お知らせ 2010年

お知らせ2009年へ

 井野隆氏逝去 10.11.11

 訃報が続きますが、244戦隊が編成した第164振武隊の井野隆氏が、今年5月、逝去されていたことが分かりました。

 今から十数年前になりますが、井野さんは同期の草間さんと飯田さんを誘って拙宅へお出で下さったことがあります。隆という同じ名前なので、初対面でも親近感を持って下さっていました。そして、未だ昔日の面影を残していた調布飛行場へご案内し、野球場になっていた仮泊所の跡でお話を伺いました。その時の写真
(右から井野さん、草間さん、飯田さん)

 そこの管理人の方が、戦後「泰山荘」で下働きをされていたそうで、調布時代に泰山荘に遊びに行き、「中島の親爺」に御馳走になった経験をお持ちの飯田さんと話が弾んでおられたのを思い出します。お三方ともに鬼籍に入られた今、仮泊所跡も、もう土地そのものがありません(洪水調整池になってしまった)。

 平成6年、井野さんが中心になって第11錬成飛行隊の特操2期生および遺族の文集「背振の雲」が作られました。そして井野さんは再度、今から3年ほど前に、後世に残す目的で同書をより読みやすく立派な体裁で再刊されました。
 当初は玉置友哉さんと二人で計画されていたのですが、玉置さんが亡くなられたため、井野さんが孤軍奮闘されることになったのです。

 井野さんは、戦没同期生のことを後の世に伝えるのは生き残った者の使命と考えておられたと思います。人生の最期に上梓されたこの本には、所謂学徒出陣によって加古川戦車連隊への入営に始まり、特操の受験、相模、館林、知覧、目達原そして調布と書き続けられた日誌も掲載されていて、井野さんの遺書と言ってもよいかもしれません。
 世代は違いますが、私も井野さんと思いは同じです。これからも井野さんの志を継いで、終生英霊たちの記録と慰霊に務めたいと念じています。

合掌


 木原喜之助氏逝去 10.11.6

 少年飛行兵第13期の木原喜之助氏が、今年3月逝去されていたことを知りました。
 木原さんは、みかづき隊で市川忠一大尉の僚機を務め、終戦時の飛行時間は、13期戦闘では最多の部類、800時間に達していました。

 木原さんのお陰で、それまで情報があまりに少なかった白井隊長や市川大尉が真の実力者であり人格者であったことを知りました。もしも木原さんのお話を聞けなければ、244戦隊史は成立し得なかったでありましょう。

 昭和20年1月27日、富士宮上空でB29を撃墜した後、補給のために富士飛行場へ降りた際には、市川さんが「よくやった!」と言って、まるで子供のように抱きしめてくれたという思い出は、聞いている私まで胸が熱くなりました。

 戦隊会に上京された際には拙宅へ三度もお出で下さって、長時間お話下さいました。一度、小林戦隊長の墓参にご一緒しましたが、感極まって「うん、うん」と呻きながら墓石をさすっておられた姿が今も目に浮かびます。

 木原さんは、「男の中の男」。本当に憧れの存在でした。

合掌


 YouTubeに飛行第47戦隊隊員 10.10.30

 YouTubeに飛行第47戦隊隊員4人の懇談の一部がアップされています。
 でき得ることならば、是非続編をお願いしたいものです。

http://www.youtube.com/watch?v=xpvRdPcMejM

 最後の一機 10.9.29

 陸士57期の手塚博文氏が、昭和55年に自費出版された『最後の一機』を読みました。今まで本の存在さえも知らなかったのですが、忌憚なく分かりやすい記述で、また信念と自信にあふれていて後味のよい一冊でした。やや、自画自賛が目立つ気もしますが、イヤ味ではないです。

 本書の中で、常陸教導飛行師団第1飛行隊第1中隊 (7月18日、飛112戦隊に改編)は、昭和20年7月10日朝、制号作戦発令時に新田から調布への移動を命ぜられたが、出発準備中に敵艦載機の空襲を受け、保有4式戦25機全機が被弾して飛行不能となったために、移動が中止となったことは初めて知りました。ただ、当日新田に着いたばかりの機械化移動整備隊の努力により、数時間後には全て復旧できた由。

