三式戦空輸記録
07.9.19

 この記録は、陸軍航空輸送部第5飛行隊山本正雄軍曹の日誌中、空輸に関する事項を抜粋要約したものです(原文のままではありません)。

 3式戦を担当した第5飛行隊は6個小隊編成であったので、実際には、回数、量ともに本記録の数倍の空輸が実施されていたことになります。
 因みに、山本軍曹は昭和18年10月に第5飛行隊配属以来、20年4月までに、計
722時間の飛行を経験しています。

 陸軍航空輸送部は全部で10個飛行隊が編成されており、終戦の日まで陸軍全飛行部隊への飛行機補充に従事し、隊員の多くは逓信省乗員養成所あるいは民間航空出身の予備役操縦者でした。

 今日、英国にただ1機現存する5式戦も、同第7飛行隊員が単機で小牧からシンガポールへ向け空輸の途中、海南島の三亜からカンボジアのコンポンクーナンまで来たところで終戦となり、その後同地で英軍に鹵獲されたものでした。
 磁気コンパス一つを頼りに海を越え、何千キロも離れた場所まで一人飛ぶ。大先輩たちのその腕と度胸は、称賛に値します。


昭和19年
1.クラーク (17F、19F) キ-61×6 (4) キ-21
  
目的地またはルート、出発数(かっこ内到着数)、誘導・支援機の順。以下同


 7/21〜7/27 試験・時間飛行
 7/28 小牧
新田原
 7/31 新田原
那覇 (1機油漏れのため那覇残留、1機ベーパーロックのため離陸時事故大破)
 8/1 那覇
屏東 (その後4機クラークへ)
 8/4 那覇
小牧



2.クラーク キ-61×5 (3) キ-21


 8/6 各務ヶ原小牧
 8/10〜8/15 試験・時間飛行
 8/15 小牧
新田原、その後3機クラークへ (2機とキ-21は不具合のため小牧に帰投)



3.クラーク キ-61×7 (6) キ-21


 8/16 小牧新田原那覇屏東 (1機着陸時事故大破)
 8/17 屏東
クラーク (6機着)
 8/17 クラーク
屏東
 8/18 屏東
小牧



4.クラーク キ-61×6 (5) キ-21


 8/20〜8/23 試験・時間飛行
 8/24 小牧
大正 (天候不良のため着陸)
 8/25 大正
新田原那覇(1機離陸時事故)
 8/26 那覇
屏東クラーク (5機着)
 8/26 クラーク
屏東
 8/27 屏東
小牧



.クラーク キ-61×6 (6) キ-21


 8/29〜8/30 試験・時間飛行
 8/31 小牧
新田原那覇台北
 9/1 台北
屏東クラーク (6機着)
 9/1 クラーク
屏東
 9/2 屏東
小牧 (直行2200粁/6時間)



6.クラーク キ-61×6 (5) キ-21


 9/5〜9/7 試験・時間飛行
 9/8 小牧
新田原那覇台北
 9/9 台北
屏東 (着陸時、作動油漏れのため1機事故)
 9/10 屏東
クラーク (5機着)
 9/10 クラーク
屏東
 9/11 屏東
小牧



.アンへレス キ-61×5 (3) キ-21


 9/13〜9/18 試験・時間飛行
 9/16 試飛行中事故、1名殉職
 9/19 小牧
新田原那覇
 9/20 那覇
屏東
 9/21 屏東
アンへレス (3機着) 着陸時キ-21、キ-61×2機グラマンにより撃墜さる (4名戦死)
 9/24 別働のキ-61×6機着
 9/25 クラーク
屏東 (2個編隊14名搭乗)
 9/27 屏東
小牧



8.クラーク キ-61×6 (5) キ-21


 10/4 試験・時間飛行
 10/5 小牧
新田原 (1機徳島県勝浦町に不時着、5機でクラークへ)



9.アンへレス (17F) キ-61×5 (4) キ-21


 10/16〜10/19 試験・時間飛行
 10/20 小牧
新田原 (1機不具合残留)
 10/21 新田原
屏東
 10/22 屏東
アンへレス
 10/23 アンへレス
屏東
 10/24 屏東
台北
 10/25 台北
小牧



10.調布 (244F) キ-61丁×10 MC-20


 10/27 小牧調布
 10/27 調布
小牧



11.アンへレス (17F) キ-61×5 (5) キ−21


 10/21〜10/31 試験・時間飛行
 11/1 小牧
新田原那覇北
 11/2 那覇北
台北屏東
 11/3 屏東
アンへレス 他に別働のキ-61編隊も着 (5機?)



