お知らせ2008年

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 空中写真から 08.12.11

 この画像は、昭和21年5月に米軍が撮影した空中写真の一部拡大です。4万分の1縮尺のために解像度には相当の難がありますが、それでも調布飛行場南地区、現在の三鷹市大沢総合グラウンドにB17、C47、P38など、40機もの米軍機が翼を連ねているのが認められます。他の定かではない機種は、B25、A26、P51等だと推察され、1年前の夜間空襲で骨組だけになっていた大格は、東京都によって修復されています。

 皇軍機の機影も若干期待したのですが、全く確認できません。当時、水耕農場建設工事の人夫をしていた複数の元244戦隊員が、現調布中学校近くで皇軍機を目撃していますので、残存はしていたはずですが、既に原形を留めてはいなかったのでしょう。この写真からも、天文台道路の東側で解体作業が実施されているようにも見受けられるのですが、定かではありません。

 一つ面白いのは、4000メートルの高度から撮っているので、遥か下方をR/W35へ向けてアプローチする大型機のシルエットが写っていること。ちょうど鶴川街道と品川道の交差する辺りになります。

 これらの米軍機は、その夏には全て入間川飛行場へ移動してしまい、調布飛行場から飛行機は姿を消してしまいました。これは、調布飛行場は誘導路がなく、また滑走路の延長も困難で、大型機の運用には難があったこと、更には直近に天文台があり、観測に支障をきたすために夜間照明が設置できない等、軍用飛行場としては不適格と判断されたものと考えられます。この後、調布は、飛行場から水耕農場へと衣替えすることになります(本ページの一番下、1月22日付の記事参照)。


 筑波空・友の会 08.11.28

 このたび、筑波空・友の会から相互リンクのお申し出がありました。皆さまも是非、ご訪問下さいますよう。

 拝見して、私が特に感銘を受けたのは、13期予備学生木名瀬信也氏が同期の英霊たちについて書かれた、これらの文言です。

彼らの代弁を許してもらえるならば、彼らは英雄でもなければ犠牲でもないのです。坦々とした心情をもって国のために尽くすことに誇りを感じておりました
しかし、眼前で国が炎を上げて燃えていました。若者はこれをただ見過ごすことが出来ませんでした。国に於いても家庭に於いても、困難に遭遇すれば率先して解決にあたるのが、男子の採るべき道と誰もが当然と考えておりました
戦争に否定的であった多くの若者が、将来に希望をかけて、眼前の危急に率先挺身して逝ったことを、是非記憶にとどめてほしいと存じます

 木名瀬氏の言葉は、大東亜戦争の時代に生きた全ての若者たちに遍く共通の思いでもあったと、私は信じます。


 成増陸軍飛行場記 08.10.18

 板橋史談会の会報『板橋史談』に、山下徹さんが約2年に渡って連載されていた「成増陸軍飛行場記」が、このたび計9回で完結しました。毎号、47戦隊の元隊員の皆さんも楽しみにされていたことでしょう。

 山下さんは晩年の刈谷正意さんに薫陶を受けたことがきっかけで、元隊員諸氏にインタビューを重ねて来られました。きっと、刈谷さんも空の上で喜んでおられるに違いありません。
 いずれ将来、その成果を一つに纏められることと想像していますが、244戦隊とともに帝都防空の双璧をなした47戦隊の実像が後世にまで残されるとしたら、嬉しいことです。


 キ61 第235、295、317、321、564号機 08.8.30

 三式戦1型は約3000機が製造されましたが、個別の機体番号が判明している例は稀で、それも偶々写真から判読できたり、米軍の鹵獲機報告書の記載などによるものが多いようです。
 別掲の陸軍航空輸送部大刀洗支部那覇出張所月報沖縄戦資料閲覧室で見られるものですが、三式戦(キ61)に注目してみるとなかなか面白く、5機の機体番号が確認できます。

 昭和18年1月から1年間 (ただし8月分は欠落)の記録の中で、キ61が初めて登場するのは6月17日、ラバウルへ向かう第14飛行団司令部と飛行第78戦隊計63機の大移動です。第1航空路部のキ61が4機とあるのは、予備機が同行していたものと思われます。

