お知らせ 2009年
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5式戦プロペラ発見
09.12.5
朝日新聞の報道によると、現在整備工事中の三鷹市大沢グラウンドの地下2メートルから、5式戦のプロペラ1基とスピナー、3式戦のプロペラ2基が発見されたそうです。
敗戦後の武装解除完了時には、
当該地区には皇軍機が整然と並び
、外されたプロペラや磁石発電機は、機体の傍ではなくやや離れた場所に集積されていたと考えられます。飛行機の修復を困難にするためです。
9月4日、調布飛行場に進駐した占領部隊は、速やかに米軍飛行部隊の使用を可能とするために、飛行場の暫定整備作業を実施しました。つまり、当該地区に置かれていた皇軍機や外された部品等の全てを、
より南の邪魔にならない場所(現調布中学校西側)
まで移動集積したのです。
大東亜戦争末期の飛行場には、至るところに防空壕(縦穴壕)が掘られていました。飛行場には身を隠す場所がないからです。
今回出現したプロペラは、ブルドーザーによる撤去移動作業の際に、米軍のミスによってこれらの壕の中に落としてしまったものと考えられます。プロペラは別に危険な物ではないので、わざわざ掘り出す手間を省いて、そのまま埋めてしまったのでしょう。
情報を提供して下さった関口さん、有り難うございました。
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千代田テレビ技術学校
09.12.1
毎年いま頃になると喪中欠礼のハガキが届きますが、その中に、北海道のK君死去の報せがありました。彼は、東京上野の千代田テレビ技術学校航空電子科の友人でした。
「航空電子」という耳新しい学問を掲げていたのは、当時この学校が唯一で、また無試験入学であることにも惹かれて、この学校に入ったのですが、折りからの70年安保、全共闘運動の波は、この学校にまで押し寄せました。
学園紛争の結果、この学校の暗部が明るみに出るといったこともあり、段々と裏切られた思いが高じてきました。ちょうどその時期に発生したのが、三島由紀夫の自決。三島の本など読んだこともありませんでしたが、この事件には突然に頭をぶん殴られたような衝撃を受け、退学して航空整備の道へと進路を変更するきっかけになりました。
早大弁論部の出身が自慢の広瀬学園長は、毎月、抜き打ちで全授業を中止しての弁論大会を開き、学生たちに意見を言わせておいて、今度はそれを悉く論破、糾弾するのが、まるで趣味でもあるかのような人物でした。
登壇するときには、必ずオペラ・タンホイザーの「歌の殿堂を讃えよう」が流される決まりでした。まるでヒトラー気取りで嫌な奴だと思っていましたが、いまの私がワーグナー好きなのは、ここで聞かされていたせいかもしれません。
航空電子科長の先生は、航空自衛隊揺籃期に米国で教育を受けた管制官の草分けだと聞いていましたが、後年、航空戦史に関わるようになってから、実は陸軍航空士官学校第53期生であったことを知りました。244戦隊長や整備隊長とも同期だったのです。その頃はこちらが無関心ですから仕方ないのですが、昔話を聞いておいたら…と悔やまれます。
当時は、若かったので学校には不満ばかりで、あまりよい思い出はないのですが、今日、私が航空戦史を眺めるときに、大方の人たちのような飛行機のハードウェアではなく、運用や通信について、いわばソフトウェアにより興味を惹かれるのは、もう今はないこの学校で学んだお陰のような気がします。
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震天制空隊隊歌
09.10.16
最近、片づけをしていたら、私がお邪魔するようになるずっと前の244戦隊会で配布された歌詞カードが出てきました。
これは、その中にあった「震天制空隊隊歌」ですが、当方は噂も含めて、全く聴いたこともなく、メロディーも作者も一切不明です。
1.
空で散るなら調布におじゃれ
雲染む男の集いじゃないか
武蔵広野にエンヂン唸りゃ
葉隠男子の血は踊る
2.
荒鷲さんなら葉隠如何
晴れたみ空は我等が住居(すみか)
男一匹生命を掛けりゃ
何で恐るゝ体当り
3.
握る操縦桿空飛ぶ鳥よ
生命捧げたこの身じゃないか
金も要らなきゃ名誉もいらぬ
何時も心は日本晴れ
4.
