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 少年飛行兵 飛燕戦闘機隊 11.12.3

 少年飛行兵「飛燕」戦闘機隊―弱冠15歳パイロットの青春譜 (光人社NF文庫) は、少年飛行兵第10期生の三浦泉さんが、昭和45年に私家版として上梓したものの再刊です。平易な文章で、率直に書かれています。難しい言葉などなく、とにかく読みやすいです。
 三浦さんは平成元年に亡くなられたそうです。ご健在であれば、貴重な記録をもっと残して下さったことでしょうが、本当に残念なことです。

 私は、「飛燕」と「78戦隊」と二つの言葉に惹かれて購入したのですが、三浦さんが傷病によって比較的早い時期に内地帰還されているため、その後のニューギニア航空戦の核心には触れていないのが、読んで食い足りない感じが残る一因かもしれません。
 もっとも、飛行第78戦隊は悲劇の戦隊で、最終的な生還者は地上勤務者2名のみとも言われているのですから、これは致し方のないことです。

 私が78戦隊に注目するのは、244戦隊との縁が深いからです。第3代の戦隊長泊重愛少佐は、244戦隊の初代戦隊長ですし、何人かの操縦者も244から転属しています。泊少佐は、3人の幼子を残して戦地に赴かれたと聞きます。また、戦隊とペアの第22飛行場中隊長には、244飛行場大隊警備中隊長渡瀬貞教中尉が任命されています。

 244戦隊のエース市川忠一大尉は、逆に78戦隊から244戦隊へ転じた人でした。戦闘の際の空中火災によって顔面に火傷を負い、内地帰還して244戦隊に配属されました。調布でも、消毒のためか、たびたび薬品で顔を洗っていた姿が記憶されています。

 この人たちのことも本書に何か書かれていないかと、若干期待を持って読んだのですが、著者は18年9月初旬に入院、10月に内地帰還命令ですから、244からの転属者とは入れ違いだったのだと思われます。
 「幻・ニューギニア航空戦の実相」を読むとよく分かりますが、人肉食さえも横行した飢餓と熱病の中で、多くの将兵が戦わずして没し、その中には、泊少佐をはじめとする244戦隊出身者もおりました。

 244戦隊みかづき隊から78戦隊へ転ずる田村勝美中尉に対して、陸士同期で親友の白井長雄中尉は、「ウエワクの猛鷲」との賛辞を贈っていますが、大空の華であるべき誇り高い戦闘操縦者にとってこのような最期は、どれほど無念であったことでしょうか。

 なお本書では、終戦時の著者の所属部隊が第
111錬成飛行隊となっていますが、これは第11錬成飛行隊と、その通称号「西部第110部隊」を著者が混同して記憶していたものと考えられます。戦記の専門出版社なのだから、それくらいは注釈を付すべきだと思います。更に、タイトルには「15歳パイロット」と謳っていますが、15歳は東航(少年飛行兵学校)入校時の年齢で、操縦教育の開始は17歳からです。


 徳島モデラーズクラブマガジン 11.10.12

 このほど復活した「徳島モデラーズクラブマガジン」を拝読しました。
 当方、模型関係は門外漢ですが、航空史の部分は、本当に貴重な記録です。

 調査をされた斎藤久夫さんが書かれている文章にも、全く同感です。まだまだ多くの写真、資料が人知れず眠っているのであろうと私も想像しているのですが、「すでに時遅し」と書かれているように、時の流れは、もはやそれらの発掘を困難にしてしまったのが現実だと思います。最近も、四国出身で航空整備に関して高名な方の遺された大量の写真等が既に処分されてしまったらしいという噂を、耳にしたばかりです。

 また、本書によって、山本正雄さんが昨年逝去されていたことも知りました。山本さんは、小牧の陸軍航空輸送部第5飛行隊で3式戦/5式戦の前線への空輸に従事され、自身の日誌を基に空輸の詳細な記録を纏められた方でした。