 この際、那覇で事故を惹起した3名の操縦者は、その後全員戦没されていますが、78戦隊の不運を象徴しているようにも感じられます。また、564号機の濱松初夫少尉(戦没時中尉)も20年1月11日、ルソン島にて97式重爆を操縦中、P51に撃墜され戦死を遂げています。
 なお、564号機は19年1月、大刀洗航空廠へ返送されていますが、主要部品の製造番号が記載されている文書も珍しいのではないですか。

 キ61は7月から毎月順調に補給され続け、本文書中の合計は186機(出発数)、19年1月だけでも52機が南方の前線へと向かっています。その後の空輸の実際は「三式戦空輸記録」が参考になりますので、ご覧下さい。

 もう一つ注目すべきは給油の記載。18年前半は87揮発油と
91揮発油で、前記78戦隊の移動時には91揮発油が使用されています。そして、18年9月からは92揮発油が登場して、92の使用量がぐんと増えていきます。在庫量調整のためか、機種によっては87と91あるいは92を混合して入れたように受け取れる記載もあります。

 その他、本文書からは陸軍の様々な機種が内地と台湾、南方間を頻繁に行き来していたことが分かりますが、キ番号以外の機種は次のようです。



所属部隊
機種
18

襲第2379部隊
ロッキードハドソン

11
岡第9326部隊
ダグラス


第1航空軍司令部
ダグラス


第18飛行団
ダグラス
19

第1航空軍司令部
ダグラス


立川飛行部
ダグラス


毎日新聞社
ダグラス

 ダグラスとはDC2のことだと思いますが、この中の第1航空軍司令部の飛行班は調布飛行場が根拠でしたから、調布と台湾の間を往復していたことになります。
 当時、建設会社鹿島組副社長だった渡辺喜三郎の追悼文集の中にも、
台湾でも戦争で資材不足のため、工事は高雄、台中、台北等の陸海軍工事に終始した。渡辺さんの東京のお宅に陸軍の飛行士の連中が宿っていたが、その連中がしばしば台湾に飛来したので砂糖などを送ることができた
と、あります。渡辺家は、現在の調布市役所の南側に2000坪の敷地を擁する邸宅でした。


 吹き流し射撃 08.8.12

 ある方から「吹き流し射撃」についてのお尋ねがありました。他にも関心をお持ちの方がおられるかもしれませんので、ここでお答えしたいと思います。
 なお、本件については、昭和17年から18年にかけて、244戦隊とっぷう隊で97戦未修教育を受けられた中垣秋男さんの日誌に記述がありましたので、これを要約し注釈を加えました。中垣さんは、戦後、民間ヘリコプター操縦士の草分けとして活躍された方です。


 吹き流し射撃は、敵爆撃機に見立てた直径1メートル、長さ4メートルの吹き流しを高練または軍偵によって曳航し、これを射撃する訓練です。前方攻撃は曳航機がいるために難しいですが、後上方攻撃や側上方攻撃の訓練には有効でした。

 吹き流しは、曳航機の200メートル後方にロープで曳かれ、戦闘機はこの的に200メートル以内まで突進して射撃しました。
 長いロープを曳いた状態では離着陸に支障があるため、離着陸時には後席の人員がリールで巻き取り、短い状態にしていたものと考えられます。そのために、操縦者以外の人員と胴体下部の窓が必要で、複座偵察機が使われたのもここに理由があったと思われます。

 飛行場上空で実施する通常の訓練では、他に危害を及ぼす可能性があるために実弾は使用できず、写真銃で照準を確認しました。
 実弾射撃は、相模湾上空に設定された射場で実施し、このために最も近い相模飛行場(熊谷飛行学校相模教育隊)に出張することもありました。

 実弾の場合、数機の戦闘機が交互に吹き流しを射撃しますが、各機の搭載弾数は30発と決められており、判定では吹き流しに開いた穴一つが1点と計算されました。
 吹き流し中心部を貫通した場合には、穴は出と入りの2個開くことになるので2点獲得となり、30発全てが発射され、その全てが命中貫通すれば60点満点となります。
 しかし、実際はなかなか難しく、20点(10発命中)近く獲得できれば、上等だったようです。