翼はるばる敵機を索(もと)め
今日も葉隠生命の仕事
飛べば還らぬ愛機とともに
ゆくぞ楽しや九段坂
他にこのカードに書かれているのは、戦隊歌 (飛燕戦闘機隊隊歌)、「男なら」それに「同期の桜」です。
「男なら」は、調布から出た京谷少尉、上原少尉、菊地少尉たちが、知覧出撃の直前、愛機の前で輪になって歌ったと、その現場に居合わせた高木俊朗が書いています。
このカードにある歌詞は、本来の歌詞とも、また高木俊朗が書いているのとも違いますが、愛唱された歌ほど、こうしていろいろなバリエーションがあったのでしょう。
また「同期の桜」の1番の歌詞には、
同じ調布の庭に咲く…
とあります。名曲ですが、こんなに哀しい歌が流行ったこと自体、国民の中に滅びの予感が広く存在していた証のように思われます。
1.
男なら男なら
翼伸ばしてブン飛び立ちな
ドンと当って砕けて散れよ
薫れ九段の桜花
男ならやってみな
2.
男なら男なら
女一人にくよくよするな
元をただせば他人じゃないか
俺等の住居(すみか)は空の上
男ならやってみな
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キ−44鍾馗
09.8.15
これは、チェコの日本軍機研究家として知られる Martin Ferkl さんから送られてきた、新しい「鍾馗」の本(ISBN 80-85957-15-9)です。
言葉の壁も国境も越えて、よくこれだけの労作を纏められたものと、感心しています。
また、素人目にも感じるのは、イラストの精密さとリアルさ。とにかく綺麗です。写真も多数、掲載されています。
Martin Ferkl さん、ありがとうございました。
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天文台の鉄塔と浜田中尉
09.7.10
調布飛行場の東側に位置する東京天文台(現国立天文台)の構内には、高さ60メートルにもおよぶ鉄塔が4本立っていました。
『244戦隊史』を執筆した当時は、『東京天文台90年史』という小冊子と雑誌『自然』1978年11月号に掲載された元台長萩原雄祐氏の回想記等から、この鉄塔は短波による報時電波送信用ではないかと思い込んでしまっていたのですが、これは間違いで、
国立天文台アーカイブ室新聞
によると、当時天文台とは別組織であった三鷹国際報時所が大正13年に設置した
長波受信用
の空中線であり、フランスボルドー天文台から発せられる報時電波を受けるためのものでした。また後述のように、この鉄塔は撤去されましたが、その後も応急の空中線が建てられ、報時業務は戦後、郵政省に移管されるまで継続されたとのことです。
何故、この鉄塔が244戦隊史に関係しているのかと言えば、昭和18年8月21日未明、悪天候下で実施された防空演習の際、みかづき隊の
浜田道生中尉
(航士55期)の97戦が墜落炎上して、中尉が殉職する事故が発生しているからです。
18年から19年にかけての調布飛行場では、夜間の演習が頻繁に実施され、19年5月31日には、新編間もない飛行第18戦隊の先任飛行隊長川畑稔大尉と僚機坂上憲義少尉機が離陸直後におそらく接触し、川畑大尉機が多摩川原に、坂上少尉機が鶴川村に墜落して、両者とも殉職する事故も発生しています。
夜間演習に熱心であったのは、B29の出現以前の大本営の判断では、帝都空襲は、沿岸に接近した敵機動部隊から発進した艦載機によって、それも夜間に実施されるであろうと想定されていたからだと考えられます。
浜田機の航跡を推定すれば、
略図
のように離陸直後に低高度で急旋回したことになりますが、夜間、視界のない雲中ではあり得ず、意図的なものとは考えられません。
4機編隊で離陸直後に雲中に突入したため、おそらく僚機は長機の灯火を見失うまいと接近しすぎた結果、主翼が長機の尾翼あるいはいずれかの動翼に接触し、浜田機は操縦不能に陥ったのではないかと推察します。僚機の側は、プロペラの接触であれば飛行に重大な支障をきたすはずですが、実際はそのまま上昇を続けて雲上にまで達していますので、損害は極めて軽微であったのでしょう。
通常、事故発生の後は事故調査委員会が組織され、徹底的に原因が探求されるのですが、本件の場合は、浜田機は焼失し僚機も操縦者は雲上から落下傘降下して生還したものの、無人の機体は柏付近に墜落大破しており、おそらく物的な検証は不可能であったのだろうと思われます。
