西野岩根伍長 07.6.22


 徳島新聞の短期連載記事「大空に消えた青春」に、阿南市那賀川町出身の第159振武隊西野岩根伍長について書かれています。

 西野岩根伍長は陸軍少年飛行兵甲種15期生。熊谷陸軍飛行学校甲府教育隊から中国河北省楊村の第5錬成飛行隊で3式戦を修得し、昭和20年3月下旬、少飛14期、甲種15期(両期は操縦教育では同期に相当)の戦友8名と共に244戦隊に配属されました。

 彼らは、当時はまだ兵長で操縦徽章を貰っていなかったため、休暇のときには少飛の先輩の徽章を借りて街へ出ました。操縦者なら誰でも、一人前の操縦者の証である操縦徽章を胸に着けて歩きたいし、着けていると、きっと地方の人たち(ことに若い女性)からも注目を集めたのだと思います。

 西野兵長は4月26日1800、小林戦隊長名で発令された「飛二四四作命第六三八号」により第159振武隊員を拝命しました。一緒に着隊した同僚のうち、4名が戦隊要員、5名が特攻隊と明暗分かれたのですが、戦局は苛烈であり、戦隊組も2名が戦死して、終戦まで生き延びたのは9名中3名だけでした。

 5月1日、彼らは晴れて陸軍伍長に任官して操縦徽章を授与され、今度は大格と戦隊本部を敵艦に見立てた突入訓練に励むことになりました。
 この頃、戦隊本部の下士官が気をきかせ、第10飛行師団司令部に派遣されていた戦隊員に依頼して、司令部の女性電話交換手たちを飛行場に呼んだことがありました。すると、彼らはいつになく張り切って超低空の突入訓練を披露し、あまりの迫力に地上で見守る者が恐怖を感じて身を臥せるほどだったと聞きます。

 5月28日朝、第6航空軍への転属を命ぜられた隊長高島俊三少尉以下の第159振武隊は古巣調布を離れ、戦隊本部横手興太郎少尉が操縦する5式戦に率いられて最期の地、知覧へと向かいました。

 その他、第159振武隊についてはこちらを参照していただきたいのですが、西野伍長の遺書にある「兄十一」とは、飛行第59戦隊付西野十一軍曹(少飛7期生)のことで、西野軍曹は昭和18年11月26日、ウエワクにおいて戦死を遂げています。遺書には、芦屋飛行場の59戦隊本部で、先に逝った兄の記録を読んだ感慨が述べられています。




戦死5日前の西野岩根伍長。この日、遺書も書いた。



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