12.アンヘレス (17F) キ-61×18 (16) キ-21×3


 11/6〜11/9 試験・時間飛行
 11/10 小牧
新田原
 11/12 新田原
那覇北那覇中
 11/13 那覇中
宮古嘉義 (途中2機不時着水)
 11/15 嘉義
屏東
 11/16 屏東
アンヘレス (16機着)
 11/17 アンヘレス
屏東
 11/18 屏東
台北
 11/19 特攻勤皇隊の出発を見送る
 11/20 台北
南大東新田原 (偏西風に流されて意図せず南大東へ)
 11/21 新田原
小牧



13.アンヘレス キ-61×5 (4) キ-21


 11/23〜11/26 試験・時間飛行
 11/27 小牧
新田原
 11/28 新田原
那覇屏東 (1機不具合、屏東残留)
 11/29 屏東
アンヘレス (4機着)
 11/30 アンヘレス
ラワグ (キ-21不時着)
 11/30 ラワグ
台南 (海軍DC3に便乗)屏東 (陸路)
 12/7 屏東
小牧



14.太田 (キ-84未修教育のため)


 12/10 小牧太田
 12/11〜12/18 キ-84未修教育を受ける



15.サイゴン キ-61×5(0) キ-21


 12/24〜12/29 試験・時間飛行
 12/27 23FB指揮下で邀撃実施
 12/30 小牧
新田原
 12/31 新田原
雁ノ巣
昭和20年
 1/7 雁ノ巣那覇北
 1/8 那覇北
台北
 1/14 台北爆撃によりキ-61破損
 1/16 サイゴン行き中止決定
 1/18 屏東
新田原小牧 (陸路)
 
これ以降、小牧からの空輸は台湾までとなる
 1/23 対B29邀撃実施



16.台中 キ-61×14 (13) キ-21


 1/22〜1/31 試験・時間飛行
 2/1 小牧
新田原
 2/3 特攻隊のキ-45×10機、新田原着
 2/4 新田原
那覇北 (23fcs安西為夫大尉機同行)
 2/8 那覇
新田原 (敵空母出現による緊急待避)
 2/9 後続2個編隊と合流、キ-61×14機となる
 2/10 新田原
那覇 (那覇に1機残留)
 2/16 那覇
屏東台中
 2/17 台中
台北 (13機着)
 2/20 台北
新田原小牧



17.柏 (18F) キ-61×5


 2/25 小牧
 2/25 陸路小牧へ(帝都夜間空襲あり)



18.台中 キ-61×6 (5)


 3/1〜3/7 試験・時間飛行
 3/1 名古屋幼年学校生徒見学。同時に映画ロケ(松竹映画『必勝歌』?)
行われる
 3/4 対B29邀撃実施(戦闘に至らず)
 3/8 小牧
新田原 (1機小牧へ帰投、5機で台中へ)



19.新田小牧 キ-51×1




20.台中 キ-61×4 (3) これ以降重爆随伴なし


 3/21〜3/26 試験・時間飛行
 3/27 小牧
大刀洗
 3/28 大刀洗
済州島 (大刀洗に1機残留、3/31空襲で破損。3機で台中へ)



21.台中 (空輸中止)


 4/13〜4/17 試験・時間飛行
 4/16 キ-61-U初めて小牧着



22.北京 キ-61×12 (12)


 4/21〜4/25 試験・時間飛行
 4/27 小牧
米子大邱平壌
 4/28 平壌
錦州北京 (帰路は陸路平壌へ)
 5/3 平壌
群山小牧
 5/10 キ-100未修飛行実施



23.調布大刀洗 (244F移動応援) キ-100×8 キ-21


 5/17 小牧調布(キ-21)
 5/18 調布
加古川大刀洗(キ-100)
 5/19 大刀洗
小牧


24.芦屋 (59F) キ-100×6 キ-21


 5/25〜5/27 試験・時間飛行
 5/28 小牧
芦屋大刀洗知覧雁ノ巣 (知覧にキ-61を空輸した隊員を収容した)
 5/29 雁ノ巣
小牧
 キ-100は、シリアル3千番台の水滴風防型だった