そもそも、離陸直後に雲中に突入してしまったということは、雲底が異常に低く、本来、飛行すべきではない悪条件であったわけですが、本演習が第1航空軍司令官李王垠中将の検閲下であったために、無理を承知で強行されたのではないでしょうか。翌年の18戦隊の事故も第10飛行師団長検閲下の演習でしたが、事故の真の原因は、鉄塔の存在ではなく、むしろここにありました。
当日、第2編隊として離陸待機中にこの事故を目撃した村岡飛行隊長は、
<
事故後、なぜこのような悪天候下に出撃させたのか、責任問題も含めて調査されたが、あまり深くは追及されなかった
>と回想しています。
この鉄塔は、昭和20年4月、陸軍によって撤去されました。天文台関係者の間では、その理由が「飛行場から離発着する飛行機の邪魔だから」とされたようなのですが、これは違います。
天文台は飛行場のある立川段丘よりも一段高い武蔵野段丘上にあるため、滑走路面から見た鉄塔の高さは約80メートルにもなります。
しかし一方、飛行場の
場周経路
は、事故時と同じ南風の場合、深大寺の東を300メートルの高度で通りますから、鉄塔は通常は障害にはなりません。もしこれが障害になるのであれば、昭和14年、東京府が飛行場を計画した際から問題になっていなければならないはずです。
鉄塔撤去のきっかけとなったのは、天文台東側の羽沢
(はねさわ)
陣地に配置されていた高射砲隊に4名の戦死者を生じた20年2月16、17両日の敵艦載機空襲で、低空で来襲する小型機の射撃に邪魔になることが確認された結果だと思われます。しかし、報時は軍の作戦遂行上必要なものであり、代替策の検討や陸軍省と文部省間の折衝に時間を要して、実施は4月になったのだと想像します。
『三鷹戦時下の体験』等では、皮肉なことに、羽沢陣地の高射砲第112連隊第1大隊は4月末、決号作戦準備のために富山県新湊へ移動してしまい、羽沢陣地から砲は姿を消してしまったと書かれています。
しかし、20年5月になって調布に配属された特攻隊員の中に、羽沢陣地から白い糸を曳くように高射砲が発射される光景を鮮明に記憶している人がおり (空襲の状況から6〜7月のことと推察される)、また調布飛行場は最重要の航空基地ですから防空対象から外されるとは考えられず、羽沢陣地には他の高射部隊が後継として配備されていたと考えるのが妥当でしょう。
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松本順次軍曹
09.3.13
昭和20年6月3日朝、知覧に於けるコルセアとの戦闘で没した
松本順次軍曹
については、今まで予備下士9期生だったことしか分かっていませんでした。244戦隊に数名在籍していた予備下士9期(乗養12期)生は、ほとんどは熊本乗養の出身者でしたが、松本軍曹だけは違う乗養から来ていたために、情報がなかったのです。
しかしこのたび、吾孫子邦生さんからの情報で、京都乗員養成所12期操縦生の名簿の中に「松本順
次
」の名が記載されていることが確認できました。吾孫子さん有り難うございました。『飛燕戦闘機隊』の戦没者一覧では「順二」になっていますが、本書をお持ちの方はご訂正下さい。
当日の戦死者については、小林戦隊長の知覧時代の日誌に
<
自爆一機(山下軍曹)未帰還二機(本多軍曹、藤井軍曹)
>
と記載されており、それが未亡人の書かれた『ひこうぐも』に、更には『日本陸軍戦闘機隊』や『液冷戦闘機飛燕』に引用されてきました。
私は20年ほど前、お借りした故斎藤昌武氏のアルバムの中の、そよかぜ隊全員の写真に
<
本日、松本、知覧上空「コルセア」邀撃ニテ鹿児島湾上空ニテ散ル(20.6.3)
>
という赤鉛筆で書かれたメモを見つけて、小林日誌の記述に疑念を持ちました。小林日誌が当該戦闘の直後に書かれたものであるならば、未帰還となった部下の名を間違えるとは考えられないからです。
その後の調査の結果、藤井軍曹は健在であり、戦死したのは、やはり松本軍曹に間違いないと確認できました。また、未亡人のお話から、この「日誌」は、戦後しばらくしてから
記憶を基に書かれたもの
だったことも分かったのです。
小林氏は戦後、何人かの戦没者の墓参に回っていますが、おそらく、その際に遺族への説明資料として、この日誌を作成する必要があったのかもしれません。
未亡人も「再度出版の機会には、直します」と言って下さっていたのですが、亡くなられた後、誤った記述のままで再版されてしまったのは、残念なことです。
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桶川に飛燕がいた?