 吹き流しが回収されてから、どれが誰の弾痕かを判定・講評するために、各機の搭載弾にはそれぞれ異なる着色が施されていました。


 福生飛行場の飛燕 08.6.5

 この画像http://www.j-aircraft.com/からの転載です。オークションに出た写真ですが、敗戦後の福生飛行場(正式には多摩陸軍飛行場)で撮られたもの。
 たぶん50機はあり、ファンとしては涎が出そうなくらいですが、総数はもっと多かったので、画面に入っているのはあくまでも一部でしかありません。

 キ−102、100式司偵、4式戦、隼、双発高練などよく分かりますが、右手後方には3式戦と5式戦も2機ずつ並んでいます。
 3式戦は印象から2型と判断しますが、特に左の機体は無塗装なので、戦後も基地内に保存されていた「
17号」の可能性が高いと思います。
 また、中央やや左には、無塗装の
キ−115も1機確認できます。本機もあるいは現存する機体かもしれません。

 これほど多くの皇軍機の中で、何故この2機だけが大切に保存される結果になったのでしょうか。
 おそらくこの2機は、調査のために米本土へ持ち帰る候補として他の皇軍機とは別にされていたので破壊を免れたものの、最終的には選に漏れて彼らだけが取り残されたということではないかと想像します。

 それにしてもこの写真、ルーペで詳細に観察することができたなら、色々な発見がありそうです。


 調布のテキサン 08.5.10

 この3枚の写真は、今から42年前の1966年5月に撮影したものです。中学生だった私は、試験が終わって昼で帰宅してから、ミノルタレポという小さなカメラを手に、久々に調布飛行場に向かいました。

 そこで眼にしたのが、このT−6テキサン。かなり荒れていて、盗まれたのか計器はほとんど残っていないようでした。
 その時は、何故この飛行機がここにあるのか私には分かりませんでしたが、この姿は、かつて同じ場所に置かれていたであろう、皇軍機の敗戦後の哀れな姿に重なって見えました。

 後日、耳にしたところでは、テキサンの自衛隊から米国への返還式が調布で行われたそうですので、本機はその中の一機だったのだろうと想像しますが、航空史探検博物館の保存機リストにも見当たりませんので、おそらくこの後スクラップにされたのかもしれません。

 この数年後、航空整備学生だったたときに、T−6の海軍版SNJを組み立てたことがありますが、セスナとは大違いで主翼も40本のボルトでガッチリ取り付けられていたり、左右の昇降舵が同じもの…つまり、左右どちらにも交換可能であったことなどが印象にあります。








 エアタクシー 08.5.3

 パイパーアローJA4128のオーナーパイロット、箱崎さんのブログを紹介します。当方は最近の航空事情には疎いので、勉強になります。

 箱崎さんは日本にも自家用機の普及を夢見ておられるとのこと。現実問題として自家用は無理でも、軽飛行機がタクシーのように手軽に使えるようになれば、航空への理解も進むのではないかと私は思いますが、悉く失敗だった過去の事例を見ると、それも道遠いような気がします。
 飛行機ではなくヘリコプターの例ですが、244戦隊整備隊長をされた茂呂豊さんが社長に就任されていたシティエアリンク羽田−成田路線も、大航空会社の経営にも拘わらず短期間で挫折してしまいました。

 ここで思い出すのは、「
エアタクシー」という言葉です。日本で最初にこの言葉を使ったのは、調布の三ツ矢航空だったはずです。遊覧飛行で乗ったときにパンフレットを貰い、大いに夢を感じました。
 パンフレットには調布と関東各地を結ぶ路線図が書かれていましたから、認可を受けていたはずですが、実際にどれほど運航されたものかは知りません。ルートには自衛隊の飛行場もあったと思いますが、当時は自衛隊も汪洋だったのでしょう。

 あの頃は映画スターの間に飛行機ブームがあって、三船敏郎が国際航空輸送のセスナ172でトレーニングしていたのも知っています。
 真新しいセスナから降りてきたその人は、顔は確かに似ていますが、スクリーンのイメージとは違って小柄で腰が低く、いかにも商店の主人然という風貌。なので、後々まで「本当に世界のミフネ?」という疑念が消えませんでしたが、10年ほど前だったか、彼が逝去されたときの新聞を読んでいたら、私の印象と同じことが書かれていて納得しました。