 因みに、この頃、同隊の4式戦は全機可動状態に達しており、
4式戦は故障が多く、整備は難しいので可動率が悪いという一般の定評は妥当ではないとのこと(但し、電気式ペラの故障頻発には悩まされた)。

 また、常陸教導飛行師団の師団長加藤敏雄少将が、鹵獲したバッファローを自ら操縦して着任し、演習の際にもその機上から視察をしていたとか、読んで新鮮な驚きがありました。

 もう一つ、初めて知ったのは、事故の可能性が高い試験飛行の場合には、離陸前に腕時計を右に移しておくこと。不時着接地の際には、飛行眼鏡を上に跳ね上げ前屈みになって額を左腕(右腕は操縦桿)に密着させるが、腕時計をしていると、これが計器板にあたって壊れ、怪我をするからだそうです。

 なお、本書には飛行第112戦隊長梼原秀見中佐が5式戦についての回想を寄稿されています。戦闘の大ベテランの5式戦評ですので、紹介させていただきます。


五式戦についての思い出  梼原秀見   手塚博文著『最後の一機』より(原文のまま)

 第三十戦闘飛行集団参謀から明野教導飛行師団司令部付となった私に対し、航空総監部から「比島作戦の戦訓を全戦闘隊に普及教育せよ」との命令があり、約二ヶ月あちこち回って四月一日明野に帰りました。

 丁度そのとき坂井庵少佐が五式戦をもってきておリ、乗ってみてくれとのことで早速操縦してみました。すると各舵の調和がとれて効きがよく、発動機の操作も隼と殆ど同じ、特に発動機の信頼性が高いので実戦むきだし、よい飛行機だと思いました。

 実戦性能をみたいと五四期の一人に四式戦に乗ってもらって単機戦闘をやりました。高位戦は勿論問題はなく、低位からでも四式戦には殆ど有効な攻撃をかけさせないですぐ反撃出来ました。そこで四式戦三機編隊と単機で戦闘をやりましたが、高位から終始有利な域闘が出来ましたし、低位でもだんだん態勢を挽回してゆけるので、すっかりほれこんでしまったのです。

 常陸に赴任の途中、航空本部の小森田親玄課長(三四期)と面接し、明野でやった実験を説明し、
「五式戦一機は四式戦三機以上の価値があるので、即刻五式戦の生産に全力を集中して下さい。四式戦では今の戦勢を挽回することは至難です」
といったら、課長から

「梼原何をいうか、四式戦は大量生産に入ってどんどん出来ておる。五式戦は中京地区の工場の状態から今すぐ沢山は出来ない。君のような戦闘機のオーソリティが四式戦は駄目だなどと言えば、四式戦部隊の士気に大きく影響する。今後四式戦の悪口など言ったら即刻馘
くびきり だぞ」
と叱られたことがあった。

 四式戦は補助翼が重く、舵のバランスがとれておらず、又発動機の取扱いが複雑で故障が多く出足も悪いので、これから若い操縦者に乗りこなして戦力を発揮してもらうには不適当だと判断していました。

 前年(昭和十九年)夏、飛行実験部の今川一策大佐(二八期)が水戸にこられ、「梼原、四式戦をどう思うか」ときかれたので、感じたままを言うと
「四式戦にかわるもっとすぐれた戦闘機をつくらん事にはこの戦争は乗りきれん。どうだ、新戦闘機をつくるよう意見具申せんか」
とのことに、

「そりゃいい戦闘機は欲しいが、今から設計、試作、審査、大量生産となると戦局に間にあわんでしょう。四式戦の改修、性能向上の方がいいのではないですか」
と返事すると、
「いや、今すぐ中島につくらせれば間に合うのだ」
との意見を言われたが、私は今川大佐の言葉には余り乗気ではなかった。

 戦後確か昭和二十八年だったと思うが、久し振りに今川少将(昇進しておられた)にお会い出来た。その時に
「梼原、お前が新鋭戦闘機をつくることに反対するから敗けたじゃないか」
と冗談まじりに不満をのべられた。

 五式戦は今川少将や私達の気持を察してか、駄目な三式戦の水冷発動機の代りに、その機体に星型空冷発動機をとりつけた苦肉の策であったが、ほんとに思わぬ拾い物をしたような戦闘機であった。