09.3.2
先日、埼玉県にお住まいの方から、要旨次のような質問をいただきました。
<
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場、つまり現在のホンダエアポートの近くの古老から、戦時中「
飛燕が頻繁に飛行場上空を飛行していた
」という思い出話を聞いたのだが、果たして飛燕は桶川に何かの縁があったのだろうか?…
>
これについて、当たっているか否かは分かりませんが、私なりに回答を考えてみました。
まず、桶川で飛燕が離着陸したのかどうかということになると、大いに疑問があります。大東亜戦時の桶川飛行場の滑走路は現ホンダエアポートと同程度(但し当時は未舗装と思われる)だそうですが、これでは飛燕の運用には無理があると考えられるからです。
では何故、桶川上空を頻繁に飛んでいたのでしょうか。
今も昔も小さな飛行機は、地形を見て位置を判断する「地文航法」が基本です。鉄道等も目印ではありますが、最も確実なのは
大きな河川
です。また、飛行中は常に不時着の可能性にも備えていますから、その点でも大きな河川沿いに飛ぶことは安全でもあります。
一つの例ですが、昭和20年2月16日午後、中島飛行機太田製作所を爆撃した敵艦載機群は、利根川から渡良瀬川を辿って太田に達し、爆撃終了後、再び渡良瀬川を下って銚子方向に帰還して行きました。
244戦隊の小林戦隊長らは、1500頃、佐野市付近で敵機群、計約40機と遭遇して、新垣安雄少尉機と鈴木正一伍長機が、SB2Cを直掩するF6Fに撃墜されてしまいましたが、これは戦隊長らが渡良瀬川を辿って太田へ向かう途中に、帰りがけの敵機群と、はち合わせ状態となったのではないかと思われます。つまり、太田への確かな「道しるべ」として、敵も味方も同じく渡良瀬川を利用していたと考えられるのです。
したがって、その古老が記憶していた飛燕は桶川飛行場と特に関わりがあったわけではなくて、荒川を飛行経路として行き来していたのではないかと思います。
当然、荒川沿いには、飛燕のみならず多くの機種が飛んでいたはずですが、その中で殊更「飛燕」が記憶されているのは、たぶん独特のスタイルと爆音のためでしょう。
やはり当時、東京羽田の近くに住んでいた複数の方からも、「度々頭上を飛ぶ飛燕の姿が忘れられない」と伺っていますが、これも、そのスタイル故に特に脳裏に焼き付いているのだと思われます。
なお、桶川上空を飛んでいた飛燕の所属についてですが、関東地区では、244戦隊の他に18戦隊(調布→柏)、航空審査部(福生)、常陸教導飛行師団(水戸)、第39教育飛行隊(横芝→坂戸)でも飛燕は使われていますので、飛燕=244戦隊とは、必ずしも言えません。また、立川航空廠では飛燕のオーバーホールが実施されており、その試験飛行あるいは空襲時の空中待避が、日常的に埼玉方面で行われていたことも想像に難くありません。
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浅間山に眠る飛燕
09.2.5
浅間山の噴火が報じられていますが、浅間山と聞いて私の頭に浮かぶのは、西川俊彦中尉のことです。
昭和20年8月18日早朝、八日市飛行場を飛燕が1機離陸し、西の空に消えました。乗っていたのが、第169振武隊長西川俊彦中尉。この日をもって戦闘機の飛行は禁止されていましたので、禁を破って飛び立ったことになります。
西川中尉は、8時ごろ故郷小諸の上空に達して実家や母校の上を超低空で飛び回り、国民学校の庭には通信筒を落としていきました。通信筒には
母堂に宛てた遺書
が入っていました。
西川機は、その後、浅間山の方角である北に機首を向け、姿を消したのです。翌日、捜索隊が向かいましたが発見できず、翌年の5月になって浅間山の外輪山である前掛山の斜面で機体と遺骨が発見されました。
西川中尉は陸軍士官学校第57期の航空転科。大正13年6月生まれですから、当時満21歳でした。
終戦時の八日市飛行場には、第166から170まで、計5隊の3式戦特攻隊 (各6機)がおり、連日琵琶湖の上空で訓練に明け暮れていました。5隊は、機動部隊攻撃に備えて前進のため、15日に八日市を発つ予定でした。
「
厳として山頂に愛機と共に在ります
」
美しい浅間山は、西川中尉の巨大な墓標でもあります。
