第63話 「”死なねェよ”」
相変わらず槍は痛そうだが、剣山マントはそれほどでもない。
「この剣山マントに手を出して見ろ!」とクリークが構えているシーンで、剣山の質感があまり出ていないのが要因だろう。
しかし、殴った後のルフィの拳に剣山で穴が沢山開いて血が流れている所をきちんと描いているのは、
フォローがしっかりしていて、尾田氏らしい。
小さなツッコミをひとつ。「死なねェよ」とルフィがサンジを払いのけるシーン。
前ページでサンジが掴んだ手と、払いのけた手が、逆になっている。
第64話 「”大戦槍”」
肩あて2つで1tある大戦槍ということだが、さすがにその重量感までは出し切れていない。
無から有を産み出すためにはその描写が大切なのは何度も言う通りだが、
いきなりこの槍は1t、と文字で説明されても、それなりの描写がないと難しい。
で、この回は大戦槍の威力と、それをルフィがぶっ壊すまでだが、「5発パンチ入れてやった!」っていうくらいなら、
その描写が必要だと思う。これだとどう見ても2発が限度ではないか?
一体どうやってのこり三発を入れたのか、想像もつかないのではちょっと説得力に欠ける。
第65話 「”覚悟”」
相変わらずだが戦闘オンリーの回は解説しづらい。
さて、そう言えば今まで言及していなかったが、効果音(というかむしろ雰囲気を盛り上げる為のサウンドエフェクト)として多用されている
「どんっ!」というどでかい文字。
ともすれば白くなりがちな画面を埋める意味からも、また独特の雰囲気を醸し出す意味でも、かなりうまい発明である。
また、「どーん」でなく「どん」であることで、妙な間延びもなく迫力だけを画面に残している。
最後のゴムゴムのバズーカは、以前と違い上から下に打ち下ろすようになっており、想像力の範疇の動きなので不自然さはない。
しかし、クリークとの戦いのどうもイマイチ迫力の感じられないのは、何故だろうか?
やはり何度も言及しているようなクリーク描写の中途半端さが原因なのだろうか。
第66話 「”噛み殺した槍”」
クリークとの対決決着。そしてサンジの噛み殺した槍(=信念)の話が出て来る。
しかし、サンジが信念を噛み殺したとはどういうことなのだろうか?
サンジがバラティエを守る為、(下らん理由)信念たるオールブルーを目指して行かない(槍を噛み殺してる)ってことであろうか?
しかし、それでは描写が矛盾してはいないだろうか?
幾つか仮説を立てて整理して考えてみたい。
1・命を助けてくれたゼフに恩を返す為には、グランドラインに行くわけにはいかない。
しかたなくバラティエにいるしかない。そしてそのためには夢も諦めるしかない、と考えていた?
しかし、作中でサンジは仕方なくバラティエにいるのではなく、自分の信念で「今はバラティエが大事」と選んでいるように見える。
夢を諦めたのではなく、自分の信念で別の生き方を選んだのなら「簡単だろ、野望捨てるくらい!」なんて言葉は出て来る筈ないし、
ルフィの戦いを見て「なんでそこまで…」なんてつぶやくのは妙である。
2・オールブルー探しの困難さを思うと、バラティエを捨ててまで行く決断が出来なかった?
一応本命はあくまでオールブルー。しかしその困難さの為、諦めてしまった。そして成り行き上バラティエにいる。
こう解すれば「簡単だろ、野望捨てるくらい」や、「なんでそこまで…」に、いちおう説明は着く。
だがサンジ自身バラティエには非常に愛着もあるし、大体オールブルーが困難だから諦めた、という描写はどこにもなく、
やはり違和感を感じる。
3・オールブルーとバラティエ、バラティエも大事だけどオールブルーも心のどこかで諦め切れていない。二つの夢の間で揺れていた?