 補充機の空輸は、基本的には輸送飛行隊が受け持ちましたが、戦隊自身が実施することも、また、教育訓練を兼ねて実施することもあり、昭和20年3月末には、明野教導飛行師団で教育を受けていた陸士第57期生12名が、小牧から調布まで3式戦を空輸しています。

 これらの3式戦は、間もなく編成された第55および56振武隊向けの特攻用機で、空輸メンバーであった高島俊三、豊嶋光顕、渋田一信の各少尉も、4月に入るや特攻隊長要員として244戦隊に配属されたのです。

 本書にある徳島県下での不時着事故のすぐ後、山本さんは、昭和19年10月27日、3式戦を調布へ空輸されています。この時の編組は10機でした。
 それから間もない11月13日夕刻、調布飛行場では、陸士第56期杉本博中尉の操縦する武装司偵が、離陸直後天文台付近に墜落して中尉は殉職を遂げましたが、山本さんは杉本中尉とは中学の同級で無二の親友でした。244戦隊史を読まれて、「あのとき調布飛行場に彼がいたと知っておれば、会っておきたかった。それが心残り…」と述懐されていました。


 92オクタン 11.9.6

 小山澄人さんのサイトに、3式戦/5式戦の設計主務者土井武夫氏の晩年のインタビューが掲載されています。
 この中で驚いたのは、土井氏が
ガソリンは92オクタンは海軍が持っていて、出さない。陸軍では85オクタンが最高だった
と語っておられることです。

 似た話は、「液冷戦闘機飛燕」にも出ていて
陸軍が八七オクタン燃料を主用したのに対し、精製装置に長じる海軍は九一〜九二オクタンを常用していたのだ。そして海軍は、その精製法を陸軍に教えようとはしなかった
と、あります。

 このサイトに詳しいですが、3式戦は勿論、大東亜戦争後期の陸軍の主力戦闘機は92 (または91)オクタン燃料で飛んでいたのが事実ですから、上記は何れも
間違いです。しかし、戦記読み物はともかくも、土井氏ともあろう人が本当にそのような認識だったのか?…釈然としないものが残ります。あくまで記憶なので、記憶とはそういうものなのかもしれませんが。

 エンジンは使用燃料を規定した上で設計開発されるものだろうと認識していますが、規定等級未満の燃料では、最悪の場合、離陸上昇不能あるいはデトネーション (ノッキング)によるエンジン損傷等の可能性さえもあり得るのですから、常識としては考えられないことだと思います。

 一方、規定を上回るオクタン価の燃料を使った場合には、性能的には問題ないのですが、学生時代の教科書「航空燃料と潤滑油」には、
規定よりも多量の四エチル鉛のために、(場合によっては)排気弁を焼損したり腐食を促進する結果となる
という意味の記述があり、やはり推奨されるべきことではないようです。

 「聞き書き244戦隊・兵のつぶやき その3」に
3式戦の燃料は「きゅうにい」を使ってた。244戦隊では97戦にも92オクタンを入れていたが、そのまま使うとプラグが焼き付いてしまうから、オイルを混ぜてオクタン価を下げないと…なんて話もあった
と、元整備隊員の記憶を書いたのですが、あるいはこれが前記教科書の記述とも繋がるのかもしれません。ただし、「プラグ」はバルブの記憶違いと思われます。

 なお因みに、菊池俊吉氏が調布で撮影した写真に写る燃料車のウインドウには、「九二」のステッカーが貼られていますし(飛燕戦闘機隊)、氏が満州で撮られた1式戦2型の燃料車には、「九一燃料」と書かれています(陸軍航空隊の記録第2集)。


 「ある通信兵のお話」というお話 11.7.21

 何年か前からネットに出ている「ある通信兵のお話」というお話は、多くの皆さんがご存知かと思います。実に荒唐無稽な内容なのですが、一見詳しく巧妙に書かれていて、更にはウィキペディアにまでリンクされている(大和田通信隊の項)ということで、騙されてしまう方もおられるようです。