 グラマンと一度空戦をやってみたいと思っていたが、その機会に恵まれなかった。若しオクタン価九五若しくはそれ以上のよい燃料を使ったら、P51とでもよい戦闘が出来ただろうと思われる次第です。


 偉勲 体当り震天隊 10.8.6

 「日本ニュース」の昭和20年までの全巻がNHKのサイトで公開されています。調布の関係は、第237号の「特攻護国隊」と第242号の「偉勲 体当り震天隊」です。
 「偉勲 体当り震天隊」は、244戦隊と47戦隊震天隊の映像を継ぎ合わせたものですが、244戦隊分から読みとれることを記します。撮影後間もない20年1月9日、小平上空に散った丹下充之少尉の爽やかな笑顔が印象的です。

 震天隊の機側待機所にやって来て歓談の輪に入る高山正一隊長。
「敬礼!」
「今日はいい天気ですね」
「(高山)来るかもわからん。今日あたりは」
「(高山)今日は飛行機、何機動くんだ?」
「(機付)全部ぅーです」
「(高山)邀撃中、飛行機落ちないように頼むぞ」
「(機付)大丈夫です。バッチリですから(笑)」
 
次いで
「(丹下)佐藤、たばこ一本くれ」
 
たばこに火をつける佐藤准尉
「(高山)火を貸してくれ」
 
佐藤の火を借りる高山
「(高山)ありがと」

 47戦隊あさひ隊ピスト前での幸軍曹と戦友の歓談に続いて

 演習に出発
「(整備班長)まわせー!」
 高山隊長の前で丹下、佐藤、板垣整列して申告
「敬礼!」
「(丹下)隊長僚機(?)」
「(佐藤)佐藤分隊第2分隊」
「敬礼!」

 操縦席に乗り込む高山少尉、続いて丹下少尉。
 板垣伍長の89号機が掩体から滑走路へと向かう。
 4機編隊で北向きに離陸。

 この編組では、73号は3番機(第2分隊長)の位置と思われるので、佐藤准尉の乗機と推察される。なお、同機は19年12月には板垣伍長の乗機で、この時点では無塗装であった。
 高山機は翼内砲を撤去し、空中線支柱も第認できない。したがって、世傑「飛燕」72頁等に掲載されている日本ニュースからのスチール起こしのカットに見られる、空中線支柱があり方向舵に「タ」と記入の57号機は、丹下少尉機であろうと思われる。

 ラスト 成増飛行場震天隊の離陸に続いて、調布の滑走路上空をローパスする4機の3式戦。


 桜進軍 10.6.25

 大映映画『最後の帰郷』のラストに近いところで、「八紘一宇の朝ぼらけ…」と、特攻隊員たちが手拍子を打ちながら歌う曲が何というタイトルなのか知識がなく、長年引っかかっていたのですが、ようやく、古関裕而作曲、西條八十作詞の『桜進軍』であると確認しました。

 この曲は、歌詞をアレンジして義烈空挺隊の隊歌としても愛唱されており、知覧等から出撃した特攻隊員たちの間でも歌われていたそうです。劇映画とはいえ、やはりこの映画には、昭和20年6月当時の生の空気が反映されているのです。
 因みに、「八紘一宇の朝ぼらけ…」も、この歌の本来の歌詞とは違い、アレンジされたものと思われます。


 大沢総合グラウンド埋蔵遺跡発掘調査報告書 10.5.30

 このたび、三鷹市遺跡調査会より「大沢総合グラウンド整備事業に伴う埋蔵遺跡発掘調査報告書」が刊行されました。大沢総合グラウンドは、旧調布飛行場南地区の一部にあたり、『飛燕戦闘機隊』32〜33頁掲載の写真に写っている範囲が、ほぼ該当します。

 昨年、当サイトでも書きました3式戦のプロペラと5式戦のプロペラおよびスピナーが発掘されたのは、当該写真左手に写る一連の掩体が途切れた向こう(東側)になります。
 プロペラが埋められた経緯は定かではないのですが、敗戦から占領までの状況に鑑みて皇軍将兵の行為とは到底考えられず、占領後の飛行場整備を急ぐ米軍が防空壕に落とした、あるいは捨てたものと推定されます。