なんとなく、これが一番近いようにも思えるが、しかし、これだとやっぱり「野望を捨て」てはいない以上、
「簡単だろ、野望捨てるくらい!」等、信念やら野望に対してスカした態度を取るのはおかしい。
要は、”バラティエに自らの意志で残っていること”と、”オールブルーを諦めていないこと”と、”夢や野望に命を賭けることに対し、
スカした態度を取る”ことが、矛盾しているのである。
サンジが一体何をどう考えていたのか、綺麗な説明がつかないのだ。わけがわからない。
これではバラティエ編全部がちぐはぐな印象を受けるのも仕方がないといえよう。
第67話 「”soup”」
前述したように、サンジの考えの描写が矛盾しているので、オールブルーについて嬉々として語るサンジやら、
サンジを送り出す為に演技をしてサンジをバラティエから追い出そうとするコックたちも、素直に納得出来る筈もなく、
テクニックとしてはコック達の友情やゼフの愛情に感動させるだけのものがある、と頭では分かっているが…感動は出来ない。
なんだかサンジ等に恨みでもあるかのような批判になってしまったが・・・何度も言うが、個人的にはサンジは好きだし
パティやカルネ、ゼフも嫌いではないので誤解しないでいただければ光栄である。
第68話 「”4人目”」
サンジの旅立ちの回。
前話と違い、もうサンジが旅立つと決まった以上、オールブルーについての矛盾とかは関係無くなるので、素直に感動出来るシーンである。
再び回想シーンが入り、生き生きとしたキャラ描写が繰り広げられるし、サンジのタバコに「理由づけ」が行われ、
キャラのリアリティ増幅に一役買っているし、いつも通り楽しめる状況に戻っている。
結局サンジ関係で何が悪かったかと言えば、54話の「簡単だろ!野望捨てるぐらい!」を初めとする、
夢や信念なんてサンジは捨てていました的描写なのだろう。
これさえなければここまで混乱した事態が起こる事もなく、オールブルーについても、もう少しスンナリと納得できた筈である。
さて、ふと思ったのだが、もしかしたら、最初に49話でゾロに対して「お前ら真っ先に死ぬタイプだな」とかいうセリフを、
ノリで(ゾロの決め台詞の為に比較対象としてツッコミが欲しくて)書いてしまったが為に、サンジのスカし姿勢が始まり、
全てが狂ってしまったのではなかろうか…
そう考えるとやっぱりゾロはサンジの天敵なのかもしれない…
まあ、ゾロとサンジのキャラ配置上の天敵っぷりはまたそのうちに。
〔バラティエ編総括〕
なんだかまるでバラティエ編が全くの駄作であるかのような書き方になってしまったので、ちょっとフォローを。
別に私はバラティエ編を「なんだこりゃ!ひでェ!」と思っているわけではないし、むしろ今も普通に楽しんで読んでいる。
基本的には別に問題を感じるほどのものでもない。
しかし、要は、バラティエ編以外の部分が出来がよすぎて、霞んでしまっているだけなのだ。
バラティエ編も一つ一つの場面だけを取って見れば、他の部分と同じく、十分すぎる質を持っている。
つまり、ドラマとしては良いのである。だが、全体を通して見るとあちこちで破綻している、それだけなのである。
こう書くとダメじゃねえか、と思えるかも知れないが、なんてことはない。
部分部分はいいけど全体が破綻しているなんて、少年漫画ではごく日常的である。
それだからと言って、その作品が駄作かと言うと、全く関係無い。
むしろ恐るべきは全体のストーリーの整合性に囚われ過ぎて、ドラマがショボくなることである。
ワンピースは、ここまでその両方を満たして来ているから、破綻が目立ってしまっているのだ。
かく言う私も、最初読んだときからここまで考えていたわけではない。
ただ、なんとなくストーリィに違和感を感じていた、サンジの回想シーンだけはなんかイマイチだなあ、と感じていただけで、
今回分析してその原因を考えて見たところ、言葉にするならこうだった、というだけである。
文調が客観的なため、冷たく感じるが、ダメなわけじゃない。他の部分が良過ぎる、それだけなのである。
このレベルでダメな方に入ってしまう、それだけ「ONE PIECE」は凄いのだ。
第69話 「”アーロンパーク”」
ついにアーロン編に突入である。バラティエ編とうって変わって物語のテンションも上がる。
後への壮大な伏線となる王下七武海の紹介や、ナミの意外な素性、アーロン編の主要キャラクターの顔見せ、
後の展開への期待をさせる要素満載である。
だいたい、アーロン編への布石は第9話の「一億ベリーためてある村を買う」発言からあるわけだから、
もう待たせに待たせた、引っ張りに引っ張った話である事からして、尾田氏のテンションも多分最高潮だろう。面白くならないはずもない。
その一方で、ここでずっと引っ張ってきた伏線を使ってしまうかわりに、新しく王下七武海、魚人海賊団ジンベエ、
という後の後の方(298話現在、まだ未登場)までひっぱる伏線をまた張っているわけだから、尾田氏の巧妙なやり方といったらない。
さらにナミの肩の刺青など、今まで普通の服装だと思っていたナミが、実はずっと肩を隠した服を着ていたという、
伏線じゃないと思っていた所まで伏線にしてしまう、尾田氏の手腕大爆発である。
これでもか、これでもかという奥深さを感じさせる展開である。
そして、それならと思ってじっくり絵を見て行きアーロンが指輪してる事に気づき、
「アーロン水かきあるのにどうやって指輪はめてるねん、やっぱ心意気か?尾田センセイ、ミスったな」とほくそえんでいると、
よく見たら指輪だと思ったの、輪っかがない。指の上に宝石を張り付けているだけ、ということに気づかされてさらにショック!