 因みに、三ツ矢航空は、特撮テレビ映画「ウルトラQ」の舞台になっていましたので、その点でも知られているようですね。





遊覧飛行で乗ったJA3136(セスナ175A)。ピカピカの新品。とにかく
綺麗で上品なスタイルに憧れました。
 キャビンは乗用車よりも豪華な印象で、機内に流れる英語の交信とも
相まって、まるで別世界の乗り物のように思えました。




 モデルグラフィックス 6月号 08.4.26

 『モデルグラフィックス』6月号は飛燕の特集。『飛燕戦闘機隊』から菊池俊吉氏撮影の写真も20枚ほど再掲されています。

 今更ながら、飛燕は魅力のある飛行機だと思います。244戦隊が人気なのも、「飛燕」の命名自体が244戦隊の活躍をきっかけとしているように、この飛行機あらばこその面が否定できません。果たして他の機種であったらどうだったでしょうか。

 大東亜戦時の少年たちにも飛燕は憧れの的でした。現在の東京大田区、品川区辺りは調布から東京湾上での演習に向かう飛燕の通り道になっており、しばしば頭上を通過する飛燕の機影は今も瞼に焼き付いている…と、かつて同地にお住まいだった二人の方から、期せずして同じ思い出を伺ったこともあります。

 南方戦線でのエピソードなどから、戦記では飛燕の欠陥振り、悲劇性ばかりが強調されています。また、それを逆手にとって書かれた
娯楽小説秘めたる空戦』が、堂々と「ノンフィクション」と銘打って売られたりもしていますが、従来、常識の如く流布されてきた飛燕のイメージは、実像とは乖離しているのではないかと、私は感じています。




 ミセス・ティッティマウスの忘れ物 08.4.1

 調布市役所HP より
調布市国領町の不発弾発見と対応について(3月27日12時25分現在)
 平成20年3月27日(木)、調布市国領町1丁目42番地7の京王線連続立体工事現場付近の私有地において、不発弾が発見されました。現在、安全確保のため自衛隊による防護処置が行われております。なお、今後の不発弾の処理については、決定次第お知らせします


 発見されたのは1トン爆弾で、横向きになっていたそうです。この場所は、多摩川総合病院の北東200メートルほどの、京王線線路北側傍です。
 したがってこれは、昭和20年4月7日午前、244戦隊とっぷう隊の古波津里英少尉が体当り撃墜したB29、T□42号(垂直尾翼に描かれている)、愛称「ミセス・ティッティマウス Mrs.Tittymouse」に搭載されていた爆弾と推定されます。
 つまり、爆撃で投下されたのではなく、体当り攻撃によって空中分解した機体と共に落下したものです。不発に終わったのも、その事情に起因していると思われます。

 B29の爆弾積載量は最大9トンとされていますが、実際の作戦時には、航続距離の関係から半分以下の積載量で運用されていたと思います。であるとしても、積んでいたのがこの一発だけとは考えられませんから、この付近には、まだ他に人知れず埋もれている爆弾が存在している可能性もあります。
 古波津さんがもしご健在であったら、このニュースにどんな感慨を持たれたでしょうか。


 掩体壕リーフレット 08.3.7

 このたび、東京都立野川公園サービスセンターから都立武蔵野の森公園掩体壕リーフレット(A4変形の折り畳みサイズ裏表)が発行されました。
 内容は、当サイト掲載の地図、写真を基に調製したもので、来場者の参考資料にしようと、同センターの秋山奉由さんがご努力なさった成果です。秋山さんは今春で退職されるとのこと。

 なお、40部頂戴しましたので、もしご希望の方がいらっしゃればお送りします。メールでお名前、ご住所をお知らせ下さい。件名は「掩体壕」として下さい。

 都立野川公園は旧中島飛行機三鷹研究所用地。武蔵野の森公園は旧調布飛行場用地の北東および北西部分


 天野氏と再会 08.3.3

 先頃、天野完郎さんと約10年振りで再会することができました。天野さんは、クラシック音楽を何よりも愛する明るく楽しい方です。
 天野さんは今年84歳。陸士57期生で本来は輜重兵(自動車)ですが、昭和19年4月20日、座間の陸軍士官学校卒業と同時に航空に転科(航空士官学校入校)を命ぜられた、いわゆる「座間転
」の一人です。