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阿部正氏逝去
09.1.24
第19振武隊ただ一人の生き残りであった阿部正さんが、昨年12月逝去されたと、ご子息からお知らせいただきました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
阿部正さんは、熊本地方航空機乗員養成所12期操縦生の出身。卒業と同時に召集され(所謂、予備下士9期生)、朝鮮連浦の第111教育飛行連隊での戦技教育を経て、同期6名と共に244戦隊に転属、小松豊久大尉率いる「つばくろ隊」に所属しました。
阿部正伍長は、昭和19年11月7日、対爆特攻隊「はがくれ隊」隊員に任命され、そして12月5日、第10飛行師団が編成した第2振武隊 (後に19振武隊と改称)に編入されました。
第1振武隊 (18振武隊)および第2振武隊は、敵機動部隊が関東に接近中との情報に基づき、10飛師隷下の第18、23、47、70、244各戦隊から要員を抽出して急遽編成されたものでした。同時に、同じ理由で常陸教導飛行師団でも複戦の特攻隊 (後の第24振武隊)が編成されています。敵が、大詔奉戴日 (12月8日)に合わせて来襲するのではないかと予想されたからです。
しかし、結果としてこれは誤報であり、両振武隊は来るべき沖縄決戦に備えて調布飛行場で錬成を積むことになります。だが肝心の1式戦は、両隊で計24の定数に対して7機程度しか保有しておらず、燃料不足も相まって、隊員たちはほとんど地上勤務者と変わらない日々を送りました。
待機期間の長かった両振武隊ですが、遂に4月29日、天長節の夜に第1陣が知覧を出撃。そして5月4日0530、阿部軍曹らの第2陣が出撃を迎えました。しかし阿部軍曹は、0718、発動機不具合のために喜界島付近海上に不時着して救助され、負傷治療の後、奄美大島へ移って、6月初め、古仁屋港から海軍水偵に同乗して佐世保に帰還したのです。
阿部軍曹はその後、6月13日付で明野教導飛行師団付を命ぜられ、7月に入って新編の飛行第111戦隊に配属されて小牧飛行場で終戦を迎えました。小牧では、知覧から後退してきた244戦隊の戦友とバッタリ顔を合わせ、「あんた、死んだんじゃなかったの!」と驚かれたそうです。
おそらくご本人はご存知なかったかもしれませんが、第2振武隊のメンバーとして当初、命令書に名があったのは、熊本乗養の先輩である遠藤長三軍曹でした。しかし彼は、命令下達の際に偶然、外出中で不在であったために、阿部さんが代わりに選ばれてしまったのです。
ところが、特攻を免れた遠藤軍曹は、翌年2月16日の敵艦載機との激戦で茨城県北浦上空に於いて戦死を遂げ、一方、阿部さんは、苦難を味わいながらも生還を果たしました。人の運命とは、不思議なものです。
きっと今頃、阿部さんは、先に逝った四宮隊長をはじめ、懐かしい戦友たちとの数十年振りの再会を果たしておられるのではないでしょうか。
合掌
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ハ40と漆
09.1.15
20年ほど前、ご近所にお住まいだった三谷整備隊長に何度か教えを乞うたことがありました。ハ40の信頼性の話になったとき、三谷さんは「
水漏れはあまりなかった
」と言われました。その頃の私は、出版物から得た知識で水漏れは常識のような印象を持っていたので、これを意外に感じたことを覚えています。
ところがこのたび、各務ヶ原市の小山澄人さんからご提供いただいた資料の中に、あるいはこれを裏付けるかのような記述がありました。これは、南郷茂宏氏が、昭和63年に書かれた回想記です。
南郷茂宏氏の当時の職名は「川崎航空機工業東京出張所発動機主任」。私は、彼はサービスエンジニアとして、戦隊に技術指導に来ていたのであろうとばかり思い込んでいたのですが、実は南郷氏は技術者ではなく、商科大学出の事務職でした。
元々、ラグビー選手としての実力を買われて三菱化成から川崎造船に引き抜かれたそうですが、多才な人で、作曲家古関裕而とコンビで、小林時代の戦隊歌と言うべき「飛燕戦闘機隊隊歌」や「ツバクロ音頭」の作詞もされています。