尾田氏の手のひらで遊ばれている、その事実に呆然&感激するというつくりである。
このあたりからこういう、一見ミスかと思ったら実はそう思わせる尾田氏の罠、という描写まで登場してくる。
もはや読者は完全に作者の操り人形・作品の奴隷である。
第70話 「”男ウソップ大冒険”」
ギャグとシリアスがうまく入り混じった、ONEPIECEらしさにあふれた回である。
しかもウソップが「よーし…「男ウソップ大冒険」と題をつけよう!」と言ったそのままサブタイトルに「男ウソップ大冒険」てついてるし。
お遊びも満載である。
第71話 「”万物の霊長”」
ナミの素性を少しずつ少しづつ、小出しに明らかにして行く、引っ張りの手法がうまい。
ジワリジワリと盛り上げて行く、このストーリーテリングも「ONE PIECE」の魅力であるのは言うまでも無い。
また、ゲンゾウのキャラデザインなど、お得意の印象的ワンポイントで風車を乗せており、相変わらずうまい。
さて、ココヤシ村が登場する。海の近くの、結構暖かい気候なのだろう、村人たちもみな比較的薄着をしている。
「ONE PIECE」の凄い所が、ここにも見える。
「ONE PIECE」は、世界の海を旅する。世界には場所それぞれによって気候も違えば文化も違う。
それを、本作では十分すぎるくらい見せつけてくれる。
同じ作品世界だからといって、均一的イメージでもって平板な描きかたをしていないのである。
その描き分けが、世界の広さやスケールにリアリティを与え、それはすなわち作品世界そのものにもリアリティを与えるのである。
グランドライン突入後にはそれがさらに顕著に出て来るが、(雪の王国ドラムや、砂の王国アラバスタ、密林のリトルガーデンなど)
ここまででも、実は尾田氏は明確に描き分けている。
なんとなくずっとそれなりに暖かい地域ばかりを舞台にしてきて、そんなに違いはないように見えるが、
よく見るとルフィのいたフーシャ村、モーガンの治めていた港町(シェルズタウン)、バギーの襲ったプードル町長の港町(オレンジの町)、
ウソップの故郷の村(シロップ村)、ナミのココヤシ村、全部、民家のデザインが違うのである。
似ているようでも壁や窓のデザインが違ったり、屋根がわらぶきだったり丸太だったり、平型だったり山型だったり。明らかに違うのだ。
ただ場所が違うことを言葉やストーリーで説明するだけでなく、背景でもきちんと訴えかけていたのである。これはその後も続く。
バロックワークスの巣だったウイスキーピークも、ドラムもアラバスタも、建造物のデザインが違うのである。
これだけ意識して描き分けてるのは、これとファイブスターストーリーくらいではないだろうか?
しかも、オタク向けニュータイプ不定期連載のFSSと違う。単にさらりと読んであーおもしろかった、の子供向け少年ジャンプの作品である。
誰もそんなところまで読んでないし、期待もしていない。それでも作品に対して妥協しない。
尾田氏のその姿勢は、ここにも窺えるのである。
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