 陸軍の操縦教育は、まず複葉赤トンボから始め、次に高練→97戦→その他の実用機と進むのが普通でしたが、この座間転組の場合は教育期間短縮のために、いきなり狭山飛行場における99式高練での教育から始まりました。つまり、赤トンボを経験しなかった希有なパイロットたちで、これは特操2期を上回る速成教育だったことになります。

 したがって総じて飛行時間は少なく、沖縄戦に出撃した振武各隊の中でも、指揮官たる隊長がメンバーの中で最も飛行経験が少ないという特攻隊も珍しくはありませんでした。
 パイロットとしては明らかに未熟なのですが、しかし、それでもなお、命と引き換えに困難な任務を最後まで達成し得たことは、国を想う強い責任感と精神力の賜でありましょう。ただ、脱帽の他にありません。

 さて、狭山での教育を終えた天野少尉らは、19年9月26日、明野教導飛行師団司令部附となり、第2次乙種学生として佐野、次いで高松において97戦を履修しました。このときの教官が小林照彦大尉だったのですが、その後、明野本校で3式戦を履修した天野少尉は20年5月初め、第163振武隊長として244戦隊に赴任し、小林氏と再会することになります。

 天野少尉は小林戦隊長から撃墜マークの描かれた3式戦を譲り受けたのですが、この飛行機は終戦まで全く故障知らず。教育時代には自分の乗機というものはなかったので、自分だけのまるで自家用のような感じで気分よく乗っていたそうです。機付兵たちとも和気藹々で、全員を引き連れて十二社へ遊びに行ったこともありました。

 特攻に散った高島俊三少尉との思い出や、映画「最後の帰郷」が縁で知り合った大映女優Mさんとのロマンス、また座間時代の早朝、突然の集合が掛かって何ごとかと外へ出たら、馬に跨った東條大将がただ一人佇んでいて驚いた話など、お聞きしながら小林氏夫妻のお墓にお参りして、飛田給駅でお別れしました。

 天野さんは平成時代になって間もない頃にも拙宅へお出でになったことがあり、戦隊会でもお会いしていましたが、その後、身体を壊して第一線からは引退されていました。しかし、最近健康を取り戻されて、なんと現役復帰。東京の取引先廻りの合間に調布まで来て下さったのです。思いがけなく嬉しい一時でした。

 正確には第96期召集尉官操縦学生。但し、ここで言う「召集」とは転科を意味しており、予備役召集のことではない。


 板倉雄二郎氏逝去 08.2.23

 板倉雄二郎さんが昨年12月23日、84歳で鬼籍に入られたと、奥さまからお知らせいただきました。私は板倉さんを尊敬していましたし大ファンでしたので、驚きとともに寂しさに襲われています。

 板倉さんは大正12年生まれの特操1期生で、満州、比島を経て244戦隊に配属。更に新垣
(あらがき)少尉ら数名とともに柏の飛行第1戦隊に派遣され、1式戦を約20時間履修した後、244戦隊に戻りました。244戦隊では、つばくろ隊の後、小林戦隊長率いる本部小隊に所属。

 昭和20年2月16日、新垣少尉と鈴木伍長が壮烈な戦死を遂げた館林上空の出来事は、小林戦隊長も真相を語らないまま世を去ってしまったので、もはや解明は難しいのですが、十数年前の戦隊史執筆の際、板倉さんがわざわざ拙宅までお出でになってお話し下さったお陰で、過去に流布された事実に反する部分は漸く正すことができたのです。

 戦闘操縦者の真の実力は戦闘操縦者にしか分かりません。出版商売上の思惑から「B29キラー」「トップエース」と、ご本人の知らないところで祭り上げられ、神話が作られた小林戦隊長の真実も、実際に編隊を組んで飛んだ者でなければ分からないのです。板倉さんは、その実に数少ない一人でありました。
 板倉さんしか知り得ない事実は多く、また板倉さんは、それを虚心坦懐に語って下さいました。もしも板倉さんに出合えなければ、244戦隊史は成立し得なかったかもしれません。

