な空中戦 磯部秀吉 滋賀県/72歳    
(前略)7月25日朝まだき、「バリバリ」という機銃の音に驚いて飛び起き、戸外に出ると、わが家の上空で八日市飛行場を飛び立った5式戦がグラマンF6Fと空中戦の最中であった。
  敵味方どちらがどちらか分からなかったが、そのうち2機が猛烈なスピードで接近したかと思った瞬間、パッと火花を発して2機が飛び散った。瞬時にして1機から飛び出たパイロットの落下傘が開き、一人の兵士が降りてくる。

  敵か味方か分からないが、下から見上げると落下傘は損傷を受けて3分の1ほどがちぎれており、兵士は両手両足をだらりと垂れたまま、わが家から200メートルほど南の田に降りた。
  在郷軍人や青年団の人々が軍刀や竹槍を持って走っていった。わたしも寝巻を脱ぎ捨て後を追った。
  在郷軍人が米兵と思って「この野郎」と軍刀を構えた瞬間、「あっ、日本兵だ」と叫んだ。それは小原伝陸軍大尉の壮烈な戦死であった。大尉の遺体は落下傘に包まれて寺に安置され、読経のあと間もなく駆けつけた八日市の憲兵隊に引き渡された



左が昭和25年に建てられた碑。死後の進級が不明だったからなのか、大尉となっている。

昭和19年はじめ、244戦隊みかづき隊に配属された頃の小原少尉。
撮影した白井長雄中尉は、「一日中話をしません」と呆れ気味のコメントを付している。


 日常の中の戦争遺跡 2012.7.4

 大阪大正(八尾)飛行場の地元で調査研究をされている大西進さんが、このたび「日常の中の戦争遺跡 」(アットワークス刊)を上梓されました。長年、タウン誌「川内どんこう」に連載されてきた記事を中心に一冊に纏めたものだそうです。
 
本書は、書店でも注文できます(地方小出版流通センター扱い)。パンフレットはこちら
 


 敗戦後の金丸原飛行場で撮影された写真についての続報 2012.6.22

 
2002年のこのページで紹介した、昭和20年9月頃に金丸原飛行場で撮影された写真に写っている99式襲撃機には、面白い尾翼マークが描かれています。特攻隊ではないかと想像していましたが、「陸士57期航空誌」によると、第241神鷲隊(長 塩沢弘中尉)と第242神鷲隊(長 大谷佐重中尉)および附属整備班が敗戦時に金丸原に配置されていたとあります。因みに神鷲隊は、第1航空軍が編成した決号作戦用特攻隊です。
 同書は、2分冊で各々1000ページ近い分量のために、未だに全部には目を通せずにおりました。

 さてこの2隊は、鉾田教導飛行師団原ノ町分教所で99式襲撃機の教育を受けていた57期生を隊長として、20年6月下旬、第11飛行師団司令部の担任で大正飛行場で編成完結。当初は大正で空襲の合間に訓練を実施していましたが、8月初旬、金丸原へ移動し、そのまま敗戦を迎えました。
 襲撃機各6機、計12機の定数で、写真左手に並んでいる数ともほぼ一致していますので、おそらく間違いないと思われます。

 館林の4式戦特攻隊が有名ですが、待機特攻隊に凝ったマークが多かった理由は、気持の発露や軍紀が緩かったという理由以上に、「暇」であったからだろうと私は思っています。
 戦隊は、基本的には常時出動態勢にあるために忙しく、機付兵もローテーションで動いていて固定されておらず、「お化粧」の余裕はないのに対し、待機時の特攻隊は燃料不足のために、たいてい1日に1〜2回、せいぜい15分程度の飛行しかできず、毎日時間を持て余す状態だったので、お化粧にも手がかけられたのでしょう。
 なお、この写真は、撮影者のご子息から日本航空協会へ寄贈されているようです。


 花言葉の唄と第165振武隊 2012.6.1

 先日、第165振武隊枝幹二少尉のご遺族の方からご連絡をいただきました。有り難うございました。
 この機会に、同隊について分かる範囲で書いてみました。

 第165振武隊は、目達原の第11錬成飛行隊で3式戦教育中の特操2期生を主体に編成された部隊です。
 第11錬飛で特攻志願が募られたのは、昭和20年3月11日。このとき、枝少尉が真っ先に
この国難のとき、何を議論するのか。俺たちは航空隊に入ったときから死ぬのは覚悟しているはずだ。全員特攻隊を志願しよう
と、呼びかけました。これには一部異論も出ましたが、議論の末、全員志願の結論となったのです。

 これを契機に、第11錬飛からは次々と特攻要員が転出していきます。その一人、第56振武隊の小沢幸夫少尉は、目達原を離れて調布に向かう際、枝少尉の手帳に次のように書き残しました。

  現実ハ空想ニヨリテ裏切ラレタ。俺ハロク一家と運命ヲ共ニシタカッタ。而シ、シカタガナイ (個座和)
  俺ハ先ニ行クヨ サラバ
  追、「ロク」ニモ何カ残シテ置キタカッタ 時間ガナイ ユルセ