 特にプロペラブレードは腐食甚だしく、ほぼ土に還る寸前の状態のようですが、私には、この調布の地から旅立ち、国のため、生身の人間であった一切の痕跡すら残さずに散った英霊たちの遺骨のように見えてなりません。見せ物にするのではなく、このまま安らかに眠らせてあげるべきだろうと、私は思います。

 なお本報告書は、関係公共機関および公共図書館等に配布されるそうです。


 毎日フォトバンク 10.5.7

 久しぶりに毎日フォトバンクを覗いたところ、二つ発見がありました。

 一つ目は、「調布飛行場竣工式」。眩しいほど白く輝いているコンクリートエプロンに、大日本航空のDC3が駐機して、試乗のお客さんを待っているようです。
 このDC3が停まっているのは、以前、アルファ・ツー(A−2)と呼んでいた誘導路の南側です。のちに戦隊本部となる調布飛行場司令所の屋上から撮影したものと思われます。
 式典用のテントには紅白の幕が張られて、東京府営飛行場開場の華やかな雰囲気が感じられますが、こののち8月には、第17飛行団と飛行第144(のち244)戦隊が配置されて、調布は俄に軍用飛行場へと衣替えすることになります。

 二つ目は、青木航空で検索すると出てくる「東京上空で豆まきするビーチ18とセスナ」。244戦隊のエース市川忠一大尉は、この当時青木航空の運航部長をされていたはずなので、写真のビーチC18S・JA5002も市川さんが操縦されているのだと思います。
 撮影日付は昭和29年2月5日。市川さんが操る同機が悪天候下、福島県南会津郡の山中で遭難したのは、この年の9月25日夕刻のことでした。

 同機はアジア航測のチャーターで6名が搭乗し、輸入したばかりの新型航測カメラを載せて北海道の森林調査が目的でした。当日は台風が接近中だったのですが、今とは違い当時の進路予報は不正確で、強風による丘珠の滑走路閉鎖を知ったため、津軽海峡から羽田へ引き返す途中であったとのこと。

 不幸なことに搭乗者6名は全員死亡しましたが、不時着を企図した市川さんの腕はさすがで衝撃は最小限に留まったため、スイス製の新型カメラはほぼ無傷で回収され、その後も長らく航空測量に活躍したそうです
(出典=チャンネル桜掲示板)

 なお、「振武隊」または「特攻隊」で検索すると、昭和20年3月19日、調布を出撃する際に日の丸の鉢巻を締める四宮中尉や島袋曹長らの写真も出てきます
( 知覧と説明されているのは、もちろん間違い)


 日本航空 10.1.27

 日本航空が事実上の倒産状態となりましたが、一抹の寂しさを感じます。
 調布との絡みで言うと、日航の前身である大日本航空は、本拠の羽田飛行場の予備として調布飛行場を指定していました。もし大東亜戦争がなければ、調布にも大日航の旅客機が飛来していたはずです。
 かつては、調布飛行場東側の旧陸軍用地に日本航空の立派なグラウンドやテニスコート、クラブハウスがありましたが、今は明治大学に売却されて附属中高等学校に姿を変えてしまいました。

 実は、日航は244戦隊とも繋がりはあります。元隊員で戦後日航に勤務された方は二人知っていますが、その一人、整備担当重役を務められた茂呂豊さんは、244戦隊の初代整備隊長でした。
 茂呂さんがおられた頃の日航は無事故を誇っていたと記憶しますが、かつて問題の多い3式戦を苦労を重ねながら運用し、可動率を向上させた経験も、そこには生かされていたのかな…と、想像したりもします。
 茂呂さんは、その後、新日本航空整備(現ジャムコ)の社長にも就任されていますから、調布飛行場とは大変に縁の深い方です。

 私が航空整備学校時代に発動機を教えていただいた井原慶一先生は、航空局の検査官や試験官を歴任された方でしたが、戦後の民間航空草創期には日航へ出向して、北米路線の航空機関士として乗り組んでおられたと聞きました。その井原先生が、昔の飛行機乗りならではの実に大きな声で
本物の航空会社は日本航空ただひとォーつ」と、力説しておられたのも懐かしい思い出です。


244戦隊ホームページへ戻る