 板倉さんは他の戦隊も経験していただけに、
244Fのように紳士的な戦隊は他にない。私はこの戦隊が好きでね、転属を命ぜられたときは落胆した
と言われていましたが、村岡、高田、小松氏ら生粋の戦闘操縦者が飛行隊を指揮していた時代に、特に魅力を感じておられたと思います。
 転属した飛行第55戦隊でも戦隊長僚機を務め、万世からの特攻掩護に度々出動。佐野飛行場で終戦を迎えるまでの飛行時間は約400時間でしたが、これは特操1期では最多の部類とのことで、誇りに思っておられました。

 戦隊会でも、以前は口数少なくただ黙々と杯を口に運び、近寄りがたい印象もありましたが、戦隊史が完成したときには笑顔で褒めて下さって、それからはまるで人が変わったように明るくなられたと、私には感じられました。きっと、自分が言いたかったことが代弁されていると思われたのではないでしょうか。

 ご本人には怒られるかもしれませんが、見かけの印象とは違って心優しい人で、特攻に散った同期の友人たちのことをいつも心に留めておられました。
 戦隊会では、同期以外の将校仲間との交流はあまり好まれていないように、私には見えました。一昨年最後の戦隊会でも、下士官・兵の人たちの輪の中で、実に楽しそうにお酒を飲まれていた姿が目に浮かびます。

合掌


 日立航空機立川工場 08.2.17

 これもオークションから。奇しくも63年前の2月17日午前、敵艦載機によって爆撃を受ける日立航空機立川工場です。
 北方から進入した先行機の爆弾は既に炸裂しており、撮影機(アベンジャー?)から投下された爆弾が4発、まっしぐらに目標に向かっているのが不気味です。

 画面中央下の鋸状屋根の大きな建物は第5工場と呼ばれていたそうで、この場所は現在のイトーヨーカドー東大和店にあたります。
 同工場は、この日を含めて終戦までに計3回の爆撃を受け、工員と動員学徒ら110名が犠牲になりました。

 日立航空機は、戦後は富士自動車という名になりましたが(現在は小松ゼノア)、小型飛行機用レシプロエンジンのオーバーホールを業としていましたので、航空従事者を目指していた頃の私にとって馴染みある存在でもありました。


 調布水耕農場 08.1.22

 昨年に引き続いてオークションの写真です。
 上の写真が水耕栽培のベッド。下が昭和21年11月、調布飛行場東地区の旧倉敷飛行機工場(現JAXA航空宇宙技術研究センター飛行場分室)の一角で写されたもの。後方に天文台の森が見えます。
 当時の調布飛行場は遊休状態で用地全体が農場施設になっていましたが、下の写真は栽培の仕組みの説明用に演出されたものだと思われます。

 写真に写る「弾丸型のタンク」には化学肥料が入っているようですが、高さを変えて並べられているので、この中を水が流れることによって肥料成分が混ぜられる仕組みなのかと想像します。このタンクは、飛行部隊が残していった落下タンクを廃物利用したものかもしれません。

 調布水耕農場は世界初の実用施設で歴史的意義は大きいと思うのですが、ネット検索しても当サイトがトップに出てくるほどで、大した情報が得られないのは不思議です。米軍施設ということで郷土史関係の人たちは触れたくないのかもしれませんが、運営していたのは皆日本人なのです。

 農場の職員には大陸等からの引揚者が優先的に採用されたそうで、調布飛行場南地区旧第17飛行団司令部の建物が職員宿舎として使われていました。ここには、インパール作戦で有名な牟田口廉也中将も晩年の一時期、住まわれていたようです。

 巣鴨拘置所に収容されていた戦犯たちも水耕農場の作業に動員されましたが、甲州街道の初台付近では、戦犯の家族が彼らを乗せたバスの通過を待ち受け、窓越しに目と目で心を通わせる光景が見られたといいます。
 私の子供時代には農場に勤務している人が近所に何人もおり、友だちのお母さんも勤めていると聞くと羨ましく思ったものですが、今では農場の存在を知る人さえ少ないことでしょう。


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