 いくつかのネット上の評では、内容の荒唐無稽さでは一致しているものの、著者が元軍人だと主張している点にはあまり疑いがかけられていないように感じられます。そこで、著者自身が元帝国陸軍軍人であることの証明を意図して、敢えて具体的部隊名や時期を公にしたと思われる経歴に着目してみました。

「ある通信兵のお話」の著者が主張する経歴
(以下引用)

昭和18年12月初旬 少年飛行兵(通信)志願書提出
同年12月下旬 歩兵第61連隊において一次試験(身体検査)
昭和19年1月10日 同連隊において二次試験 (筆記試験、口頭試問)
同年1月25日 甲種合格通知受領
同年2月1日 第一航空軍鈴鹿教育隊入隊(少飛18期 乙種幹部候補生機上通信要員) 搭乗員訓練は北伊勢飛行場でした。
同年9月1日 第一航空軍帥555部隊配属
同年9月10日 第一航空軍司令部直轄第101通信隊に転属(単に通信隊と公表していましたが、実際は索敵、諜報部隊。東京郊外の青梅にありました)
同年9月20日 索敵、哨戒機の機上通信担当として、実戦任務に就く
昭和20年10月1日 除隊、復員
最終階級は陸軍軍曹
(引用以上)


1.著者は意図的に混同しているが、そもそも、陸軍少年飛行兵と乙種幹部候補生(乙幹)とは、根本的に違う制度である。

2.少年飛行兵には、1年間の基礎教育を省略して当初から特業(専門)教育を実施した「乙種」が設けられていたが、これは第14期から17期までで、18期以降には乙種は存在しない

3.地上勤務者の甲幹、乙幹、下士候を教育する第1航空軍教育隊(中部第132部隊、後に帥第581部隊)は確かに鈴鹿にあったが、ここには少年飛行兵の教育隊は存在せず、通信兵の教育も行われていない

4.少年飛行兵乙種の制度は、新設の特別幹部候補生に引き継がれた。著者の経歴が事実とすれば19年4月入隊の特幹第1期(その前期)にやや近いのだが、第1航空軍教育隊では、特幹の教育を実施していない。

5.少飛18期は19年4月、少年飛行兵学校入校、卒業は20年4月。その時点でそれぞれ特業に分かれ、各教育隊あるいは実施部隊に配属された。当初から「機上通信要員」などとは決められていない。

6.実戦を経験したのは、一般的には少飛16期まで。17期以降は、終戦時でもまだ原則としては教育中。17期の場合、一部優秀者が兵長に進級していた以外、多くは上等兵が最終階級であり、18期で軍曹はあり得ない

7.戦時には正式部隊名自体が機密事項であり、「公表」などはされてない。

8.帥(すい)は航空総軍の兵団文字符であり、航空総軍が新編された昭和20年4月以降に使われた。よって、著者が転属したという19年9月の時点では、そもそも「帥第555部隊」が存在しない

9.その帥第555部隊は、鈴鹿にあった第1気象連隊の20年4月以降の名称だが、著者は転属先が第1気象連隊であるとは記述していない。

10.もしも、19年9月の時点で第1気象連隊に転属していたのなら、通称号は「中部第131部隊」でなければならない。何故、自身が勤務していた当時の部隊名および通称号を記憶せず、当該時点では未だ存在すらしていない名称を知っているのか。


 以上、この経歴書からは、著者が元陸軍軍人であったという証拠は見つけることができません。いかにもありそうなことが羅列されているのですが、デタラメと断定して構わないと思います。

 特に、決定的なのは、わざわざ(?)19年当時には未だ存在していない航空総軍の文字符を書いている点です。これは、出版物かサイトから受け売りした結果であろうと推察します。これらには大概、終戦時の通称号しか書かれていませんから。

 著者は、基地は東京都の青梅にあり、調布飛行場とは別だと強調しています。勿論、青梅には飛行場などありませんが、現青梅市は、かつて東京都西多摩郡
調布村だったので、そこに引っ掛けているのかもしれません。これは、著者の「ウソだよ!」というメッセージとも受け取れます。