私は、南郷氏が何故、渡辺はま子たちの芸能慰問団と行動を共にしていたのか?…という点も不思議に思っていたのですが、回想記の後段にあるように、この慰問自体が南郷氏が中心となって企画したものであったということです。これで、長年の謎が解けました。小山さん、有り難うございました。
以下、南郷氏の「飛燕忘れな草」から引用します。
(前略)
<
昭和15年も暮れる頃と記憶する。其処
(
注
神戸発動機工場倉庫課
)
に独逸から送られて来たのが、メッサーシュミット戦闘機の水冷倒立型ダイムラーベンツのエンヂンであった。それが後に呼ぶ飛燕、岐阜式に申せばキ61用、明石ではハ40のモデルであった。
それ迄、川崎発動機工場で生産してきたのは陸軍戦闘機用の空冷式の星型であり、それが突然大型トラックのエンジンを逆様にして複雑化したような、外見も中身も違った形では素人考えでも大変だと思った。
中でも生産隘路になったのがシリンダーブロックの大型鋳物であった。私が番人だった倉庫は忽ち不良品の山。アルミニューム軽合金(シルミンガンマ)での変形鋳物に水冷却の為に水通りのよい細い水路をつける技術が難しい。水が漏っては駄目。水路が穴づまりになっては尚駄目。
「南郷ハンとこの倉庫みてみいなはれ。小野の小町で満員やで」
口の悪い工員がひやかして通る有様であった。岐阜工場で有名な田中勘兵衛さんや片岡操縦士と知り合ったのはその後である。
(中略)
そして19年秋深まる頃、B29と云う怪物爆撃機が富士山のうえで高々と本当に一万米上空から侵入して来はじめた。もう明石も岐阜も飛燕の増産で必死であった。明石工場も航空本部でも増産会議で特にシリンダーブロック隘路打開対策に日夜を費やしていた。
私の仕事もその会議の設営と連絡係で忙しかったが会議中は暇だった。暇でも居ねむりは出来ないので私なりに考えた。そして思い当ったのが
漆
のことである。
「徳川時代、ロンドン万博に出品の為に日本からも代表的な美術品を多数積載した船が、不幸にも沈没した。その船が何ヶ月か後に引き上げられた。絵画、絹織物、染物、彫刻など皆海底の藻屑となった中で、漆蒔絵の棚だけはビリッとも傷むことなく原形をとどめていた」
この話を誰かから聞いたのを思い出した。大変水に強い塗り物「漆」が、水漏れに困るシリンダーブロックに何とか役立たぬものかと、立川技研で親しかった溝口技術少佐に話をした。
「それは恐らく誰も気がついていないぞ。兎も角、大至急方々当ってみよう」と云うことになった。
航空本部の担当官梶原中佐も賛成して呉れ、探し当てたのが当時白金に住んでいた私の家から近い目黒にあった、利根ボーリングと云う採掘機械製作の鋳物屋さんであり、漆浸透で鋳巣を塞ぐ技術をもっていた。
社長の塩田岩治さんにお願いすると、「お国の為になることならば」と好意的に試作の仕事を引き受けて呉れた。結果は思い掛けぬ大成功であった。間もなく水漏れシリンダーブロックの過半数が漆によって飛燕増産の一翼となり飛び立って呉れた。
故塩田社長には技術有功賞甲と金一封が陸軍省から下賜された。そのお祝いの席に呼ばれた私に塩田さんは
「思い掛けぬ名誉を戴いただけで私達は充分です。このお金は何か飛燕のために働く人達の士気を昂めることに使って呉れ」と頼まれた。
それが、コロムビア音楽慰問団がB29に体当りする飛燕防空戦闘隊と川崎の岐阜、明石両工場を訪れる動機となった。
慰問団の顔ぶれも、敗戦間近で民間疎開の慌ただしい頃にしては華やかであった。今尚健在な渡辺はま子、二葉あきこ、池まり子、近江俊郎、既に故人の楠木繁夫、三原純子、松井翠声、そして特別参加がフクチャンで人気の横山隆一画伯、作曲家の古関裕而氏、それに故柳家権太楼師匠など、有志参加をしてくれた。
B29への体当り目睫に据え、尚極めて明るい若者達は、この音楽慰問団の訪れを大喜びで迎えて呉れた
>
そして南郷氏は、短い回想記をこのように結んでいます。
<
小さな飛燕に単身乗り、高度一万米から十数倍の大きさのB29に体当りして護国の露と消えた年若い生命の数々があったことを、今この国でどれだけの人が憶えて呉れていることであろうか。忘れな草の咲くこの季節に深くその冥福を祈りながら、この稿をとじさせて戴きます
>
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