25.伊那 キ-100×5 (4) キ-54


 6/3 各務ヶ原伊那 (伊那着陸時1機事故大破)
 6/3 伊那
小牧
 決号作戦に備えた分散秘匿目的と思われる


26.台北 (17F) キ-100×12


 6/11〜6/15 試験・時間飛行
 6/16 小牧
加古川
 6/17 加古川
雁ノ巣
 6/18 雁ノ巣
済州島 (主力)
 6/19 雁ノ巣
済州島 (残留の2機追及)
 6/20 済州島
上海 (大場鎮)
 6/21 上海
台北八塊 (上海、台北、八塊それぞれで大歓迎を受ける)
 6/22〜6/23 17Fへ未修教育実施
 6/28 台北
上海 (日航重爆に同乗)
 6/29 上海
小牧



27.芦屋 (59F) キ-100×4 キ-54


 7/3 小牧芦屋
 7/4 芦屋
小牧



28.芦屋 (59F) キ-100×4 キ-54


 7/9〜7/10 試験・時間飛行
 7/11 小牧
芦屋
 7/11 芦屋
小牧



29.伊丹 (56F) キ-61-U×2 キ-55


 7/13〜7/14 試験 (兼慣熟)飛行
 7/15 小牧
伊丹
 7/15 伊丹
小牧



30.芦屋 (55F) キ-61-U(水滴風防型)×4 キ-21


 7/23 小牧加古川芦屋
 7/24 芦屋
小牧



31.小牧高松佐野 (111F) キ-100(無塗装)×3


 7/25〜7/27 試験・時間飛行
 7/28 小牧
高松 (111Fは既に佐野に転進)
 7/28 高松
佐野
 7/31 小牧帰隊 (陸路)



33.所沢 キ-43朝鮮水原への応援空輸 キ-21


 8/11 小牧所沢
 8/16 所沢
小牧(終戦のため任務中止帰隊)
 8/17 書類焼却 キ−21×2機大陸へ (残存隊員収容のため)
 8/18 前記キ−21帰投
 8/18 地上勤務者、雇員等の体験飛行実施
 8/19 厚木航空隊海軍機が徹底抗戦のビラ撒きに飛来
 8/21〜8/23 武装解除実施
 9/4 復員帰郷



その他−ブースト計

 三式戦の場合、ブースト計(吸入圧力計)の指針は、離陸時+230mmHg、離陸上昇中+120mmHg、水平飛行時−150mmHgだった。
 計器の左半分は黒く、右半分は橙色に塗られてあり、ブースト圧プラス(過給状態)の時は指針が右に振れる。この状態をオーバーブースト(または
赤ブースト)と呼んだ。


その他−プロペラピッチ

 可変ピッチプロペラでは低ピッチで出発し、速度が増すに連れて高ピッチになる。ガスレバー(スロットル)はブースト計の指針を見ながら操作し、ブースト圧の増減でエンジン回転数も変化するが、ブースト圧=回転数ではない。
 回転数を抑えるほど燃料節約になるが、振動の発生にも繋がるので、程度問題である。また戦闘時にはダッシュ力が必要なので、低ピッチ気味での操作が肝要。


その他−三式戦と五式戦の印象

 三式戦は重い(パワー不足)ために離陸滑走距離が長く、緩上昇しかできなかった。落下タンクまで燃料満載の離陸上昇は楽ではなく、3千メートルで水平飛行に移るまでは不安があった。
 三式戦の操縦席は視界がよく、冬も暖かく快適だった。高々度ではない通常の飛行なら夏物の飛行服で十分だった。

 五式戦は短い滑走で離陸、急上昇も可能。三式では不可能な垂直面での特殊飛行も難なくこなせた。ただし、ハ112には不具合が多い印象があった。
出典 三飛会誌「蒼空」



陸軍航空輸送部第五飛行隊 (帥第三四二〇一部隊柴田隊)戦没者名簿

昭和19年
命日

氏名
特業
備考
3月19日
少尉
木村哲大
操縦
 台湾花蓮港東北方約100粁海上、行方不明 キ−61空輸中
3月28日
軍曹
羽村邦寿
操縦
 台湾恒春東南方約3粁海上、行方不明 キ−61空輸中