 疾風の写真 11.3.10

 これは、オークションに出た4式戦疾風の写真ですが、以前に紹介したのと同じく、調布飛行場の南地区で撮影されたものです。遠方の松林の中に兵站宿舎があり、航空通信隊の空中線支柱も建っています。ここは「松林の兵舎」と呼ばれ、大東亜戦末期には244戦隊の整備隊もおりました。現在の調布中学校にあたります。

 この疾風は、調布で終戦を迎えた飛行第52戦隊の所属と推定されます。52戦隊は、終戦時30機の戦力を保持していたとされていますので、予備機を含めると約40機の中の1機ということになります。他の写真でも、戦隊マークが描かれていないものが多いように感じられるので、同戦隊は、新造機が多かったのでしょう。

 後方に写る2機のうち、左の無塗装は2単鍾馗のように見えます。2単は、飛行場北端の多磨墓地前駅近くの有蓋掩体で同時期に写された写真もあるので、調布には少なくとも2機存在していたことになります。
 当時、関東地区で2単を持っていた戦隊は、柏の飛行第70戦隊だけですから、終戦後に飛来したものの、8月18日夕刻以降の戦闘用航空機飛行禁止命令のために飛べなくなり、置き去りにされたのではないかと思われます。

 厚木海軍航空隊の反乱事件は陸軍にも影響を与えていて、情報収集を迫られた各戦隊は他基地に連絡将校を派遣しました。52戦隊の疾風も、占領軍によって厚木で撮影されていますし、藤ヶ谷の飛行第53戦隊も厚木に人員を派遣しています。おそらく、70戦隊も同様ではなかったかと思います。


 内藤健伍少尉 11.2.1

 右の写真(山下徹さん提供)は、昭和20年1月19日、横浜市港北区で戦死を遂げた、とっぷう隊の内藤健伍少尉です。階級章は軍曹のようなので、予備士官学校時代かと思われます。

 同日の小林戦隊長日誌には、
航空総監阿南閣下浜松ニ来ラル。情報入リ午後邀撃ニ上リタルモ東京上空ニ呼ビ戻サレタル為、交戦セズ。敵ハ阪神ニ来襲セリ。内藤少尉、横浜ニ墜落戦死ス。原因不明。残念此ノ上ナシ
とあり、実際の原因は事故と思われますが、作戦任務中であったので戦死と記録されています。

 内藤少尉は、慶應義塾大学卒業後、現役入隊。甲種幹部候補生に合格の後、航空に転科した幹候9期生でした。
 甲幹の操縦教育は、新設の特別操縦見習士官に引き継がれたので、甲幹出身の操縦者は、9期が最後になりました。

 操縦教育は同時に実施されているので、幹候9期と特操1期は、操縦者としては同期とも言え、階級も同じですが、幹候は1年早く入営していて、しかも予備士官学校出ですから、軍人としての格は遥に上(先任)でした。

 特操1期には、乙幹や地方人からの応募もありましたが、多くは、学窓から志願で入隊し、悪名高い初年兵教育も経ずにいきなり見習士官として優遇され、少尉に任官した恵まれた人たちでした。何よりメンコ(食器)の数がモノを言った軍隊の中で、1年の差は決定的です。「軍人の体をなしていない」と陰口も叩かれた特操1期生の中には、「幹候は恐ろしくて傍に近寄ることもできなかった」と述懐する人もおりました。


 19年8月、244戦隊に配属された幹候9期生は、5名(片桐、内藤、服部、永井、小川)ですが、うち4名までが帝都防空戦の早い段階で没しています。これは、特操1期と比べるとかなり高い確率で、あるいは予備士官学校での教育と無縁ではないのかもしれません。

 一昨年亡くなられた内藤少尉の弟、晃さんは、日大で人力飛行機の実験を指導され、晩年は人力ヘリコプターの夢に取り組まれた方でした。実は、この人力飛行機一号機は、内藤少尉の部隊葬も執行された調布飛行場の大格納庫で組み立てられ、飛行に成功したのです。慰霊祭でお会いした際には、「兄の縁を感じた」と話されていました。



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