 「個座和」は小沢少尉が好んで使っていた署名。また「ロク」は和田照次少尉の渾名でした。映画、獅子文六原作「南の風」の主人公六郎太によく似ていたことから、自身もロクあるいは「南の風」と名乗っていました。

 実は、小沢少尉は四日市商業時代にボート部の選手で、愛知一中ボート部選手であった枝少尉とは、大会で決勝を争ったライバル同士でした。その縁もあって、図らずも知覧、目達原と同じコースを辿った枝少尉とは、特に親しい間柄だったようです。
 そのため、小沢少尉は枝少尉らの仲良し「一家」と同じ特攻隊で死ぬことを念願していたのですが、結果は別々の隊に分かれてしまいました。彼にとっては、よほど無念だったのでしょう。

 因みに、振武隊員異動通報第1號(6月12日調)には、小沢少尉は5/25與論島上空ニ於テ「グラマン」ト交戦して戦死と記録されています。これは無線傍受によるものと推察しますが、未だ100時間を僅かに上回る程度の飛行経験なので飛ぶだけで精一杯、現実にはとても「交戦」などできるレベルではない特操2期生が、強敵グラマンとどのように相対したのか。あるいは同僚たちを守るため、自ら囮となったのでしょうか。彼が、ただ一方的にやられたのではないことを祈ります。

 第165振武隊には、もう一人スポーツ選手がおりました。第11錬飛の開隊記念野球試合で実力を見せつけ、戦友たちに強い印象を残した渡辺静少尉です。
 それもそのはず、渡辺少尉は入営前、プロ野球「朝日軍」の選手だったのです。入営によって公式試合の出場はたった二度で終わってしまいましたが、強打者だったそうですから、もし生き延びていたら戦後の野球史に名を残したに違いありません。

 わが心 鍛へくれし 野球かな


 そして、目達原に残留していた枝少尉たちにも遂に転属の日が来ます。5月4日(以下、井野隆少尉の日誌)

午後2時、戦友達、教官、助教、本部の職員達に見送られ離陸する。飛行場上空を一周して3機は編隊を組み、機首を東京方面に向け東上す。
 波静かな瀬戸内海の島々を俯瞰して2時間余、明野飛行場に着陸す。
 同じ輸送機に乗ってきた枝、渡辺、和田少尉達は明野組、橋本、刀根、田中少尉と自分は調布組に分けられた。
 学生時代を東京で過ごした枝達(注=枝少尉は早稲田大学)は、しきりと東京へ行ける我々を羨ましく思っているらしかった。運命は皮肉で明野に残りたい自分が東京行きとなった

 外村吉夫少尉の回想
輸送機で三重県明野に到着した私達の申告を受けたのは、確か少将閣下(師団長今川一策少将)だったと記憶する。申告を受けた閣下はおもむろに
「貴官達十名をもって二つの特攻隊に編成する。隊長は既に貴官達を待って居る。お互いに今まで生死を共にすることを誓い合った仲だろうから、どのように分けても異存はなかろうが、分け方は貴官達にまかせる。あいはかって決められたい…」
 早速相談の結果、誰言うとなく、目達原での区隊別通りでよいではないかということになり、第1区隊6名(枝、杉本、中川、渡辺、和田、斎村)中の5名で1隊、残り1名と第2区隊の計5名で1隊となり、ここに第165、第166振武隊の誕生となった次第である

 注=第1区隊から166隊に廻った斎村武蔵少尉は、6月26日、佐野で訓練中殉職

 5月6日、第165振武隊は、第166振武隊とともに佐野へ移動し錬成を重ねます。5月29日、第6航空軍へ転属。30日、待機基地芦屋へ移動しましたが、隊長園部昌光少尉は、発動機不調のため光市海岸に不時着負傷して入院、戦列を離れてしまいます。

 隊長を失った第165振武隊は、枝少尉を隊長代理として6月4日、知覧へ前進します。当初は5日14時発進の予定でしたが、天候不良のために延期となり、6日1333、244戦隊直掩の下に枝幹二少尉以下5機が知覧基地を発進して全機未帰還となりました。


枝幹二少尉の6月5日の日記 (冨山県護国神社HPより)

あんまり緑が美しい
今日これから
死に行くことすら
忘れてしまひさうだ
真青な空
ぽかんと浮ぶ白い雲
六月のチランは
もうセミの声がして
夏を思はせる
〔作戦命令を待つてゐる間に〕

“小鳥の声がたのしさう
俺もこんどは
小鳥になるよ“

日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを
云ってゐる
笑はせるな

本日一四、五五分
いよいよ知ランを離陸する
なつかしの
祖国よ
さらば

使ひなれた
万年筆を
“かたみ”に
送ります


 「こんどは小鳥になるよ」と言っていた杉本明少尉の愛唱歌は「花言葉の唄」
だったそうです。優しい歌です。


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