■ 内藤健伍少尉 11.2.1 右の写真(山下徹さん提供)は、昭和20年1月19日、横浜市港北区で戦死を遂げた、とっぷう隊の内藤健伍少尉です。階級章は軍曹のようなので、予備士官学校時代かと思われます。 同日の小林戦隊長日誌には、 <航空総監阿南閣下浜松ニ来ラル。情報入リ午後邀撃ニ上リタルモ東京上空ニ呼ビ戻サレタル為、交戦セズ。敵ハ阪神ニ来襲セリ。内藤少尉、横浜ニ墜落戦死ス。原因不明。残念此ノ上ナシ> とあり、実際の原因は事故と思われますが、作戦任務中であったので戦死と記録されています。 内藤少尉は、慶應義塾大学卒業後、現役入隊。甲種幹部候補生に合格の後、航空に転科した幹候9期生でした。 甲幹の操縦教育は、新設の特別操縦見習士官に引き継がれたので、甲幹出身の操縦者は、9期が最後になりました。 操縦教育は同時に実施されているので、幹候9期と特操1期は、操縦者としては同期とも言え、階級も同じですが、幹候は1年早く入営していて、しかも予備士官学校出ですから、軍人としての格は遥に上(先任)でした。 特操1期には、乙幹や地方人からの応募もありましたが、多くは、学窓から志願で入隊し、悪名高い初年兵教育も経ずにいきなり見習士官として優遇され、少尉に任官した恵まれた人たちでした。何よりメンコ(食器)の数がモノを言った軍隊の中で、1年の差は決定的です。「軍人の体をなしていない」と陰口も叩かれた特操1期生の中には、「幹候は恐ろしくて傍に近寄ることもできなかった」と述懐する人もおりました。 | |
19年8月、244戦隊に配属された幹候9期生は、5名(片桐、内藤、服部、永井、小川)ですが、うち4名までが帝都防空戦の早い段階で没しています。これは、特操1期と比べるとかなり高い確率で、あるいは予備士官学校での教育と無縁ではないのかもしれません。 一昨年亡くなられた内藤少尉の弟、晃さんは、日大で人力飛行機の実験を指導され、晩年は人力ヘリコプターの夢に取り組まれた方でした。実は、この人力飛行機一号機は、内藤少尉の部隊葬も執行された調布飛行場の大格納庫で組み立てられ、飛行に成功したのです。慰霊祭でお会いした際には、「兄の縁を感じた」と話されていました。 |