3月31日
少尉
傳 松男
操縦
 台湾東方約100粁海上、行方不明 空輸帰還飛行途中 重爆11名搭乗

少尉
坂本三郎
機関


准尉
大滝正行
操縦


准尉
沓名敏雄
操縦


准尉
村岡正満
通信


准尉
中島松男
操縦


曹長
川原敬一
操縦


曹長
森 重成
操縦


軍曹
佐藤三郎
操縦


雇員
野原 勇
整備


雇員
日比野茂男
整備






4月2日
准尉
野上国雄
操縦
 バシー海峡東経120度北緯20度海上、空輸中雲中で行方不明
7月4日
曹長
梅田信治
操縦
 名古屋陸軍病院 小牧飛行場で事故
9月16日
軍曹
延澤安男
操縦
 名古屋市北区庄内橋上流300米 試験飛行中事故





9月21日
中尉
青木 功
操縦
 ルソン島アンへレス北方5粁 敵艦載機攻撃により重爆搭乗の5名戦死

少尉
成田正人
機関


軍曹
黒石勝徳
操縦


雇員
可児義長
整備


技手
近藤早苗
通信






10月6日
曹長
升岡二良
操縦
 台湾屏東東方約30粁付近 空輸中行方不明
10月13日
少尉
市山政義
機関
 那覇南方約 80粁付近海上、重爆にて器材空輸中敵機と遭遇 2名戦死

准尉
奥野郁次郎
操縦

11月9日
軍曹
篠岡 勇
操縦
 那覇北方320粁宝島東方20粁海上 空輸中行方不明
11月13日
軍曹
細山田安男
操縦
 那覇148度130哩海上 空輸中行方不明
12月11日
中尉
西村好雄
操縦
 沖縄読谷村北飛行場北端 空輸中事故





12月15日
中尉
清野孝親
操縦
 アンへレス西飛行場付近、空輸帰還離陸直後敵機と遭遇 重爆搭乗7名戦死

中尉
澤 貫一
操縦


少尉
河野毅史
通信


准尉
金重鉄雄
機関


准尉
村上敏雄
操縦


軍曹
黒野有明
操縦


軍曹
田嶋恵忠
操縦

昭和20年




1月9日
曹長
堀 廣治
操縦
 愛知県東春日井郡勝川下屋敷 試験飛行中事故





1月11日
中尉
浜松初夫
操縦
 ルソン島エチァゲ北方30粁付近 重爆、P51により撃墜さる。4名戦死

少尉
田辺義夫
通信


准尉
遠藤 満
機関


曹長
高橋 保
整備






1月11日
中尉
坂井将博
操縦
 ルソン島エチァゲ北方30粁付近 空輸中キ-61×9機、P51に撃墜さる

中尉
久保武夫
操縦


中尉
天野七十六
操縦


中尉
秋吉 稔
操縦


中尉
赤池東吉
操縦


准尉
難波儀造
操縦


曹長
菊永富男
操縦


曹長
吉谷森男
操縦


曹長
河田精市
操縦






3月5日
曹長
殿木栄一
操縦
 台北北方300粁付近海上 空輸中行方不明
3月22日
曹長
内藤健児
整備
 都城陸軍病院 戦死 都城飛行場空襲による戦傷
3月24日
曹長
大西 実
操縦
 仏印ツーラン付近 空輸中行方不明
4月17日
中尉
榊 重雄
操縦
 揚子江崇明島上流70粁付近 重爆、器材空輸中行方不明 2名搭乗

准尉
田畑富男
機関

4月22日
曹長
瀬尾芳見
操縦
 済州島西南方約200粁海上 空輸中行方不明





4月24日
准尉
飯塚徳次郎
操縦
 海南島東北方約200粁海上 キ−61×3機、空輸中行方不明

准尉
大楠俊賢
操縦


曹長
山本正夫
操縦






5月26日
准尉
江崎鉄造
操縦
 台湾新竹西北方約130粁付近 キ−61×2機、空輸中行方不明

曹長
芹沢吉太郎
操縦

6月3日
中尉
坂元 肇
操縦
 新潟県松ヶ崎村新潟飛行場 訓練飛行中事故
6月16日
准尉
浅野建夫
操縦
 滋賀県蒲生郡市辺村字大平 空輸中事故
7月16日
中尉
加藤正治
操縦
 済州島西 東経123度北緯32度海上 空輸中行方不明





8月6日
中尉
小島嘉一郎
操縦
 済州島飛行場 キ−100×3機、空輸中P51に撃墜さる

准尉
松本 博
操縦


曹長
井上秀雄
操縦







戦死
殉職・不明
合計

33名
32名
65名
 合掌





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